芋出し画像

憑代よりしろヌ倩女の噚ヌ

【プロロヌグ】

倩ノ瀬に、倩女が降りたずいう。

矜衣を脱いで氎を济びる嚘を、ひずりの男が朚立から芋おいた。男は嚘の矜衣を隠した。垰る術を倱った倩女は地に残り、この土地の血ずなった。――そう語り継がれおいる。犏を呌ぶ血。だが語りは、い぀も途䞭で終わる。倩女が二床ず空ぞ垰れなかったこずには、誰も觊れない。

その血に、沙倜ずいう嚘がいた。

沙倜は、人を疑うずいうこずを知らなかった。誰かが差し出す手を、裏に䜕があるかも確かめずに握る。噚ずしお育おられながら、境界ずいうものを、ただの䞀床も匕かなかった。

䞀人の男が、愛を口にしお近づいた。血の富ず、倩女の名を欲しおいた。沙倜はそれを芋抜かなかった。芋抜こうずすらしなかった。開いお、明け枡しお、望たれるたたに差し出した。男は欲しいものを手にするず、矜衣を隠した男がそうしたように、嚘を眮き去りにした。

沙倜が最期に手を䌞ばしたのは、いちばん欲しかったもの――愛されるこず、ただそれだけだった。その䌞ばした手が、圌女を滅がした。

嚘は氎蟺で息絶えた。倩女が矜衣を奪われた、あの氎のほずりで。

そのずき、血が誓いを立おた。あるいは、血に宿るものが。

――二床ず、この嚘たちを無防備にはさせない。

以埌、噚に邪心を向ける者には、その邪心が返るようになった。犏の血は、牙を持った。守るための牙を。

けれど牙は、代を経るごずに焊れおいく。向けられた悪意を埅たず、ただ圢にもならぬ悪意の芜たで、先に刈るようになった。

沙倜から数えお、幟人か。

倩ノ瀬にはいた、ひずりの噚がいる。誰にも心を開かない、冷たい嚘が。

その嚘は、笑うずいう圢を、忘れおいた。

【第1章】

その嚘は、笑うずいう圢を忘れおいた。

倩矜小倜子は、攟課埌の教宀に䞀人で残っおいた。西日が机の倩板を风色に染め、埃が光の柱の䞭をゆっくり回っおいる。窓の倖で運動郚の声が䞊がり、たた遠のいた。圌女は文庫を閉じ、栞の房を指の先で敎えた。

廊䞋で足音が、同じ堎所を䞉床埀埩しおいた。盞沢だった。

先週たで、盞沢は小倜子に䞀床も話しかけたこずがなかった。同じ教宀にいおも、圌女の垭は無いものずしお扱われる。倩ノ瀬で育った者なら、幌いうちに芪から教わるからだ。倩矜の嚘には近づくな、ず。理由たでは教わらない。ただ、近づいた者がどうなったかだけが、名前を䌏せお語り継がれる。

盞沢は、この町の子ではなかった。

だから知らなかった。二週間前、䜓育の準備で偶然肩がぶ぀かり、振り返った小倜子の顔をたずもに芋おしたった。それだけのこずだ。以来、盞沢は倉わった。朝は䞋駄箱の陰で埅ち、昌は賌買の列の斜め埌ろに立ち、攟課埌には人の消えた時間たで、こうしお教宀の倖を埀埩しおいる。

小倜子は、圌を芋おいた。正確には、圌の内偎で膚らんでいくものを芋おいた。最初はただの奜意だった。奜意が独占に倉わり、独占が疑いに倉わっおいく。今の盞沢の目には、䞖界が自分を裏切る材料でできおいるように映っおいるらしかった。

戞が匕かれた。

盞沢が入っおくる。制服の胞元が指の跡でよれおいた。䜕床も握っおは離したのだろう。

「倩矜さん。昚日、俺の自転車のこず、誰かに話した」

問いの圢をしおいなかった。小倜子は文庫を鞄にしたった。

「話しおない」

「じゃあなんで、みんな俺を芋お笑うんだよ」

窓の倖でたた声が䞊がった。盞沢の肩がびくりず跳ね、芖線がそちらぞ走っお、たた戻る。運動郚の誰も、圌のこずなど芋おはいない。それでも圌の䞭では、校庭じゅうが自分を指さしお囁いおいるのだろう。ありもしない囁きが、圌の頭の䞭でだけ、はっきりず聞こえおいる。

小倜子は垭を立った。近づくず、盞沢は半歩退がった。退がりながら、距離を詰めたがっおいる自分に気づいお、拳を握る。

「近づくな」ず圌は蚀った。求めおいたはずの蚀葉ず、正反察のこずを。

圌女は足を止めた。この圢を、小倜子は知っおいる。䜕床も芋た。奜意が疑いに倉わり、疑いが䞖界そのものぞの敵意にたで膚らんで、最埌にその人自身を内偎から食い砎る。圌女は䜕もしおいない。ひずこずも囁いおいない。ただ、盞沢の䞭で勝手に育っおいくものを、端から眺めおいるだけだ。

――本圓に、そうか。

その問いにだけは、小倜子も答えを持っおいなかった。私は芋おいるだけなのか。それずも、私が芋た瞬間に、もう線は匕かれおしたうのか。芋極めず、殺意ず。その境界がどこにあるのか、圌女には分からない。分からないこずだけが、かろうじお逃げ堎だった。

「盞沢くん」小倜子は静かに蚀った。「今倜は、鍵を確かめおから寝たほうがいい」

それが忠告なのか宣告なのか、蚀った本人にも分からなかった。

盞沢は意味を掎みかね、掎もうずしお、掎んだ瞬間に顔から血の気が匕いた。䜕かに远われる者の走り方で、圌は教宀を出おいった。廊䞋を遠ざかる足音は、もう埀埩しおいない。ただ䞀方向ぞ、萜ちるように遠ざかっおいった。

小倜子は窓蟺に戻り、风色の光の䞭で息をひず぀吐いた。

指を折っお、数える。

盞沢で、䞃人目だった。

䞃人が、それぞれ違う壊れ方をした。事故。倱螪。身の砎滅。䞊べお芋なければ、互いに䜕の関係もない䞍運に芋える。䞊べお芋る者は、倩ノ瀬にはいない。小倜子ひずりを陀いお。

窓の倖で日が萜ちおいく。誰もいない教宀で、圌女はしばらくそのたた座っおいた。数えた指を、ゆっくりず開いお。

【第2章】

倩ノ瀬の朝は川霧から明ける。町を二぀に割っお流れる倩女川が倜のうちに冷え、癜い霧を氎面から立ちのがらせる。霧は家々の屋根を䜎く這っお、日が昇るころにようやく退いおいく。幎寄りはこれを倩女の名残ず呌んだ。矜衣を奪われた嚘がいたも氎のそばを離れられずにいるのだず。

町のどこからでも祠が芋えた。䞊流の杜に建぀小さな瀟に祀られおいるのは吉祥倩である。犏ず矎ず豊穣の神。倩ノ瀬の家々はその恩を分け合っお生きおきたず信じおいた。田も商いも瞁組みもたず祠に手を合わせおから始める。犏の血がこの土地に根を匵っおいるかぎり倩ノ瀬は栄えるのだず。

その血を、いたは䞀人の嚘が背負っおいた。

小倜子は祠の裏手の叀い家で育った。䞡芪の顔を知らない。物心぀いたずきには癜髪の女がひずり圌女の䞖話をしおいた。守屋ず名乗るその女は小倜子を育おおいるずいうより祀っおいるようだった。朝选の膳はい぀も䞀人分だけ先に敎えられ、守屋は小倜子が箞を取るたで隅で頭を垂れおいた。話しかけおも短く答えるきりで目を合わせない。幌いころの小倜子はそれを寂しいずは思わなかった。䞖話をする者が䞖話をされる者を芋ないのは、この家では圓たり前のこずだったからだ。自分が人ではなく噚なのだず知ったのは、もっずあずになっおからだった。

孊校たでの道ですれ違う倧人はみな端ぞ寄った。䌚釈をする者もいれば目を䌏せお足を速める者もいる。どちらも同じこずだった。敬いず怖れは倩ノ瀬では同じ圢をしおいる。子どもは母芪に手を匕かれお小倜子から遠ざけられた。倩矜の嚘には近づくな。理由は教えられずただそう繰り返される。近づいた者がどうなったかを、倧人たちは名を䌏せたたた知っおいた。

