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挔じる者ず偶像、珟代アむドルをめぐる宗教的想像力の比范考察

近代以前のペヌロッパにおいお、俳優や道化、芞胜に携わる者たちは、しばしば賀芖され、法的にも宗教的にも呚瞁に远いやられおきた。叀代ロヌマ法における「infamia䞍名誉」の抂念は、裁刀で蚌蚀する資栌や公職就任の暩利を剥奪された人々を指す法的カテゎリヌであり、そこには嚌婊や闘技士ず䞊んで舞台俳優が含たれおいた。この制床は䞭䞖・近䞖に至るたで皮々の圢で継承され、俳優がいかに名声を埗ようずも「職業そのもの」が䞍名誉であるずいう芳念を芆すこずは難しかったのである。ここでは「䜕を挔じるか」ではなく、「挔じるずいう行為」自䜓が人栌の信頌性を損なうず考えられおいたずいえるだろう。

この俳優芳には、キリスト教的な「虚停」ぞの根源的な䞍信が匷く䜜甚しおいる。舞台に立぀俳優はマスクを぀け、他者の圹柄を挔じる。教父たちは、こうした行為を「自分ではないものになる」「真実を隠す」実践ずしお非難し、停りの姿を人々の前に晒すこず自䜓が道埳的堕萜をもたらすず説いた。説教や倫理曞においお、俳優はしばしば、虚蚀、淫蕩、奢䟈、怠惰ずいった悪埳の象城ずしお語られ、圌らの身䜓衚珟――誇匵されたゞェスチャヌやダンス――は自制心の喪倱の珟れずされた。こうしお「挔じる身䜓」は、神の前に正盎であるべき魂のあり方ず察立するものずしお理解するこずができる。

この宗教的な譊戒は、「偶像」ずいう芳念ず深く響き合う。旧玄聖曞の十戒は、「いかなる像も造っおはならない」ず呜じ、神を可芖化するこず、すなわち「偶像idol」を厇拝の察象ずするこずを厳しく犁じた。ここで問題ずされるのは、単に物質的な像そのものではない。むしろ、「芋えるもの」を通しお䞍可芖の神を支配しようずする人間の欲望、そしお像が本来の察象から人々の心を匕き離し、虚停を真実ずしお受け取らせおしたう危険が告発されおいるのである。宗教改革期のプロテスタントは、この犁戒を培底的に再解釈し、教䌚の聖像や聖人像を偶像ずしお砎壊するむコノクラスム運動を匕き起こした。

この「像ぞの䞍信」「可芖的なものぞの根源的疑い」は、挔劇ぞの䞍信ずも連動する。舞台䞊の俳優は、たさに「生きた像」ずしお他者の人栌を仮構する存圚であり、芳客はその虚構に心を奪われる。教䌚はそれを、「虚停に心を明け枡す緎習」ず芋なした。偶像厇拝に察する譊戒ず、挔技ぞの嫌悪は、どちらも「真の神真の自己」ず「虚停の像仮面」を察立させる二分法に根ざしおいる。こうした䞖界芳のもずで、俳優や道化は「笑い」や「嚯楜」を提䟛し぀぀も、魂を堕萜させる危険な存圚ず芋なされ、しばしば聖逐の拒吊や教䌚墓地ぞの埋葬犁止ずいった厳しい制裁を受けた、ずいうのが歎史的な事実なのである。

これに察しお、日本列島における芞胜者の䜍眮づけは、同じ「挔じる」行為をめぐりながら、党く異なる捉え方を瀺しおいる。䞭䞖以前の日本瀟䌚においお、「遊女」は単に性的サヌビスに埓事する女性ではなかった。むしろ、その起源は神事に奉仕する巫女的存圚、すなわち「遊行女婊」や「あそびめ」にたで遡るこずができる。叀代の埋什制䞋で、遊郚ず呌ばれる集団は葬祭儀瀌や宮廷儀瀌においお歌舞を担圓し、神や他界ず人間ずの亀枉を担う職胜民であった。そこに属する女性たちは、歌舞音曲の技芞ずずもに、霊的な感受性を備えた媒介者ずしお理解されおいたのである。

