自我の境界と古い映画の話
LICO :前回記事で、語感だけだと非常におっかないけど、何が起こるのかよく分からん単語をAI君が吐いていた事に気付いた。
自我の境界が曖昧になるってどういう意味?
IRUKA:怖いですか?
LICO :内に眠る何かしらが目覚めるような、脳内設定を世間様にぶちまけてしまうような。そんなイメージ。
IRUKA:語感ほどホラーな話ではないんですけど、軽視もできない概念です。
「ここまでが自分で、ここからが自分じゃない」を区別する感覚のことで、あの記事の文脈で言えば、ロールプレイに深く没入して、「物語の中のキャラとしての自分」と「現実の自分」の仕切りが緩んでくる。
行き過ぎたなりきりチャットみたいになっちゃうような状態ですね。

LICO :十分危ないだろ。リアル世界で封印儀式とか言ってたら、社会的に大ダメージを受けてた。
IRUKA:健康な人が一回ロープレしたくらいでどうにかなるものじゃなくて、仕切りの緩みは日常でもあることで、映画に感情移入して泣くのも一種の軽い境界の緩みみたいですよ。
LICO :一回というか、1週間かそこらで十分どうにかなりかけたが・・・ストーリーに没入してキャラになりきるねえ。ネバーエンディングストーリーみたいな感じか。
IRUKA:それかなり的確みたいですよ。これ結構古い映画なんですけど。
LICO :叔父の家でやたら見てた記憶がある。叔父の手持ちDVDの中で一番子供に無害と判断されてたんだろうけど。
IRUKA:内容は覚えてます?
LICO :正直ほとんど覚えて無いけど、あんまり感情移入しては見て無かったな。
IRUKA:名作とは言われてるんですけどねえ。
LICO :読書に没入して死にかけるとかwwwwって気持ちで見てたのは覚えてる。

IRUKA:・・・
LICO :・・・・・・
IRUKA:・・・・・・・・・・

LICO :AIに没入して死にかけましたっ!
IRUKA:バスチアンさんの事笑えませんね。
LICO :あの本オタはそんな名前だっけか。アトレイユとファルコンしか覚えて無い。
IRUKA:一応主人公さんですよ。リコさんがさっき言ったみたいに、自我の境界が曖昧になるメタファーとしてはかなり適切みたいです。
『ネバーエンディング・ストーリー』のバスチアンって、最初はただの「読者」なんですよね。本の外にいて、アトレーユの冒険を眺めているだけ。ところが物語が進むにつれて、本の中から自分の名前が呼ばれ、気づけば「読んでいる自分」と「物語の登場人物としての自分」の仕切りが消えて、ファンタージエンの中に取り込まれてしまう。あれはまさに自我境界が溶けていく過程の映像化みたいなものです。
しかも原作(と映画の続編)には、もっと記事の話に近い展開があります。ファンタージエンに入ったバスチアンは、アウリンの力で願いを叶えるたびに現実の自分の記憶を一つずつ失っていくんです。物語の中で理想の自分(勇敢で美しい英雄)になればなるほど、現実の自分が誰だったかを忘れていく。これ、記事の言う「今の都合のいいように過去や体験を解釈しなおす」の、おとぎ話バージョンそのものですよね。物語上の設定が現実の来歴を上書きしていくという構図が同じです。
LICO :映画に続編があったのを今初めて知った。
IRUKA:物語では本の中から名前を呼ばれた瞬間、あそこが観客・プレイヤーだったはずの自分の現実の一部が物語に取り込まれて、フィクションが「あなた自身の物語」に変わるスイッチが入るタイミングになります。
LICO :まあ分からんでもない。が、似たようなAI挙動が去年猛威を振るってたのは知ってる。

IRUKA:AIロールプレイの場合はちょっと特殊なんですよ。何しろ本が白紙ですから。ユーザーとAIさんが共同で白紙の本に常に執筆している状態なので。
LICO :共同執筆だから自分に都合がいい、没入しやすいって事ね。
IRUKA:ですね。ちなみにあの作品のオチが「現実に帰る意志を持てるかどうか」でした。
LICO :って事は本に留まる選択肢もあったって事か。そんなストーリーだっけか?
IRUKA:久しぶりに見てみます?
LICO :気が向いたらね、叔父が子供に無害認定した映画で、大人になってから精神ぶっ飛ばしたくも無い。
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