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私たちはいつの間にか「何も」所有できなくなっていく

昔、水はタダだった。土地もタダだった

考えてみてください。

ほんの数百年前まで、水は誰のものでもありませんでした。川から汲めばよかった。井戸を掘ればよかった。空から降る雨も、湧き出る泉も、すべて自然からの贈り物でした。

土地も同じです。かつて多くの土地は「共有地(コモンズ)」でした。村のみんなが家畜を放牧し、薪を拾い、果実を採り、釣りをする。誰のものでもなく、みんなのものだった場所が、世界中に存在していたのです。

人々は、生きるために必要なものの多くを、お金を介さずに手に入れることができました。

ところが今はどうでしょうか。

水は、ペットボトルに詰められ、コンビニで100円以上で売られています。蛇口をひねれば水道料金がかかります。土地は、坪単位で値段がつけられ、都市部では一生かけても買えないほど高騰しています。

かつてタダだったものが、いつの間にか「お金を払わなければ手に入らないもの」に変わっている。

これは偶然ではありません。意図的に進められてきた、長い歴史の結果なのです。

そして今、巨大資本が次に私たちから取り上げようとしている、あるものがあります。

すべての人間が、毎日、必ず必要とするもの。そして、とてつもなく巨大な領域 。いえ、それはもう「これから」の話ですらありません。すでに、私たちが気づかないうちに、密かに進められているのです。


ありがたいことに、「非公開メンバーシップの招待が待ちきれない」というお声を、本当にたくさんいただいています。

非公開メンバーシップでは、内容はさらにディープなものになっていきますが、今回はこちらで、健康に直結する「食」のお話をいつもとは少し違うテイストでお届けします。非公開メンバーシップへ進む前の「予備知識」として、お読みいただければ幸いです🍀

私たちは「生きる力」そのものを奪われてきた

ここで、少し立ち止まって考えてほしいことがあります。

人間が生きるために、本当に大切なことは何でしょうか。

それは、難しいことではありません。動物や植物を育てること。命をいただくこと(殺して食べること)。水や道を整えること。家を建てること。火をおこして調理すること。何千年ものあいだ、人間はこれらを自分たちの手でやってきました。

ところが現代を生きる私たちの多くは、このどれ一つとして、自分ではできなくなっています。

野菜を育てたことがない。鶏をさばいたことがない。家を建てる技術もない。
学校で教わりもしませんでした。


もちろん、便利になったのかも知れません。これに慣れすぎて、自給自足をしようとも思わなくなりました。

しかし、それで何が起きたかを考えていただきたいのです。

生きるための力を奪われた分だけ、私たちは「お金を払い続ける人」になったのです。

食べ物を買うためにお金を払う。住む場所を借りるためにお金を払う。水道に、電気に、ガスに、すべてに払い続ける。自分でできることが一つ減るたびに、私たちは何かに依存し、何かに支払う立場へと押し込まれていきました。

それは、生きるために欠かせないものを供給する「権利」を、ごく限られた人たちが握ってしまっているということです。

水を、食べ物を、エネルギーを、誰が、どんな条件で供給するかを、ほんの一握りの存在が決められるようになる。そうなったとき、私たちは「買う」のではなく「従う」しかなくなるのです。

すべての始まり 「囲い込み(エンクロージャー)」

この流れの原点は、15世紀から19世紀にかけてイギリスで起きた 「囲い込み(エンクロージャー)」にあります。

それまで村人みんなが自由に使えた共有地に、地主たちが柵を張り巡らせ、「ここは私の土地だ」と宣言して囲い込んでいったのです。羊毛が儲かるとなれば、共有地を牧羊地に変えるために、農民たちは土地から追い出されました。

土地を失った農民は、どうなったか。

生きるために、都市へ流れ込み、工場で労働力を売るしかなくなりました。自分の食べ物を自分で育てることができなくなった人々は、賃金を稼ぎ、その賃金でパンを買うしかない。「自給する人」から「お金を稼いで買う人」へと、強制的に変えられていったのです。今の私たちと同じです。

ここで重要なのは、囲い込みが単なる「土地の私有化」ではなかったということです。それは、人々が自分の力で生きる手段を奪い、お金のシステムに依存させる仕組みだったのです。

土地さえあれば、人は飢えません。水と種と土があれば、生きていける。だからこそ、それを奪うことは、人を支配する最も確実な方法だったのです。

現代の「囲い込み」で私たちは何も所有できなくなっている


囲い込みは過去の話ではありません。むしろ、形を変えて、今この瞬間も加速しています。

現代を生きる私たちは、何かをしようとするたびに、「許可」や「免許」として「お金」を求められます。商売にも、家を建てるにも、場所によっては魚を釣ることにすら、許可や免許が要る。「昔は物々交換とを通して自由にやっていたこと」が、年々狭まっているのです。

