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長宗我部氏(5) 伊予と讃岐

──伊予にみる長宗我部流戦争術の実像
──同盟ネットワークの連鎖と「四国統一」の再検討


長宗我部元親による四国制覇の歴史は、通説において、強力な一領具足の軍事力と元親の武勇によって阿波、讃岐、伊予が次々と蹂躙(じゅうりん)され、天正13年(1585)春に「四国統一」が成し遂げられたという、いわば単線的な武力征服の物語として語られてきた。しかし、近年の一次史料の発見と史料批判の進展は、英雄譚(えいゆうたん)に疑義を呈している。

元親の「戦い」の本質は、既存の勢力を力でねじ伏せるだけの単純な武力侵攻ではない。それは、地域に割拠する地方国人の「横の繋がり」を巧妙に利用し、ドミノ倒しのように支配を拡大させていく「高度な同盟ネットワーク構築戦(政治戦)」であった。本内容では、讃岐および伊予侵攻における具体的な合戦と同盟プロセスの分析を通じ、長宗我部流戦争術の多面性を浮き彫りにするとともに、未完に終わった「四国統一」の政治的実像を再検証する。

長宗我部元親像/国指定重要文化財/奏神社蔵

1.讃岐侵攻―同盟の連鎖で進む長宗我部軍

1-1 香川氏との婚姻と名跡存続の戦術

長宗我部軍の讃岐侵攻は、天正6年(1578)から本格化する。その最大の画期となったのが、翌天正7年(1579)における西讃の有力国人・香川信景との同盟締結であった。

元親は、土佐統一期から一貫して、被征服者となった国人家を滅ぼすのではなく、自身の兄弟や子女をその名跡に入嗣させて陣営に組み込む戦術を多用していた。香川氏との交渉においても、元親は次男の親和を信景の娘婿(入婿)とすることで、天霧城を拠点とする香川氏の勢力を吸収した。この婚姻同盟は、単なる地方勢力の服属にとどまらず、織田信長と毛利氏の対立の狭間で「芸土入魂」(長宗我部・毛利同盟)の仲介役として香川信景が機能するなど、元親の広域外交にとって外交資産となった。

1-2 ドミノ式服属:国人の横の繋がりを利用した政治戦

香川氏の獲得は、中讃地域における「ドミノ式服属」を引き起こす呼び水となった。西讃の諸勢力はもともと香川氏に従属する地縁的な横の繋がりを有しており、その統治権を信景に委ねたまま長宗我部の陣営に取り込まれた。

軍記物『南海通記』の記述によれば、中讃の羽床城に籠城していた羽床資載は、香川信景の仲介によって元親に服属した。さらに、長宗我部勢が新名内膳助の籠る鷲山城へ攻め寄せると、今度は服属したばかりの羽床氏が仲介に入り、内膳助を説得して「和平」に導き、城を明け渡させたという。

このプロセスは、個々の城を力攻めにするのではなく、地域社会の領主間ネットワークを梃子(てこ)として機能させ、連鎖的に和平・服属を勝ち取る長宗我部流戦争術の特異性を示している。

1-3 虎丸城問題:讃岐東部における十河氏の頑強な抵抗

天正12年(1584)6月、元親が讃岐の主要拠点である十河城を陥落させ、十河存保を追放したことで「讃岐平定」が完了したと長く説明されてきた 。しかし、実際には東讃の虎丸城は陥落していなかった。

十河城跡にある称念寺の仁王門/ウキペディアより引用

信頼性の高い軍記物である『長元記』には、十河存保が降伏しなかったため虎丸城が長宗我部の手に落ちなかったことが明確に記されている。この非落城説は、当時の一次史料からも裏付けられる。天正12年の小牧・長久手の戦いに連動し、長宗我部氏は織田信雄・徳川家康と同盟を結んでいたが、同年8月の本多正信から香宗我部親泰に宛てられた書状からは、十河城陥落直前に脱出した存保を、長宗我部勢が讃岐東端の大内郡(虎丸城)に包囲している状態が確認される。

さらに、同年7月19日付の久武親直から金子元宅に宛てた書状では、讃岐東部における十河勢の抵抗が続いており、伊予の金子氏に対して讃岐東部への援軍派遣が要請されている。この事実は、十河勢が守勢にとどまらず攻勢に出ていたことを意味しており、元親による讃岐支配が最終盤まで不完全であった実態を証明している。

