自由の反対語は「不自由」ではない。私たちが勘違いしている「自由」の正体
「自由」という言葉には、手放しの賛辞が送られがちだ。 自由は素晴らしい、自由になりたい、自由こそが幸福の条件である、と。世の中はそのようなスローガンで溢れている。 しかし、その風潮にはどこか、危うい落とし穴が口を開けているように思えてならない。
自由とは常に諸刃の剣である。 想像してみてほしい。「最大限の自由」が許される場所を。 そこで私が今、おもむろに懐から銃を取り出し、あなたの頭に銃弾を浴びせて高笑いをしたとする。もしここが真に「自由」な世界であれば、誰もがそれを許さなければならない。なぜなら、私には「引き金を引く自由」があり、あなたを排除する自由さえも保障されているはずだからだ。
そう考えると、私たちが普段享受している「自由」の正体が見えてくる。 私たちが求めているのは、野生のサバンナのような弱肉強食の自由ではない。誰にも撃たれず、奪われないという「安全」が保障された上での、都合の良い自由だ。 つまり、自由の反対語は「不自由」ではない。「秩序」なのだ。
人々は無意識のうちに、自分に都合の良い秩序は、空気のように「ただで与えられるもの」だと信奉している。 「自分は好き勝手にするが、他人は自分を害さない」という前提を、疑いもせずに信じている。 だが、秩序はタダではない。その地域に住む人々の「良識」が根付き、各々が自分の欲望を少しずつ殺して(つまり不自由を受け入れて)、初めて成立するものだ。
その点において、日本という国は世界でも稀有なほど、この「良識」による秩序が強固に機能している。 財布を落としても戻ってくる、夜道を一人で歩ける、電車が時間通りに来る。これらは当たり前のことではなく、我々が支払っている「見えないコスト(規律)」の対価である。
「自由の風を入れる」というのは、聞こえはいい。 しかし、その窓を全開にしてしまえば、吹き込んでくるのは心地よい風だけではないかもしれない。そこには、暴力や混沌といった「無秩序」の砂嵐も含まれている。 野放しの自由は、劇薬だ。
私たちは、この日本という、ある種「不自由だが秩序ある箱庭」の中で守られていることを、もう少し自覚的であってもいいのかもしれない。 「不自由」を嘆く前に、「秩序」のありがたみを直視すること。 真の自由とは、その秩序の破壊ではなく、秩序という土台の上で初めて咲く花のようなものなのかもしれない。
