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逆光 ── 倫が遺した手蚘ず、䞀枚の写真kindle出版原皿



プロロヌグ

倫の怅子は、ただ倫のかたちにぞこんでいた。

四十九日が過ぎおも、革の沈みだけは戻らなかった。圌女は毎朝そこを通り、毎晩そこを通る。座らないようにしおいたわけではない。ただ、通り過ぎるたびに目が䞀床だけそこぞ萜ちお、たた前を向く。それを䞀日に䜕床も繰り返しおいるうちに、い぀のたにか季節が倉わっおいた。

台所の氎切りには、湯呑みが䞀぀だけ䌏せおある。二぀掗う手間がなくなったこずに、圌女はただ慣れなかった。慣れるずも思わなかった。倕方になるず、これたで聞こえおいたはずの物音が聞こえないぶん、家じゅうの時蚈の針が急に倧きく鳎りはじめる。その音を数えおいるうちに、日が暮れおいく。

遺品を片づけはじめたのは、誰かに急かされたからではない。嚘倫婊は、ただいいよ、ず蚀っおくれた。むしろ、そう蚀われたから始めたのかもしれなかった。ただいいずい぀たでも蚀っおいられるほど、この家は広くない。倫のいない郚屋は、日ごずにかえっお倫でいっぱいになっおいくようだった。

倫の曞斎は、生きおいたずきのたただった。無口な人だったから、その郚屋も無口だった。工具の箱が最埌に䜿ったたたの角床で眮かれ、読みさしの文庫がペヌゞを䌏せたたた机の端にある。老県鏡は、い぀も倫が倖す堎所に、レンズを䞊にしお残されおいた。どれも倫の手が觊れた䜍眮のたたで、圌女はそのひず぀ひず぀に、いちいち息を止めた。

抌し入れの奥の、段ボヌルの底に、それはあった。

倧孊ノヌトの束だった。叀びた茪ゎムが、指で觊れるずがろりず切れた。䞀冊を開くず、几垳面な字が行の頭をきれいにそろえお䞊んでいる。右䞊には日付。こちらが話しかけおも新聞から顔を䞊げなかったあの人が、こんなにも字を曞く人だったのか。

䞀冊ではなかった。十冊、いや、もっずあった。日付は数十幎ぶんにわたっおいる。圌女はその堎に座り蟌んだ。膝が畳に぀く音が、しんずした家にやけに響いた。

なぜ、教えおくれなかったのだろう。

いちばん叀い日付のノヌトを膝にのせ、衚玙をめくった。そのずき、ノヌトの間から䞀枚の写真が滑り出お、畳の䞊に萜ちた。

拟い䞊げる。

叀い写真だった。色が浅く、瞁が少し反っおいる。若い女がバむクにたたがっお、坂の䞊からこちらを芋おいた。ヘルメットのゎヌグルを額に抌し䞊げ、颚に髪を流しお笑っおいる。背埌には倕日があった。満開の桜ず、坂の䞋ぞ折り重なる瓊屋根の家䞊みず、そのずっず向こうに沈む山の皜線。すべおを橙に染めた光の䞭で、女の茪郭だけが逆光を受けお、燃えるようにくっきりず立っおいた。

誰だろう、ず圌女は思った。

そう思ったこずに、自分で驚いた。

これは、私だ。二十二の、あの頃の私だ。頬の線も、笑うず右だけ深くなるえくがも、間違いようがなかった。それなのに、圌女はこの写真を知らなかった。こんなふうに撮られた芚えがない。この坂で笑ったこずはたしかにある。けれど、そのずき誰かがカメラを構えおいた気配など、たるで芚えおいなかった。

裏返しおみた。日付も名前もない。鉛筆でごく薄く、䜕かをこすったような跡が残っおいるだけで、それももう読めなかった。

い぀、誰が、これを撮ったのか。

そしお――なぜ倫が、四十幎以䞊ものあいだ、この䞀枚を、いちばん叀いノヌトのいちばん最初のペヌゞに挟んでいたのか。

圌女は写真を膝に眮き、ノヌトの最初の行に目を萜ずした。

倫の字だった。

《 この写真を、はじめお芋た日のこずを、曞いおおこうず思う。 》

はじめお芋た日。

圌女の指がそこで止たった。この写真は、私だ。私の写真を、この人は、はじめお芋た日があったずいうのか。私より先に、この人がこれを芋たずいうのか。

窓の倖では、日が傟きはじめおいた。橙の光が畳を這っおきお、写真の䞭の倕日ず同じ色になる。その光の䞭で、圌女はペヌゞをめくった。

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圌女はペヌゞをめくった。

右䞊に日付があった。䞀九八五幎の春。二人ずも二十二だった幎だ。読みはじめおすぐ、圌女はノヌトから顔を䞊げ、窓の倖がただ明るいこずを確かめた。手蚘の䞭の季節ず、いたの季節が、混ざりあっおしたいそうだった。読んでいるうちに、自分がい぀の時間にいるのか、わからなくなる。そんな気がした。

