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中世城郭と礎石建物

──土木の城から「山上の御殿」へ至る構造・機能・政治空間の考古学
──山城なのに「御殿」がある
──礎石建物から読み解く戦国大名のリアルな暮らし


中世戦国期の山城に対する通説は、「普段は山麓の居館(根小屋)に居住し、戦争という緊急事態にのみ切岸や堀切で防護された山上の詰城へ逃げ込む」という「居館・詰城の二元的構造論」に支配されてきた。このモデルにおいて、山城の本質は土塁、堀切、曲輪の削平といった「土木施設」にあり、そこに建てられる建築物は限定的かつ臨時的な「掘立柱建物」が大半であったと理解されてきた。

しかし近年の発掘調査の進展は、この固定観念を覆しつつある。山頂や尾根筋の主要曲輪から「礎石建物」が検出され、その用途も非常用倉庫にとどまらず、巨大な櫓、会所、そして恒常的な生活や政治儀礼を支える「御殿」にまで及んでいることが判明したためである。

本内容では、中世城郭における礎石建物の出現と展開を分析し、建物規模、出土遺物、縄張(曲輪配置)の相互関係を紐解く。さらに、戦国期における政治空間の機能分化、軍事的緊張下での空間変容、そして織豊系城郭以前の「山上居住」が示唆する意味について考察を展開する。

1.「土木の施設」としての山城と掘立柱建物の本質

戦国期の山城において、なぜ建築物の基本が掘立柱(地中に穴を掘って直接柱を立てる構造)であり、礎石建物が「特殊」な存在であったのかを整理することは、議論の基礎となる。

山城は突発的な軍事衝突に対応するため、迅速に構築される必要があった。山腹の傾斜地を切り開いて曲輪を形成し、土塁を積み、竪堀や堀切を穿つ土木工事が優先され、建物には短期間で建造可能な小規模・簡素な掘立柱建築が採用された。掘立柱建物は地盤の緊結が不十分な切り盛り土の上でも比較的建てやすく、過度な資材運搬を必要としない点でも山城の要請に適していた。

ChatGTPが作成した柱建物のイメージイラスト

したがって、地盤を平坦に整地し、加工または吟味された石を配して建てられる「礎石建物」が山城の領域内で検出された場合、それは単なる兵士の雨露しのぎの施設ではない。恒久性、防火性、あるいは建築物としての威信材的価値(権威の表象)が求められた結果であり、その出現が城郭空間の政治的・軍事的性格の変化を示唆している。

2.礎石建物=御殿ではない

山城から礎石建物が検出されたという事実のみをもって、城主の「居住施設(御殿)」と見なすことは危険である。遺構の規模(間数)、構築位置、建築構造、および内部からの出土遺物を統合的に分析することにより、礎石建物の持つ機能が浮かび上がってくる。

  • 穀物倉・生活倉庫-1間×2間、2間×2間等の小規模構造-関津城(滋賀県大津市)-炭化米、炭化麦の大量出土(火災による被熱痕)

  • 武器庫・焔硝蔵-被熱痕を持つ小規模礎石建物、敷石構造-平山城館(京都府)、薬師城(広島県)-土塁上等の被熱遺構、火薬・武具保管の形跡

  • 博貼(せん貼り)建物・武具倉-地面や壁面基部に瓦・博を配置、根太敷構造-端谷城(兵庫県神戸市)-甲冑(胴丸)15領出土。他、置塩城、飯盛山城、芥川山城、感状山城等でも検出

  • 防衛用大型櫓-5間×5間以上の大型、半地下構造や切岸直上の配置-鎌刃城(滋賀県)、鳥越城(石川県)、鶴尾山城(岐阜県)、南山城(岡山県)-土塁を壁面として利用、畝状竪堀群や屈曲虎口の直上から登攀する敵を射撃する軍事拠点

  • 御殿・居住施設-5間×3間、6間×4間以上の大型構造、懸造やL字状曲屋等-清水山城、小谷城、芥川山城、飯盛山城、観音寺城、一宮城、小鷹利城-床の間・台所遺構、多量の土師器皿(かわらけ)、高級陶磁器、茶道具、硯等

上記のように、端谷城では主郭の博貼建物から15領もの胴丸(甲冑)が出土しており、防湿・防火を考慮した武具倉として機能していたことが実証されている。また鎌刃城のように、尾根先端の土塁に囲まれた曲輪に築かれた5間×5間以上の大型礎石建物は、生活空間ではなく、切岸直上に睨みを利かせる半地下室構造の防衛櫓であったと考えられる。