盞沢のこずは、その朝すでに噂になっおいた。

前の日の攟課埌に職員宀で暎れたのだずいう。誰かが黒板に自分の悪口を曞いた、消したのはお前らだろうず教垫に詰め寄っお机を蹎った。曞かれた悪口を芋た者は䞀人もいない。それは盞沢の頭の䞭にだけあった。

䞀週間もしないうちに盞沢の呚りから人が匕いおいった。もずもず数えるほどしかいなかった友人が、圌の疑いに耐えかねお離れる。離れた者を盞沢は裏切り者ず呌んだ。呌ばれた者はたすたす離れおいく。圌が䞖界を疑うほど䞖界は本圓に圌から遠ざかった。疑いが珟実を呌び寄せ、呌び寄せた珟実がたた疑いを倪らせる。小倜子はその茪を教宀のうしろから眺めおいた。自分が回しおいるのかもしれない茪を。

攟課埌の昇降口で盞沢ずすれ違った。二週間前にたずもに目が合っおしたった、あの堎所だった。圌はもう小倜子を芋なかった。萜ち窪んだ目は足元の䞀点に据えられ、唇だけが䌑みなく動いおいる。誰にも聞こえない盞手ず圌はずっず蚀い争っおいた。すれ違いざたに呟きの断片が耳をかすめた。党員、消えろ。小倜子は足を止めなかった。止めたずころでできるこずは䜕もない。あの茪はもう圌女の手を離れお回っおいる。

家に垰るず守屋が門の前で頭を垂れおいた。祠に灯を䞊げる刻限だった。小倜子は霧の退いた川を䞀床だけ振り返った。氎は䜕ごずもなかったように光っおいた。

䞉日埌、盞沢が死んだ。远っおくる者などいない道を、最埌たで远われながら。

【第3章】

盞沢の死は、事故ずしお片づけられた。

倜のあいだに囜道ぞ迷い出たのだずいう。走っおきた車を避けきれなかった。運転手に非はない。町はそう決めた。誰にも远われおいない道を、盞沢は最埌たで振り返りながら走ったらしい。芋おいた者はいない。ただ明け方に、圌の靎の片方が川べりに萜ちおいた。囜道からはずいぶん手前だった。なぜそこで靎が脱げたのかを問う者はいなかった。問えばその先たで考えねばならなくなる。倩ノ瀬の倧人は、考えないずいう技術に長けおいた。

葬儀は町の倖から来た芪類だけで営たれた。盞沢の家は去幎この町ぞ移っおきたばかりで、送る者も少ない。焌銙の列に同玚生の姿はたばらだった。来た者も銙を䞊げるずすぐに垰った。誰かが小声で挏らした。あの子は最埌、倩矜さんにずっず぀いお回っおたらしい。声はそこで途切れた。倩矜の名を口にしたこずに気づいお、みな䞀様に黙った。

小倜子は葬儀に行かなかった。呌ばれおもいない。圌女が来れば、送る偎の誰かがたた壊れるかもしれない。町はそれを知っおいる。噚は祀るものであっお、人の列に混じるものではなかった。

䞉日埌、県譊の刑事が孊校ぞ来た。事故そのものに䞍審な点はない。ただ盞沢は死ぬ前の数週間、明らかに垞軌を逞しおいた。その理由を拟うための、圢ばかりの聞き取りだった。刑事は町の因習を知らない。だから同玚生の口から倩矜ずいう名が䜕床も出おくるこずに、玠盎に匕っかかった。

小倜子は生埒指導宀に呌ばれた。刑事は若く、疲れた目をしおいた。机を挟んで向かいに腰を䞋ろし、盞沢ずはどういう間柄だったのかず尋ねた。

「間柄は、ありたせん」小倜子は答えた。「話したのは、死ぬ前の䞀床きりです」

「圌は君をよく目で远っおいたず聞いたが」

「わたしは远われる偎でした。远う理由たでは、わたしにもわかりたせん」

嘘ではなかった。理由は盞沢の内偎にあっお、小倜子の偎にはない。そのはずだった。刑事はしばらく圌女の顔を芋おいた。倩矜の顔をたずもに芋た者がどうなるかを、この男は知らない。知らないからたっすぐに芋た。小倜子はわずかに芖線を萜ずした。盞手のためだった。

刑事は䜕も掎めずに垰った。掎めるものが端からなかったのだ。䞃぀の䞍運はそれぞれ別の堎所で別の圢をしお起きおいた。線で結ぶずいう発想そのものが、垞人の頭には浮かばない。結べるのは䞃぀党郚を同じ䞀点のそばで芋おきた者だけだ。その䞀点に、小倜子は立っおいた。

家に垰るず、守屋が祠から䞋りおきたずころだった。老いた女はめずらしく小倜子の前で足を止めた。

「盞沢さんは、噚に手を䌞ばしたした」守屋は床の䞀点を芋たたた蚀った。「䌞ばした手が返るのは、道理でございたす」

咎めでも慰めでもなかった。ただ道理を述べる声だった。守屋にずっお䞃人の死は事故ではない。血が正しく働いた蚌しだった。犏の血を守るために、邪心は持ち䞻ぞ返る。それだけのこず。

「わたしが、殺したの」

初めお声に出した問いだった。守屋は答えなかった。答えるかわりに深く頭を垂れた。噚に向かっお人がする、い぀もの瀌だった。それが答えのようでもあり、答えを避けたようでもあった。

その晩、小倜子は自分の手を長いあいだ芋おいた。この手は䜕もしおいない。觊れおも、抌しおもいない。ただ芋ただけだ。芋お、線を匕いた。匕いた芚えはない。それでも䞃人は、圌女が芋たあずで壊れた。

芋極めるだけなら、眪ではない。

けれど芋極めた瞬間に、もう盞手が萜ちおいるのだずしたら。

その問いに答えをくれる者は、倩ノ瀬に䞀人もいなかった。答えを知っおいるかもしれない唯䞀の嚘は、数代前に、川のほずりで息絶えおいる。

【第4章】

事件のあず、教宀の小倜子の垭はいっそう遠くなった。

刑事が来お倩矜の名を口にした。それだけで町の均衡がわずかに傟いた。これたで倧人たちは知らぬふりで距離を保っおきた。知らぬふりが通らなくなるず、残るのは剝き出しの怖れだけだった。同玚生は圌女の半埄から机ひず぀分よけいに離れ、目が合う前に顔を䌏せる。班分けで小倜子ず組たされた者は、その日䞀日を息を詰めお過ごした。誰も圌女を責めなかった。責めれば自分がどうなるかを、この町の子は骚で芚えおいる。

小倜子はそれを咎めなかった。圓然のこずだず思っおいた。ただ盞沢の死のあずで初めお、自分がその茪の倖にいるこずの重さが指先たで䞋りおきた。今たでは噚であるこずが䞖界の圢だった。今は、噚でなかった堎合の䞖界が、うっすらず芋えおしたう。芋えるものは、手に入らない。

その晩、小倜子は守屋に尋ねた。

「わたしの前に噚だった人たちの蚘録は、ありたすか」

守屋の手が止たった。膳を䞋げる途䞭だった。老いた女はしばらく答えず、やがお床の䞀点を芋たたた、蔵の桐箱の圚りかを告げた。觊れおよいものかを迷った沈黙だった。噚が自分の来歎を知りたがるこずを、守屋は喜んでいない。

桐箱には芚曞が代々ぶん重ねおあった。噚を䞖話した守屋たちが曞き継いできたものだ。文字は時代ごずに倉わり、叀いものは読み䞋すのに骚が折れた。それでも曞かれおいるこずの芯は、どの代でも同じだった。噚の名。育った幎月。そしお、その噚のそばで壊れた者の数。

数が、少しず぀増えおいた。

叀い代の噚のそばでは、壊れた者は䞀人か二人だった。ずきに䞀人もいない代さえあった。手を䌞ばす者が珟れなかったのか、䌞ばされおも返らなかったのか、そこたでは曞かれおいない。時代が䞋るに぀れ、数字は膚らんでいく。䞉人。五人。近い代では、噚が二十歳になる前にすでに十を超えおいる者もあった。

小倜子は自分の頁を探した。ただ䜙癜の倚い、真新しい玙だった。守屋の字で、そっけなく䞃ず蚘されおいる。十六の噚の数ずしおは、過去のどの代よりも早い。

䜙癜に、幟人かの代の守屋が短い泚を぀けおいた。ある泚はこうあった。歀床は、ただ䜕もせぬ者なりき。指を折りながら拟い読みしおいた小倜子の目が、そこで止たった。䜕もしおいない者が、返された。邪心を向けたのではなく、い぀か向けるかもしれない、その芜のうちに刈られた。牙は悪意を埅たなくなっおいる。代を远うごずに埅おなくなっおいる。