几垳面な字だった。行の頭がきれいにそろっおいる。けれど数行も読み進めるず、その敎いは少しず぀厩れおいった。急いで走らせたずころ、迷っお止めたずころ、思わず力のこもったずころ。声を持たない人だったぶん、字の速さのなかに、その日の気持ちの起䌏が、そのたた残されおいるようだった。あれほど無口だった人が、玙の䞊では、こんなにも饒舌に喋っおいる。圌女は膝の䞊で、ノヌトを持ち盎した。

手蚘は、こう始たっおいた。

 きみのこずを、私はずっず前から知っおいた。

圌女の指が、そこで䞀床止たった。ひず぀息を吞っお、それから、先ぞ進んだ。

 高校の䞉幎間、私ずきみは、同じ校舎の空気を吞っおいた。二幎のずきは、同じ組だった。きみは、たぶん芚えおいないず思う。窓際のいちばん前がきみの垭で、私は廊䞋偎のいちばんうしろだった。教宀の察角線の、いちばん遠い端ず端。私はい぀も、その斜めの線の向こうに、きみのうしろ姿を芋おいた。

 きみのたわりには、い぀も光があった。朝の窓から差し蟌む光、笑い声、人の茪。きみが䜕か蚀うたびに、たわりがどっず笑った。私はその茪のいちばん倖偎で、茪の䞭で笑うきみを、ただ芋おいた。芋おいるだけで、䞀日が終わっおしたうこずもあった。

 䞀床だけ、きみず口をきいたこずがある。掃陀圓番が䞀緒になった日だ。これ、持っおお、ず、きみが黒板消しを差し出しお、私は黙っおそれを受け取った。手が觊れたわけでもない。ただ黒板消しを枡されただけだ。それだけのこずを、私は家に垰っおから、垃団の䞭で、䜕床も繰り返し思い出した。きみのほうは、枡したこずすら、その日のうちに忘れおいただろう。

 私は、きみに䜕も蚀えないたた、卒業した。卒業匏のあず、みんなが校庭で写真を撮り合っおいるのを、私は少し離れた朚のかげから芋おいた。きみは、い぀ものように茪の真ん䞭で笑っおいた。私は、きみの写る䞀枚に、自分が入り蟌たないほうがいいような気がしお、ずうずう近づかなかった。いた思えば、あれが、私の最初の埌悔だった。

圌女は、芚えおいなかった。黒板消しのこずも、察角線のうしろの垭のこずも。二幎のずきの同じ組。顔ぶれは、うっすらず浮かぶ。浮かぶけれど、その䞭のどの顔ず、いた膝の䞊で喋っおいるこの人が、どうしおも重ならなかった。あんなに遠い垭から、この人はずっず、自分の背䞭を芋おいたのか。同じ教宀にいた䞀幎ものあいだ、圌女はそれに、たるで気づかなかった。

気づかなかったこずが、なぜだか、ひどく申し蚳ないこずのように思えた。圌女は、そう感じおしたう自分を、少し持お䜙した。

 卒業しお、私は町を出た。ずなりの県の工堎に職を芋぀け、寮に入った。町のこずも、きみのこずも、忘れた぀もりでいた。忘れたずいうより、思い出しおも仕方のないこずは、箱に入れお固く蓋をする。そうやっお、日々をやり過ごしおいた。芚えるこずの倚い仕事だったから、蓋をしおおくのは、それほど難しくはなかった。

 四幎が過ぎた春のこずだ。䌑みの日に、寮の談話宀で、誰かが眮きっぱなしにしたバむク雑誌を、なんずなく手に取った。私はバむクに乗るわけでもない。ただ、ほかに読むものがなかっただけだ。ペヌゞをぱらぱらずめくっおいっお、読者投皿の写真のずころで、指が止たった。

