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「普通であるこず」の矎孊ず文化の喪倱

ラトビア共和囜の小郜垂ツェヌスむスに、1590幎の創業から続く醞造所Cēsu Alusがある。フィンランドの倧手飲料䌁業Olvi傘䞋に入ったこの䌁業は、珟圚ラトビア囜内のビヌル生産量の64%を占める巚倧な倧衆ブランドであり、そのビヌルは囜内のあらゆるスヌパヌマヌケット、コンビニ、パブに備えられおいる。英語圏のビヌル批評家がこのブランドに぀いお「マヌケティングは䞊手いが、ビヌル自䜓は普通ordinaryだ」ず評したこずを知ったずき、そこには単なる味芚的刀断を超えた、より根深い䟡倀芳䞊の問題が朜んでいるこずに気付かされた。

「普通である」こずは、なぜ貶されるのか。ビヌルは本来、貎族や富裕局のためではなく、蟲民や職人や垂民のために醞造されおきた倧衆飲料である。1842幎にチェコのプルれニュで生たれたピルスナヌが䞖界䞭に広たったのは、それが「完璧に普通であった」からに他ならない。透き通った黄金色、枅朔な苊みずモルトの甘みの調和、飜きの来ない飲みやすさ——これらは「耇雑さの欠劂」ではなく、「シンプルさの完璧な達成」を意味する。醞造孊的芳点から蚀えば、䜙蚈な芁玠を排陀し、䞇人に䞍快感を䞎えない均衡点を芋出すこずは、個性的なクラフトビヌルを醞造するこずよりも、はるかに困難な技術的課題である。Cēsu Alusの「普通性」は、450幎以䞊にわたる醞造技術の蓄積ず、地域コミュニティぞの誠実な奉仕の結晶なのである。

英語圏のビヌル愛奜家コミュニティにおける「ordinary」ずいう評䟡が吊定的含意を垯びおいるのは、20䞖玀末以降に急速に広たったクラフトビヌル文化の「耇雑性信仰」に由来する。高床なホッピング、バレル゚むゞング、野生酵母の䜿甚、耇雑な颚味局。これらの芁玠を「優れたビヌル」の条件ずみなす䟡倀䜓系が圢成されたずき、それに圓おはたらないすべおのビヌルは「劣ったもの」ずみなされるようになった。しかしこの䟡倀䜓系は、歎史的にも文化的にも盞察的なものにすぎない。それは特定の時代、特定の階局、特定の文化圏が産み出したひず぀の「矎孊」であり、「客芳的な品質基準」ではない。そしお重芁なこずに、こうした「耇雑性の特暩化」は、近代以前の超栌差瀟䌚における「高貎なるものぞの憧憬」ず、構造的に非垞に䌌た心理的メカニズムを持っおいる。「普通を軜蔑するこず」は、実は歎史的に蚀えば、ごく近代的だずも、あるいは必ずしも進歩的だずは蚀い切れない、むしろ近代以前から存圚する叀兞的な䟡倀芳なのである。

この問題は、ビヌル産業の話題を倧きく超えお、珟代日本瀟䌚における飲食文化の倉容ず、地方の䌝統文化の喪倱ずいう、より広倧な問題ず繋がっおくる。ここ数幎、日本の䞻芁郜垂、ずりわけ東京や京郜ずいったブランド力の匷い地域においお、「超高玚」「特別」感を挔出するこずで飲食店が過剰な付加䟡倀を䞻匵するケヌスが著しく増加しおいる。問題の本質は、その「高玚感」が玠材の真の質や料理人の誠実な技術から生たれおいるのではなく、巧みな宣䌝戊略、過剰な内装挔出、SNSを掻甚したむメヌゞ操䜜によっお䜜り出されおいるずいう点にある。職人が長幎かけお研鑜した技術よりも、有名むンフル゚ンサヌずのタむアップやメディア露出が、実質的な「䟡倀」を決定するずいう逆転珟象が起きおいるのである。

この構造は、日本の䌝統的矎孊ず根本的に矛盟する。日本の矎意識の栞心には「䟘寂わびさび」がある。玠朎さ、䞍完党さ、自然の流れの䞭にある静けさを矎ずしお認識するこの感性は、茶道の「質玠の矎孊」や犅宗の「無の矎孊」、さらには柳宗悊が唱えた民芞運動の「甚の矎」——日垞的な道具の機胜の䞭に宿る矎——ず深く連なっおいる。これらはすべお、「普通であるこず」の䞭に最高床の䟡倀を芋出す矎孊䜓系である。芋た目の華やかさや垌少性によっお䟡倀を枬る西欧的な「高玚性」の抂念は、明治以降に茞入されたものであり、日本の䌝統的䟡倀芳ずは根本的に異質なものだった。問題は、この倖来の䟡倀芳が近代化の過皋で深く内面化され、珟代においおさらにSNS文化ず結び぀いお、「普通の良さ」を圧倒し぀぀あるずいう点にある。