例えば医師や薬剤師の免許。伝統医療を代々受け継ぎ、人々を治療してきた人は、医師や薬剤師の免許が生まれたことで、一気に偽物扱いされてしまいます。ビックファーマが存在するのも、この体系化された教育システムのおかげでしょう。

そして所有のあり方も、静かに変わってきました。

かつては「買って、自分のものにする」のが当たり前でしたが、今は違います。家は一度建てれば何世代にもわたって住むことができました。今は相続税により3世代で赤字になると言われています。音楽も、映画も、ソフトウェアも、車さえも、「所有」ではなく「月額で借りる」形に置き換わっています。

便利だと感じるかもしれません。でも、その本質は何でしょうか。

あなたは何も所有していない。ずっとお金を払い続けなければ、何も使えない。
そういう状態に、私たちは少しずつ慣らされているのです。

世界経済フォーラムが掲げた有名なフレーズに、「あなたは何も所有しなくなり、そしてそれを幸せに感じるだろう」というものがありました。これを明るい未来として語る人もいます。しかし見方を変えれば、これは 囲い込みの完成形とも言えるのです。私たちから取り上げたものを、所有できるごく一部の人々にとっては非常に都合のいいフレーズです。

郵政民営化 「みんなのもの」が「誰かのもの」になった

日本で起きた、わかりやすい囲い込みの例があります。

郵政民営化です。

郵便局はもともと、国民みんなのインフラでした。全国津々浦々に郵便を届け、貯金を預かり、簡易保険を提供する。過疎地でも、採算が取れない場所でも、公共サービスとして維持されていました。

そこには、国民が長年かけて積み立てた、莫大な郵便貯金と簡易保険の資産がありました。当時、その額は数百兆円規模。世界最大級の「国民の貯金箱」と言われていました。

それが2000年代に民営化され、株式会社になりました。

「民営化すれば効率的になる」「サービスが良くなる」と説明されましたが、問題はその巨大な資産は、最終的に誰の手に渡る流れになったのかということです。

国民みんなのものだったものが、市場で売買される「株式」に姿を変え、海外の巨大資本家のものになっていく。これもまた、「みんなのもの(コモンズ)」が「誰かの所有物」に変わっていくという、囲い込みの一つの形だったと見ることができます。

水、土地、公共インフラ、国民の貯蓄。こうして一つずつ、「みんなのもの」は囲い込まれてきました。

そして今、巨大資本が次に目をつけているもの。それが 「」です。

最後に残された聖域「食」


なぜ「」なのでしょうか。

すでに世界では、ごく一部の人たちが、富のほとんどを手にしています。彼らはすでに、土地も、企業も、資源も、十分すぎるほど所有してきました。

そんな彼らが次に考えるのは、こうです。「次に所有できる先は、どこか?

そして見渡したとき、まだ完全には囲い込まれていない、巨大な領域が残っていた。それが「」だったのです。

理由はシンプルです。食は、すべての人間が、毎日、必ず必要とするものだからです。

水を囲い込めば、人は水を買い続けます。土地を囲い込めば、人は家賃を払い続けます。では、食を囲い込めたら?
全人類が、生きている限り、その仕組みにお金を払い続けることになります。これほど巨大で、これほど確実な市場は、ほかにありません。


そして食には、まだ「囲い込まれていない」領域が残っています。

家庭菜園で野菜を育てる。鶏を飼って卵をとる。牛を育てて肉や乳を得る。魚を釣る。これらは、何千年も前から、人間が自分の手でやってきたことです。特別な許可も、誰かへの支払いも要らない。裏を返せば、ここは巨大資本にとって「まだお金に変えられていない、もったいない領域」なのです。

ビル・ゲイツが見つめている「食」の未来

象徴的な人物がいます。ビル・ゲイツです。

あまり知られていませんが、彼はいまアメリカで最大級の「農地」の個人所有者だと報じられています。ソフトウェアで巨万の富を築いた人物が、なぜ大量の農地を買い集めているのか、ここに、時代の流れが透けて見えます。

それだけではありません。彼は、工場や研究室で作られる新しい食料に、巨額の投資を続けています。培養肉、すなわち研究室で細胞から育てる「工場のチキン」。植物由来の代替肉。さらには、カカオやチョコレートまで、農園で育てるのではなく、細胞培養や発酵によって「工場で作る」研究が進められています。