端谷城から出土した武具/神戸市埋蔵文化財センターホームページより引用

このように、礎石建物は倉庫、武器庫、櫓、御殿に至るまで機能を有しており、「規模×位置×構造×出土遺物」の四元的な交差点において、はじめてその城郭内部での性格が特定される。

3.「山上に御殿がある」意味

礎石建物の中でも、大型の御殿遺構が山頂部から出土する事例は、戦国期城郭の概念を「戦時避難所」から「恒常的政治拠点」へと改訂させる根拠となった。

近江の清水山城(高島七頭・越中氏居城)の山頂主郭端部からは、床の間や台所を備えた大型礎石建物が検出された。山麓にも居館が存在する清水山城において、山上の御殿の存在は、山頂部が単なる戦闘陣地ではなく、居住を前提とした建築空間であったことを表している。

清水山城主郭発掘調査/文化遺産オンラインより引用

さらに顕著な例が浅井氏の居城・小谷城である。山上の「大広間」と呼ばれる曲輪からは巨大な礎石建物跡が検出され、そこから出土した約3万7千点におよぶ陶磁器類のうち、実に96%が接客や儀礼的な宴席で消耗される土師器皿(かわらけ)であった。この事実は、山頂部で単なる日常的食生活が行われていただけでなく、大規模な供宴や政治的公務が執り行われていた御殿の存在を裏付けている。

小谷城千畳敷曲輪跡/ウキペディアより引用

小谷城では山麓の清水谷に「御屋敷」と呼ばれる居館が存在していたが、これは山麓居館をパブリック(公的)な外交・行政空間として用い、山上の礎石御殿をプライベート(私的・家族的)な生活空間(常御殿)として使い分けた機能分化のあらわれと解釈できる。想定されてきた「山麓=平時、山上=戦時」という時間軸での使い分けではなく、「山麓=公的空間、山上=私的空間」という空間機能軸での使い分けが存在していたのである。

この「山上が常御殿(私的空間)である」という実態は、宣教師ルイス・フロイスが織田信長の岐阜城について残した記述とも整合する。フロイスは『日本史』において、岐阜城の山上には信長の許しなく何人も登城が許されず、内部では貴婦人や息子たちのみが仕えていたと記録している。山頂部は最高権力者とその家族が過ごす聖域的・私的な常御殿として整備されていた。

六角氏の居城である観音寺城(滋賀県)では、さらに城郭内部での階層的・空間的な機能分化が確認される。山頂の中枢部を構成する各曲輪(本丸、平井丸、池田丸)からそれぞれ意匠の異なる礎石建物が検出されている。山麓に存在する「伝御屋形」は一辺70mに満たない小規模なものであり、守護所としての主機能は山上に集中していた。具体的には、本丸が城主の生活の場である「常御殿(プライベート空間)」、平井丸が文化活動や内内な接客を行う「会所(セミ・パブリック空間)」、池田丸が対外的な儀礼や政治執務を行う「主殿(パブリック空間)」として機能していたと想定され、一つの山城空間の中に政庁や邸宅に通じる公私の使い分けが完成していた。

観音寺城の平井丸/2018/5投稿者が撮影

4. 山上完結型居住モデルと戦国後期の軍事的緊張

山麓に居館を置かず、山上の城郭空間内のみで公的機能と私的機能の双方を完結させる「山上完結型」の城郭モデルも登場する。その筆頭例が、畿内を制した三好長慶の居城である芥川山城および飯盛山城(大阪府)である。

両城はいずれも山麓に居館遺構が存在せず、山頂部に生活・政治空間を統合させた。芥川山城の主郭および周辺曲輪の発掘調査では、主郭北側に大型の礎石建物が配され(南側は広場的空白地)、さらに外壁基部に瓦製の板を差し込んだ全国的にも極めて珍しい「塼列(せんれつ)建物」が検出された。出土遺物からは大量の土師器皿のほか、備前焼、瀬戸美濃焼、高級中国陶磁器、硯、茶道具が確認されている。これは山上が防衛拠点ではなく、文書作成などの行政執務、茶の湯、供宴、連歌会などが連日執り行われる政治・文化の中心地であったことを示している。

