神武天皇頃の古代史の勉強①

【Amebaに載せているブログを論考の誤りを修正のうえ転載しています。】

2026年の正月の暇つぶしに書き始めました。
出典は書きませんが、主に古田武彦説に依っています。軽~い気分で書き始めたが、いつ終わるんだろう。終わりが来るんだろうか・・

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日本の古来の歴史を記した史書に、古事記と日本書紀がある。
・西暦712年、和銅5年に太安万侶(おおのやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上した「古事記」
記述範囲:神代から推古天皇まで
・西暦720年、養老4年に舎人親王が奏上(元正天皇へ)した「日本書紀」
記述範囲:神代から持統天皇まで

成立年が八年しか差がなく、記述範囲も重なっているが、同じ出来事や天皇について述べているのに内容に違いがあることで知られている。
いま、初代天皇の神武天皇について、両書を読んで、幾つか相違点を挙げてみる。

1.
古事記の、神武天皇の出自と初代天皇になった経緯

筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天孫降臨したニニギ命は、大山津見の娘、コノハナサクヤヒメを娶り、
・火照命、これは隼人(はやと)の阿多君(あたのきみ)の祖神
・火須勢理命(ほすせりのみこと)
・火遠理命(ほおりのみこと)
の三人が産まれた。
火遠理命は、またの名を、天津日高日子穗穗手見命と言う。
火遠理命は火照命に勝利し、火照命は隼人の祖神とされたので、火遠理命がニニギ命の後継者ということになろう。

後の章では、
「そして日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は、高千穂宮(たかちほのみや)に五百八十年間いた。御陵は、その高千穂(たかちほ)の山の西にある。」
とある。

中国の「魏志倭人伝」に、
其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その風習は正しい年暦と四つの節分を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を計って年紀としている)
とある。これに従えば、倭人は春と秋ごとに1年と数えている。半年が1年となる。
また、古事記に記載される歴代天皇の寿命は、高齢が多く百歳を超えるものもあるが、長い寿命を記載している期間の寿命を半分にして平均すると、古代人の平均寿命である40~50才に収まることが知られている。
古事記は途中まで1年に2回歳をとる、二倍年暦で書かれていると考えられる。
すると、天津日高日子穗穗手見命の580年は半分の290年ということになる。
古事記の年齢記事は荒唐無稽ではなく合理性があると分かったので、290年もまた理解の道筋があるのではないか。
これは称号であり、代々日子穗穗手見を名乗る系譜が高千穂宮に290年続き、御陵は宮のある山の西にある、ということだと考えられる。
即ち、古事記はニニギ命の後継王朝が存在することを示している。
なお、古事記において「御陵」の文字は、ほとんどが天皇陵に用いられており、この点からも天津日高日子穗穗手見命が第一権力者であると思われる。

火遠理命(ほおりのみこと)と豊玉毘賣命(とよたまびめのみこと)との間に産まれたのが、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)である。
このウガヤフキアヘズが叔母である玉依毘売(たまよりびめ)を妻として生んだ御子の名は、
・五瀬(いつせ)命
・次に稲氷(いなひ)命
・次に御毛沼(みけぬ)命
・次に若御毛沼(わかみけぬ)命、またの名を豊御毛沼(とよみけぬ)命、そしてまたの名を神倭伊波礼毘古(かむらやまといわれびこ)命という。
合わせて四柱。
御毛沼(みけぬ)は、波の上を踏んで常世国にお渡りになり、稲氷(いなひ)は、亡き母の国がある海原に入った。

神倭伊波礼毘古とは、のちの初代天皇の神武天皇である。
従って、神武天皇の系譜は、ニニギ命ー火遠理命(日子穗穗手見)ーウガヤフキアヘズー神武天皇となり、ニニギ命の血統を継ぐ者である。


神武天皇は、兄の五瀬命とともに、日向の高千穂の宮から東に向けて出発する。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、兄の五瀬命(いつせのみこと)と二柱で、高千穂宮にいた。
そして、
「どこの地にいたならば、安らかに天下の政治を行なうことができるだろうか。やはり、東の方に都の地を求めて行こうと思う」
と相談し、ただちに日向から出発して筑紫国へ向かった。

この後、豊国の宇佐、筑紫の岡田宮(1年)、安芸国のタケリ宮(7年)、吉備の高島宮(8年)に滞在した後、船で速吸門(はやすいのと)を通って大阪湾に突入した。
浪速渡(なみはやのわたり)を経て白肩津(しらかたのつ)に船を停め、上陸戦を戦った。迎え撃ったのは、登美の那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)率いる軍勢で、場所は楯津(たでつ)であった。今の日下の蓼津(くさかのたでつ)である。兄の五瀬命が登美毘古(登美の那賀須泥毘古のこと)の矢を受けたため、撤退。南方を廻って、地形に沿って逃げてゆき、紀伊国の男之水門で五瀬命は崩じた。

