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「日本人の根深い不気味さ」…逃げきれない歪みと冷淡で薄気味悪い軽薄な空気感の正体!

【日本人に殺されないため】→空気の奴隷を拒み、孤高の役者として生きる覚悟と不条理な引き受け人をやめる。

【この論考の陣容たち】
山本七平 / 浜崎洋介、​小林秀雄 / 三島由紀夫、​クロード・レヴィ=ストロース
​アルフレッド・アドラー、芥川龍之介 / 太宰治、​手塚治虫、​黒澤明 / 宮口精二
​北野武 / ニシダ(ラランド)、​福田恆存


​1. 15万の社寺が物語る「巨大な防犯システム」と虚無の表象

​日本の街中に降り立った者が覚える、完璧な接客や丁寧なお辞儀に対する違和感。一見すると世界最高峰のホスピタリティに思えるその丁寧さの正体は、相手への敬意ではなく「自分の領域に踏み込ませないための鎧」であり、「クレームを防ぐための防犯システム」に過ぎない。表層では頭を下げながら、一歩内側に入ろうとすると返ってくる「ぬめっとした静かな拒絶」。この仮面と内面の過酷な乖離こそが、生理的な気持ち悪さの源泉であると言える。

​全国に15万社以上存在する神社と寺院という数字も、決して単なる「信仰心のあつさの証」ではない。狭い島国の中で、無数の小さな共同体が不条理な災害や支配の恐怖に怯え、身近に「安易な気休めと境界線」を作り続けざるを得なかった歴史的痕跡(精神的インフラ)と言えるのだ。

2.​「理由なき突発的な暴力」と「乾いた冷たさ」

​神社で売られるカラフルなお守りや御朱印・表層の過剰な礼節(表)と、北野武映画や芸人・ニシダ(ラランド)の持つ「生々しいクズさや冷淡な空気感・無感情で冷淡な本性」(裏)は、同じコインの両面に過ぎない。綺麗な包装紙を破り捨てたあとに残るのは、逃げ場のない虚無と歪みである。​つまり、お笑い芸人ニシダが現代の大衆の「浅ましい本音や甘え(生のクズさ)」を露呈させる存在であるならば、北野武はその奥底にある「逃げ場のない圧倒的な冷たさと虚無(死のリアリズム)」を突きつける存在であった。

①【日本の社会構造の二重性】
【表面】(綺麗ごと・過剰なシステム) 
 丁寧な接客、15万を超える神社仏閣、安易なお祓い 
【 裏面】(剥き出しの構造) 
逃げ場のない虚無、北野武的リアリズム、陰湿な排他性

3. 山本七平の「空気」と歴史的無力感の化石化

​山本七平が「「空気」の研究」で喝破したように、日本社会を支配しているのは客観的な論理や倫理ではなく、その場に漂う不可視の「空気」である。(※山本七平に関しては、浜崎洋介氏の本を読むとより詳しく理解できます)

​日本人は古代より、過酷な自然災害や抗えない権力に対し「あがいても【どうせ無駄】だ」という強烈な無力感を叩き込まれてきた。本来なら怒りや批判に向かうべきその感情は、「諸行無常」や「仕方がない」という都合のよい美徳へとすり替えられ、良くも悪くも身体化されてしまった。

​①戦前の軍国主義における暴走
誰も責任を取らず「空気」に流されて破滅へ突き進んだということ。
責任の所在を不透明にするのが得意らしい

​②戦後の無菌室的同調圧力
対象が軍事から「同調マナー」や「空気の読解」に代わっただけで、本質的な構造は一切変わっていないという地獄絵巻。

​自分の頭で考えず、「その場での正解(空気)」を必死に読み取り、バッシングされないようビクビク怯えながらと生きる。外の権威にはペコペコと平伏し、身内の同調圧力から外れた者や弱者には苛烈な私刑(キャンセルカルチャー・叩き)を加える。この「奴隷根性と身内叩きが同居した構造」こそが、海外から帰国した者たちの目に「意志を持たないゾンビの群れ」として洗礼に映る正体であるのだろう。

​4. クロード・レヴィ=ストロースと小林秀雄・三島由紀夫が見た「日本人の眼差し」

​文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、日本の精緻な庭園や職人技に深い感銘を受けつつも、その根底にある「自然と人間を断絶させず、すべてをミニチュア化して閉じ込める閉塞性」を見抜いていた。

​また、小林秀雄や三島由紀夫もまた、日本人の持つこの決定的な「カラッとした自我の欠如」と「陰湿さ」を厳しく糾弾している。

①(日本人・日本文化への視座)

【小林秀雄】
日本人の「無私」や「察し」が、近代以降は単なる「自己の欠如」と「主体性なき日和見主義」へ退化したと指摘し、歴史の深みに根を張らない軽薄な空気を批判した。

