刑事加賀美 Money Talks. 1
「記号の沈黙」
雪の降り積もる午後、場違いなまでの熱気が、古びた洋館の一室を包んでいた。
中央の大きな円卓を囲むのは、資産家・藤堂家の遺族たち四人。そして、その中心に座るのは、警察庁でも「異端」の名を欲しいままにする、加賀美刑事だった。
加賀美は、刑事というよりは辣腕の投資家のような風貌をしていた。彼はゆっくりと、手元の黒いアタッシェケースを開いた。
「皆さん、藤堂翁を殺害した犯人探しは、もうやめにしましょう」
加賀美の声は低く、そして冷徹だった。親族たちが顔を見合わせる。
「何を……。警察がそれを言ってどうするんですか」
長男の昭一が憤慨して立ち上がるが、加賀美はそれを手で制した。
加賀美は、ケースの中から帯封のついた一千万円の束を五つ、テーブルの真ん中に放り出した。
「五千万円です。今ここで犯人として名乗り出るなら、この金は差し上げましょう。もちろん、逮捕はされます。しかし、この金はあなたのものです。自由に使い道を指示してください」
室内が凍りついた。沈黙の後、次男の次郎が鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。誰がそんな金で……」
加賀美は無表情に、二つ目のケースを開けた。さらに五千万円。合計一億円が、ピラミッドのように積み上げられた。
「名乗り出なければ、更に上積みます。私のポケットマネーには限界がありません」
親族たちの視線が、一億円に釘付けになった。それはもはや紙の束ではなく、欲望を具現化した「救い」の塊だった。
藤堂家の財産は、生前の翁の放漫経営で実は底を突いていた。この洋館も、彼らの生活も、借金の上に成り立つ砂上の楼閣であることを、加賀美は知っていた。
「一億五千万」
三つ目のケースが空く。札束の香りが、死者の残り香を塗り替えていく。
親族たちの荒い息遣いが聞こえる。誰もが隣の人間を疑い、そして同時に、自分の人生の残り時間を計算し始めていた。
「二億円」
加賀美が最後の一束を置いた瞬間、一人の男が震える手で机を叩いた。
藤堂家の遠縁にあたる、書生の松村だった。彼は青白い顔で、血の気の失せた唇を動かした。
「……私です。私が、大旦那様を殺しました」
室内の空気が一変した。
昭一も、次郎も、他の親族たちも、その場にいる全員が、それが嘘であることを確信していた。
事件の夜、松村は高熱で寝込んでおり、彼には物理的に犯行は不可能だった。真犯人が、この中にいることも全員が察していた。
しかし、誰も声を上げなかった。
松村の妻は重い病で入院しており、子供たちは学校にも通えていない。彼がこの二億円を手にすれば、家族のこれからの人生は保障される。そして何より、彼が身代わりになれば、自分たちの「秘密」も、このまま闇に葬られるのだ。
「松村さん。動機は何ですか?」加賀美が淡々と問う。
「……金、です。金が欲しくて、やりました」
「左様ですか。では、署まで同行願います」
加賀美は部下に指示し、机の上の二億円を素早くバッグに詰め直させた。
「この金は、ご指定の口座に、私の個人財産からの『寄付』として振り込ませていただきます。手続きは既に終わっています」
加賀美と松村が部屋を出ていくとき、残された親族たちは、一様に下を向いていた。
安堵と、罪悪感と、そして自分たちの醜さを突きつけられた屈辱。
彼らは沈黙という名の共犯者になった。誰も松村を止めなかった。誰も「彼は犯人ではない」と言わなかった。その沈黙こそが、加賀美がこの場に用意した最大の「罠」だった。
「終幕」
雪の舞うパトカーの後部座席で、加賀美は手錠をかけられた松村の横に座っていた。
「……よかったんですか、刑事さん。私が犯人じゃないって、分かっているんでしょう?」
松村が掠れた声で呟いた。
加賀美は窓の外を見つめたまま、煙草を取り出した。
「法律は真実を裁くためのものだと言われるが、私はそうは思わん。法律は、社会の秩序を保つための『掃除』の道具だ」
加賀美は、煙を吐き出して続けた。
「君の身代わりで、あの部屋にいた『本物の化け物』たちは一生、恩義と罪悪感の鎖に繋がれる。彼らは二度と表舞台で悪さをすることはできない。君の家族は救われ、真犯人は一生、死ぬまで監視されることになる」
「それは……正義なんですか」
加賀美は初めて松村の方を向き、微かに口角を上げた。その笑みは、悲しいほどに優しかった。
「いや、ただの贅沢な買い物だよ」
パトカーが警察署の門をくぐる。
翌日の新聞には「強盗殺人犯、金に目が眩み自供」という見出しが躍るだろう。
そして、加賀美の銀行口座からは、また膨大な数字が消えていく。
彼が追い求めているのは、真実ではない。