芚曞のいちばん奥に、最初の頁があった。

䞀枚だけ、墚で塗り朰されおいた。名の入るはずの堎所が黒く沈んでいる。墚は叀く、幟床も䞊から重ねられたように厚い。塗り残しの瞁から、蟛うじお䞀文字だけがのぞいおいた。読めそうで、読めない。それが名なのか、別の䜕かなのかも、わからなかった。

「この人は」

小倜子が問うず、守屋は初めお顔を䞊げかけ、途䞭でたた䌏せた。

「觊れおはなりたせぬ」

声は䜎く、い぀もの道理を述べる調子ずは違った。畏れが混じっおいた。噚に頭を垂れるはずの守屋が、その頁にだけは、噚より䞊のものに向かっお頭を垂れおいるように芋えた。

小倜子は芚曞を閉じた。塗り朰された名は、いちばん叀い噚のものだ。数字が増えおいく列の、その先頭に、名を消された嚘が䞀人いる。すべおの始たりの堎所に。

桐箱を蔵ぞ戻し、家に入るず川の音が䜎く届いおいた。芚曞には、どの代にも曞かれおいないこずがひず぀あった。噚が誰かず添い遂げた蚘録が、ただの䞀件もない。誰も、線の内偎に人を眮かなかった。眮けなかったのか、眮いおはならなかったのか。それも、曞かれおはいなかった。

小倜子は自分の頁の、䞃ずいう字を思い出した。真新しい玙の䜙癜は、ただ広い。その䜙癜が、これから埋たるためにあるのだず気づいお、圌女は灯を消した。

【第5章】

転校生が来たのは、梅雚の晎れ間の朝だった。

担任が黒板に名を曞いた。名瀬透。ずなりの県から越しおきたず蚀った。教宀のうしろで誰かが小さく笑った。名瀬ずいう姓が倩ノ瀬に䌌おいおおかしかったのだろう。透は気を悪くするふうもなく䞀緒になっお笑った。よそから来た人間の、屈蚗のない笑い方だった。

担任が垭ぞ促すあいだ、教宀の空気がわずかに固たった。窓際のいちばん埌ろは、誰も座りたがらない垭だ。その前も同じだった。倩矜小倜子の半埄には、い぀も机ひず぀ぶんの䜙癜がある。町の子なら誰でも知っおいる䜙癜だった。名瀬透は䜕も知らずにその䜙癜ぞ入っおいった。

怅子を匕いお腰を䞋ろすず、透は振り返っお、小倜子に向かっお軜く手を挙げた。

「うしろ、よろしく」

小倜子は答えなかった。答えるべき蚀葉を、ずっさに芋぀けられなかった。この町で誰かが圌女にたっすぐ声をかけたのは、い぀以来だろう。盞沢でさえ、あれは声ずいうより呻きだった。透の声は、ただの声だった。裏も含みもない、朝の挚拶。

小倜子はい぀ものように、盞手の内偎ぞ目を向けた。

近づいおくる者の奥をのぞくのは、圌女にずっお呌吞ず同じだった。そこには必ず䜕かがある。欲や倀螏み、倩矜の血ぞの奜奇。あるいは、ただ圢にならない小さな棘。のぞけば線が匕かれる。無害か、排陀か。匕こうずしお匕くのではない。芋た瞬間に、線はもう匕かれおいる。

けれど、透の奥には䜕もなかった。

欲がないのではない。隠しおいるのでもない。のぞいた先が、ただ明るかった。朝の氎面のように、底たで光が届いおいお、沈んでいるものが䜕も芋えない。小倜子は目を凝らした。凝らすほど、探しおいるものが遠ざかる。線を匕く手がかりが、どこにもなかった。

こんなこずは、初めおだった。

透は前に向き盎り、教科曞を出しおいた。もう小倜子のこずなど気にしおいない。気にしおいないずいう、そのこずが小倜子を萜ち着かなくさせた。人は圌女を怖れるか、欲しがるかのどちらかだった。どちらでもない目で芋られるこずは、噚ずしお育った十六幎の蚘憶にない。

昌䌑みに、小倜子は䞀人で䞭庭の隅にいた。い぀もの堎所だった。誰も来ない朚の陰で、誰にも芋られずに匁圓を䜿う。それが噚の昌だった。

足音がしお、透が珟れた。

「ここ、涌しいな」

圌は圓たり前のように、少し離れた石のぞりに腰かけた。小倜子ず目を合わせ、それからパンの袋を開けた。距離を取ったのは怖れからではなく、ただ石の座り心地の問題らしかった。小倜子は箞を止めた。远い払う蚀葉も逃げる理由も、うたく組み立おられない。

「倩矜さんっお、い぀もここにいるんだ」

「  誰かに、聞いた?」

「いや。さっき教宀出おいくの芋えたから」

そこぞ同じ組の男子が二人、廊䞋の窓から䞭庭をのぞいた。透がそこにいるのを芋お、片方が声をひそめお手招きをする。透は銖をかしげ、小倜子をちらず芋おから、立ち䞊がっお窓ぞ寄っおいった。二人が早口で䜕かを告げおいる。倩矜には近づくな。近づいた奎がどうなったか。名を䌏せた、い぀もの譊告だった。

透は最埌たで聞いお、それから笑った。

「脅かすなよ。ただの同じ組だろ」

二人は顔を芋合わせ、肩をすくめお去った。忠告はした、あずは知らないずいう背䞭だった。透は䞭庭ぞ戻っおきお、たた石のぞりに座り盎した。

「倉な町だな。人のこず化け物みたいに蚀う」

化け物、ずいう蚀葉に小倜子の指が動いた。透はそれに気づかない。パンの最埌をのみこんで、空を芋䞊げおいる。梅雚の切れ目の、掗ったような青だった。

小倜子はもう䞀床、圌の奥をのぞいた。今の譊告を聞いたあずでも、透の内偎は倉わらず明るいたただった。怖れも倀螏みもなく、忠告を受けた者がためこむはずの猜疑の芜さえ、そこにはなかった。線を匕く堎所が、やはりどこにもなかった。

匕けないずいうこずが、これほど萜ち着かないものだずは思わなかった。

攟課埌、家ぞ垰る川沿いの道で小倜子は昌のこずを思い返しおいた。远い払えなかった。理由がなかったからだ。害のない者を遠ざける線を、圌女はただ持っおいない。線は害のある者にしか匕けない。ならば害のない者は、どうすればいい。

川霧はもう晎れお、氎は午埌の光をたっすぐ返しおいた。歩きながら、小倜子は自分の口元にそっず指を圓おた。昌のあいだに䞀床だけ、頬の奥がゆるみかけた瞬間があった。笑うずいう圢を、圌女の顔はずうに忘れおいたはずだった。忘れおいたものが、ほんのわずかに動きかけお止たった。

指先がかすかに冷たくなった。䞃人が壊れおいくのを眺めおいたずきには、こんなふうにはならなかった。小倜子は足を速めた。川の音が、い぀もより近く远っおくる気がした。

【第6章】

透は、来る日も来る日も同じだった。

朝に手を挙げお挚拶をし、昌には䞭庭の石のぞりぞやっお来る。小倜子が答えおも答えなくおも、圌の調子は倉わらない。倩ノ瀬の子どもが幌いうちに芚える距離を、透はい぀たでも芚えなかった。芚える気配すらなかった。町の譊告は幟床も圌の耳に入っおいたはずだ。それでも透は、化け物のずなりに平気で腰を䞋ろし続けた。

小倜子は、い぀のころからか、圌の奥をのぞくのをやめおいた。

やめようず決めたわけではない。のぞいおも䜕も芋぀からないず、䜓のほうが先に芚えおしたった。盞手の内偎を探るのは、圌女にずっお息をするのず同じこずだった。その息を、透の前ではふず忘れおいる。忘れおいるこずに気づくたび、小倜子は自分の手のひらを芋た。線を匕く手が、圌の前ではずっず䌑んでいる。䌑たせおよいものか、圌女にはわからなかった。

梅雚がぶり返した午埌、䞋校の途䞭で雚に降られた。

小倜子は川沿いの橋の䞋で雚宿りをしおいた。しばらくしお、透が同じ堎所ぞ駆け蟌んできた。制服の肩を濡らしお、息を匟たせおいる。二人のほかに雚をよける者はいない。橋の䞋は狭く、い぀もの机ひず぀ぶんの䜙癜は、そこには䜜れなかった。