【三島由紀夫】
日本が高度経済成長のなかで「無機質で、からっぽで、ニュートラルな小金持ちの国」へ変貌することを見抜き、死の直前に至るまでその空洞化した精神性に絶望した。

★【黒澤明 / 北野武】★
黒澤は「七人の侍」などで民衆の卑屈さと保身・残酷さを描き出し、北野は暴力を通して「綺麗事の裏にある圧倒的な冷たさと虚無」を静かに暴いてみせた。
★七人の侍で、宮口精二演じる剣豪・久蔵(きゅうぞう)が、村人たちの卑屈さや保身、陰湿な泥棒根性を見抜いた上で、「ここの村人を殺したくなった」と吐き捨てる情念。これこそが、本音と綺麗事の皮を破り捨てた瞬間に現れる「日本人という泥沼の邪悪さ」に対する直観的反応だろう。
​久蔵が村人たちに向けたあの冷ややかな視線こそ、私たちがこの暗澹たる社会で「泥沼に呑み込まれないために勝ち取るべき視線」の極致と言えるのではないだろうか。

黒澤や北野の作品が海外で圧倒的に賞賛されるのは、日本人が隠し続けている「美意識の裏の冷酷なリアリズム」を容赦なく世界に提示しているからに他ならない。

​5. なぜ旅先(国内外問わず)では通じ合い、日常では交われないのか

​「日本人の同族(特に同じ場に居る人々)とは仲良くなれず違和感しかないが、旅先では仲良くなれる」、この体験は、日本社会のからくりを解く大きな鍵である。

​日常における日本人は、「村(共同体・会社・社会)」の監視カメラに怯えるプレイヤーである。お互いが「相手は自分を評価・監視する村人か?」と探り合っているため、会話は温度のない探り合いになり、カラッとした友情など生まれようがない。【生きづらさ】を感じている人間にとって、最大・最悪の敵は常に「同調を強制してくる同じ日本人」なのだ。

​しかし、旅先という「村の文脈(空気)が切断された空間」においては、一時的に仮面を外すことが許される。旅先で出会う日本人や旅人、地元民が魅力的に見えるのは、彼らが「村人」から一時的に「個の人間」へと解放されているからに過ぎない。

【日常の場】 監視の目 → 「空気」の奴隷(自己防衛・過剰な敬語・陰質)

【旅先・圏外】 文脈の切断 →「個」の解放(素直な開示・カラッとした交流)

6.脱出不能な島国の宿痾と「一歩外へ立つ」思想

​日本人が常にびくびくし、互いを監視し合い、他者に対して冷酷な眼差しを向けてしまうのは、個人の性格の問題だけとは限らない。何百年何千年もの時間をかけて身体に刻み込まれた「逃げ場のない狭い島国で生き残るための生存戦略」の暴走である。

​①異物への攻撃性
自分が恐怖と不自由さに耐えて「正解」を演じているからこそ、自由に振る舞う「異物(アウトサイダー)」が許せず、正義の面を被って徹底的に叩き潰す。

②権力への屈従
不満の矛先を構造(権力や制度)に向ける度量はなく、自分より弱い者へ矛先を向けて憂さ晴らしをする。

​この社会の【生きづらさ】から身を守り、かつ日本人が本来持っていた「真の美意識」を取り戻す道はひとつしかない。

​それは、集団が作る「空気」の奴隷になることを完全に拒否し、自ら進んで「同族の中の完全なる異物(アウトサイダー)」として生きる覚悟を持つことだ。群れて怯える行列から一歩横へ踏み出し、自分の直感と美意識だけを頼りに一人で佇むこと。その冷ややかな孤立を受け入れた者にしか、この国が抱える「逃げきれない歪み」を乗り越える術はないと言っていい。
そこには、どんな生き方であっても、肯定されるべき姿はあるはずである。

7. アドラー心理学から読み解く「日本という国家」の正体

​アルフレッド・アドラーは、人間の行動の根源には「劣等感の克服」と「承認欲求」があるとし、健全な精神には「課題の分離」と「共同体感覚」が必要だと説いた。しかし、日本型社会はこのアドラーの理論が最も不健全な形でバグを起こした構造をしてしまっている。

①【アドラー心理学で見る日本社会のバグ】
(健全な精神構造)
課題の分離 ・健全な劣等感・横のつながり
↓↓
対立
↓↓
(日本の病理的集団構造)
他人の課題へ介入│ (過剰な叩き・私刑)
他者見下し │ (ニシダ的クズへの安心感)「空気」への服従│ (無主体の承認欲求)