2.伊予侵攻―「長宗我部・金子連合政権」の実体と家臣団の組織戦

2-1 金子元宅との同盟と「連合政権」という視座

伊予侵攻におけるパートナーであり、元親の四国制覇を支えた立役者が、東予(宇摩郡・新居郡)の金子元宅である。

元宅は単なる従属国人ではなく、主家である石川氏を凌駕する指揮権を握り、自立した領国経営を行う領主であった。天正9年(1581)7月23日付の元親から元宅への起請文により成立した長宗我部・金子同盟は、双方向的な政治・経済的保障関係に基づいていた。

元親は、金子家内部の紛争(次男・毘沙寿丸の宗家継承や周敷家・氷見家としての分家問題など)の調停を約束し、元宅の家の存続と領域支配をバックアップした。一方で、元宅は長宗我部軍の要請に応じて讃岐東部へ軍勢を派遣するなど、共同で軍事同盟者として振る舞った。この共生関係から、東予における支配は「長宗我部単独の領国化」ではなく、事実上の「長宗我部・金子連合政権」と呼ぶべき二頭政治の様相を呈していたといえる。

2-2 喜多郡における平氏・曽根氏との同盟

元親の伊予支配は、中予・南予の喜多郡においても同様に、領主ネットワークを媒介としていた。

元親から喜多郡北山の平出雲守(東城主)に宛てられた三通の書状によれば、元親は早くも天正5年(1577)または同6年の段階で、出雲守を仲介役として曽根城主の曽根宣高と同盟を結んでいた。元親は長宗我部氏のために奔走する宣高の働きを賞賛し、将来の「御知行(領地安堵)」を約束している。

天正7年(1579)以降、喜多郡内の「田所城」攻略に失敗して撤退した際にも、元親は落胆することなく、平出雲守に対し「宣高と相談して計策を立て直すよう」命じている。長宗我部氏は伊予においても、こうした信頼度の高い現地領主の同盟網を蜘蛛の巣のように張り巡らすことで、武力行使のリスクを最小限に抑えつつ勢力を浸透させていった。

2-3 久武親信の戦死と組織戦としての戦争

天正7年(あるいは9年)5月、元親が派遣した伊予軍代(総指揮官)である久武内蔵助親信が、宇和郡三間の岡本城を攻略中に、土居清良の仕掛けた罠によって討死を遂げた。この戦いは凄絶を極め、親信のほかに長宗我部家臣団の「宗徒の者(おもだった者)数百人」が戦死する敗北となった。

この大敗は元親に甚大な打撃を与えたが、それ以上に重要なのは、その後の指揮権の推移である。親信が果たしていた「伊予軍代」および「平・曽根同盟の構築交渉役」としての任務は、その弟・久武親直(彦七)へと継承された。親直は天正12年(1584)には金子元宅に長宗我部・金子同盟を再保障する起請文を送り、讃岐東部への動員指示を行うなど、軍事と外交の両輪を回し続けた。

この役割の継承は、長宗我部の戦争が元親個人の軍事的天才に依存したものではなく、久武兄弟をはじめとする「軍事・外交を高度に処理できる実務型家臣団」によって担われた、組織的な近代戦に近い性格を有していた。

表1:讃岐・伊予における主要な同盟・服属相手と、その仲介・媒介ネットワーク

  • 西讃(讃岐)-香川信景(天霧城)-元親の次男親和の入婿(婚姻同盟)-なし(毛利氏との「芸土入魂」を信景が仲介)

  • 中讃(讃岐)-羽床資載(羽床城)-籠城を経て「服属・和平」-香川信景の仲介(ドミノ式服属)

  • 中讃(讃岐)-新名内膳助(鷲山城)-籠城を経て「和平」、開城入城-羽床氏の仲介(ドミノ式服属)

  • 東予(伊予)-金子元宅(金子城)-起請文の交わし、相互保障同盟-石川氏(主家)からの自立化と親長宗我部化

  • 西予(伊予)-平出雲守(東城)-領地安堵約束による服属同盟-久武親信(のちに久武親直が継承)

  • 西予(伊予)-曽根宣高(曽根城)-自主的な忠誠申し出、同盟-平出雲守が仲介

3.長宗我部流戦争術の政治的本質

3-1 軍事司令官と同盟交渉役の一体化

戦国時代の長宗我部氏の戦争において、合戦で敵城を力ずくで落とすことと、調略によって同盟者を獲得することは同義であった。久武親信や親直ら伊予軍代の役割が、戦闘の指揮のみならず平氏・曽根氏・金子氏らとの同盟交渉そのものであった事実は、その典型である。