この日下の蓼津は、現在の東大阪市日下町、生駒山地の麓付近とされる。湾どころか海岸から20km以上も奥にある陸地真っ只中である。これに困った本居宣長は、伝承とは異なり、日下とは大阪湾に面している和泉の日下のことであると考えた。
しかし現代の調査により、大阪は弥生時代には陸地に成りきっておらず海であることが分かった。河内湾と名付けられた湾の奥の海岸が、ちょうど東大阪市日下町の付近である。(下図)
また、河内湾の海岸線は日下付近から南に湾曲し、岬として北へ突出する上町台地まで続いており、岬の先端は大阪湾と河内湾の狭い境目になっていた。この先端付近に「南方(みなみかた)」があるのである。南方を廻った、という記述と一致する。
つまり神武達の戦闘説話は、弥生時代の地形と合致していたのだ。
また河内湾はその後古墳時代には湾口が塞がれ淡水湖となり、海から侵入できなくなったようなので、戦闘説話の時期は古墳時代前ということになる。
こうしたことは、神武説話が、後代の創作ではなく、史実を反映している、と考える大きな根拠となっている。


神倭伊波礼毘古は、熊野村で熊野の高倉下(たかくらじ)から太刀を献じられ、高木神(天孫降臨を命じた神)が八咫烏(やたがらす)を遣わし、宇陀に至る。宇陀の首長と思われる兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)のうち服属しなかった兄を殺し、斬り散らかした。

忍坂の大室(おさかのおおむろ)には、大勢の土雲八十建(つちくもやそたける)がいた。伊波礼毘古は彼らを饗宴に招いて、合図の歌を詠んだら殺せと料理人に佩刀させ、皆殺しにした。

登美毘古をまさに撃とうとするとき、久米の歌を詠んだ。

兄師木、弟師木を撃ったときに、疲れた兵のために歌を詠んだ。

ここでニギハヤヒ命が登場する。
邇芸速日(にぎはやひ)命が天つ神の御子のもとに参上し、申しあげた。
「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」
やがて天つ神の子である瑞(しるし)の宝物を奉って、お仕え申しあげた。
邇芸速日は、登美毘古の妹である登美夜毘売(とみやびめ)と結婚した。
そして生んだ子が宇麻志麻遅(うましまじ)といい、この人は物部連(もののべのむらじ)、穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)の祖先である。

ニギハヤヒ命は天つ神の子であり、神武より先に大和に来ていた。日本書紀にはより詳しく書かれている。

伊波礼毘古は橿原で即位する。初代天皇となった。

さて、このようにして伊波礼毘古は、荒ぶる神たちを平定し、服従しない人たちを撃退して、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)(橿原宮)において天下をお治めになった。

即位後、在地勢力の三輪山を奉じる金属製錬部族から妃を娶った、など記述があるが、略する。

2.
日本書紀にも、神武天皇の出自と初代天皇になった経緯が載っている。

天孫降臨説話は古事記がひとつしかないのに対し、日本書紀は「一書曰」と異伝を何種類か載せている。
ニニギ命ー彥火火出見ーウガヤフキアヘズー神武天皇(神日本磐余彥尊)の系譜は古事記と同じである。
ところが、古事記にあった、
「そして日子穂穂手見命は、高千穂宮に五百八十年間いた。御陵は、その高千穂の山の西にある。」が、
日本書紀では、
「彥火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。」
とのみあり、陵墓の位置を示すのみで、何年続いたといったことは述べられていない。

古事記の「神倭伊波礼毘古」は、日本書紀では「神日本磐余彥尊」と表記される。
ウガヤフキアヘズの子について第二~第四の一書には、
神日本磐余「彦火火出見尊」
と、神武天皇がヒコホホデミであると記されている。

神武紀の冒頭は以下。

神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。

この、
「諱彥火火出見」について。
「諱」は成人の本名だという。
神武天皇の本名が、ヒコホホデミだと述べられている。神代巻の第二~第四の一書の記述と対応している。
すると日本書紀では、ヒコホホデミ王朝=ニニギ後継王朝の存在を明記しない代わりに、神武天皇の本名がヒコホホデミだったと述べている。