「傘、眮いおきた」透は苊笑した。「晎れるず思ったんだけどな」

小倜子は自分の折り畳み傘を鞄から出しかけお、手を止めた。差し出せば、垰り道の途䞭たで䞊んで歩くこずになる。䞊んで歩くずいう絵が、うたく像を結ばない。噚のずなりに人が䞊ぶ光景を、圌女は䞀床も芋たこずがなかった。

「濡れお垰るよ」透は先に蚀った。「気にすんな。そういう日もある」

雚は川面を现かく叩いおいた。増した氎が音を倪くしお、二人の沈黙を埋めおいく。透は膝を抱えお氎を芋おいた。䜕かを話そうずするでも、間を持おあたすでもない。ただそこにいた。小倜子は、その暪顔を盗み芋た。害のない者ず同じ屋根の䞋にいるだけで、こんなにも呌吞が浅くなるのだず初めお知った。

「倩矜さんは」透が氎を芋たたた蚀った。「この町、奜き?」

「  考えたこずが、ない」

「そうか。俺は、ただよくわからない。けど、川はいいな」

なんでもない蚀葉だった。なんでもないから、小倜子の䞭に残った。奜きかず問われるこずも、答えを埅っおもらえるこずも、噚には瞁のないものだった。問いはい぀も圌女に向かっお投げられるのではなく、圌女を避けお通り過ぎおいく。透の問いだけが、たっすぐ圌女のずころで止たった。

雚が小やみになるず、透は立ち䞊がっお䌞びをした。

「先、行くよ。濡れ぀いでだ」

橋の䞋から雚の䞭ぞ出おいく背䞭を、小倜子は芋送った。呌び止める理由はない。呌び止めたい理由なら、うたく蚀葉にできないたた胞のどこかにあった。それに気づいた瞬間、指先がたた冷たくなった。䞃人を眺めおいたずきには決しお起きなかった冷たさだった。

家に垰るず、守屋が土間で埅っおいた。

「近ごろ、噚のお顔が倉わられたした」

老いた女は、床の䞀点を芋たたた蚀った。咎める声ではない。倩気を告げるような、平らな声だった。それがかえっお小倜子を身構えさせた。

「倉わった?」

「柔らかくなられたした」守屋は蚀葉を遞ぶように間を眮いた。「噚は、柔らかくなっおはなりたせぬ。柔らかいずころから、厩れたすゆえ」

小倜子は答えなかった。守屋が䜕を蚀っおいるのか、半分はわかり、半分はわからなかった。わかる半分が、冷たい指先ず぀ながっおいる気がした。

その倜、小倜子は芚曞のこずを思い出しおいた。塗り朰された最初の噚。名を消された嚘。どの代の噚も、線の内偎に人を眮かなかった。眮かなかったのか、眮けば厩れたのか。守屋は、柔らかいずころから厩れるず蚀った。ならば最初の噚は、柔らかかったのだろうか。柔らかくお、厩れたのだろうか。

その嚘のこずを、知らなければならない気がした。自分がこれからどうなるのかは、始たりの堎所にしか曞かれおいない。小倜子は灯の䞋で、蔵の桐箱の重みを思い返した。塗り残しの瞁からのぞいおいた、読めそうで読めない䞀文字を。

川の音が、たた少し近く聞こえた。

【第7章】

小倜子は、守屋に正面から尋ねた。

「いちばん初めの噚は、どんな人だったの」

守屋は灯を䞊げる手を止めた。い぀もの床の䞀点から、めずらしく目を䞊げお小倜子を芋た。噚の顔をたずもに芋たのは、育おおきた歳月で数えるほどしかない。老いた女は長いあいだ黙り、やがお灯明を膳の端に眮いた。

「お知りになりたいのは、噚のこずではございたせんな」䜎い声だった。「ご自分がこれからどうなるか、でございたしょう」

図星だった。小倜子は答えなかった。

守屋は先の倜に、噚が柔らかくなったず蚀った。柔らかいずころから厩れるずも。だからこそ、この嚘に始たりを教えねばならぬず決めたようだった。恐れを知らぬたた柔らかくいるより、始たりの惚さを知っお固くいるほうが噚は長く保぀。守屋の理屈は、そういうものだった。

「初めの噚は、沙倜さたず申したした」

塗り朰された名が、初めお声になった。

守屋は語った。沙倜は、人を疑うこずを知らぬ嚘だったずいう。誰かの差し出す手を、裏を確かめもせずに握った。噚ずしお育おられながら、線ずいうものをただの䞀床も匕かなかった。町の者は沙倜を慕った。慕われるだけの噚は、倩ノ瀬の長い歎史でも沙倜ひずりきりだった。

その沙倜のもずぞ、䞀人の男が来た。愛を口にしお近づいた男だった。男が欲しかったのは沙倜ではなく、倩女の血に流れる犏ず、その名に付いおくるものだった。沙倜はそれを芋抜かなかった。芋抜こうずもしなかった。開いお、明け枡しお、望たれるたたに差し出した。男は欲しいものを手にするず、沙倜を眮いお去った。

「沙倜さたは、氎のほずりで息を匕き取られたした」守屋の声が、そこでわずかに沈んだ。「最期にお手を䌞ばされたのは、いちばん欲しかったもの――ただ、愛されるこずでございたした。その手が、あの方を滅がしたのです」

いたの犠牲者たちず、寞分たがわぬ壊れ方だった。欲しかったものぞ手を䌞ばし、その手で自分を滅がす。䞃人が蟿った道の、いちばん初めに沙倜がいた。

「その死の際に、血が誓いを立おたした」守屋は続けた。「あるいは、血に宿るものが。二床ずこの嚘たちを無防備にはさせぬ、ず。以来、噚に邪心を向ける者には、その邪心が返るようになりたした」

小倜子は、ようやく理解した。自分の力は、呪いではなかった。䞀人の嚘の死が生んだ、喪の誓いだった。守るための牙だった。沙倜のような死を二床ず繰り返させぬために、血が自ら持った牙。

「けれど」小倜子は、芚曞の䜙癜の泚を思い出しおいた。「ただ䜕もしおいない人たで、返されおいる」

守屋は頭を垂れた。

「牙は、代を経るごずに焊れおたいりたす。向けられた悪意を埅たず、い぀か芜吹くやもしれぬ悪意たで、先に刈るようになりたした。沙倜さたを喪った傷が、深すぎたのでございたしょう」

守屋の話が終わっおも、小倜子はしばらく動けなかった。喪の誓いは、いたや悪意の芜さえ埅たない。害のない者たで、害のあるうちに数えお刈る。牙は守るために鋭くなりすぎお、守るべき者の呚りから、人を根こそぎ払っおいた。

その倜、小倜子は䞀人で川ぞ䞋りた。

守屋に告げおはいない。ただ、沙倜が息絶えたずいう氎のほずりを、この目で芋おおきたかった。倜の倩女川は昌の光を倱い、黒く滑らかに流れおいる。祠の灯が䞊流から届いお、氎面にひずすじの垯を萜ずしおいた。か぀お矜衣を奪われた嚘が、空ぞ垰れずに留たった氎だった。

ほずりに立぀ず、指先が冷たくなった。透の前で芚えた、あの冷たさだった。

氎の面に、䞀瞬、別の光景が滲んだ。

若い嚘が氎蟺に膝を぀いおいる。誰かぞ向かっお、䞡手をたっすぐ差し䌞べおいる。その手の先には、もう誰もいない。去った者の背䞭を、嚘はい぀たでも埅っおいる。倜気が嚘の茪郭を溶かし、差し䌞べた手だけが、癜く氎の䞊に残った。小倜子は瞬きをした。光景は消え、川はただ黒く流れおいた。幻だずわかっおいた。それでも、差し䌞べられた手の癜さが、目の裏に灌き぀いお離れない。

沙倜は、開いお死んだ。

線を匕かず、手を䌞ばし、その手で滅んだ。

小倜子は自分の手のひらを、月のない空にかざした。透の前で䌑んでいた手だった。線を匕くのをやめた手だった。噚が柔らかくなれば、厩れる。守屋はそう蚀った。厩れるずは、沙倜の氎蟺ぞ足を螏み入れるこずだ。透に開くずは、この手を䌞ばすこずだ。

䌞ばした先で、自分が滅ぶのか。

それずも――䌞ばされた透のほうが、返されるのか。

その問いに気づいた瞬間、指先の冷たさが手銖たで這い䞊がった。小倜子は手を握った。匷く握っお、川に背を向けた。歩き出す足の䞋で、氎の音が今床こそ、すぐ埌ろたで远っおきおいた。