軍事行動は、交渉を有利に進めるための暴力装置であり、交渉の妥結こそが軍事行動のゴールであった。すなわち、彼らにとって合戦とは高純度の「政治戦」であったと言える。

3-2 外交ネットワーク型大名としての元親

一般に、長宗我部元親は圧倒的な動員力と「一領具足」の武勇に任せて四国を力で蹂躙した覇者というイメージが先行する。しかし実態は、香川氏、金子氏、平氏、曽根氏、そして阿波における国人衆など、地方に網の目のように広がる国人層の「同盟ネットワーク」を巧みに織り成し、その血脈と地縁のドミノの連鎖によって自らの覇権を浸透・拡大させていった「ネットワーク型戦国大名」であった。

3-3 麦薙・稲薙にみる「名君像」と「戦国の論理」

元親には、領民を労り、慈悲深く、制度を整えた名君・為政者としてのイメージがつきまとってきた。その証左として語り継がれてきたのが、前述した『南海通記』が伝える羽床攻めでの「一畦おきに麦を刈らせることで、半分を農民に残し、長宗我部領の仁政を百姓にアピールした」という美談である。

ChatGTPが作成した稲刈りのイメージイラスト

しかし、このエピソードは後世の創作によるナイーブな粉飾と言わざるを得ない。麦薙・稲薙(立毛刈り)の本質は、単なる兵糧の略奪ではなく、城下に割拠して抵抗する農民や地下人(地侍)をも標的とし、地域社会全体の農業生産基盤を破壊して抗戦意志を挫く「無差別的・総合的経済破壊戦術」であった。

天正12年(1584)9月、伊予宇和郡の深田城を攻略した際、元親は金子元宅に宛てた書状で「侵攻地域の至る所で、立毛(収穫前の稲)を悉く刈り払って勝利を収めた」という報告を、嬉々として伝えている。この行為を元親自身が咎めたり、農民に同情したりする気配はなく、むしろ自軍の支配力と同盟関係の強化のための「外交資源・宣伝材料」として利用している。元親は「優しい名君」などではなく、勝つために農村経済そのものを破壊する戦術を用いる、戦国の現実論理に従ったリアリストであった。

4.豊臣軍の四国攻め(天正の陣)における抵抗の実態

天正13年(1585)6月、豊臣秀吉による四国攻め(天正の陣)が開始されると、元親の構築した同盟ネットワークは試練に直面した。

豊臣秀吉像/江戸時代/連華定院蔵

秀吉軍が圧倒的な大軍を四国各地に上陸させる中、東予の金子元宅は凄絶な抗戦を選択した。毛利氏と事前に独自の友好関係を保持し、降伏の選択肢もあったにもかかわらず、元宅は長宗我部氏に預けた人質の安全と連合政権の義理を通すため、新居郡の金子城・高尾城に籠城して抗戦の構えを見せた。

金子城には周辺の小城から兵が結集したが、その総数はわずか2千であった。これに対する小早川隆景・吉川元長ら毛利・羽柴の軍勢は1万5千人以上という圧倒的な大軍であった。7月17日、窮地に陥った元宅は自ら城に火を放ち、長宗我部軍から派遣されたわずか200人の援軍を交えた、総勢わずか800人の決死隊を率いて城外の野々市原へ討って出た。

ChatGTPが作成した最期の13人のイメージイラスト

この野々市原の決戦は、降伏を一切拒み、最期の13人になるまで戦い抜く壮絶な玉砕戦となった。戦後、小早川隆景は金子方の将兵の武勇を称え、彼らを弔うために野々市原に「千人塚」を建立したと伝えられる。東予の防衛線の核であった金子氏を失った長宗我部軍は、伊予各地での敗戦を重ね、やがて豊臣軍の圧倒的な物量と武力の前に降伏へと追い込まれていくこととなった。

5.「四国統一」言説の再検討

近年の歴史研究において、長宗我部元親が秀吉に降伏する直前に四国を統一したという「四国統一説」は再考を迫られている。阿波、讃岐、伊予の各国における未平定の一次史料を検証すると、支配が「点と線」にすぎなかった未完成の実態が浮かび上がる。

5-1 阿波未平定:土佐泊城の包囲失敗と勝浦郡の流動性

阿波においては、天正13年(1585)の四国攻めに至るまで、沿岸部の土佐泊城を拠点とする十河勢(森村春など)が抵抗を継続しており、元親はついにこれを攻略できなかった。