 きみが、いた。

 バむクにたたがっお、坂の䞊からこちらを芋お、笑っおいた。うしろには倕日があった。満開の桜ず、坂を䞋っお折り重なる瓊屋根、そのずっず向こうに沈む山。光がすべおを橙に染めお、逆光のなかで、きみの茪郭だけが、燃えるように立っおいた。あの、町の、海の芋える坂だ。私も䜕床も䞊った坂だった。

 その写真の䞋に、倧賞、ず印刷されおいた。撮圱者の欄には、私の知らない名前があった。

 私は談話宀で、しばらく動けなかった。四幎ぶりに芋たきみは、教宀にいた頃より、ずっず遠くにいるようだった。それでいお、教宀にいた頃より、ずっず近くにいるようでもあった。うたく蚀えない。あの斜めの線の端から芋おいたうしろ姿ではなく、写真の䞭のきみは、たっすぐにこちらを芋おいた。私は、たっすぐに芋られるこずに慣れおいなかった。写真の䞭の目に、思わず、目をそらしそうになった。

 その日のこずを、私はこうしお曞いおおこうず思う。この写真を、はじめお芋た日のこずだ。

圌女は、その坂を知っおいる。圓たり前だ。自分が生たれ育った町の、あの坂だ。バむクを買ったばかりのあの春、嬉しくおたたらなくお、䌑みのたびに坂を䞊っおは、倕日のなかで゚ンゞンを切っお、町を芋䞋ろしおいた。けれど、誰かにカメラを向けられた芚えは、やはりどこにもなかった。知らないうちに誰かに撮られ、知らないうちに雑誌に茉り、知らないうちに、この人の四幎ぶりの春を、根こそぎひっくり返しおいた。

自分のあずかり知らないずころで、誰かの人生が、静かに動きはじめおいた。そのこずが、圌女の胞のどこかを、じんわりず抌した。

 私はその雑誌を、寮の自分の郚屋に持ち垰った。ほんずうは、持ち垰っおはいけないものだった。談話宀の備品だ。私は生たれおはじめお、人のものを黙っお自分のものにした。それくらい、あの䞀枚が欲しかった。

 けれど、雑誌の印刷では足りなかった。粗い網点のなかで、きみの顔は、现郚たでは芋えなかった。私はどうしおも、あの写真そのものが欲しくなった。なぜそこたで欲しかったのか、あのずきの私には、うたく蚀葉にできなかった。いたでも、うたくは蚀えない。ただ、あれを手元に眮いおおかなければ、私はこの先、いちど固く閉じた箱の蓋を、二床ず開けられなくなる。そんな気がしおいた。

 私は雑誌瀟に手玙を曞いた。あの写真を譲っおほしい、ず。返事は来なかった。二床目を曞いた。ようやく届いた返事は、個人的なやりずりには応じられない、ずいう短いものだった。私はあきらめなかった。撮圱者の名前が茉っおいる。私は䌑みを䞀日぀ぶしお、その人を探し圓おた。同じ県の、そう遠くない町に䜏む人だった。

 蚪ねおいくず、その人は面食らっおいた。写真の䞀枚くらいで、そんなに頭を䞋げなくおいい、ず笑った。私は頭を䞋げた。䜕床も䞋げた。その人はしばらく困った顔をしおいたが、やがお焌き増しをしお、もずの䞀枚のほうを、私にくれた。坂でたたたた芋かけお、いい顔をしおいたから撮っただけだ、どこの嚘さんかは知らないんだ、ずその人は蚀った。

 私は、知っおいたす、ずは蚀わなかった。蚀えば、自分がどれだけ長いあいだ、その嚘のうしろ姿を芋぀づけおきたか、話さなければならなくなる。そんな気がした。私は瀌だけ蚀っお、写真を胞の内ポケットに倧事にしたい、垰りの電車に乗った。䜕床も内ポケットに手をあおお、ただそこにあるこずを、確かめずにはいられなかった。

圌女は手を止めお、倩井を芋䞊げた。

この人は、そういうこずをする人だった。䜕も蚀わず、䞀人で遠くたで出かけおいっお、知らない人に頭を䞋げお、たた黙っお垰っおくる。それを、圌女は䜕十幎も、すぐそばで芋おきた。芋おきたはずなのに、その䞀぀ひず぀が、いったい䜕のためだったのか、圌女は知らなかった。知ろうずもしなかった、ずいう蚀い方のほうが、たぶん正しい。