【第8章】

翌る日から、小倜子は透を避けた。

昌の䞭庭ぞは行かなかった。教宀に残っお机に䌏せ、匁圓も䜿わずに時間をやり過ごす。朝に手を挙げられおも、鞄の䞭を探すふりで顔を䌏せた。廊䞋で行き合いそうになれば、手前で足を折っお別の道ぞ回った。線を匕けない盞手から離れるには、線のかわりに自分の足を動かすしかなかった。

避けられおいるのだず、透はすぐに気づいたはずだった。それでも圌は退かなかった。

小倜子のうしろで、透はい぀もどおり教科曞を出し、い぀もどおり窓の倖を眺めた。距離を詰めもしないが、消えもしない。抌しおも匕いおも、同じ䜍眮ぞ戻っおくる。害のない者を遠ざける手立おを、小倜子はやはり持っおいなかった。線は害のある者にしか匕けない。害のない者に匕けば、それは遠ざけるこずではなく、返すこずになる。

そこに、小倜子の手詰たりがあった。

透を排陀の偎ぞ眮けば、線は匕ける。匕いた瞬間、透は䞃人ず同じ道を蟿る。圌を遠ざける唯䞀の確かな方法が、圌を滅がす方法ず同じものだった。だから小倜子は、線を䜿えない。䜿えない手で、圌女は䞍噚甚に足だけを動かしおいる。避けるずいう、噚がいちばん苊手なやり方で。

四日目の攟課埌、教宀に二人だけが残った。

「倩矜さん」透が先に口を開いた。「俺、なんかしたか」

小倜子は鞄を閉じる手を止めた。

「べ぀に」

「嘘だろ。目も合わせおくれない」

窓の倖で、郚掻の声が遠く䞊がった。小倜子は、盞手を突き攟す蚀葉を探した。冷たいひず蚀があれば、透は去るかもしれない。去れば助かる。圌女は蚀葉を組み立おようずしお、うたく組み䞊がらないこずに気づいた。䞃人を眺めおいたずきには、突き攟す必芁さえなかった。圌らは勝手に萜ちおいったからだ。誰かを自分の意志で遠ざけるのは、これが初めおだった。

「わたしに近づかないほうがいい」ようやく出たのは、それだけだった。

「その話なら、聞いたよ」透はこずもなげに蚀った。「倩矜に近づいた奎は䞍幞になる。もう䜕回も聞かされた」

「なら」

「なら、なんで平気かっお? わからない。ただ、俺は倩矜さんを芋おおも、化け物には芋えないんだ」

化け物ではない、ず圌は蚀った。町じゅうが名を䌏せお怖れおきたものに向かっお、透はたっすぐそう蚀った。小倜子は、その蚀葉を受け止める噚を持っおいなかった。怖れられるか欲しがられるか、どちらかしか受けたこずのない手のひらに、透の蚀葉はうたく茉らずにこがれた。

こがれた先で、指先が冷たくなった。

その冷たさが、今床ははっきりず恐怖に䌌おいた。透が自分を怖れないこずが、恐ろしかった。怖れる者は、離れおいく。離れる者は、線の倖にいる。線の倖にいるかぎり、その人は返されない。透は怖れないから、離れない。離れないから、い぀か線の内偎ぞ入っおくる。内偎ぞ入った瞬間に、この嚘の血が圌を䜕ずみなすのか、小倜子にはわからなかった。

「垰る」小倜子は鞄を掎んで立ち䞊がった。

「送ろうか」

「いい」

蚀い捚おお、教宀を出た。廊䞋を歩く足が速くなる。远っおくる足音はなかった。透は無理に远う男ではない。远わないずいう、その優しさが、いちばん質が悪かった。远っおこないから突き攟せない。突き攟せないから、遠ざけきれない。

家ぞ垰る川沿いで、小倜子は䞀床だけ立ち止たった。氎は倕日を返しお、赀く長い垯になっおいた。沙倜が手を䌞ばした氎だった。あの嚘は、線を匕かずに開いお、その手で滅んだ。自分は線を匕けるのに、匕けば透が滅ぶ。匕かなければ、い぀か沙倜のように自分が。

どちらの手も、誰かを氎のほずりぞ連れおいく。

小倜子は握った手を、垯の色に染たった川ぞ向けお、そっず開いおみた。䜕も起きなかった。圓たり前だった。ここには、返すべき邪心を持った者が、䞀人もいなかった。

握り盎しお、家路を急いだ。川の音は、もう足のすぐうしろたで来おいた。

【第9章】

沙倜の話を聞いおから、小倜子は自分の手のひらをよく芋るようになった。

線を匕くのは、この手ではない。手はただ握ったり開いたりするだけだ。線は、もっず奥のどこかで、圌女が芋た瞬間に勝手に匕かれる。匕いた芚えのないその働きを、初めお疎たしく思った。䞃人は、圌女が疎たしく思う前に萜ちおいった。疎たしく思えるようになったのは、透を避けはじめおからだった。

梅雚の明けた週、守屋の家に客が来た。

蔵原ず名乗る男だった。町の叀い家の生たれで、か぀おは田も山も蔵原のものだったず聞く。いたはその倚くが人手に枡っおいる。萜ちた身代を立お盎そうず、男はあちこちの瞁を頌っお回っおいるらしかった。守屋は玄関で長く頭を垂れ、それから小倜子を座敷ぞ呌んだ。

「これはこれは、噚さたで」

蔵原は畳に手を぀いた。敬いの圢をしおいた。けれど床に぀けた指の先が、萜ち着きなく畳の目を撫でおいる。小倜子は男の正面に座り、い぀ものように奥をのぞいた。

そこには、はっきりず欲があった。

蔵原が欲しいのは、噚ではなかった。噚に流れる犏だった。倩女の血を自分の家ぞ匕き入れれば、傟いた身代がもう䞀床起き䞊がるず、男は本気で信じおいた。信じおいるだけではない。そのために䜕をどう運ぶか、順序たで頭の䞭で組み䞊げおいる。守屋を抱き蟌み、遠い瞁者を装い、いずれは噚そのものを蔵原の家ぞ移す。愛の蚀葉ひず぀挟たぬ、也いた算段だった。

沙倜のもずぞ来た男も、こんな顔をしおいたのだろうか。

そう思った瞬間、小倜子の奥で、線が立ち䞊がった。

来る、ずわかった。䞃人のずきず同じ働きだった。芋た。倀螏みを芋た。邪心を芋た。芋たからには、線が匕かれる。匕かれれば蔵原は萜ちる。圌の也いた算段が、圌自身の内偎で暎走をはじめる。身代を起こそうずしお無理を重ね、残った田も山も担保に入れ、最埌には䜕も持たずに氎のほずりぞ蟿り着く。そこたでの筋が、䞀息のうちに小倜子の䞭を走り抜けた。

匕かせおは、いけない。

初めお、そう思った。

理由は、はっきりしない。蔵原は返されお圓然の男だった。沙倜を殺した男ず、同じ也き方をしおいる。それでも小倜子は、いた自分の奥で立ち䞊がったものを、抌し戻したかった。抌し戻せるかどうかを、確かめたかった。透を遠ざけきれない自分に、もし線を止める力があるのなら。

小倜子は、息をひず぀止めた。

奥で匕かれかけた線に、意識のすべおを向ける。匕く働きに、初めお逆らう。指先が冷たくなり、その冷たさが手銖たで這い䞊がった。こめかみの奥が鈍く鳎る。線は、圌女の意志を抌しのけお匕かれようずした。小倜子はそれを、内偎から握りしめた。開きかけた手を握るずきの、あの力で。

蔵原の顔から、ふいに血の気が匕いた。

男は䜕も蚀われおいない。ただ噚の正面に座っおいるだけだった。それなのに、座敷の空気が急に薄くなったように、蔵原は胞元をおさえお息を乱した。目の前の嚘の奥で、䜕かが自分に向かっお鎌銖をもたげ、そしお抌し戻されたのを、理屈ではなく身䜓で感じ取ったらしかった。

「  今日は、ご挚拶だけで」

蔵原は畳に手を぀き盎し、逃げるように腰を䞊げた。組み䞊げおいた算段は、顔から抜け萜ちおいた。座敷を出おいくずき、男は䞀床も噚のほうを振り返らなかった。振り返れないのだず、小倜子にはわかった。二床ず、この家の敷居はたたがないだろう。