日本の地方文化は、この「普通の良さの喪倱」ずいう問題をより深刻な圢で䜓珟しおいる。地方の過疎化は1960幎代以降急速に進行し、蟲業人口比率は1979幎の20%以䞊から2010幎代には10%以䞋ぞず激枛した。担い手の流出ず高霢化によっお、䌝統工芞産業は壊滅的な打撃を受けた。生産額は1980幎代のの5000億円以䞊から2010幎代のには1000億円皋床ぞ、埓事者数は30䞇人近くから10䞇人以䞋ぞず、それぞれ玄80%近い「激枛」を蚘録しおいる。この数字は単なる産業統蚈ではなく、地域コミュニティの生掻文化そのものの消滅を意味しおいるのである。

こうした担い手の喪倱に盎面した地方自治䜓が遞択したのが「芳光資源化」ずいう戊略であった。しかし芳光孊の研究が繰り返し指摘するように、芳光が地域文化を「商品化」する過皋で、その文化が本来もっおいた意味ず真正性は䞍可逆的に損なわれる。芳光人類孊においおこの珟象は「文化の䜎俗化trinketization」ず呌ばれおおり、本来の文化的䟡倀が商業的亀換䟡倀に眮き換わるこずを指す。さらに深刻なのが「デモンストレヌション効果」であり、これは、芳光客の生掻様匏や消費行動を目の圓たりにした地域䜏民、ずりわけ若い䞖代が、自らの文化を「叀くお䟡倀のないもの」ずみなし攟棄しおいくプロセスである。芳光によっお地域文化が「泚目」されるこずが、逆説的に、その文化の担い手自身による文化攟棄を促進しおしたっおいるのである。

祭瀌の問題はさらに根本的である。か぀お地域共同䜓の宗教的実践であり、神ぞの奉玍であり、共同䜓メンバヌ盞互の玐垯を確認する堎であった祭りは、珟代においおは自治䜓の芳光資源ずしお再線成され぀぀ある。厳粛な神事が「むンスタグラム映え」する芳光むベントぞず倉容し、露店収入や芳光客からの寄付なしには祭りの維持すら困難になっおいるずいう逆説的な状況が生じおいる。「芳光化に反発する声はあるが、芳光客の収入がなければ成り立たない」ずいう地域関係者の蚀葉は、文化の真正性ず経枈的生存が根本的なトレヌドオフに陥っおいるこずを瀺しおいる。祭りが商業的に持続䞍可胜になれば䞭止され、祭りを知らない䞖代が育ち、文化の蚘憶は断絶する。芳光化はこの悪埪環を止めるどころか、むしろ加速させる可胜性も高いずいうこずを、忘れおはならないのである。

蟲村の限界集萜が盎面する珟実は、この問題のもっずも極端な姿を瀺しおいる。ピヌク時5000人以䞊を誇った村の人口が30人未満たで枛少し、残ったのはほが党員が70歳以䞊ずいう状況で、1500䜓以䞊のかかしを蚭眮しお芳光客を呌び蟌もうずする詊みが話題を集めたこずがある。しかし芳光は人口流出を止めるこずができない。かかしは消えゆく生掻の蚘録ずしお機胜したが、文化そのものの継続をもたらすこずはできなかい可胜性が高いのである。芳光は文化を「蚘念碑化」するこずはできるが、「生きた文化」を長く継承させる力を持たないのである。

この構造的問題を打開するための鍵は、実は「普通の良さを普通のたた誇るこず」ずいう、きわめおシンプルな原則に収斂するように思われる。日本の蟲山持村ツヌリズムの文脈で語られる「ほんたもん本物」ずいう抂念がそれを端的に衚しおいる。地域独自の玠材、技術、知恵、習慣ずいった、他の地域が暡倣できない「普通の日垞」こそが、本圓の意味での文化的資源である。それは「特別に挔出された非日垞」ではなく、長幎にわたっお地域の生掻の䞭で自然に培われおきた「日垞の蓄積」の䞭にある。いわばDNAのように、ひずりの人間のスケヌルでは考えられないような、非垞に長い歎史の䞭で構築されおきた、貎重な存圚なのである。

Cēsu Alusのビヌルが450幎にわたっお地域䜏民に愛され続けおきたのは、それが「特別なビヌル」だからではない。それが「完璧に普通である」からだ。シンプルさを完璧に達成するこずは、耇雑さを远求するこずず同等かそれ以䞊に困難な技術的課題であり、しかもその達成は時代を超えお瀟䌚的に機胜し続ける。英語圏の批評家が「ordinary」ず呌んだものは、実は民䞻的アクセシビリティ、品質の䞀貫性、そしお地域コミュニティぞの誠実な奉仕ずいう、高床な䟡倀の結晶だずいう肯定的な解釈するこずもできるのである。

日本の地方文化が倱いかけおいるものも、たさにこの「普通の良さ」である。䟘寂の矎孊、甚の矎の思想、玠朎さの䞭に宿る䟡倀。これらは「高玚挔出」や「虚停的プレミアム化」ずは根本的に盞容れない。珟代の消費文化が「普通を恥ずしお」「特別を至䞊ずしお」䟡倀を組み替えおいく過皋で、日本文化の本質的な矎孊的基盀が静かに、しかし確実に䟵食され぀぀ある。その喪倱の深さず取り返しの぀かなさを盎芖するずき、Cēsu Alusの「普通であるこずぞの誇り」は、単なるビヌル論を超えた、文化的・哲孊的な問いを私たちに突き぀けおいるように思われるのである。

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