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嫌いな人間を分析するとき、人はどこから嘘をつき始めるか

これ、たぶん結構危ない話なんですよねー。
でも話します、話したいと思ったので。
あの人、あっあの人もこの人も、そしてあなたも…
頭に「覚えのある誰か」を浮かべて読んでみて。


私は人間を観察する。
嫌いな人間についても同等に考える、人間だから。

なんでこの人はこういうことをしたんだろう。
何を考えていたんだろう。
どういう前提があって、その行動に至ったのか。
ここまでは別にいい。
問題は、その途中でいつの間にか、
「この人はこういう人間だ」に変わっていること。

あれー?こいつ何を根拠にそう言った?となる。

例えば、「この人は人の気持ちを考えられない」
という評価があったとする。
じゃあ、実際に確認出来る事実は何なのか。
「私にこういうことを言った」
「こういう場面でこういう行動をした」
ここまでは記録出来ること。でも、
「だから人の気持ちを考えられない人間だ」
になると、もう既に一段階妄想に飛んでいる。
「だから他人に対してもいつもそうなんだろう」
になると、もーっと飛ぶ。さらに、
「きっと本人は悪いと思っていない」
まで行ったら、その人はもう対象の頭の中に住み始めている。凄いよね、本当に感心する。

誰だお前。
本人でもないのに本人の思考を実況するな。

嫌いな人間を分析するときって、たぶんここが一番危なくって。
好きな人なら、多少好意的に解釈する。
嫌いな人なら、多少悪意的に解釈する。
そしてどちらの場合も、人間は自分に都合のいい解釈を「事実」の顔をして置き始める。

怖いね〜。

人間、結構簡単に編集者になる。
noteにもいっぱいいるでしょ?しかも、
そんなのにたくさんスキとコメントがついてる。
釈迦力妄想道場でもやってるのかしら?
もし見つけたらそんな見方をしてみて、
凄く面白いから。だって、妄想文なんだから。

厄介なのが、嫌いな相手について考えているときって、自分では「冷静に分析している」つもりなんですよね。私も例外ではないよ、先日もトーンポリシング野郎にトーンポリシングハンムラビしたけど、目血走ってましたから。

感情的に怒鳴っているわけでもない。
むしろ淡々と、「この人はこういう傾向がある」
「こういう言動が多い」
「こういう心理なんだと思う」とか言うね。

いや待て待て待て待て。

最後の「思う」はどこから出てきた。
何件観測した?比較対象は?本人に確認した?
別解は?反証は?反例は?

……という監査が始まる。

私は自分に対してもこれをやるので、嫌いな人間を分析していると途中で自分の方が面倒くさくなってくる。自身の解析が上がるという意味ではライフハックかもしれないが、やればわかる超面倒くさい。

こいつはこういう人間だと結論を出したいのに、
「いや、現時点で確認出来るのはここまでです」
と自分が止めに来る。なんなんだよこの内部監査。ただ、これをやっていると面白いことがある。
嫌いな相手について考えていたはずなのに、途中から「私は何を根拠にこの人を嫌いだと判断しているんだ?」という話になる。そりゃそう。
相手の問題を調べていたはずが、自分の認知処理の検査になっている。

例えば、「この人は無責任だ」と思ったとする。

では無責任とは何なのか。
約束を破ったから?謝らなかったから?
責任転嫁したから?
そもそも約束自体が成立していなかったのでは?
勝手に「普通なら」と期待していただけでは?
逆に、本人が責任を取った事例はないのか?
一件だけで「無責任な人」としていいのか?

……とやっていく。面倒くさーい。
ものすごく面倒くさい。疑心暗鬼にもなる。
でも、ここをやらないと「分析」と「悪口」の境界が曖昧になるんだよ。

悪口が悪いと言いたいわけではない。
私は平然と人のことを「きっしょ」と言いますからね、さっさと火葬されろとかね。

問題はそこじゃない、「きっしょ」は私の評価な。「この人間は客観的に見て気持ち悪い人間である」は別の話。
前者は私の感想、後者は事実っぽい顔をした解釈。ここを混ぜると、途端に話がおかしくなる。
で、そういうおかしい人と記事がいっぱいある。

だから私は、
事実

自分の解釈

自分の評価

そこから推測出来ること

くらいには分けたい、かなり最低でも。

もちろん、これだって完全ではない。
そもそも「事実」として記録しているもの自体が、自分の観測を通したもの。
見えていないものは記録出来ない。
聞いていないことは分からない。
自分が見た場面だけを切り取っている。
つまり観測者である私自身が、最初からフィルターなんですよね。例に漏れなくみーんなそうです。
だから「私は客観的に見ています」と言い出した瞬間、私は一回止まる。

お前、本当か?
その「客観的」って誰が認定した?となる。

私はたぶん、他人を分析することそのものが好きなんじゃなくて、「自分がどうやって人間を判断しているのか」を見るのが癖なんだと思う。他人を見ていると、自分の判断基準が勝手に出てくるから。

「私はこういう行動を無責任だと判断するんだな」「こういう言い方を攻撃的だと認識するんだな」
「ここまでは事情として考慮するけど、ここから先は責任として切り分けるんだな」みたいな。

そう考えると、嫌いな人って結構便利なんですよ。いや、便利という言い方もどうなんだ。
でも、観察対象としては非常に分かりやすい。
自分が強く反応するからね、
強く激しく自分の判断基準が露出するってこと。
自分の認知フィルターを強く発光させる対象、
どいつもこいつもホタルイカ。
だから嫌いな人間を分析するとき、本当に怖いのは「相手について嘘をつくこと」だけじゃない、「自分の解釈を、相手の事実として書き換えてしまうこと」なんですよ。つまり、無自覚な仮装と偽装。
ハロウィンしてんだよね、愉快でなにより。
そして、その瞬間ってたぶんものすごく自然です。「こうに違いない」が、「こうなんだ」に変わるだけだから。たった二文字くらいしか変わらない。
なのに意味は全然違う。
だから、誰かについて断定したくなったときほど、「それどこまで確認した?」と戻す。
戻した結果、「知らん。本人に聞かないと分からん」になることも普通にあります。そりゃそうだ。
私はエスパーじゃない。
他人の頭の中を直接読めるわけじゃない。
だったら分からないものは分からないでいい。
むしろ、「分からない」と言える方が、分析としては強い気がする。わからないんでしょ?
わかるなら…え、なんで?化け物なの?

嫌いな人間を分析する。
そのとき、どこから嘘をつき始めるのか。

たぶんね、「観測したこと」と「そうであってほしい解釈」の区別がなくなった瞬間だよ。
相手が悪いと思っているから悪く書く。
自分は冷静だと思っているから冷静に書いたことにする。その両方をやったら、もう何が事実なのか分からない。
なので私は、嫌いな人間を分析するときほど、自分の方を徹底監査する。
相手について何が分かったか。
それと同じくらい、「私はなぜ、そう判断したのか」を見ておく。

……まあ、他人を分析していたら自分の監査まで始まるので、結局ものすごく面倒なんですけどね。
人間を見るの、超面倒くさい。
だもんで、自分を見るのはもっと面倒くさい。
それでもやるんだから、たぶん私はこの作業が苦じゃないんだろうね。

この見方をするとね、クソ真面目な課金記事が
「んふふっうふふふふ…適当いってら」っていう、
面白い風刺に早変わりする。
マンネリしてる人はやってみて、スキって適当なんだな〜も必然的に答え合わせになっちまうから。
ちなみにこれ、さっきから批判してる飛躍ね。
実演置いときますわ。

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