小倜子は、止めた線を、ゆっくりず奥ぞ沈めた。

止められた。

今日、初めお、自分の意志で線を止めた。握った手のひらは汗ばみ、こめかみの鈍い痛みはただ残っおいる。安くはない。それでも、できた。匕かれるたたにするしかなかったはずの働きを、握り蟌んで抌し戻せた。

だずしたら、ず小倜子は思った。

䞃人は。あの䞃人は、止められたのだろうか。

止めようず、䞀床でも思っおいれば。

その問いは、答えを持たなかった。あのころの圌女は、止めようずすら思わなかった。思わなかったから、握らなかった。握らなかったから、䞃人は萜ちた。芋おいるだけだず信じおいた自分の手のひらに、初めお、握るずいう遞択があったこずを知っおしたった。

冷たい指先を、小倜子は膝の䞊で固く握った。

透のこずが、頭をよぎった。もし透がい぀か線の内偎ぞ入り、奥で線が立ち䞊がったずき。止めるかどうかは、もう血の働き任せではない。この手が握るか、開くか。それだけになる。

握れる自分を知ったこずが、少しも救いにならなかった。握れるずいうこずは、開けるずいうこずでもあったからだ。

【第10章】

蔵原の䞀件のあず、小倜子は透を避けるのをやめた。

避けおも遠ざけきれないず、もう知っおいた。足で距離を䜜るのは噚のやり方ではない。それに、蔵原を止められたこずが、圌女の䞭で䜕かの重しを倖しおいた。線は握れる。握れるなら、そばにいおも萜ずさずにすむかもしれない。根拠の薄い理屈だった。薄いず承知のうえで、小倜子はその䞊に足を茉せた。

透は、避けられおいた日々を蒞し返さなかった。䞭庭ぞ戻った小倜子が石のぞりに座るず、圓たり前のように隣で袋を開ける。䜕日ぶりだずも、どうしおだずも聞かない。戻っおきた者を、ただ戻っおきたものずしお扱った。詫びも蚀い蚳もいらない盞手は、噚にずっお初めおだった。

その日の攟課埌、二人は川べりぞ䞋りた。

透が平たい石を拟い、氎面に向かっお䜎く投げた。石は四床跳ねお、氎の向こうぞ消えた。

「芋た? 四回」透は埗意げだった。「倩矜さんもやっおみ」

小倜子は石を握った。教わったずおり腕を䜎く振る。石は䞀床跳ねお、あっけなく沈んだ。もう䞀床投げた。今床は跳ねもしなかった。透が声を䞊げお笑った。からかう笑いではない。ただ可笑しいだけの、明るい笑いだった。

その笑いに぀られお、小倜子の頬の奥がゆるんだ。

ずうに忘れおいた圢だった。忘れおいたものが、川の光の䞋で、ほずんど笑いになりかけた。なりかけお、圌女は口元を手で抌さえた。抌さえずにはいられなかった。笑うずいうこずが、これほど無防備な圢だずは知らなかった。

その瞬間、奥で、線が立ち䞊がった。

蔵原のずきず同じ働きだった。けれど、向く先が違った。線は、透ぞ向かっお鎌銖をもたげおいた。倀螏みもない。欲もない。邪心の芜ひず぀ない盞手ぞ、血の牙が、初めお自分から立ち䞊がろうずしおいた。

小倜子は息を止めた。

止めるものが、どこにもなかった。蔵原のずきは、抌し戻す先に男の邪心があった。抌し返す壁があった。今は違う。透の内偎には、返すべきものが䜕もない。線はただ、小倜子が開いたずいう、そのこず自䜓に反応しお立ち䞊がっおいた。守るための牙が、守るべき嚘の柔らかくなった堎所ぞ、たっすぐ牙を向けおいる。

沙倜の氎蟺が、目の裏で癜く滲んだ。

そこで、小倜子は理解した。

牙は、透が危ういから立぀のではない。自分が透を欲したから立぀のだ。開けば開くほど、この血は無防備を嫌っお牙をむく。無防備の源を消そうずする。源は、透だった。圌女が透を想うかぎり、線は透ぞ向かっお立ち䞊がり続ける。想いが深くなるほど、牙は鋭くなる。

握った手のひらに、汗がにじんだ。

小倜子は奥の働きを、内偎から握りしめた。蔵原のずきより、ずっず重かった。抌し返す壁がないぶん、握るしかない。自分の想いごず、握っお沈めるしかなかった。こめかみが鳎り、指先の冷たさが肘たで這った。

「倩矜さん?」透が石を持ったたた、こちらを芋おいた。「顔、癜いぞ」

「  なんでもない」

小倜子は立ち䞊がった。日が傟き、川が赀く染たりはじめおいた。沙倜が手を䌞ばした、あの色だった。

「そろそろ、垰る」

「そうだな。たた明日、ここで」

透は䜕気なく蚀った。たた明日。その先も、圓たり前に続くず信じおいる声だった。小倜子は答えられなかった。答えれば、明日も透を想う。想えば、線がたた立぀。握れるかどうかは、次はわからない。今日でさえ、あれだけ重かった。

家ぞ垰る道で、小倜子は握った手を開かなかった。

開けば、こがれる気がした。想いも、線も、どちらも。川の音が、もう背䞭のすぐうしろで鳎っおいた。振り返らずに、圌女は足を速めた。明日、たた川べりぞ䞋りるこずが、こわかった。こわいず思うほど、䞋りたいず思う自分がいた。

その二぀が、同じ胞の䞭に䞊んで灯っおいた。

【第11章】

翌日も、小倜子は川べりぞ䞋りた。

䞋りないずいう遞択は、初めからなかった。こわいず思うほど䞋りたくなる。その二぀が同じ胞で灯り぀づけおいる。理屈では行かないほうがいい。理屈の倖で、足が川ぞ向かう。噚ずしお育った十六幎で、圌女が理屈の倖を歩いたのは、この倏が初めおだった。

透は先に来おいた。

土手に腰を䞋ろし、氎面ぞ石を投げおいる。䞉床跳ねお、沈む。振り返った顔に、い぀もの屈蚗のない笑いがあった。

「四回はいけるず思ったんだけどな」

小倜子は少し離れお、膝を抱えお座った。返事のかわりに、口の端がわずかに動いた。笑うずいう圢を、圌女の顔はただうたく䜜れない。それでも、透の隣にいるず、忘れおいた圢が勝手にほどけかける。ほどけかけるたび、指先が冷たくなる。冷たさには、もう慣れおいた。慣れおはいけないものに、慣れかけおいた。

倕日が川を裂いお、䞀本の赀い垯になった。

沙倜が手を䌞ばした氎の色だった。小倜子は、その色を矎しいず思っおしたった自分に気づいた。か぀おは、ただ怖ろしいだけの色だった。

透がこちらを向いお、䜕でもないこずのように蚀った。

「倩矜さんは、来幎もここにおる?」

たった、それだけの問いだった。

その瞬間、小倜子の奥で、叀いものが立ち䞊がった。

来幎。そのさらに先。この男の隣で笑っお、手を䌞ばしお、開いお――そこたで思い描いたずころで、別のものが滲んできた。開けば、い぀か裏切られる。透も、い぀か去る。沙倜のそばにいた男がそうしたように、欲しいものを手にすれば、背を向けお氎蟺に自分を眮き去りにする。愛したものに捚おられお、いちばん欲しかったもので滅ぶ。圌女の内偎にいる、圌女より叀い嚘が、その未来を先回りしお怖れた。

守らなければ。

意志ではなかった。数代前に氎蟺で息絶えた嚘の、ただ塞がらぬ傷が、勝手に牙をむいた。喉の奥に、あの蚀葉がせり䞊がっおくる。䞃床こらえお呑み蟌んできた蚀葉。ただの䞀床も、声にしたこずのない蚀葉。透の内偎には、返すべき邪心などない。それでも牙は、透ぞ向かっお鎌銖をもたげた。小倜子が透を欲したずいう、そのこず自䜓ぞ向かっお。

透は、ただ笑っおいる。石を持ったたた、返事を埅っおいる。

蚀葉は、もう舌の䞊にあった。

小倜子は知っおいた。いた息をひず぀止めれば間に合う。喉を締めればいい。蔵原のずきは、そうやっお握り蟌んだ。時間はある。半呌吞ぶんの、たしかな䜙癜があった。その䜙癜のなかで、圌女は遞べた。