神日本磐余彥尊が東征の意思を述べたくだりでは、
「天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。」
と言い、
ニニギ命の降臨がもはや辿れないほど大昔のことだとしている。
これは神日本磐余彥尊がニニギ命の四代目の子孫であるとの自身の系譜と矛盾しているが、
この発言のために、古事記から窺えるニニギ後継王朝の存在や行く末を詮索する余地が消える結果になっている。なんせ天孫降臨て179万年もの昔の事ですから、もうわかりませんよね、と。


神日本磐余彥尊の東征の意思表明には、はじめから目的地がニギハヤヒの居るところ、すなわち大和盆地と述べられている。

「さてまた塩土(シオツツ)の翁に聞くと、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(ニギハヤヒ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」

そして、一気にはしょって大和盆地侵入後を読むと、

時に、長髄彦(ナガスネヒコ)は使者を送って、天皇に言上し、
「昔、天神の御子が、天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られました。櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで私は、饒速日命を君として仕えています。一体、天つ神の子は二人おられるのですか? どうしてまた、天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、それは偽者でしょう」
天皇が答えた。
「天つ神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天つ神の子ならば、必ず表(しるし)(証拠)があるだろう。それを示しなさい」
長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢(あまのははや)(蛇の呪力を負った矢)と、歩靭(かちゆき)(徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。
これを天皇はご覧になって、
「偽りではない」
と言われ、帰って所持の天羽羽矢一本と、歩靭を長髄彦に示された。
長髄彦はその天つ神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。
けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。
そして、間違った考えを捨てず、改心の気持ちがなかった。
饒速日命は、天つ神たちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。
長髄彦は、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命により殺害された。
そして、饒速日命はその部下達を率いて帰順された。
天皇は饒速日命が天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。
これが物部氏(もののべのうじ)の先祖である。

長く引用したが、つまりナガスネヒコはニギハヤヒに殺されている。

3.
古事記では、楯津において神倭伊波礼毘古らの侵入を退けた登美の那賀須泥毘古を、伊波礼毘古が再度攻める歌があるが、勝ったとは明記していない。
であれば伊波礼毘古は勝利を得ず、敗北したままかもしれない。

日本書紀では、神日本磐余彦が長髄彦を攻めあぐんでいたところ、金鵄が弓の先に止まり、雷光のように輝くので長髄彦の軍勢は幻惑され力を発揮できなかった。そして前述の通り、ニギハヤヒに仕える長髄彦をニギハヤヒが殺すという形ではあるが、殺している。

日本書紀と古事記は成立年がたいへん近い史書である。どちらが本来の伝承だろうか。

もし、日本書紀が本来形、古事記が改変形だったとする。
すると、古事記は、神武天皇が降したと明記しているのを、勝利が曖昧なかたちに、改変したことになる。
天皇家に不利になるよう改変することは、あり得ないだろう。

もし、古事記が本来形、日本書紀が改変形だったとする。
すると、日本書紀は、神武天皇の最終的な勝利を記さない相手を、降したように改変したことになる。
これは、天皇家の有利になる改変であり、あり得る。
従って、古事記が本来の伝承と考えられる。

古事記では、神武天皇と登美の那賀須泥毘古の支配が併存し得る。
日本書紀では神武天皇のみが支配する。

4.
古事記では、ニニギ命の後継者のヒコホホデミの統治が580年(一倍年暦で290年)続いたと記す。
神倭伊波礼毘古の「東征」との時間関係は、ヒコホホデミの580年の統治の後に東征したのか、580年の間に東征があり、東征後もヒコホホデミの統治が続いていたのかは、分からない。
前者の場合、ヒコホホデミの後、神倭伊波礼毘古や父のウガヤフキアヘズが統治者だった可能性もある。しかしそれを窺わせる説話は載っておらず、何より両名がヒコホホデミであったと明記していない。
後者の場合、神倭伊波礼毘古がヒコホホデミ統治中に東征したことになり、神倭伊波礼毘古は第一権力者ではない。
すると、
神倭伊波礼毘古はニニギ命の血統であるが、
高千穂宮において、第一権力者ではない。傍系である。つまり、古事記に従えば、
神倭伊波礼毘古が開いた大和王朝は、九州の日向にある本家の天孫降臨王朝から別れた、分家、分王朝である。神武兄弟が高千穂宮において行った東征の相談、
「どこの地にいたならば、安らかに天下の政治を行なうことができるだろうか。やはり、東の方に都の地を求めて行こうと思う」は、
“ここでは芽がない、うだつが上がらないから、新天地を目指そう”という意味になる。

日本書紀では、神日本磐余彥の諱や名前が二代目の第一権力者の彥火火出見と同名とされ、また天孫降臨が179万年前だったとされる。
古事記と日本書紀、一体どちらが本来の伝承だろうか。