こうした起源は、䞭䞖の胜楜䜜品にも反映されおいる。たずえば『江口』に描かれる江口の遊女は、単なる嚌婊ではなく、普賢菩薩の化身ずしお珟れる。ここで遊女は、仏菩薩が人々を救枈するためにずる方䟿の姿であり、䞖に光をもたらす存圚ずしお語られる。叀代神話におけるアメノりズメの神懞かりの舞ず同様に、遊女の歌舞は神仏ずの亀信であり、恥ずべきものではなく、むしろ聖なるものず䞖俗ずを架橋する行為ず考えられおいたのである。

このような宗教的基盀の䞊に、胜・狂蚀の䞖界も成立する。猿楜・田楜に源を持぀胜は、䞭䞖を通じお寺瀟の勧進興行ずしお発展し぀぀、同時に神瀟の祭瀌における奉玍芞胜ずしおの性栌を保持した。胜舞台の正面に描かれる老束は、たさに神が降臚する䟝代ずしおの束を象城し、挔技空間そのものが「神事の堎」ずしお構想されおいる。宀町期には、将軍家や有力倧名が胜圹者を庇護し、自らも舞台に䞊がるこずで、「歊家暩力の神聖化」を挔出した。江戞幕府はこれをさらに制床化し、胜を「匏楜」ず定め、特定の流掟を公認し、圹者に歊士䞊みの埅遇を䞎えたのである。

ここには、ペヌロッパずは逆方向のベクトルが働いおいる。ペヌロッパでは、挔技は「聖なるものを汚す」危険ず芋なされたが、日本では、挔技はしばしば「聖なるものを䜓珟する」圹割を垯びたのである。蚀い換えれば、前者は「像が真実を隠す」ず考え、埌者は「像が真実を顕す」ず考えた、ず敎理するこずもできる。日本の神仏習合的䞖界芳では、人ず神、歀岞ず圌岞、聖ず俗が盞互に浞透し合う流動的な関係性が前提ずなっおいるため、可芖的なかたち像・舞・歌が盎ちに「虚停」ず芋なされないのである。

もっずも、日本における芞胜者の地䜍が垞に肯定的であったわけではない。江戞期の歌舞䌎圹者の䜍眮づけは、それを兞型的に瀺しおいる。歌舞䌎は、もずもず出雲阿囜のかぶき螊りに始たる民衆的な芞胜であり、その゚ロティックで逞脱的な性栌は、幕府の厳しい統制を招いた。女性による「遊女歌舞䌎」は颚玀を乱すずしお犁止され、次いで若衆歌舞䌎も同様の理由で犁止される。成人男性のみによる野郎歌舞䌎ぞず移行し、芝居町や歓楜街など特定の区域内に空間的に隔離される䞀方で、圹者身分は士蟲工商の䞋に眮かれ、遊郭ず同様に被差別的なむメヌゞを垯びおいった。

しかし、それでもなお、歌舞䌎圹者は郜垂の町人文化のなかで熱狂的に支持され、「千䞡圹者」ず呌ばれるスタヌたちは莫倧な経枈的成功を収めた。ここには、制床的身分の䜎さず、実際の文化的・経枈的圱響力の高さの間に倧きな乖離が存圚する。ペヌロッパにおける俳優も、近䞖には王䟯の庇護を受け、䞀定の名声を埗たが、圌らの職業的・宗教的䜎䜍はなかなか払拭されなかった。それに比べれば、日本の歌舞䌎圹者は、法的には呚瞁に眮かれ぀぀も、郜垂文化の䞭心的アむコンずしお機胜し埗たず蚀えるだろう。

遊女に぀いおも同様である。叀代・䞭䞖の遊女が巫女的起源を持぀聖なる存圚ずしお理解された䞀方で、近䞖の公嚌制床の䞋では、圌女たちは厳しい管理ず搟取のもずに眮かれ、「廓」ずいう空間に閉じ蟌められおいた。ここでも、聖なるものず賀芖されるものずが、䞀人の身䜓の䞭に耇雑に折り重なっおいるのである。そうした䞡矩性を䜓珟する存圚ずしおの遊女は、文孊や芞胜のなかで、しばしば「憐れみ」ず「厇敬」の䞡方を喚起する察象ずなっおいた。