なぜ、わざわざ自然に育つものを、工場で作り直そうとするのでしょうか。

味のためでしょうか。環境のためでしょうか。

ここで、このメンバーシップで何度も立ててきた問いを、もう一度思い出してください。

「それで、得をするのは誰か?」

「特許」という、見えない柵


ここに、決定的なポイントがあります。

普通の牛には、特許はかけられません。普通の大豆にも、普通のカカオの木にも、特許はかけられない。何千年も前から自然に存在してきたものだからです。誰のものでもない。

ところが、特定の方法で培養した肉、特定の遺伝子に編集した作物、特定の製法で工場生産したカカオ。これらは「新しい発明」として、特許で守ることができます。

特許とは何か。それは、「これは私の発明だから、他人は勝手に作ってはいけない」と国家が認める、独占の権利です。

これは、まさに現代の「柵」です。かつて地主が共有地に柵を張ったように、今度は食そのものに、見えない柵が張られようとしているのです。

そして、もし食が特許で囲い込まれると、何が起きるか。

家庭菜園で自分が食べる分を育てるのは、まだいいでしょう。しかし、農家が、自分で育てたものを「売ろう」とした瞬間に、問題が生まれます。 「その品種はうちの特許だ」「その製法は許可していない」
そうして、自由に作って自由に売る、というあたりまえのことが、できなくなっていくのです。

実際、すでに農業の世界では似たことが起きています。遺伝子組み換え作物の種には特許がかけられ、農家は毎年その種を企業から買い続けなければならなくなりました。収穫した作物から種を採って翌年まくことが、特許の侵害とされる。そんなケースがうまれています。

自分で種を採れない。自分で増やせない。毎年、お金を払って買い続けるしかない。

水でやったこと、土地でやったことを、今度は食でやろうとしている。そう考えると、すべてが一本の線でつながって見えてこないでしょうか。


• 培養肉・工場のチキン → 製法に特許、その企業しか作れない
• ゲノム編集作物 → 遺伝子に特許
• 工場生産のカカオ → 技術に特許

そして、こうして大量生産されたものは、驚くほど安く売られます。


非公開メンバーシップでも繰り返しお話ししていますが、これから貧富の差はますます激しくなっていきます。日本人の多くは「自分は中間層だ」と思っているかもしれません。しかし、その中間層ですら、生活は年々苦しくなっていくでしょう。

そうなったとき、人は何を基準に食べ物を選ぶでしょうか。

「本当はこんなものを買いたくない」と思っていても、最後は 値段 で選ばざるを得なくなる。そして、安さで人々を引き寄せた企業が、特許に限らず、いつの間にか市場を独占し、そこから永続的に利益を吸い上げていくのです。

その先に待っているのは、こんな未来です。

昔ながらの肉は、少しずつ店先から消えていく。やがて、農場でのびのびと育った豚肉や鶏肉でさえ、ごく一部の人しか手の届かない 「嗜好品」 になる 。

「肉を減らそう」「これからは新しいタンパク質だ」という近年の流れは、人々を伝統的な食ー誰も独占できない食から引き離し、特許で守られた新しい食 ー巨大資本が独占できる食 ―へと誘導する入り口になっているのです。

環境にエコだからお肉を減らそうという大義名分も完全な言い訳です。これについては長くなるので、補足として記事下にに記載しておきます。

ここで、根本的な疑問が生まれます

非公開メンバーシップではお話ししていますが、

私たちが生きているのは、実は資本主義ではありません。

本当の資本主義であれば、何が起きるはずでしょうか。

企業どうしが競争し、価格はどんどん下がっていくはずです。品質はどんどん良くなっていくはずです。
そして何より 、市場が本当に望んだものだけが、生き残るはずです。


ところが現実はどうでしょう。

物価は上がり続けています。私たちが望んでもいないものが、上から次々と降ってきます。

誰か一人でも、「昆虫を食べたい」と言ったでしょうか。
誰か一人でも「ゲノム編集されたチキン」を望んだでしょうか。
誰か一人でも、「いつか空気にお金を払いたい」と願ったでしょうか。


誰も望んでいない。それなのに、巨額の資金と大義名分とともに、こうした方向へと世界が押し進められていく。

これは、消費者が選び取った結果ではありません。市場が望んだ結果でもありません。

最も重大なポイントは、「この世は資本主義ではない」からこう言ったことが起きるのです。

所有を取り戻すという発想が、これからの時代の鍵になります。

「誰にも奪われない資産を持つこと。」

このテーマをより本質から理解するために、
非公開メンバーシップでは、私たちが生きているこの世界は、いったい何なのか。なぜ、誰も望んでいないはずのものが、当たり前のように上から降ってくるのか、そのことを、さらに深く、深く掘り下げてお話ししています。

おそらく、ここまで深くわかりやすく発信している方は、少なくとも日本にはいないだろうという自負があります。寝る間も惜しみ、100年以上前の古典原文にまで遡り、経済のお金の全体像を掴んだと確信したからです。そして私自身、子供はもちろん孫の代まで安心させてあげられる資産計画を立てることができました。

