坂本城(播磨国)
別名:書写坂本城、堀ノ城、御構ノ御所(御構御所)
所在地:兵庫県姫路市書写、播磨国
城郭形式:平城 守護所城館
遺構:土塁、堀跡
主な歴代城主:赤松氏、山名氏
指定:姫路市指定史跡
──播磨守護所・坂本城の構造と政治的機能
──山城国家・赤松氏の平城戦略と中世播磨の領域支配
──「城」か「播磨守護所」か
1.「城」か「政庁」か:史料名と呼称から読み解く坂本城の実像
中世播磨国における政治・軍事史を再検討する上で、現在の兵庫県姫路市書写に所在した「坂本城」は、城郭観を大きく塗り替える重要な史跡である。一般的な城郭研究の文脈において、坂本城は播磨守護・赤松氏の居城の一つとして言及されることがあるが、一次史料や江戸時代に編纂された地誌が伝える呼称を精査すると、同城が要塞ではなく、行政機関であった実像が浮き彫りとなる。
江戸時代中期の播磨国の地誌『播磨鑑』は、赤松惣領家第8代当主である赤松満祐が応永29年(1422年、史料記述によっては応永22年)に本格的な平城へ改築し、播磨支配の中心とした歴史を伝えている。同書をはじめとする諸記録において、この城郭は「堀ノ城」あるいは「御構御所(おかまえのごしょ)」、単に「御所」と表現されている。中世武家社会の文脈において「御所」や「御構」の名を冠する空間は、主君の居所であり、守護代や奉行人らが詰めて政務を執り行う守護政庁、すなわち「守護所」にほかならない。また享保3年(1718年)の『姫路御領書留』には「古城跡、長七十四間(約133m)横四十八間(約86m)」との記述が見られ、土塁と濠で区画された館空間であったことが示されている。

坂本城の性格をもう一つの重要な要素は、北方に控える天台宗の古刹・書写山圓教寺との関係である。西の比叡山と称された圓教寺は、平安時代中期に性空上人によって開山されて以来、国司や摂関家、そして室町幕府の祈願所として宗教的・経済的権威を誇っていた。赤松氏が書写山の南麓である西坂本に政庁を構えたことは、圓教寺が有する宗教的威光と門前町(坂本)の集積された経済力を包摂することを意図していた。すなわち坂本城は、合戦に備える閉鎖的な砦ではなく、政治・行政・経済・宗教統制を包括的に遂行する「播磨府中」とも称すべき守護政庁であったと解釈するのが妥当である。

2.天然の要害環境と幹線街道の統制
坂本城が不便な山頂ではなく平坦地に築かれた背景には、地形の防御能力を活かしつつ、領国支配の波及効果が存在した。
城郭の立地環境を俯瞰すると、東側には夢前川の本流、西側にはその支流である菅生川が南北に流れ、天然の大外堀として機能していた。北側には標高371mの書写山が立ちはだかり、西側には合戦時の詰城として機能する天神山(天神山城)が隣接している。坂本城は平城でありながら、河川と山塊という自然地形のネットワークによって重厚に守られた要害の地に位置していたのである。
さらに重要な要素は、広域交通インフラに対する統制力である。坂本城の南西近隣は、但馬・因幡(鳥取方面)へ抜ける「因幡街道」と、美作(岡山県東部)へ直結する「作州街道」が交差する交通の要衝であった。城域内には「因幡街道横大路」と呼ばれる幹線道路が通過していた。

夢前川-城域の東側-本流による東側の天然外堀および水運の確保
菅生川-城域の西側-夢前川支流による西側の防御境界
書写山(圓教寺)-城域の北側-天台宗古刹の宗教的威勢の活用および北方の背後障壁
天神山(天神山城)-城域の西側-平時政庁(坂本城)に対する有事の詰城・後方陣地
因幡街道・作州街道-城域南西の交差部・縦貫-山陰・美作方面への物資流通・兵站統制および関務支配
山の上に立つ城は防衛面で優れるものの、物資の集積や領主層・商人との交渉、公文書の往来には非効率を伴う。赤松氏が坂本を拠点とした理由は、街道の結節点を押さえることで、山陰・美作・播磨間を行き交う人流と物流に課税・統轄を行い、幕府政治と連動した領国統治のスピード感を担保するためであった。
3.「赤松氏=山城」観の再検討:平城と山城の戦略的二元運用
赤松氏の城郭といえば、新田義貞の大軍を足止めした白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町)や、戦国期の主城である置塩城(姫路市夢前町)といった峻険な山城群が連想される。しかし坂本城は約170〜180m四方におよぶ広大な単郭の方形平城であり、赤松氏の城郭体系が山城だけに限定されず、時代状況や用途に応じて使い分けられていたことを物語っている。