もし、日本書紀が本来形、古事記が改変形だったとする。
すると、古事記は、出発地の日向において第一権力者だったと見なしうる自分達の初代天皇を、第一権力者ではなく傍系であり、正統王者が他にいると変えたことになる。
これは、天皇家の統治の正統性を揺るがす改変であり、あり得ないだろう。

もし、古事記が本来形、日本書紀が改変形だったとする。
すると、日本書紀は、本家王朝の存続を隠し、傍系だった初代天皇を天孫降臨の本流であると見せかけたことになる。
これは、天皇家に統治の正統性をもたらす改変であり、あり得るだろう。従って、古事記が本来の伝承と考えられる。

古事記では、日向にある、ニニギ命に始まる天孫降臨王朝と、「東征」により大和に新たに開かれた分王朝が併存する。
日本書紀では、大和に開かれた王朝のみが存在し、天孫降臨後の大和への「東遷」が示唆されている。

5.
日本書紀は、続日本紀に完成の記述がある。天皇の勅命をもって作成され、完成翌年の721年に朝廷が官人たちに講義を行った、天皇家公認の歴史、正史である。
一方古事記は、延喜の904年の日本書紀講義に書名が触れられているのが初出とされるが、現在の古事記のことかは不明とされる。鎌倉時代にはほとんど見る人もいない秘本であったようだ。その成立は続日本紀に記されていない。完成年がわかるのは、序文に書いてあったからである。
古事記は天皇家公認の史書、正史ではない。
しかし、大和王朝成立に関する本来の伝承を伝えているのは古事記の方で、日本書紀はそれを隠す形で書かれていると分かった。
古事記を読むと、580年(一倍年暦で290年)続いた天孫降臨王朝が、その後どうなったか、知りたくなる。
分王朝である大和王朝の歴史は、古事記と日本書紀で追えるけれども、ヒコホホデミ王朝がその後どうなったかは両書に書いてない。

6.
神武天皇名について。
古事記
・神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)
日本書紀
・神日本磐余彥(同)
ここで思い起こすのは、古事記において、「倭」は通例ヤマトと読まれているが、古事記自身には「倭」をヤマトと読むよう指示した箇所やヤマトと訓じた歌がひとつもなく、どう読むかは実は不明である、という点だ。

日本書紀は、古事記の神「倭」を、神「日本」と記している。
ここで思い起こすのは、日本は以前は「倭国」と呼ばれていたのを「日本国」に変えた、という点である。その時期は7世紀後半以降~8世紀とされる。続日本紀に、702年、遣唐使が則天武后に日本国号を主張したと記述がある。日本書紀の完成年は720年だ。
すると、日本書紀は神武天皇の「倭」を、国号変更に伴い「日本」に変えたのではないか。
天皇名の「倭」は「倭国」を指す、と理解されていたのではないかと思われる。
ヤマトが「倭」であるとの認識のもと、ヤマトとの訓みが生じたのだろう。

「倭」を名に持つ天皇は他にも居り、日本書紀はそれらを「日本」に変えている。同様に国号変更による置き換えだろう。
(古事記)
・大倭日子鉏友命
・大倭帯日子国押人命
・大倭根子日子賦斗邇命
・大倭根子日子国玖琉命
・若倭根子日子大毘毘命
(日本書紀)
・大日本彥耜友天皇
・日本足彥國押人天皇
・大日本根子彥太瓊天皇
・大日本根子彥國牽天皇
・稚日本根子彥大日々天皇
(上記以外にも名に倭がある天皇はいる)

7.
国号変更で思い起こすのは、「旧唐書」である。日本への国号変更の理由が書かれている。
唐が907年に滅亡した後、編纂された「旧唐書」は、「倭国伝」と「日本国伝」とを併記している。

「日本国伝」に次のように記す。
・日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す。
・或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す
・或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
・また彼らは言う、国は東西南北数千里、西と南は大海に至り、北は大山を限りとなし、山の向こうは毛人の国であると。
・長安3年(703)、開元の初め、天宝12年(753)、貞元20年(804)、開成4年(839)、使者を送って朝貢してきた。
・大臣朝臣真人(粟田真人)がやってきた。

国号を日本とした理由が書かれているが、
実に、単に国名を倭⇒日本に変えたとは、書かれていないことに驚く。
「日本国は倭国の別種なり」
日本国は、倭国から派生した国である。
或いは、倭国が日本に改名した、という。
或いは、もと小国であった日本が倭国の支配領域を併合した、という。