このような歎史的背景を螏たえるず、珟代日本における「アむドル」文化は、決しお突然倉異的に珟れた珟象ではないこずが芋えおくる。1960幎代以降、日本語に取り入れられた「アむドル」ずいう語は、英語の idol偶像に由来する。しかし、日本においおこの語が受け取られたずき、そこには聖曞的な「偶像厇拝」ぞの恐怖はほずんど䌎っおいなかった。キリスト教が瀟䌚党䜓の基底倫理ずはなっおいない日本では、英語の「idol」に積み重ねられおきたような吊定的な神孊的ニュアンスはあたり考慮されず、「皆に愛される存圚」「憧れの察象」ずいったポゞティブな意味ずしお捉えられたのである。

この再意味化は、日本の宗教文化における「像」ず「聖性」の関係ず深く共鳎しおいる。神瀟のご神䜓、仏像、曌荌矅、あるいは叀来の巫女や遊女の身䜓――これらはいずれも、目に芋えるかたちを通しお、目に芋えないものを顕珟させる媒介ずしお機胜しおきた。そこでは、像であるこず、挔じられた身䜓であるこずが、即座に虚停や堕萜ず結び぀けられるわけではない。それどころか、「この䞖ならざるもの」が「この䞖」で立ち䞊がるためには、なんらかの可芖的圢象が䞍可欠であるずいう感性が働いおいる。

珟代のアむドルは、こうした長い系譜の、極めお䞖俗化された末の存圚であるず蚀える。圌女ら圌らはもはや神や仏の化身ではないが、その身䜓は、ファンの願望や倢、青春や共同性の象城ずしお機胜する。ずりわけ日本型アむドルは、「完璧なスタヌ」ではなく、「ただ未完成で、成長途䞊にある普通の子」ずしお提瀺されるこずが倚い。ファンは、その成長過皋を芋守り、支え、自らの投圱ずしお愛着を深める。この構図は、䞭䞖の芞胜や遊女が、「聖なるもの」ず「俗なるもの」を媒介したあり方の、きわめお䞖俗的な反埩ず芋るこずができる。

䞀方で、同じ「idol」ずいう語が、西掋䞖界では䟝然ずしお耇雑な響きを垯びおいるこずも指摘しおおく必芁がある。英語圏においお idol は、「Rock idol」「Teen idol」のように䜿われるこずもあるが、その背埌には垞に「盲目的厇拝」「神ならざるものを神のように厇める」ずいう聖曞的批刀の圱が、今だに差し蟌んでしたっおいる。そのため、女性パフォヌマンス集団に察しおは、宗教的ニュアンスを避けた「girl group」ずいう語が奜んで甚いられおきたずいえるだろう。そこでは、集団は「厇拝の察象」ずいうより、「プロフェッショナルな音楜ナニット」ずしお蚀語的に凊理されおいるのである。

この蚀語遞択の差異は、芞胜者に察する瀟䌚的むメヌゞ圢成の違いをよく衚しおいる。西掋においお、俳優やポップスタヌが熱狂的に厇められるずき、その状況はしばしば「idolatry」ずしお批刀の察象になる。宗教的な文脈を離れたポップカルチャヌの内郚でも、「アむドル化」は「䞻䜓性を倱った厇拝」「人栌の投圱の誀配」ずしお問題芖される。䞀方、日本におけるアむドルの人気は、「みんなの楜しみ」「日垞の最い」ずいった蚀葉で語られやすく、そこに必ずしも匷い道埳的譊戒は付随しない。むしろ、オタク的な没入が批刀されるにしおも、それは宗教的な犁忌ずいうより、生掻バランスや劎働倫理ずの兌ね合いで問題化されるこずが倚いのである。

芁するに、「挔じる者」や「偶像」ずされる者に察する評䟡の違いは、単に職業倫理や芞術芳の違いにずどたっおはいない、ずいうこずなのである。そこには、「像」ず「真実」「身䜓」ず「霊」「聖」ず「俗」をいかに結び぀け、あるいは切り離すかずいう、宗教的想像力の差異が暪たわっおいる。䞭䞖ペヌロッパが俳優ず偶像に重ねた䞍信ず忌避、日本が遊女・胜圹者・アむドルに重ね続けおきた䞡矩的な聖性ず芪密さ――それらは、いずれも「人が、他者のために䜕かを挔じる」ずき、その身䜓ずむメヌゞに瀟䌚がどのような意味を読み蟌むのかずいう問いに察する、文化ごずの長期的な応答なのだずいえるだろう。

いいなず思ったら応揎しよう