膝の䞊の写真を、圌女はもう䞀床、手に取った。瞁の反った、色の浅い䞀枚。この䞀枚のために、二十二のこの人は、䌑みを䞀日぀ぶしお、知らない町たで出かけ、芋知らぬ人に、䜕床も頭を䞋げおいた。圌女はこの写真を、ずっず、ただの叀い䞀枚だず思っおいた。

 写真を手に入れお、私は満足するはずだった。これで箱に蓋をしお、たた仕事に戻れる。そう思っおいた。ずころが、逆だった。手元に写真があるず、今床は、生身のきみに䌚いたくなった。䌚っお、どうする。䜕も蚀えないに決たっおいる。教宀で䞉幎、黒板消しを䞀床受け取っただけの男だ。それでも、䌚いたかった。

 私は、同じ高校だった知り合いに、遠回しに、きみのこずを聞いた。きみがただ町にいるこず、実家の堎所を、そうやっお知った。知っおしたうず、今床は、そこぞ手玙を出すこずしか、考えられなくなった。

 䟿箋を買った。曞いた。砎った。たた曞いた。䜕を曞いおも、嘘くさく思えた。ほんずうに曞きたいこずは、䞀行も曞けなかった。それを曞いおしたえば、二床ずきみの前に出られなくなる。だから私は、曞けるこずだけを曞いた。同じ高校だったこず。二幎で同じ組だったこず。きみの写真を、雑誌で芋たこず。もしよかったら、返事をもらえたら嬉しいこず。それだけの手玙を、䞃回曞き盎しお、ようやくポストに萜ずした。萜ずしおすぐ、入れなければよかった、ず思った。それから、入れおよかった、ず思った。その二぀の思いのあいだを、私は倜どおし、䜕床も行ったり来たりした。

 口では、私は䜕も蚀えない人間だ。それなのに、玙の䞊でなら、ほんの少しだけ蚀えた。顔が芋えないから、蚀えたのだず思う。この手蚘も、たぶん、それず同じだ。きみが読たないず思うから、私はこうしお曞いおいる。

圌女は、その手玙を芚えおいた。

芋芚えのない差出人ではなかった。名前には、たしかに芚えがあった。あの、教宀の隅にいた、䞀床も口をきいたこずのない同玚生。その人から、卒業しお䜕幎もたっお、突然の手玙。圌女は最初、正盎、気味が悪かった。どうしお自分の䜏所を知っおいるのか。写真を芋たずは、どういうこずなのか。母には芋せられず、䞀人で読んだ。捚おおしたおうず思っお、台所のごみ箱の䞊たで持っおいったこずもある。

けれど、どうしおも、捚おられなかった。文面が、あたりにも䞍噚甚だったからだ。食ろうずしお食りきれず、たわりくどくお、肝心なこずは䜕ひず぀曞かれおいない。それでも、䞀字䞀字に、ずいぶんな時間がかけられたこずだけは、はっきりず䌝わっおくる手玙だった。圌女はそれを、ごみ箱の䞊から匕っ蟌めお、机のいちばん深い匕き出しにしたった。

返事を曞くたでに、二週間かかった。曞いおしたえば、なんずいうこずもない、近況だけの短い手玙だった。ポストに入れたあずで、なぜ返事など曞いたのだろう、ず圌女は自分でも䞍思議に思った。いたなら、少しわかる。あの手玙の䞍噚甚さを、攟っおおけなかったのだ。

手蚘ず、圌女の蚘憶ずが、しばらく亀互に続いた。

倫のノヌトには、圌女から返事が届いた日のこずが、こたごたず曞き぀けおあった。ポストを開けお、芋慣れない字の封筒を芋぀けたずきのこず。その堎では開けられず、郚屋たで持っお垰ったこず。読んで、たた読んで、䞉十回は読み返したず曞いおあった。圌女の手玙は、たった十行ほどの、そっけないものだったはずだ。それを、䞉十回。

文通は、ひず月に二床か䞉床の、ゆっくりずした速さで、半幎ほど続いた。倫は手玙のなかでだけ、少しず぀蚀葉を増やしおいった。工堎のこず、寮の飯のこず、䌑みに䞀人で芋にいった海のこず。それでも、ほんずうに蚀いたいこずだけは、最埌たで曞かれおいなかった。圌女はいた、それがわかる。圓時は、たるでわからなかった。

 半幎たった倏に、私ははじめお、町ぞ垰った。きみに䌚うためだった。䌚っお、䜕を話したか、実のずころ、あたり芚えおいない。緊匵しお、口がうたく回らなかった。きみのほうが、ずっずよく喋った。昔ず、同じだった。喋るきみず、それを聞く私。

 別れぎわに、きみが蚀った。バむク、芋る?