「別種」とは、失念したが中国史書の用例を調べた人がいて、別れた血統のことを言うらしい。
すると、
日本国は大和王朝の統治する国なのだから、
大和王朝は、倭国王朝から別れた王朝である、ということになる。

古事記が指し示す、九州にある天孫降臨王朝から別れたのが大和王朝、という認識と、一致しているのではないか。

すると、
九州の日向にある天孫降臨王朝は、倭国王朝である。
という命題が生じる。

8.
旧唐書「倭国伝」には次のように記す。
・倭国は古の倭奴国なり
・新羅の東南大海中に在り、山島に居す。東西五ヶ月行、南北3ヶ月行。世世中国に通じる。
・四面小島五十余国は皆倭に付属する。
・王の姓は阿毎
・貞観5年(631)、貞観22年(648)、唐と通交があった。

古の倭奴国、とは中国の史書「後漢書」に記されている倭奴国のことである。
・中元二年(西暦57年)春正月、東夷の倭奴国王が使いを遣わして貢献した。(後漢書光武帝紀)
・建武中元二年(西暦57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。(倭奴国は)倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜った。また、安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷百六十人を献上し、朝見を請い願った。(後漢書東夷伝)

福岡県の志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印はたいへん有名だが、この光武帝から賜った印である
(倭は昔はにんべんのない「委」と呼ばれていた)。
旧唐書倭国伝では、7世紀に唐と通交していた倭国はこの1世紀の倭奴国の後身であり、中国と代々通じてきた、との認識が示されている。

時間軸では、
倭奴国の西暦57年は弥生時代に属し、卑弥呼の邪馬台国(これも弥生時代)からは約200年前となる。
一方、天孫降臨、神武東征、ともに、弥生時代だが邪馬台国よりもっと前と目されている。
時代という長いスパンでは、同じ時代と言える。

空間軸では、
倭奴国のあった場所は、金印が博多湾の島から出土したのだから、筑紫国(筑前)である。
一方、古事記の天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多氣(クシフル岳)」である。
「筑紫の日向」とは、筑紫=筑紫島=九州島の日向国、と解されている。
すると、筑紫国と日向国は距離が隔たっているので、それだけ直接的な関係は考えにくくなる。

なぜ筑紫を筑紫島と解したか。というと、古事記の国産み神話に、次のようにあるからである。

次に筑紫島(九州)を生んだ。
この島も身体は一つで顔が四つある。
それぞれの顔に名があって、筑紫国を白日別(しらひわけ)といい、豊国(とよくに)を豊日別(とよひわけ)といい、肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾国(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)という。

天孫降臨のくだりより前にこう書いてあるので、筑紫を筑紫島と解したのだ。

古事記の神倭伊波礼毘古の東へ出発後の足跡を辿ると、①即自日向發、幸行筑紫。
②到豐國宇沙之時
③於竺紫之岡田宮一年坐
④於阿岐國之多祁理宮七年坐
⑤於吉備之高嶋宮八年坐

①筑紫、③竺紫は、筑紫島の意味で使われていない。(九州島に)筑紫とよばれる領域が存在し、そこへ行ったことを示している。
②~⑤は、
②「国の中の小領域」を示し、
③~⑤「国や領域の中のいち地点」を表している。

この記述方法に基づけば、天孫降臨の地
⑥竺紫日向之高千穗之久士布流多氣
は、
(九州島の)竺紫とよばれる領域の中の日向と呼ばれる小領域の中のいち地点
と解さなければならないのではないか。
すなわち、⑥は、天孫降臨の地が筑紫国(筑前)であること、日向が筑紫国内の地名であることを示している。
筑後でないのは、筑紫といえば、まず筑前をさすのと、次に述べるニニギ命の降臨地の描写には筑前が適合するからだ。

天孫降臨の地が筑紫国であることは、ニニギ命の降臨直後の言葉からも窺える。
「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」
「この地は韓国(からくに)に相対しており、笠沙(かささ)の御崎(みさき)にまっすぐ道が通じていて、朝日が真っ直ぐに差す国であり、夕日が明るく照る国である。だから、ここはまことに善い土地だ」
この文は次のように解読されている。
此地者
向韓國眞來通
笠紗之御前而
朝日之直刺國
夕日之日照國

六字の四句でできている。
最初の句は、
韓国(からくに)に向かって真っ直ぐ通じている。
の意味となる。
もし、筑紫島の日向国に降り立ったとすると、
この句に合わない。宮崎県は九州島をぐるっと北上しなければ朝鮮半島へは出発もできず、とても「向かって真っ直ぐ通じて」いない。
もし、筑紫国に降り立ったとすると、
筑紫は朝鮮半島に相対しており、古来半島交通の要衝なのだから、ぴったりである。