さらに、阿波東部の勝浦郡に位置する慈雲院周辺では、天正10年(1582)に元親が一時的に制圧を試みたものの、翌天正11年(1583)閏正月頃には、秀吉の支援を受けた十河勢によって奪還されていた。慈雲院が自らの安全保障を求めて獲得した「慈雲院宛豊臣秀吉禁制」の存在は、元親が阿波の本島部すら攻略しきれておらず、阿波支配はきわめて局地的な「占領の線」にとどまっていた実態を示している。

5-2 讃岐未平定:虎丸城における十河存保の抗戦継続

讃岐においても、東讃の拠点である虎丸城は陥落せず、十河存保が秀吉からの補給や物資支援を受けつつ防衛を維持していた。

久武親直の金子氏への援軍要請からも分かるように、長宗我部勢は讃岐の東半分を完全に掌握できず、むしろ十河勢の攻勢に対応するために伊予の同盟軍の力を頼らざるを得ない不安定な状況であった。

5-3 伊予未平定:湯築城・河野氏をめぐる学術的争点

伊予において、守護・河野通直の居城である湯築城が長宗我部軍に降伏したか否かは、歴史学における争点の一つである。

藤田達生氏らによる文献史学の研究(非降伏説)は、河野通直が長宗我部氏に屈することなく湯築城に籠城・抗戦を維持し、天正13年夏に四国上陸した小早川隆景に直接降伏したとする。これは、降伏の記述が後世の『土佐物語』にしか確認できない点とも平仄(ひょうそく:物事の「つじつま」や「筋道」を意味)が合う。

これに対し、中野良一氏らによる考古学的アプローチ(占拠・降伏説)は、湯築城跡の家臣団居住区から検出された「土州様」と墨書された土器皿や、岡豊城・中村城出土の瓦と同規格である高い瓦の出土を重視する。これを「長宗我部軍が湯築城を一時占拠した動かぬ証拠」と解釈し、河野氏の降伏・服属を主張している。

湯築城/復元された武家屋敷と丘陵部/ウキペディアより引用

しかし、降伏した大名の居城に、わざわざ長宗我部特有の瓦を急ぎ葺き直す動機や前例があるのかという疑問は解消されておらず、非降伏説(未平定説)の蓋然性(がいぜんせい:ある事象が実際に起こる可能性、またはそれが真実であることの「確からしさの度合い」を指す)は高い。

表2:四国三ヶ国における「未平定」の実態と、それを証明する根拠資料

  • 阿波-天正10年に「完全制覇」が完了したとされる-沿岸部の土佐泊城が抵抗を継続、勝浦郡慈雲院の争奪戦が発生-慈雲院宛豊臣秀吉禁制(丈六寺文書)

  • 讃岐-天正12年6月の十河城・虎丸城落城により平定-虎丸城は陥落せず、十河存保の抗戦が継続-本多正信書状、久武親直の金子元宅宛て書状、軍記物『長元記』

  • 伊予-天正13年春の河野通直降伏により四国統一が完成-湯築城の河野氏の抵抗継続(非降伏説) ※中野良一氏による占拠降伏説との論争あり-『土佐物語』(降伏の唯一の記述)、湯築城跡出土瓦・墨書土器、藤田達生説

6.結論

長宗我部元親が展開した伊予・讃岐の戦いは、単なる領土拡張の合戦ではなく、既存の地方国人が持つ「横のネットワーク」を引き込み、婚姻や起請文の連鎖で支配権を拡大させていく、驚くべき「政治外交戦」であった。

久武親信・親直兄弟をはじめとする実務型家臣団が軍事司令官と外交交渉役を兼任し、武力による脅迫(立毛刈り・麦薙)と同盟交渉の妥協をシームレスに組み合わせた「長宗我部流戦争術」は、限られた土佐一国の動員力で四国の覇権を握るために不可欠なシステムであった。

しかし、その支配システムは国人の自立性に依存するものであり、金子元宅との「連合政権」的共同統治や 、讃岐・阿波の各地で続いた十河勢のゲリラ的抵抗、そして最後まで不鮮明な伊予湯築城の去就に見られるように、未完成で不安定な構造にとどまっていた。豊臣秀吉という圧倒的な中央集権の巨大な軍事・政治権力を前にしたとき、この「国人同盟の連鎖」による擬似的な四国統一体は、瓦解せざるを得なかったのである。

従来の「四国統一」という歴史的言説から脱却し、元親が張り巡らせた「同盟ネットワーク」の構造と、戦国本来の苛烈な合理主義に光を当てることで、長宗我部氏の戦争の実像をより深く、魅力的に理解することができる。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

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