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藤原氏の一族 藤原不比等 幼少期から判事任官まで②


「中臣」と「藤原」

壬申の乱後、敗北者側にいた幼少期の不比等。結果的に不比等らは処罰の対象外となる。不比等の父親である鎌足は生前、天智天皇から大化の改新の功績を称えられ、特別な氏姓である「藤原」を賜っていた。このため、不比等らは「大友皇子側の中臣金の一味」ではなく、「国家の功臣である藤原氏」という独立した枠組みとして扱われ、連座を免れた。さらに勝者側の天武天皇地震、大化の改新を進めた藤原鎌足の功績を非常に認めていたらしく、鎌足一族の血筋は絶やすべきではないとの判断から、不比等も生きながらえた。しかしそれでも不比等の20代前半までは不遇の時代であった。それは天武天皇の政治方針からであった。

皇親政治

天武天皇は「皇親政治」というスタイルで政治をすすめた。豪族を排除し、自身の皇子や皇族だけで政治を固める、というやり方だった。天武天皇に助けられた鎌足一族だったが、政治にはなかなか参加しにくい状況であった。さらに鎌足の功績で得ていた特別な優遇(氏の上の地位など)を一時的に剥奪され、経済的にも困窮した。このような状況なので一切の特権がないまま、一人の下級官吏(判事などの実務職)として地道に働くしかなかった。

八色の姓(やくさのかばね)制定

天武天皇が684年の八色の姓を制定した。八色の姓(やくさのかばね)とは、684年に天武天皇が制定した新しい身分秩序(姓)の制度。従来の氏姓制度を再編し、天皇を中心とする中央集権国家(律令国家)の階級基盤を作る目的で導入された。それまでの「大臣」や「大連」といった有力豪族の特権的な地位を廃止し、天皇が直接与える8つのランク(真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置)に序列化した。
特に最上位の「真人(まひと)」は天武天皇に近い皇族(親王の末裔など)に限定され、「朝臣(あそん)」には藤原氏(中臣氏)など朝廷の中核を担う有力臣下が叙された。これにより、天皇への忠誠度や血縁関係を基準とした明確なピラミッド型の支配体制が完成した。
この当時、「中臣」一族は壬申の乱の後なので没落していた。しかし中臣氏は国家の祭祀(神事)を代々担う重要一族であり、完全に滅ぼすと朝廷の神事が麻痺する恐れがあった。
そこで天武天皇は、一族全体に大化の改新の功臣である鎌足の「藤原」の姓を上書きすることで、「謀反人の一族」というマイナスイメージを払拭しようとした。中臣氏は元々「連(むらじ)」という古い姓だったが、これを廃止し、皇族以外の臣下で最高ランクとなる「朝臣」の姓を一斉に与えた。これにより、中臣氏は「古い伝統豪族」から「天皇が任命した新しい貴族(藤原朝臣)」へと生まれかわることになる
こののち、一族全員が「藤原」になったことで問題が生じた。誰が神事を執り行うのか?という問題であった。全員が「藤原」になったことで花形である「政治」に目を向けてしまう状況になった。中臣に神事をやってもらうために八色の姓を制定したのに、誰が神事をするのか?という問題が生じてしまった。そこで698年に文武天皇から鎌足の次男である「藤原不比等」の直系のみに藤原姓を限定し、それ以外の中臣氏(意美麻呂など)は、旧姓の「中臣」に戻り、引き続き朝廷の神事(祭祀)に専念せよ、という詔が出されて改めて「藤原(鎌足・不比等ライン)」と「中臣(その他一族)」という棲み分けができた。

天武天皇から持統天皇へ

689年に不比等は判事に任命される。この背景には何があるか?

飛鳥浄御原令施行

689年に天武天皇が崩御前から編纂を進めていた「飛鳥浄御原令」という法典が施行される。このため「旧来の慣習」ではなく、「明文化された法律に基づいて厳格に裁判や実務を行う近代的な官僚(判事)」が大量に必要となった。不比等はこの国家的な大転換のタイミングで抜擢された。

能力主義へのシフト

さらに天武天皇が崩御し、持統天皇の時代になったことも不比等の抜擢に後押しした。持統天皇はこれまでの皇親政治から少しずつ実務能力の高い臣下が登用される流れを作り出した。これにはまったのが藤原不比等だ。不比等は若手ながらも法律(律令)の知識が群を抜いていたため、持統天皇の新政権における「法務のスペシャリスト」として活躍する。

この689年の判事任官は、幼いころからの英才教育を受けていた不比等にとって「鎌足の息子としてのコネ」ではなく「個人の実務能力」で勝ち取った初めての本格的な出世といえる。ここでの経験が、のちの大宝律令編纂の流れにつながっていく。

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