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2⃣美智子妃は誰を産んだのかーー血統の影に隠れた皇室の出産

昨日はトドックさんの配達日でしたがいつもの時間より1時間ほど遅れ、しかも卵を忘れてるのではないかと、ラブを抱っこして1階に降りて行き配達のお兄さんと話をしてました。卵は抽選になっていて今回は外れたとのことでした。鳥インフルエンザの影響で抽選になっていたんですねえ。
1階のご夫婦がお庭に出てました。すぐに奥さんがやってきてラブを抱っこし、そのまま立ち話です。ラブを芝生の上におろしてあげましたが、ノーリードのせいか落ち着かないようですぐに抱っこと戻って来てしまいました。上の階に新しく入居された方がベランダから重油を投棄したとか、雀に餌をやるなと叫ばれたとかを小声で教えてくれました。真上の方でなくて良かったですが、不穏な空気に心配になります。一階のご夫婦は、お彼岸前の夫婦喧嘩は忘れたように仲良く庭作業してましてましたから、ヤレヤレですよ。

今日は昨日の続きになりますが、今日書くことも私個人の仮説・妄想になります。

昨日は、戦勝国のアメリカから水面下で日本にもたらされたであろうキリスト教的考えの下に、明仁皇太子と美智子妃の婚姻が決まっていったということを書きました。
昭和天皇が明仁皇太子の婚姻相手に美智子妃を断れなかった背景にも、この「神のもとに人はみな平等」というアメリカの圧力があったと思います。
しかし昭和天皇は人間宣言したとはいえ、それまでは高潔な血筋で神であったわけで階級制度の中で暮らしてきていたのですから、頭でわかっていたとしても明仁皇太子の婚姻相手の実家が部落出身ということには抵抗があったのではないか、と私は考えています。
今でこそ部落民という差別的なものはなくなってきていますが、私が小学生頃には「誰それは朝鮮人」というような差別は残っていました。
まして階級的には日本の頂上にあり、歴史も伝統もある家では猶更そうした考えは根強かったと思えます。

美智子さんとの婚姻前から、明仁皇太子の側にはお手付きの女官が傍にいたのではないか、と私は昨日書きました。
その方が、浩宮の実母ではないかと私は考えているのです。
昭和天皇は、実は美智子様の実家の血筋については忌避感を持っていたのではないか、だから明仁皇太子の側にそうした方がいても目をつぶっていたのではないか、と私は思うのです。
側室制度そのものを「野蛮だ」と廃止した昭和天皇が、明仁皇太子のそうした行状をご存じなかったとは考え難いからです。

少し話が前後しますが、美智子さんは性に奔放で「御徒町のミッチ」という異名を持っていたといいます。
また25代学習院院長の波多野敬雄氏は、美智子さんの婚約者だったともいいます。こうしたことを、昭和天皇が全く知らなかったとも考え難いのです。昭和天皇が遺言で「浩宮の後は浩宮の子で」というのも、こうした背景があるのでは、と思えますし、礼宮が紀子さんと交際していた時には「川嶋某、不快なり」と話された、というのも、昭和天皇が血統を重要に考えていたとすると納得がいくように思います。

さて話を戻しましょう。
兎にも角にも明仁皇太子は美智子妃と婚姻をし、浩宮が誕生したわけです。この婚姻が、妻妾同居というような特殊な環境下であったことや、表向きには美智子妃の第一子として浩宮が生まれたことになっていることを考えると、浩宮に厳しく当たったという美智子妃の継子虐めのようなあれこれのエピソードも説明がつくように思えます。
なにせこの異常な妻妾同居は、私が考えるには、紀宮が生まれた昭和44年以降2年くらいは続いたのではないかと思われるからです。
紀宮の実母も、浩宮の実母と同じ方であるとも、私は考えているわけです。

美智子妃は婚姻直後から東宮御所を抜け出し遊びに出かけていたという話がありますが、上記のような環境下や、もともと「御徒町のミッチ」と言われていたことを考えると、全く根も葉もない話ではないように思えます。
どこで読んだかは忘れましたが、終電の電車に一人で乗ってる美智子妃を見たというサラリーマンの話を思い出しました。
そうこうしている間に、昭和38年に美智子妃は胞状奇胎で入院、手術、療養と失意の日々を過ごすことになります。

この胞状奇胎について当時の週刊誌の報道記事を、きなこもち様が
noteに載せて考察されていますので紹介します。

私は、この時美智子妃が妊娠したそのお相手が、安西氏ではなかったのかと考えているわけです。しかし胞状奇胎で流産、その後処置を施されたとしています。当時の医学で胞状奇胎は悪性疾患で、子宮全摘が一般的でした。
子宮を部分切除で温存する方法は、東大病院が最初に試みたと記憶しています。それが1965年頃、つまり昭和40年前後だったと思いますから、
美智子妃は子宮全摘手術を受けていると確信をしています。

美智子妃は、医師に妊娠することを2年間止められていたといいますが、
昭和40年11月には礼宮を出産していることになっています。
昨今では、礼宮(秋篠宮)が安西氏に瓜二つ、仕草までが同じではないかと騒がれDNA鑑定を求める署名運動にまで発展していますが、
当時は不審は持たれても、表立っていう人もなかったでしょう。
私は、礼宮は安西夫婦の子だと思っています。安西氏の妻は美智子妃の妹さんです。

美智子妃の性格の中に、執着、拘る、というものが強くあると私は思っていまして、それが如実に表れたのが独特の衣装や小皿帽でしょう。
またそれは、男性に対してもあったのではないかとも私は考えています。
それが安西氏であったように、思えるのです。

下に婚約者であった波多野氏と安西氏の画像を添付しました、何となく似ているように見えるのは目の錯覚でしょうか。

波多野学習院院長・学習院より
安西氏・無敵の太陽より

私は、美智子妃は誰も産んでいないと思っています。
礼宮を自分が産んだことにして手元に置けたのはどうしてでしょうか?
昭和天皇も香淳皇太后も、分かっていながら許したのはなぜでしょうか?
その背景には、浩宮とその母の存在があり、
自分の子が欲しいという美智子妃の懇願に負けたからではないのか、と私は考えるのです。
当然、皇位継承を狙わないことや、時期をみて皇室から離れさせるという条件があったと考えるのが自然でしょう。それが記事の1⃣に載せたX投稿にあった、香淳皇太后の「秋篠宮を約束通りに早く皇室から出しなさい」に繋がるのではないでしょうか。

こうして考えてくると、
昭和天皇が遺言で残したとされるあの言葉からも、
浩宮の生母と思われる方の”血筋の良さ”が浮かび上がるように思えるのです。

長くなりましたが、今日はここまで

         今日も読んでいただき、ありがとうございます。❤️

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