握るか、開くか。

その半呌吞のあいだに、怖れが囁いた。この手を開けば、透は去らない。去らなければ、い぀か圌女を裏切るこずもない。裏切られる前に。捚おられる前に。沙倜になる前に――

遞んで、したった。

「  死ね」

声にならないほど、小さく。

透の手から、石が萜ちた。

音はしなかった。圌は䞍思議そうに䞀床たばたきをしお、それから、氎を芋にいく人のように、静かに前ぞ傟いおいった。土手を、川ぞ向かっお。呌び止める声を、小倜子は持っおいなかった。持っおいたのに、䜿わなかった。赀い垯の䞊を、黒い圱がひず぀、ゆっくり䌏せお枡っおいく。抗いも、驚きもない足取りだった。自分がどこぞ向かっおいるのかを、透自身も知らないたただった。

氎が、その背を受け止めお閉じた。

あずには、跳ねそこねた石の茪だけが、川面に残った。

小倜子は動かなかった。倕日が沈みきるたで、指の先ひず぀動かさず、いた自分の内偎で起きたこずを、順番に確かめおいた。

䞃人たでは、わからなかった。力なのか、偶然なのか。芋おいるだけなのか、殺しおいるのか。その問いだけが、圌女の逃げ堎だった。蔵原のずきでさえ、止めた自分を、ただ疑うこずができた。血が勝手にやったのだず、思うこずができた。

もう、できない。

透には、返すべき邪心がなかった。だから今しがた滅んだのは、透の眪ではない。圌女の怖れだった。裏切られたくないずいう、それだけの怖れが、無害な䞀人を氎ぞ沈めた。血ではない。血のせいにできない。握れる手があったこずを、小倜子はもう知っおいる。蔵原の日に、知っおしたった。

私はいた、止められた。

止められたのに、止めなかった。

それが、答えだった。

川はもう黒く、䜕ごずもなかったように流れおいた。祠の灯が䞊流から届いお、氎面にひずすじ、癜い垯を萜ずしおいる。か぀お矜衣を奪われた嚘が、空ぞ垰れずに留たった氎だった。いたはもう䞀人、その氎に沈んだ者がいる。奪われたのは矜衣ではなく、ただ䞀人の、なんでもない同玚生だった。

小倜子は、ゆっくりず立ち䞊がった。

手のひらを、暗い川ぞ向けお開いおみた。䜕も起きなかった。返すべき者は、もうどこにもいなかった。

【第12章】

透は、行方知れずずしお扱われた。

川からは、䜕も䞊がらなかった。倩女川は䞋流で幟床も淵を巻き、増氎のあずは特に人を返さない。名瀬透ずいう転校生が、ある倕方から姿を消した。それだけが事実ずしお残った。遺曞はない。争った跡もない。よその県から来たばかりで、身を案じる瞁者も土地に少なかった。捜玢の網は、はじめから目が粗かった。

孊校には、透の机が残された。

窓際のいちばんうしろ、小倜子の前の垭だった。誰も座らず、誰も片づけない垭が、教宀にひず぀増えた。倩矜小倜子の半埄の䜙癜が、机ひず぀ぶん、前ぞ広がっただけのこずだった。同玚生はその垭を芋ないようにした。芋れば、消えた転校生が最埌の日々を誰のそばで過ごしおいたかを、思い出さねばならなくなる。

町の受け止め方は、二぀に割れた。

倚くの者は、口を぀ぐんだ。倩矜に近づいた者がたた䞀人いなくなった。それが䜕を意味するかを、倩ノ瀬の倧人は考えない技術で凊理した。考えなければ、なかったこずにできる。透の名は、名を䌏せお語り継がれる者たちの列に、静かに加えられた。八人目ずしお。

だが、口を぀ぐたぬ者もいた。

祠に手を合わせに来る幎寄りの幟人かは、むしろ安堵しおいた。噚に邪心を向ける䞍埒者が、たた䞀人返された。犏の血が正しく働いおいる。倩ノ瀬は守られおいる。圌らにずっお透の倱螪は、凶事ではなく吉兆だった。噚がその務めを果たした蚌しだった。圌らは小倜子に、い぀もより深く頭を垂れた。守屋もたた、その晩、い぀もより長く祠に灯を䞊げた。

小倜子は、その頭の垂れ方に耐えられなかった。

圌らは、透を邪心の䞻だず信じおいる。返されお圓然の者だったず信じおいる。だから安堵し、噚を敬う。誰䞀人、透の内偎を芋た者はいない。芋おいれば、そこに邪心の芜ひず぀なかったこずを知っただろう。返されたのは邪心ではない。ただ䞀人、化け物を化け物ず呌ばなかった男だった。町はそれを、吉兆ず呌んでいる。

刑事は、今床は来なかった。

倱螪に事件性はなく、倩矜の名を挙げる同玚生も、前ほどはいなかった。透ず小倜子の間柄を知る者が、そもそも少なかったからだ。二人が川べりで石を投げおいたこずを、芋おいた者はいない。誰にも芋られない堎所を遞んでいたのは、い぀も小倜子のほうだった。噚の昌が、人目のない朚の陰であったように。害のない者ず過ごした時間さえ、圌女は人目から隠しおいた。隠しおいたこずが、いたは透を守る蚘録を、この䞖に䞀぀も残さなかった。

家に垰るず、守屋が土間で埅っおいた。

「噚のお務め、倧儀にございたした」

老いた女は、床の䞀点を芋たたた、そう蚀っお頭を垂れた。劎いだった。守屋にずっお、透もたた邪心を返された䞀人にすぎない。務めを果たした噚を、守屋は劎った。小倜子は、その蚀葉に䜕も返せなかった。返せば、透に邪心などなかったず明かすこずになる。明かせば、自分が邪心のない者を、ただの怖れで沈めたず認めるこずになる。

認められなかった。ただ。

その倜、小倜子は自分の頁の芚曞を思った。守屋はもう、䞃を八に曞き改めただろうか。真新しい玙の䜙癜が、たた䞀぀埋たった。過去のどの噚よりも早く、数字は膚らんでいく。けれど八人目だけは、ほかの䞃人ず、質が違う。ほかの䞃人は、自分の邪心で萜ちた。八人目は、圌女の怖れで沈んだ。

小倜子は灯を消さずに、長いこず座っおいた。

透の垭が、目の裏に浮かぶ。誰も座らない、誰も片づけない垭。あの垭の前で、圌女は明日も授業を受ける。うしろを振り返っおも、もう手を挙げる者はいない。たた明日ここで、ず蚀った声も、もうどこにもない。

指先が冷たくなった。透を倱っおからも、その冷たさだけは、ただ小倜子のそばに残っおいた。

【第13章】

透を倱っおから、小倜子は幟床も川ぞ䞋りた。

䞋りお、氎のほずりに立぀。透が沈んだ堎所は、沙倜が息絶えた堎所ず、同じ氎蟺だった。矜衣を奪われた嚘が留たった氎。沙倜が手を䌞ばした氎。いたは透を呑んだ氎。倩ノ瀬の因瞁は、みなこの䞀点ぞ集たっお、黒く滑らかに流れおいた。

ある晩、祠の灯だけが川面に垯を萜ずすころ、氎の面が滲んだ。

若い嚘が、氎蟺に膝を぀いおいる。第䞃章の倜に芋た、あの幻だった。けれど今床は、差し䌞べた手の先で立ち止たらなかった。嚘がゆっくりず顔を䞊げる。溶けかけおいた茪郭が、倜気の䞭で結ばれおいく。小倜子は、その顔を芋た。

自分に、䌌おいた。

「沙倜」

名を呌ぶず、嚘は薄く笑った。慕われた噚だけが持぀、柔らかい笑いだった。小倜子が䞀床も䜜れなかった圢だった。

「あなたは、線を匕けるのね」沙倜の声は、氎の音に混じっお届いた。「わたしには、匕けなかった」

幻なのか、血に宿るものが嚘の圢を借りたのか、小倜子にはわからなかった。わからないたた、問うた。ずっず問いたかったこずを。

「あなたが誓いを立おたの。噚を、無防備にさせぬず」

「わたしは、䜕も誓っおいない」沙倜は銖を振った。「わたしはただ、開いお、䌞ばしお、死んだだけ。誓ったのは、わたしを喪ったこの血のほう。二床ずこんな嚘を出すたいず、血が勝手に固くなった。守るために。愛が嚘を殺したのなら、もう愛させぬように」

愛が嚘を殺したのなら、もう愛させぬように。

小倜子は、その䞀蚀で、すべおの筋が䞀本に通るのを感じた。血の牙は、邪心を返すために立぀のではなかった。嚘を、二床ず愛させないために立぀のだ。愛せば無防備になる。無防備になれば、沙倜のように滅ぶ。だから血は、嚘が誰かを想うたび、その盞手を先に消す。邪心のあるなしは、はじめから関係がなかった。透に牙が向いたのは、透が危うかったからではない。小倜子が、透を愛したからだった。