ニニギ命は降臨地に立派な宮を築いた。
次のヒコホホデミが統治した高千穂宮は「日向の高千穂」の高千穂で、日向にあると考えられる。宮の他地域への移動も記されていない。
神倭伊波礼毘古は、その高千穂の宮にいた。
すると、東征に出発した時の、
①即自日向發、幸行筑紫。
は、
筑紫国のなかの(宮のある)日向から、筑紫国のなかの筑紫へ移動した、という意味である。
神武天皇の出発地は宮崎県=日向国ではなく、福岡県の中の日向である。

また神代の伊邪那伎がみそぎを行った場所は、
⑦竺紫日向之橘小門之阿波岐
だが、これも「竺紫と呼ばれる領域の中の日向にあるいち地点(橘の小門の阿波岐)」となろう。筑紫国内である。

では、筑紫国(筑前)内に「日向」があるだろうか。
ある。
「ひなた」と読む。
福岡県高祖山(たかすやま)連峰に日向峠(ひなたとうげ)がある。日向峠付近から日向川(ひなたがわ)が流れている。
一帯が日向(ひなた)と呼ばれていたのであろう。
また、この高祖山連峰に「日向山」があり「クシフル」と呼ばれる山があることが黒田長政書状に記されている。
日向峠は現在の博多湾岸まで直線距離で数キロメートル程。「漢委奴国王」金印が出土した志賀島はその博多湾口の島である。倭奴国は考古学では福岡平野の春日市の須玖遺跡群や比恵・那珂遺跡群が中心と考えられていて、日向峠からの直線距離約十数 km。

したがって、
倭奴国と、古事記の記す天孫降臨地とは、地理的に非常に近いことになる。

9.
ちなみに日本書紀の天孫降臨の地はどう書かれているか。
本文
・天降於日向襲之高千穗峯矣
一書曰
・皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯
・降到於日向槵日高千穗之峯
・到於日向襲之高千穗槵日二上峯
・呼曰日向襲之高千穗添山峯
筑紫を冠する伝承がひとつあり、以外は日向で始まる。

日本書紀では、天孫降臨に先立って書かれる国産み神話に、「筑紫」はどのように現れるだろうか。
(国産み神話 本文)
廼生
大日本豐秋津洲。(おおやまととよあきづ)
次生伊豫二名洲。(いよのふたな)
次生筑紫洲。(ちくし)
次雙生億岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也。(おき、さど)
次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。(こし、おお、きびのこ)
由是、始起大八洲國之號焉、卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。

大日本豊秋津は、本州のこととされるが、すると越や大(大国)や吉備の子といった本州各地と重複してしまう。

大日本豊秋津は、大日本を外すと、「豊秋津」である。これは「豊と呼ばれる領域のなかの秋津」を意味する。伊予二名、吉備子と同じ表記方法である。豊すなわち今の大分県、秋津すなわち安岐の港=別府湾となる。
本来九州のいち地域を示すものを、大日本を冠して本州を示すものへと変えているのだ。
とすると、豊秋津が九州のいち地域なのだから、筑紫洲は、九州のなかの筑紫と呼ばれる領域である。九州島ではなく、筑紫国(筑前)に相当するだろう。

国産み神話には多くの一書が付されている。うち、筑紫洲を記すものは五個あり、いずれも大日本豊秋津洲を伴っているので、全て九州島ではなく筑紫国を指している。

その他、
・此則筑紫胸肩君等所祭神是也(ちくしのむなかたのきみ)
・此筑紫水沼君等祭神是也(ちくしのみぬまのきみ)
など、筑紫国の用法である。
すると、
伊弉諾尊(いざなぎ)がみそぎした
・筑紫日向小戸橘之檍原
もまた、筑紫国の日向となる。
なお、このなかで、水沼君は筑後の三潴郡あたりを治めたとされるので、この筑紫は筑後となる。

では、天孫降臨説話の一書に出てくる筑紫日向は、日本書紀の言う筑紫国のなかの日向であるかというと、一概にそうとは言えない。というのは、この筑紫日向が現れる一書は、内容が古事記に似ているので、古事記における筑紫日向かもしれない。
それ以外の天孫降臨説話の、大領域地名なしの「日向」は、どこだろうか。
これらは、
筑紫を冠さないのだから、筑紫を冠さなくても通じる前提で書かれている。つまり、ご当地筑紫国内の伝承と考えられる。
古事記の天孫降臨説話が、大和の天皇家伝承なのに対して、日本書紀のそれは筑紫の伝承と思われる。
古事記が一通りの伝承しか持たないのに対し、日本書紀が一書曰の多くの異伝承を載せるのは、それだけ伝承が豊富に存在する、筑紫本国の伝承だからだろう。
神武紀になると一書曰の異伝が姿を消すのは、そこから先が天皇家伝承になるからだろう。

