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vol.9_19「平等」と「公平」

こんにちは!川口です。
最近40年間生きてきて、自分の考え方が他の人とずれていることにより
人生の決断の度に幾度となくマイノリティーに進んできた理由が
ようやくわかり、そして言語化できました。(いいえ、今からするのです。)

その考え方(価値観)こそがまさに「平等」と「公平」の考えの差。

あんまり深く考えたことのない方はもしかしたら
この二つの違いすら考えたことがないかもしません。
(川口もそのうちの一人でしたから・・・)

先に結論からお伝えしておくと川口はものすごく「公平」を意識する。
でも世の中は一般的に「平等」であることにこだわるということだ。

英語にしてみても
平等・・・Equality
公平・・・Equity
なんか同じようでちょっとニュアンスが違う!?みたいな
印象ではないでしょうか?

この図を見たときにみなさんはどのような感想を持ちますか?

左が「平等」、右が「公平」

「平等」とは誰にでも同じ量を均等に配分するということ。
これが一見みんなが救われる策のように思えるが
図を見てみれば歴然で、小さい子は野球を見ることすらできない。

「公平」というのはその人が必要としているものを
必要としている分だけ補い
すでに足りてる人には与えないことになる。

これが最小単位の個人や家族間や小さなコミュニティでは当たり前のように
「公平」であるべきだと素直に考えることができるのであるが
一歩外に出て、資本主義経済で回っている社会だと簡単にそうはいかない。

それはなぜか。。。

資本力や権力が強い人に、この世はルール作りされているからである。

何も過激な思想を打ち出そうとしているわけではない。
現実世界をクリティカルに捉えるとそうなる。

そして資本力や権力が強い人はその座に就くまたは守るために
たくさんの努力をしてきている。
その努力を他の人に再配当・再分配されることなど、言語道断であると考えるわけだ。
税金が際たる例で、自分で稼いだものを弱者に分配することに関しては一定の拒否反応が出る人もいる。

「平等」と「公平」は思ったよりも思想は真逆であるということ。
そして、もう少し解像度を上げていくと
「平等」よりも「公平」の方が、より手間がかかるということだ。

なぜ手間がかかるかというと
一方通行の矢印だけでは「公平」は叶えられないからである。

例えば、国がたまに行う給付金。
一律なのか、所得に応じてなのかはその時々違う。

一律に3万円とか10万円とかって「ばら撒く」のは
工数が少ない。なので、受け取った人の顔を思い浮かべることなく
一定にその処理が行われる。

所得に応じて給付しようとすると全国民のステータスを
1件1件確認する必要が出てくる。この人件費を考えると確かに
一律配った方が、まだ国民全体に配られる金額の総量は多くできる気もする。

ただ「なんのため」の給付金だったのかというところがすっぽり抜け落ちていると思うのだ。今日、明日のお金に困窮している人に、本当に必要な金額が配られているのか、そこら辺がしっかり見えているのであろうか。懐疑的にならざるを得ない。

川口は大学生になるまで教員を目指していた。
しかし、途中で自分が大学生時代にしていたアルバイトの「個別指導塾」
の方がよっぽど個別具体的にその子のための授業をすることができた。
むしろ教壇に立ってみんなの前で話すのが、話術や語彙量とかとも別の次元で、話す内容が見つからない。選ぶ言葉がなくなる現象に出くわしてきた。「誰か」に向けてしか基本的に川口は言葉を選べないようだ。

このときにはすでに川口の中に
「平等」を越えて、「公平」を尽くすという概念が生まれていたのかもしれない。

学校の先生たちは本当にすごい。
全員に自分が話している内容を理解させることが川口にはできなかった。
できない子に寄り添う時間を取ると優秀な子が暇をする。
優秀な子に合わせるとできない子を置いてけぼりにする。
そんなパラドックスにまんまとハマって学校の先生になることを断念した。

そんなことを考えず淡々と授業をして、優秀な子には「5」を、出来損ないには「1」をつけられるような性格だったらよかったが、そんな性格にはなれなかった。ここでは相対評価ではなく、絶対評価がどうしても出てきてしまう。これも最初の図のように、野球の試合をみんなが見れる水準まで高めないといけないと考えてしまう。おんなじ科目でも人によって、伝え方は全然違う。なので、一対多数だと抽象度を高くすることによってみんなに伝わるようにすることで、内容はイメージしにくくなってしまう。困った。

最近では、社長になったおかげで講演会やプレゼンを1対多数でさせていただく機会が増えた。でもこれも全く学校の先生の時と同じで、相手のニーズもわからずこちらが一方的にお話をするという構図が川口にはしっくりこない。きっと死ぬまで、これは変わらないんだろうなと思う。

ちょっと深夜に少し興奮しながら文章を書いているので
何かを攻撃してるような表現になっていたら、明日再読して修正する。

「公平」になるための唯一の方法は
強者である人たちが、その権利を譲ることにあると思う。
逆にその構図で弱者の方が「自分達にも分配しろ!」と声を上げようものなら、強者はそれをしたくなくなるものである。
これは「平等」にしてほしいという弱者の願いのように思えるが
そうではなく強者が自ら気づき「公平」に持っていくべきであるということだ。

力持ちが力の弱い人の荷物を持ってあげるようなそんな些細なことができていない世の中である。

自分が二項対立で強者になった際は
強者である認識をしっかりした上で
弱者を救済する気持ちを持てると世界はもう少し明るくなると思う。

小さい頃みーんな見ていたであろう「アンパンマン」
彼は弱ってお腹が減っている人を見ると迷わず自分の顔を差し出す。
自分が強者と認識した上で手(顔)を差し伸べる。

あんなに小さい頃刷り込まれるくらいに見ていた
あのヒーロー像は大人になるにつれて
どんどんどんどん薄れていってしまうんだなと思う。

アンパンマンはお腹がいっぱいの人には
顔は差し出さない。
だけどきっとバイキンマンがお腹を空かせていたら
彼は迷わず顔を差し出すだろう。

ピーターパン症候群ならぬアンパンマン症候群を拗らせたまま
大人になった川口は
これからも「平等」よりも「公平」を尽くせるように
生きていきたいと思う。


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川口 博史 /  小学校創立する人 よろしければサポートお願い致します!!