赤松氏の領国支配構造は、「平時の政治行政拠点=平城(坂本城)」と「有事の絶対防衛拠点=山城(白旗城・城山城・天神山城)」という機能分担の二元体制によって成り立っていた。室町幕府の四職家筆頭(侍所頭人)として幕政の中枢に参画した赤松氏にとって、守護所には公家や幕府使節、他国の使者を接遇し、膨大な家臣団を集積させるための儀礼的空間が必須であった。
坂本城-方形単郭平城-約170〜180m四方・河岸段丘-播磨守護政庁、交通統裁、一族評定の場-御構御所、堀ノ城、御所
白旗城-峻険な連郭式山城-白旗山山頂(標高約440m)-南北朝期の決戦要塞、抗戦拠点-新田義貞軍を50日以上足止めした激戦地
城山城-古代山城の遺構を利用した山城-亀山山頂(比高約200m)-嘉吉の乱における赤松満祐の最終籠城地-追討軍(山名宗全ら)に囲まれ自刃
置塩城-大規模群郭式山城-置塩山山頂(標高約370m)-戦国期赤松氏の本拠・戦国大名城郭-坂本城の廃城に伴い守護拠点を完全移転
南北朝期の乱世から室町幕府の最盛期にかけて、赤松氏は平時においては坂本城で行政権力を振るい、緊迫した決戦時には山城へと身を引くという合理的な防衛システムを運用していた。この都市型・平地型の政治拠点と山岳型要塞の使い分けこそが、中世播磨における赤松氏権力の強靭さの源泉であったと言える。
4.全国政治の舞台としての坂本城
坂本城(書写坂本)は、ローカルな守護所に留まらず、室町幕府の命運や国家規模の政局を左右する舞台として度々登場する。
史料上の初見として際立つのが、足利尊氏と弟・直義の対立から波及した「観応の擾乱」(1350〜1352年)における動向である。観応2年(1351年)1月、京で直義軍に敗れた尊氏は丹波路を経て「播磨の書写坂本」へと落ち延び、軍勢の立て直しを図った(『太平記』)。尊氏に従っていた高師泰も美作での戦闘を経て坂本へ駆けつけ、直義方の石塔右馬頭軍5千余騎を迎撃するため、尊氏は1万余騎を率いて坂本から出陣した。南北朝期の動乱において、坂本城は足利将軍家が政権を維持・再起するための戦略的本営として機能していたのである。

坂本城の最高潮であり、同時に悲劇の舞台となったのが、嘉吉元年(1441年)の「嘉吉の乱」である。6代将軍・足利義教の強権政治に対し、危機感を募らせた赤松満祐は、京都の自邸にて義教を謀殺した後、直ちに本拠である坂本城へ帰還した。『赤松盛衰記』や『普光院軍記』によれば、満祐の元には小寺・宇野・依藤・浦上・別所など赤松一族・庶流88家、総勢2,900騎(文献によっては3,900騎)におよぶ将士が集結し、大軍議が執り行われた。

満祐は足利尊氏の血を引く足利冬氏の孫・義尊を擁立し、書写東坂本の定願寺を「井原御所」と称して住まわせることで将軍体制を提示した。さらに書写山圓教寺や広峰神社へ参詣して戦勝を祈願し、木簡に経文を記した大量の「柿経(こけらきょう)」を城の堀に流して神仏の護符とするなど、坂本城は幕府権力に対抗する司令部となった。
軍記物語は、坂本城に居た満祐の子・教康の前に書写山の長吏の使いと称する二人の童子が現れ、「父子一門の運命は三十七日の内外なり」と猶予なき滅亡を予言して消え去り、満祐が赤松の最後を悟ったという逸話を伝えている。但馬から山名持豊(宗全)率いる幕府追討軍が押し寄せると、防衛機能に限界のある平城の坂本城は放棄され、満祐らは詰城である城山城へ撤収して籠城した末に自刃した。
嘉吉の乱によって赤松惣領家は一時滅亡し、播磨は山名氏の領国となったが、応仁の乱(1467年〜)において細川氏に就いた赤松政則が旧領を回復すると、再び坂本城は両氏の激しい争奪戦の場となった。『蔭涼軒日録』や『吉川家文書』には「坂本東口」「西口」での死闘が記録されており、特に長享元年(1487年)3月の合戦では、赤松勢の浦上美作守と小倉小四郎が東西から挟撃し、坂本城は大半が焼け落ちて守将の山名政豊が逃亡した。
その後、赤松政則の手で播磨が安定すると、拠点はより要害性の高い置塩城へ移り、守護所機能も御着城などへ分散・移行していった。明応5年(1496年)の政則没後の「播磨錯乱」を経て、大永2年(1523年)に山名誠豊が坂本城を攻めた記録を最後に、坂本城は城郭としての役割を終え廃城となった。南北朝時代から戦国初期に至る約150年間、坂本城は播磨の政治動向、ひいては天下の趨勢(すうせい)を左右し続けた重要拠点であったと言える。
5.考古学的発掘成果が提示する新史実:質素な政庁と防御機能の進歩
昭和54年(1979年)以降、姫路市教育委員会を中心として20次以上にわたり実施された坂本城跡(書写構江遺跡)の発掘調査は、文献史料だけでは知り得なかった遺構の構造と生活実態を提示している。