日本書紀は、ニニギ命が葬られた場所を記している。
天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵。
「筑紫」が冠されており、日本書紀神代の筑紫は筑紫国だから、日向は高祖山連峰付近の日向であると考えられる。
可愛は「可愛此云埃」埃と発音せよ、と注がついている。
「埃」の音はアイだが、ここはエと発音するらしい。
可愛は国産み神話にも出てきて、「哀」と言えとある。アイだか、これもエと発音するらしい。
(日本書紀の「此云」は成立当初からあったとも、後に付加されたとも言われるが、いつからあったかは分かっていない。)
可愛「アイ」「エ」とは、川合(かわあい)と解せる。
日向の可愛(アイ・エ)とは、
日向の川の合流地点
という意味になる。

日向峠付近から日向川が流れ出て、室見川と合流している。
合流地点以南に、特筆すべき弥生時代の遺跡群が発見されている。
三種の神器(銅鏡、銅剣、勾玉)を1つの棺に副葬した最古の例であると同時に、日本最古の王墓とされる、吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡である。
日向峠から東に直線距離で2kmほど、福岡平野の西隣の早良平野にある。

10.
三種の神器について。
古事記の天孫降臨説話に次のようにある。

こうして天児屋(あめのこやね)、布刀玉(ふとだま)、天宇受売(あめのうずめ)、伊斯許理度売(いしこりどめ)、玉祖(たまのおや)、合わせて五つに分かれた部族の首長を加えて、天降(あまくだり)した。
そこには、天照大御神を岩屋戸からお招きした
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、鏡、草那芸之剣(くさなぎのつるぎ)、それに常世の思金(とこよのおもいかね)、手力男(たぢからお)、天石門別(あまのいわとわけ)を加えた。
天照大御神は、
「この鏡はひたすらに私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祭りしなさい。そして思金は、私の祭に関することをとり扱って政事を行ないなさい」
と言った。
この二柱(天照大御神と思金)は、五十鈴宮(いすずのみや)(伊勢神宮内宮)に鄭重に祭ってある。

天孫降臨にあたり、
八尺勾玉
・鏡
・草那芸剣
の三つが天照大御神からニニギ命に渡された。
これが三種の神器である。

日本書紀の古事記に似た一書には、
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜わった。
とある。
日本書紀神代紀本文及び他の一書には、三種の神器はあらわれない。

日本書紀の景行天皇紀には、景行天皇が九州大遠征を行った記録があり、そこに三種の神器があらわれる。
・十二年秋七月、熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。
八月十五日、天皇は筑紫に向かわれた。
九月五日、周芳の娑麼(山口県佐波)に着かれた。
天皇は南方を眺めて群卿に言われた。
「南の方に煙が多くたっている。きっと賊がいるのだろう」
そこでまず多臣の祖の武諸木(タケモロキ)、国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手(うなて)、物部君の祖の夏花(ナツハナ)を遣わして、その様子を見させられた。 そこには女がいて、神夏磯媛(カムナツソヒメ)という。
その手下は非常に多く、一国の首長である。
天皇の使者がやってきたことを聞いて、磯津山(しつやま)の賢木を抜きとり、上の枝に八握剣をかけ、中枝に八咫鏡をかけ、下枝に八尺瓊をかけ、白旗を舟の舳先に立ててやってきて、
「どうか兵を送らないで下さい。私達の仲間に背く者はいません。すぐにでも帰順します。(以下略)」

神夏磯媛が
・八握剣
・八咫鏡
・八尺瓊
の三種の神器を示している。

日本書紀の仲哀天皇紀にも、三種の神器が現れている。
・八年春一月四日、筑紫にお出でになった。
岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の熊鰐(わに)
が、天皇がお越しになったことを聞いて、大きな賢木を根こぎにして、大きな船の舳へに立てて、上枝に白銅鏡をかけ、 中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて、周芳の沙麼(すわのさば)(山口県佐波)の浦にお迎えした。
・白銅鏡
・十握剣
・八尺瓊
を首長のシンボルに用いている。
・また、筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の先祖、五十迹手(イトテ)が天皇がお出でになるのを聞いて、大きな賢木を根こぎにして、船の舳臚(ともへ)に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島(あなとのひこしま)(彦島)にお迎えした。
そして申し上げるには、
「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊の勾っているように、お上手に天下をお治め頂きますよう、また白銅鏡のように、明瞭に山川や海原をご覧頂き、十握剣をひっさげて、天下を平定して頂きたいからであります」
と言った。
・八尺瓊
・白銅鏡
・十握剣
を天皇に奉じている。