ChatGTPが作成した塼列建物のイメージイラスト

山麓居館を捨て、山上に移転した背景には、16世紀後半における軍事的緊張の高まりが存在する。合戦の規模が飛躍的に増大し、鉄砲の普及や動員兵力の膨張が進むと、「平時は山麓に住み、有事に山城へ登る」という猶予が構造的に許されなくなった。初期の段階から城主および中枢機能を山上に配置しなければ、即応性を確保できなかったのである。

この「戦闘空間と居住空間の完全融合」を象徴する事例が、石山城(福井県大飯町)である。石山城では、主郭から一段下りた曲輪の敷地いっぱいに大型の礎石建物が建てられている。驚くべきことに、この曲輪の両側に伸びる尾根先端には、敵の登攀を阻止する強固な「畝状竪堀群」がダイレクトに連なっている。建物の規模からして櫓ではなく居住用施設と考えられており、防御の最前線(戦闘空間の渦中)に居住施設が組み込まれていたことを意味する。安全な山頂に優雅な御殿を造営するだけでなく、敵と刃を交える最前線にまで居住空間を押し出すという、戦国末期の切迫した軍事的要請がここに見事に刻まれている。

石川城/主郭礎石列/福井県石川城調査報告書より引用

5. 織豊系以前の「山上居住」と狗尸那城が突きつける謎

礎石建物や山上居住の出現について、かつては「織田信長の安土城以降、あるいは織豊系城郭の波及に伴う近世城郭化の過渡期現象」と解釈される傾向が強かった。しかし、発掘データの蓄積は、織豊系勢力の影響下にとどまらない、より古い時期(15世紀後半~16世紀前半)からの山上居住を明らかにしている。

相生市の感状山城(兵庫県)では、山頂部に連郭式・階郭式の石垣が巡り、曲輪ごとに居住用の礎石建物や井戸跡が残る。15世紀後半から16世紀前半の備前焼や中国産陶磁器、茶器が出土しており、安土城以前の段階で山上が恒常的居館として機能していた。また飛騨市の小鷹利城(岐阜県)では、標高795m(787m)という豪雪地帯の山頂に位置しながら、主郭から8間×3間の主屋に5間×2間の張出部が取り付くL字状の曲屋(まがりや)構造を持つ大型礎石建物(御殿)が検出された。出土遺物の年代は15世紀後半から16世紀前半(姉小路氏時代)に限定され、戦国初期における山上居館の概念を決定づけた。

小鷹利城/文化遺産オンラインより引用

これらの事例を踏まえた上で、近年最大の考古学的波紋を呼んだのが、鳥取県鳥取市鹿野町に所在する狗尸那城(くしなじょう)の発掘調査成果である。

狗尸那城の主郭からは、鳥取県内初となる大型の礎石建物跡(御殿的建物)と切岸の石貼りが検出された。しかし、同城の縄張りは、山腹を長大に穿つ「横堀」とそこから垂直に派生する「畝状竪堀群」、そして多段の帯曲輪と切岸で構成されており、遮断性・防御性を備えている。この構造は、一国の領主や大有力の居城というよりは、境目(国境)の城、出城、あるいは臨戦態勢下で構築された「陣城」の性格を示している。ここに重大な矛盾が生じる。「極めて軍事色の強い過酷な小規模陣城・境目の城に、なぜ破格の御殿級・大型礎石建物が存在するのか」という謎である。

狗尸那城発掘調査/鳥取県地域社会振興部文化財局 埋蔵文化財センターホームページより引用
  • 出土遺物-15世紀後半~16世紀前半の土師器・陶磁器が主体-山城の遺物としては比較的古い段階に属する

  • 建築遺構-主郭の大型礎石建物(御殿的建物)、切岸の石積み-居住性・格式の高さを示す遺構(古い段階に位置づく可能性)

  • 土木縄張り-長大な横堀、複雑に組み合わされた竪堀群-16世紀中頃以降(戦国後期)に急速に発達する高度な防御意匠

この「遺物・建築の古さ」と「土木縄張りの新しさ」の間に存在するタイムラグは、狗尸那城の歴史的変遷を示唆している。考察される仮説として、15世紀後半~16世紀前半の早い段階において、主郭に礎石御殿を備えた拠点(古段階の鹿野城など)として成立していた城郭に対し、16世紀中頃以降の毛利氏・山名氏・尼子氏らが交錯する西因幡の緊張下において、大規模な横堀や竪堀といった最新鋭の防衛線が改修・追補された可能性が高い。