東郭側の調査では、幅約10mの深い内堀と、幅約4.5m・深さ1.8mの外堀(箱掘)からなる二重堀が検出され、東西約170mの城域が明確化された。城内からは素掘りの井戸、掘立柱建物跡、土坑、排水溝などが確認されている。出土遺物としては、日常生活に用いられた備前焼の擂鉢や水瓶、瀬戸焼、京都系の土師器皿(16世紀初頭)、さらに中国から輸入された高級な青磁・白磁などの陶磁器類が見つかっている。加えて、木簡、箸、木椀、下駄、櫛などの生活木製品や、堀からは宗教儀礼に用いられた柿経が出土しており、行政執務と日常の生活文化、さらには神仏信仰が融合した空間であったことが裏付けられた。

これらの出土品の中で、考古学上もっとも特筆すべき事実は「瓦が1枚も出土しなかった」ことである。
三ヶ国の守護であり室町幕府の重要職を歴任した赤松氏の政庁であれば、瓦葺の重厚で豪華絢爛な館建築がそびえていたと想像されがちである。しかし瓦が出土しないという事象は、坂本城内の主殿や実務用の建物がすべて「板葺」あるいは「草葺」の掘立柱建物であったことを示している。この質素な実様は、中世守護所における二つの重要な性格を反映している。

第一に、中世の守護所は政治的対立や合戦によって容易に消失・移転する流動的な存在であり、迅速な再建・修復が可能な板葺・草葺構造の方が現実的であったという点である。第二に、赤松氏が京都の赤松邸では幕府要職としての威光を示すために豪華な建築を構えたのに対し、本国播磨の守護所においては実用性と領国支配の機能を最優先させていたという、職住分離および都市と領国の建築様式の使い分けである。
一方で、防衛機構においては戦国期城郭へと通じる先進的な構造が試みられていた。城の南西隅の土塁には外側へ張り出す「屈曲(折れ)」が存在する。
平成12年(2000年)に実施された西側土塁の発掘調査において、この南西隅の張り出し部分のみ、中心部の盛土の周りに水平に土を重ねて補強し、土塁頂部の幅を広く確保した「櫓台状」の構造に仕上げられていたことが判明した。他の土塁部分が斜めに土を積み上げただけの平易な土手であったのに対し、南西隅だけが格段に重視されていたのである。

土塁線を意図的に屈曲・張り出させ、側観から進入する敵兵に対して射撃を加える「横矢掛かり(側面攻撃)」の手法は、戦国時代後半の城郭においての防衛技術である。山科本願寺(1533年落城)などの事例から、畿内平城における横矢の適用は16世紀前半頃からと考えられてきたが、16世紀初頭に廃城となった坂本城において既に櫓台状の土塁張り出しが築かれていたことは見逃せない。地形的制約を利用したものでありつつも、土塁の選択的強化が施されている点から、坂本城は播磨において早い段階で「横矢防御」を試みた初源的事例であり、中世館から戦国期城郭への移行過程を示す画期的な遺構と評価されている。

6.結論
以上の考察を総合すると、坂本城に対する史的評価は単なる「赤松氏の居城の一つ」という枠組みを大きく超える。
同城は、赤松氏が播磨・備前・美作の広域領国を統治するために築いた政治・行政・交通・軍事を統轄する守護政庁であり、まさに「播磨府中」と呼ぶにふさわしい空間であった。平坦地に位置しながらも、夢前川・菅生川・書写山・天神山という防衛線へと組み込み、因幡街道と作州街道の分岐点を押さえることで、流通の掌握と政治的威信の示現を達成していた。

「赤松氏=山城」という固定化されたイメージに対し、坂本城は平時の政庁としての平城と、有時の要塞としての山城(白旗城・城山城)を使い分けた赤松氏の統治戦略を立証している。観応の擾乱や嘉吉の乱、そして応仁の乱に至る動乱の中で表舞台となり、発掘調査が明かした「瓦なき質素な館建築」と「初期の横矢機構を備えた土塁」の同居は、中世守護所の実像と城郭技術の進化段階を提示している。
現在、坂本城跡の中央部には道路が貫通し、新興住宅地や田畑の中にわずかな土塁と堀跡、そして石碑がひっそりと残るのみである。しかし、その地下に眠る遺構と史料の行間には、室町幕府の荒波を生き抜き、播磨に君臨した赤松一族の栄枯盛衰と、中世国家の動政が凝縮されている。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
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