​②「課題の分離」の完全な欠如(私刑と叩き)
アドラーは「他人の課題に土足で踏み込んではならない」と説く。しかし日本社会は、誰かが過ちを犯すと「他人の課題」であるはずの落ち度に一斉に群がり、正義の面を被って叩き潰す。これは他人を正すためではなく、自分の鬱屈した劣等感を「正当な攻撃」によって解消するための不健全な代償行為になってしまう。

​③優越性の追求の歪み(ニシダ現象のカラクリ)
アドラーにおける不健全な劣等感の補償(優越コンプレックス)は、「他者を見下すこと」で得られる。自分より「きっと、どこか劣るのでは?」と認識できるクズ(ニシダ)に対して日本人が湧き、愛着すら抱くのは、「自分はまだマシだ」「こいつならコントロールできる(自分を脅かさない)」という安易な安らぎ(幻想の優越感)を得られるから。

④​「共同認識」としての天皇制と虚無
かつては絶対的な垂直軸(権威)であった天皇制も、現代では象徴的な「お飾りの共同認識」へと形骸化した。超越的な神も、真の思想も失った結果、日本に残されたのは「他人の目(世間)」という名の、根拠なき泥沼のような「空気」だけ。

8.芥川・太宰・三島はなぜ「日本人国家」に殺されたのか?

​三者はアプローチこそ違えど、全員が「日本という無主体の集団」が放つ冷酷な虚無と戦い、呑み込まれてしまった。
彼らは個人の才能や意思が突き抜けすぎていたがゆえに、「自分を消して空気を読む」という生存戦略(奴隷の知恵)を拒絶した。その結果、意志を持たない無数の「世間」というゾンビの群れによって精神を磨り減らされ、死へと追い詰められたのだ。三島に関していえば「大衆にサービスしすぎた」、例えば全共闘との対話など。

★総括①★

私たちが対峙する大衆の正体は、アドラーの言う「課題の分離」が崩壊した相互監視の奴隷である。個の自我を欠くゆえに他人の失敗に群がり、正義の面でバッシングを重ね、鬱屈した劣等感を解消する。クズとされるニシダに惹かれるのも「自分より下でコントロールできるはず」という安易な優越コンプレックスに過ぎない。小林秀雄が蔑んだ「自己なき日和見主義」、三島由紀夫が絶望した「無機質な空洞」の結実がこの群れだ(※ここまで来ると惨めな自分は意識されず常態化する→無自覚なグロテスクさだ)。手塚治虫が「アドルフに告ぐ」で描いたように、「空気」に呑まれた人間は友すら告密するモンスターと化す。黒澤明の「七人の侍」で落ち武者を狩り侍を追い払った村人のように、日本人は被害者を装いつつ内輪を食い物にしてきた。芥川も太宰も三島も、この無主体の群れに精神を磨り減らされ殺されてしまった。

​不快な泥沼と戦うなど、知性の浪費だろう。必要なのは「劇的な冷酷さ」をもって自らを徹底的なアウトサイダーへ仕立て上げることである。人生は脇道に逸れまくっても良いということ。ただ、そこで踏ん張り卑屈にならない精神力は必要になる。「完全逃避」や「いじけ」に終わらせずにだ。垂直な美意識に殉じる孤独な役者だからこそ、脇道の孤高を誇るのだから。

​敬語という凶器
崩し字のない完璧な丁寧語を叩きつける。それは相手を敬うためではなく、「あなたと私は同じ人間ではない」と宣告する確固たる断絶の壁だ。

​無感応の行使
大衆の不快な熱狂や惨めな叩き合いには、温度ゼロの返答(「なるほど」「左様ですか」)で切って捨ててしまう。相手の醜悪な情念を空転させ、自滅させればいい。

★総括②★

​大衆という「世間」を舞台の上の愚かな道化として冷ややかに高みの見物を決め込む。己の垂直な美意識にのみ殉じ、共同体の文脈を絶ち切る「役者」としての覚悟。この劇的冷徹さこそが、狂った集団を刃で屠り、己の精神を救い出す唯一の暴力(決別)であると言えるのではないだろうか?
決して、優しい道のりではないだろうが
普通に生きたくない、または生きれないならば、今直ぐにラインや電話帳の不要な人間関係や写真も消去すべきでしょう。
そして、自分に対しての言い訳はいくらしても良いが、他人に対して言い訳(弁明)だけはしない方が良い。それは、相手が一番求めている弱者へ絶望を与え、自らの尊厳(相手の養分になること)を強化させているからだ。それが社会での生きづらさを蔓延させてしまっているのだから。
「辛くなりたくない人のしわ寄せ(保身)は、常に誰かが代わりに引き受けている」
だからこそ、その「代わりの誰か」になることを断固拒否し、黙って劇場の幕を下ろさなければならない。
最後に「他者(世界)に対して犯した罪が【自分軸ではない罪】ならば、必ずしも謝る必要はない」と言わせて貰う。


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