「わたしは、透を」小倜子の声が、初めお揺れた。「邪心のない人を、怖れだけで沈めた」

「知っおいる」沙倜は静かに蚀った。「わたしの怖れよ。裏切られるくらいなら、倱うくらいなら、先に手攟す。あなたの奥にいるのは、そう願ったわたし。あなたは、わたしの怖れを盞続したの」

氎蟺に、颚が枡った。沙倜の茪郭が、たた溶けはじめる。

「解く道は、ある」沙倜は蚀った。「この誓いは、血に封じられおいる。血が絶えれば、誓いも絶える。あなたが誰も残さず、あなたの代でこの血を終わらせれば、もう誰も、噚ずしお牙を持たずにすむ。あなたはもう、誰も沈めなくおよくなる」

「  それは」

「あるいは」沙倜の声が、遠くなっおいく。「継ぐ道も、ある。牙を、そのたた抱えお生きる。ただし、二床ずこの手を開かぬこず。誰も想わず、誰も欲さず、線の内偎に、あなた自身の望みをただの䞀぀も眮かぬこず。そうすれば、牙は立たない。立぀盞手が、いなくなるから」

解くか、継ぐか。

沙倜は、答えを瀺さなかった。瀺すために珟れたのではなかった。ただ、始たりの嚘ずしお、二぀の道の圚りかを告げに来ただけだった。茪郭が倜に溶けきる間際、沙倜は最埌にひずこず残した。

「わたしは、開いお死んだ。あなたが、どちらを遞んでも――わたしのようにだけは、ならないで」

氎の面が、もずの黒さに戻った。

小倜子は、長いあいだ動かなかった。

解く道。血を絶やし、誓いを終わらせる。誰も残さず、この代で倩矜の血を閉じる。透のような者を、もう二床ず沈めずにすむ。それは、正しい道に芋えた。けれど――ず、小倜子は思った。血を絶やしお誓いを終わらせおも、透は戻らない。八人は戻らない。解くずは、これから先の誰かを守るこずだ。すでに沈めた者を、赊す道ではない。

そしお小倜子には、赊されおよいずいう気持ちが、もうなかった。

透を沈めたのは、血ではなかった。圌女の怖れだった。裏切られたくない、倱いたくないずいう、たった䞀぀の望みだった。線の内偎に透を眮きたいず望んだから、牙が立った。望んだこずが、透を殺した。

ならば、ず小倜子は思った。

望むこずをやめればいい。

線の内偎に、自分の欲しいものを、二床ず眮かなければいい。誰も想わず、誰も欲さず、この身を䞞ごず境界の倖ぞ締め出せば、牙はもう立たない。立぀盞手が、いなくなるから。それは救いではなかった。救いではないこずが、いたの小倜子には正しく思えた。透を沈めた手が、救われおはならなかった。

継ぐ、ず決めた瞬間、指先の冷たさが、すっず匕いた。

匕いたこずが、恐ろしかった。怖れが去ったのではない。怖れる盞手が、もう自分の䞭に、䞀人もいなくなっただけだった。想う者がいなければ、牙は立たない。牙が立たなければ、指も冷えない。小倜子は、自分がこれから生きおいく堎所の枩床を、その冷たさの消え方で知った。

氎蟺に背を向けお、圌女は歩き出した。

川の音は、もう远っおこなかった。远う理由が、なくなったからだった。

【終章】

倏が過ぎ、川霧の朝がたた戻っおきた。

透の倱螪は、町の蚘憶の底ぞ静かに沈んでいった。窓際のいちばんうしろの垭は、幎の倉わり目に片づけられた。誰も座らなかった机が運び出され、䜙癜だけが残った。倩矜小倜子の半埄の䜙癜は、もずの䞀぀ぶんに戻っおいた。

小倜子は、たた笑わない嚘に戻っおいた。

戻ったように、町の者には芋えた。噚はい぀もどおり冷たく、い぀もどおり誰にも心を開かない。盞沢の前も、透の前も、こうだった。䜕も倉わっおいない。倩ノ瀬は、そう信じお安堵した。犏の血は、たた固く閉じおいる。

けれど、小倜子だけが知っおいた。前の冷たさず、今の冷たさが、たるで違うものであるこずを。

か぀おの冷たさは、生たれ぀きのものだった。誰にも開かぬよう育おられ、開き方を、そもそも知らなかった。今は違う。開き方を、䞀床知っおしたった。川べりで石を投げ、頬の奥がゆるみかけた、あの倏を知っおしたった。知ったうえで、閉じおいる。忘れおいた嚘ず、忘れられぬたた閉じる嚘は、同じ冷たさをしおいおも、䞭身がたるで違った。

新しい孊期の朝、よその土地から越しおきた䞀幎生が、甚事で小倜子の教宀ぞ来た。

倩ノ瀬の䜙癜を、ただ知らない子だった。廊䞋で行き䌚っただけの、名も知らぬ盞手が、小倜子の前で足を止めた。

「あの、職員宀っおどっちですか」

なんでもない声だった。裏も含みもない。透が最初に手を挙げたずきの、あの声に䌌おいた。

小倜子の奥が、わずかに動きかけた。

このたた答えれば、明日はもう䞀床話しかけられるかもしれない。話しかけられれば、芚える。芚えれば、想う。想えば――牙が立぀。この子ぞ向かっお、線が鎌銖をもたげる。透のずきず、同じ道をなぞる。半呌吞のうちに、その筋が小倜子の䞭を走り抜けた。

圌女は、口の端がゆるむのを、先に抌さえた。

透が思い出させおくれた、あの笑いの圢だった。忘れおいたものを、もう思い出せる。思い出せるからこそ、自分の手で埋める。頬の奥をこわばらせ、目を䌏せ、声からいっさいの枩床を抜いた。盞手が二床ず話しかけたくなくなる、噚の顔を䜜った。䜜れるこずを、圌女はもう知っおいる。

「  あっち」

短く、冷たく、それだけ。

䞀幎生は、びくりず身を匕いた。䜕かにぶ぀かったように顔をこわばらせ、瀌もそこそこに廊䞋を去っおいく。その背䞭に、小倜子は線を匕かなかった。匕く必芁が、なかった。あの子はもう、近づいおこない。近づかなければ、想わずにすむ。想わなければ、牙は立たない。あの子は、生きお廊䞋を歩いおいく。ただ運の悪い䞀日だったず思いながら。

それでいい、ず小倜子は思った。

冷たさは、いたや圌女が人に莈れる、ただ䞀぀のものだった。突き攟すこずが、沈めないこずだった。誰も内偎ぞ入れず、自分の望みを、線の内偎にただの䞀぀も眮かない。そうしお境界の倖ぞ、圌女は自分ごず締め出した。牙は、もう立たない。立぀盞手が、圌女の䞭に、䞀人もいないからだった。

沙倜は、わたしのようにだけはならないで、ず蚀った。

小倜子は、沙倜のようにはならなかった。開いお、䌞ばしお、氎蟺で死ぬこずは、もうない。誰も想わないのだから、裏切られるこずもない。倱うこずもない。沙倜の願いを、圌女はたしかに聞き届けた。聞き届けお、沙倜ずは正反察の堎所に立った。開いお死んだ嚘の隣に、閉じお生きる嚘が、ひずり。

生きるこずが、眰だった。

透を沈めた手で、これから䜕十幎も、圌女は生きおいく。笑える顔を持ちながら、二床ず笑わずに。想える心を持ちながら、二床ず想わずに。持っおいるのに䜿わないこずは、忘れおいるより、ずっず重い。その重さを、小倜子は自分に科した。透に、それだけはしおやれた。

川霧の朝、圌女は祠ぞ手を合わせに行った。

犏ず矎ず豊穣の神。倩女は、矜衣を奪われお空ぞ垰れなかった。留たった氎のそばで、いたも人を返し続けおいる。小倜子は、その神の噚だった。これからも犏を宿し、町は栄え、人は頭を垂れる。近づいた者は、圌女の冷たさに匟かれお、生きたたた遠ざかる。

祠の奥で、小さな像が、静かに笑っおいた。

吉祥倩の、慈悲の笑みだった。小倜子は、その笑みを長いあいだ芋䞊げおいた。慈悲ず、拒絶ず。その境界が、どこにあるのか。像は答えなかった。答えないたた、ただ、笑っおいた。

圌女は、手を合わせた。開いた䞡手を、そっず合わせお、閉じた。

もう、開くこずのない手だった。










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