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飛鳥・藤原物語:第4話 聖徳太子という革命児 ― 日本の未来を描いた理想の政治家

「和をもって貴しとなす。」
この有名な言葉を残した聖徳太子は、どのような未来を思い描いていたのでしょうか。冠位十二階、十七条憲法、そして遣隋使。聖徳太子は飛鳥の小さな都から、日本を世界へ開く新しい国家づくりに挑みました。
第4話では、聖徳太子の政治改革と外交、そしてその理想が後の日本に与えた大きな影響を、わかりやすく物語としてお届けします。


飛鳥の都に、一人の若き皇族がいました。
名は厩戸皇子(うまやどのみこ)。
後の世に、「聖徳太子」と呼ばれる人物です。

若き聖徳太子

その名を知らない日本人はほとんどいません。しかし、その実像は、伝説に包まれています。「一度に十人の話を聞いた」「未来を見通す力があった」――そんな逸話が数多く残されていますが、本当の聖徳太子とは、どのような人物だったのでしょうか。
西暦593年、推古天皇が即位すると、厩戸皇子は皇太子となり、蘇我馬子とともに国政を担うことになります。

推古天皇と国政

当時の日本は、豪族たちがそれぞれ力を持ち、国全体をまとめる仕組みはまだ十分ではありませんでした。太子が目指したのは、「豪族の国」ではなく、「天皇を中心とする国家」を築くことでした。
その第一歩が、603年に定められた「冠位十二階」です。それまで役職や地位は家柄によって決まることが多くありました。しかし冠位十二階では、能力や功績によって位を与えるという、新しい考え方が取り入れられました。
現代でいえば、実力を重視する人事制度の始まりともいえるでしょう。

冠位十二階の制定

翌604年には、「十七条憲法」が制定されます。
ここで最も有名なのが、第一条の言葉です。
和をもって貴しとなす。
これは「争いを避け、互いに協力し合うことが大切である」という意味です。ただし、これは現在の憲法のような法律ではありません。
役人たちが守るべき心構えや政治の理念を示したものでした。
聖徳太子は、国を支えるのは武力ではなく、人々の信頼と調和であると考えていたのです。

十七条憲法を書く聖徳太子

さらに太子は、日本を世界へ向けて大きく踏み出させます。
607年、小野妹子を隋へ派遣しました。

遣隋使小野妹子の出発

その国書には、歴史に残る一文が記されています。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
太陽の昇る国の天子が、太陽の沈む国の天子へ手紙を送る――。
これは、中国皇帝を頂点とする世界観の中で、日本が対等な国家として外交を行おうとした、極めて大胆な宣言でした。
隋の皇帝・煬帝は驚いたと伝えられていますが、この外交は成功し、日本は大陸の進んだ制度や文化を数多く学ぶことになります。

隋へ国書を渡す小野妹子

こうして飛鳥には、新しい建築技術、法律、文字、医学、天文学などが次々ともたらされました。聖徳太子が描いた未来は、「世界から学び、日本独自の国をつくる」ことだったのです。

理想を見つめる聖徳太子

しかし、その理想は志半ばで終わります。
622年、聖徳太子は49歳でこの世を去りました。
彼の死後、蘇我氏はさらに権力を強め、飛鳥の政治は再び大きく揺れ始めます。
そして、その混乱を終わらせるため、一つの決断が下されます。
それが、日本史を大きく変える「乙巳の変」でした。


次回、第5話「蘇我氏滅亡の日」。
飛鳥の宮廷で起きた、歴史を変えたクーデターの物語です。


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監督:こう爺
お話とプロンプト:ChatGPT
画像と動画:Flow (Nano Banana 2)
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