狗尸那城の事例は、「礎石建物が存在する=織豊期以降の新しい城」という単純な編年論に対する警告であり、山城の改修のプロセスや時代ごとの機能の上書きを立体的に捉える重要性を提示している。

6. 全国主要城郭における礎石建物の比較分析

本内容で分析した代表的城郭における礎石建物の規模、構造、機能、およびその空間的帰結を以下の比較表に整理する。

代表的山城における礎石建物の構造と機能比較

  • 関津城(滋賀県)-1~2間規模の小規模礎石-穀物倉(被熱・炭化米等)-山上=軍事避難・物資蓄積-戦国期

  • 端谷城(兵庫県)-博貼礎石構造(敷石・転根太)-武具倉(甲冑15領出土)-山上=軍事防衛・物資保管-戦国期

  • 鎌刃城(滋賀県)-5間×5間以上、半地下櫓構造-尾根先端の防衛用大型櫓-山上=純軍事拠点-戦国期

  • 清水山城(滋賀県)-大型礎石(床の間・台所等)-常御殿(主人の生活空間)-二元構造(山麓居館+山上私的御殿)-16世紀中頃

  • 小谷城(滋賀県)-大広間曲輪の巨大礎石群-恒常的居住御殿(供宴・政治)-機能分化(山麓公的儀礼+山上私的宴席)-16世紀中後半

  • 観音寺城(滋賀県)-本丸・平井丸・池田丸に配備-常御殿・会所・主殿-城郭内部での公私の高度な機能分化-16世紀中頃

  • 芥川山城(大阪府)-主郭大型礎石、下郭に塼列建物-総合御殿(政庁・居館・茶室)-山上完結型居住(山麓居館なし)-16世紀中頃(三好長慶期)

  • 石山城(福井県)-畝状竪堀群直近の大型礎石-最前線における居住施設-戦闘空間と居住空間の完全融合-16世紀後半

  • 小鷹利城(岐阜県)-8×3間+5×2間のL字曲屋構造-山上居館・主屋御殿-早期の山上完結型居住-15世紀後半~16世紀前半

  • 狗尸那城(鳥取県)-主郭大型礎石・石貼切岸-御殿的建物(拠点居館?)-境目の城・陣城構造との複合的融合-15世紀後半築城/16世紀後半改修

7. まとめ:城郭の性格を読み解く指標としての礎石

山城の発掘調査において提示される「礎石」の存在は、単に「建築技術の高度化(掘立柱から礎石へ)」という進歩を物語るだけの物証にとどまらない。それは、政治権力のあり方、城主の生活様式、領国統治の形態、そして何より時代の軍事的緊張度が城郭という物理的空間に与えた影響を照射する明瞭な指標である。

第一に、礎石建物の存在を直ちに御殿と見なす従来の理解は退けられるべきである。穀物倉、火薬庫、甲冑倉庫、大型防衛櫓、会所、常御殿に至るまで、その機能は多岐にわたる。建物の規模、配置される曲輪の場所、内部構造、そして伴出する出土遺物を分析してはじめて、その城の性格が特定される。

第二に、「山麓=居住、山上=軍事」という二元的構造論は改められる必要がある。山麓と山上でパブリック/プライベートを分かつ二重構造(小谷城・清水山城)、城郭内部で本丸・平井丸・池田丸と公私を階層化する高度な分化(観音寺城)、そして山麓を排除して山上で全政治・生活機能を完結させる統合モデル(芥川山城・飯盛山城) など、戦国大名や地域領主は置かれた政治・軍事環境に応じて空間戦略を選択していた。

第三に、山上居住や礎石建物の出現は、安土城に始まる織豊系城郭の専売特許ではない。小鷹利城や感状山城、そして狗尸那城の分析が提示するように、15世紀後半から16世紀前半の戦国初期段階から、地域領主たちはすでに独自に山上に礎石建物を構え、居住空間を創出していた。

城郭を見つめる視点を「堀や土塁の形(土木縄張り)」から「そこにどのような建物が立ち、人々がいかに空間を使い分けていたか(建築・遺物・空間論)」へと押し広げるとき、礎石という小さな石の配列は、中世から近世へと激動する社会構造そのものを如実に語り始めてくれるのである。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

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