三種の神器は首長の象徴であるように思えるが、天皇は支配拡大に伴いその独占を図っているようにも思える。

なお、
日本書紀には、草薙剣がスサノオ神が得た天叢雲剣であるとの由来が書かれている。
・そのうち八岐大蛇(やまたのおろち)がやってきた。
頭と尾がそれぞれ八つあり、眼は赤酸漿(あかほおずき)のようである。
松や柏が背中に生え、八つの山・八つの谷の間に一ぱいに広がっていた。
八岐大蛇は酒を見つけると、頭をそれぞれの桶に入れて飲んだ。
やがて酔って眠ったので、素戔嗚尊は、腰に差していた十握剣を抜き、ズタズタにその蛇を斬った。
尾を斬るとき、剣の刃が少し欠けた。
そこでその尾を割いてご覧になると、中に一つの剣があった。
これがいわゆる草薙剣である。
別の言い伝えによれば、本来の名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。
大蛇(おろち)の上には常に雲があったので、このように名づけたが、日本武尊が持つに至って、名を草薙剣と改めたとされる。
素戔嗚尊は、
「これは不思議な剣である。どうして私物にできましょうか」
と言われ、天つ神に献上された。

その後、
三種の神器は、歴代天皇が古代より伝世してきたレガリアであり、皇位継承と同時に承継されてきたとされる。
・八咫鏡は伊勢神宮内宮にあるとされ、形代が宮中三殿賢所にある。
・草薙剣は熱田神宮にあり、形代が皇居の剣璽の間にある。
・八尺瓊曲玉は皇居の剣璽の間にあるという。

このように、三種の神器は、史料上、天照大御神が天孫降臨にあたりニニギ命に授けた神器であり、天孫降臨地は前述の通り筑紫であった。また筑紫、周防の首長が携えていたシンボルである。現代まで天皇家に伝わっている統治のシンボルである。

11.
弥生時代の三種の神器の出土地。いずれも墓から出土。
・福岡市 吉武高木遺跡 弥生中期前半(BC2世紀)
・糸島市 三雲南小路遺跡 弥生中期後半(BC1世紀)
・春日市 須玖岡本遺跡 弥生中期後半(BC1世紀)
・糸島市 井原鑓溝遺跡 弥生後期
・糸島市 平原遺跡 弥生後期~末期
・壱岐島 原の辻遺跡 
・佐賀市 七ヶ遺跡 弥生後期(1~2世紀)
・唐津市 宇木汲田遺跡
(原の辻遺跡の墓は年代が分からなかった。
宇木汲田遺跡はひとつの棺から出土した筈だがその資料が見当たらなかった。)
三種揃った出土墓の周辺に、二種の組み合わせや、一種のみを副葬した墓群がある、というケースが多い。

鏡は、中国鏡が多量に流入する弥生中期後半より前は、遼寧省発祥の多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)が朝鮮半島経由で伝わり、用いられた。
多紐細文鏡の出土は日本に12例あり、うち8例が九州北部および山口県。吉武高木遺跡はそのなかのひとつ。

このことから、
三種の神器の集中出土地は福岡県つまり筑紫であり、10.で見た史料上の出現地と重なっている。かつ出土地は北部九州と対馬海流の島の範囲を出ない。

吉武高木遺跡には最古期の三種の神器の出土墓がある。以降にあらわれるご近所の福岡平野や糸島平野の王墓は、鏡が中国鏡に替わりながらも、三種のタイプは受け継がれているように思える。
そして吉武高木遺跡と吉武遺跡群は、古事記の記す天孫降臨地、筑紫の日向(ひなた)のご当地にあり、日本書紀の記すニニギ命の墓の所在地である。三種の神器を副葬した3号木棺墓はニニギ命の墓の可能性がある。

吉武高木遺跡の弥生王権は、その後に現れた福岡県の弥生王権とどのような関わりを持っているのか。それは、倭奴国と天孫降臨王権がどのような関わりを持つかを示すのではないか。
一体そこまで分かるものなのか、いまちょっと見当つかないが(そう、なんの目算もなくふらふらと行き当たりばったり書き続けてます・・)、まずは上記の福岡県の三種の神器出土遺跡を見てみることにする。

(その②へ続く)




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