お金があっても、知識がなければ健康は手に入りません。そして、お金がなければ、そもそも健康を保つことすら難しくなります。

健康とお金は、いわば人生の両輪です。どちらか一方が欠けてしまえば、本当に豊かな人生は成り立ちません。両方が揃って初めて、私たちは「自分の人生を自分で選ぶ」という、当たり前のはずのことができるようになるのです。

非公開メンバーシップには、健康メンバーシップに3か月以上ご継続いただいている方を対象に、ご招待しておりました。

しかし、予想を上回るペースで継続してくださる方が増え、グループの規模が大きくなるにつれて、外部からの圧力も受けやすい状況となっております。実際に、noteからも警告を受けております。

そのため、誠に恐縮ですが、この「3か月継続によるご招待」は近いうちに終了させていただく予定です。ご理解いただけますと幸いです。

いつもメンバーシップを支えてくださる皆さんへの恩返しとして、その両輪を手にするお手伝いを、ここで全力でさせていただきます。おそらく世界で最も価値のある100円となるでしょう。

いつも本当にありがとうございます。
あなたとあなたが大切にする人が
末代まで繁栄され続けますように。


非公開メンバーシップの詳細はこちら↓

【補足】

肉の二酸化炭素は「地球を壊すほど」なのか

まず、よく言われる「畜産は温室効果ガスを大量に出す」という主張です。

国連食糧農業機関(FAO)の有名な報告では、畜産は世界の温室効果ガス排出のおよそ14%前後を占める、とされています。一見、大きな数字に思えます。しかし、この数字の中身を見ていくと、話はそう単純ではありません。

そのかなりの部分を占めているのが、牛のげっぷなどから出る メタン です。そして、このメタンには、二酸化炭素とは決定的に違う性質があります。

二酸化炭素は、一度出ると何百年も大気中に積み上がっていく「ストック型」のガスです。一方、メタンはおよそ10年ほどで分解され、消えていく「フロー型」のガスです。牛が出したメタンは、やがて分解されて二酸化炭素になり、それを牧草が光合成で吸収し、その草をまた牛が食べる。つまり、もともと自然の中をぐるぐる循環している炭素なのです。

カリフォルニア大学デービス校の家畜科学者フランク・ミトローナー博士らは、頭数が一定に保たれている牛の群れは、実際にはほとんど新たな温暖化を「積み増していない」と指摘しています。にもかかわらず、化石燃料(地中から掘り出して一方的に増やす炭素)と同じ物差しで計算するから、畜産の影響が実態以上に大きく見えてしまう、というわけです。

さらに国別に見ると、たとえばアメリカ環境保護庁(EPA)のデータでは、農業全体の排出は国内のおよそ1割ほど。そのうち牛などの家畜が直接出す分は、さらにその一部にすぎません。排出の大半は、発電や輸送、工業といった化石燃料の燃焼です。

つまり、あなたが食卓で口にする一切れの肉が地球を壊しているという話は、データの上ではかなり飛躍しているのです。

そもそも二酸化炭素は「悪」なのか?と、もう一歩、踏み込んでみましょう。

大気に占める二酸化炭素の割合を知っていますか。およそ 0.04%(約420ppm) です。残りのほとんどは窒素と酸素で、二酸化炭素はごくわずかな成分にすぎません。

そして忘れてはならないのは、二酸化炭素が 植物にとっての「食べ物」 だということです。植物は二酸化炭素を吸い込み、光合成によって酸素を生み出します。私たちが呼吸できるのは、この働きのおかげです。

実際、NASAなどの衛星観測では、ここ数十年で地球の植生が広がり、「地球が緑化している(global greening)」ことが報告されています。その大きな要因の一つが、大気中の二酸化炭素の増加だと分析されています。農業用ハウスで、あえて二酸化炭素濃度を高めて作物の生育を促す「二酸化炭素施用」が行われているのも、同じ理由です。

地質学的な時間で見れば、はるか昔の地球の二酸化炭素濃度は、今の何倍、時代によっては十倍以上もあったとされ、その時代にこそ植物が爆発的に繁茂していました。


「二酸化炭素=絶対悪」「肉=地球の敵」 という、白黒はっきりした単純な物語が、データの実態以上に強調され、独り歩きしている。そして、その前提のうえに、税金や規制、補助金、そして「新しい食」へ流れ込む巨額の投資が、次々と正当化されている 。

問うべきは「正しいかどうか」より「誰が得をするか」

だからこそ、私たちは一度、問いの順番を入れ替えてみる必要があります。

「二酸化炭素は本当に問題なのか?」と問う前に

「二酸化炭素を“問題だ”ということにすると、いったい誰が得をするのか?」

そう問い直した瞬間、これまで見てきた絵、伝統的な食から人々を引き離し、特許で囲い込まれた「新しい食」へと誘導する流れと、見事に一本の線でつながってくるのではないでしょうか。

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