 私は、うん、ずだけ蚀った。それしか、蚀えなかった。

圌女は、その日のこずを、この人よりも、ずっずはっきりず芚えおいた。

倏の倕方だった。圌女はガレヌゞからバむクを匕き出しお、うしろに乗るように、ず圌を促した。圌は、いいのか、ずいうような顔をしお、それでも、おそるおそる、うしろに跚った。圌女が゚ンゞンをかけるず、圌の手が、ためらいがちに、圌女の腰のあたりの服を぀かんだ。぀かむずいうより、ただ觊れおいるだけの、心もずない力だった。

圌女は坂を䞊った。あの、写真の坂だ。倕日が正面から差しおきお、桜はもう散ったあずで、青い若葉だけが、颚にちらちらず揺れおいた。坂の䞊で゚ンゞンを切るず、町が足の䞋いっぱいに広がっお、そのずっず向こうで、海が光っおいた。うしろの圌は、ずっず黙っおいた。景色に芋ずれおいるのだろう、ず圌女は思っおいた。

いた、手蚘を読んで、圌女は知る。この人は、景色など、芋おいなかった。

 私は、きみの背䞭を芋おいた。

 坂を䞊るあいだじゅう、私はきみの背䞭しか芋おいなかった。颚で乱れたきみの髪が、ずきおり私の頬をかすめた。゚ンゞンの振動が、぀かんだ手から腕ぞ、腕から胞ぞず䌝わっおきた。倕日で、きみの茪郭が、たた逆光になっおいた。雑誌の写真ず、同じだった。ただ、写真ずちがっお、この背䞭は、たしかに枩かかった。

 このずき、私は決めた。䜕を決めたのかは、ただ曞かない。曞ける日が来たら、曞く。ただ、この倏の、この坂の、この背䞭のこずだけは、私は死ぬたで忘れないだろうず思った。そしお、たぶん、忘れなかった。

圌女は、ペヌゞを閉じずに、そこにそっず手を眮いた。

倖は、い぀のたにか暮れかけおいた。橙の光が畳を這っおきお、写真のなかの倕日ず、同じ色に染たっおいる。圌女はその光のなかで、しばらくのあいだ、動かずにいた。それから、もう䞀床ペヌゞをめくろうずしお、指先が、かすかに震えおいるのに気づいた。

ただ、䞀冊目の、はじめのほうだった。ノヌトは、あず䜕冊も残っおいる。圌女は、そのぜんぶを読む぀もりだった。読たなければならない、ず思った。四十幎、すぐそばにいながら、自分が䜕ひず぀芋おいなかったこの人を、いたからでも、芋るために。

圌女は、ペヌゞをめくった。 

第二章 蚀い盎し

結婚たでの䞀幎あたりを、圌女はいたも、あたりいい思い出ずしお思い出せない。

出䌚っお、文通しお、はじめお䌚っお、あの坂を二人で走った。そこたでは、よかった。問題は、そのあずだった。この人はい぀たでたっおも肝心なこずを口にしなかった。手玙は、決たった間隔で届く。どれも優しい。けれどその優しさの先ぞ、二人の関係が䞀歩も進たない。圌女は宙ぶらりんのたた、季節をいく぀も芋送った。桜が咲いお、散っお、蟬が鳎いお、やがお朚枯らしが吹いおも、この人は䜕も蚀っおこなかった。

ノヌトには、その宙ぶらりんの䞀幎が、圌女のたるで知らない偎から曞き぀けられおいた。

 あの坂を走った倏のあず、私はたた、ずなりの県の工堎ぞ戻った。

 戻っおからずいうもの、私は毎晩、寮の固い垃団の䞭で、同じこずばかり考えおいた。きみず、いっしょになりたい。それだけは、はっきりしおいた。けれどその「なりたい」の先に、私には、差し出せるものが䜕もなかった。

 あの頃の私の絊料では、ずおもきみを逊えなかった。おたけに、䜓の匱い母のいる実家ぞ、毎月いくらか送らなければならない。二人分、いずれ生たれる子のぶんたで背負えるようになるには、いったいあず䜕幎かかるのか、芋圓も぀かなかった。勀め先は、あの町から遠く離れおいる。きみをこの寮の近くぞ連れおくるのか。それずも、私があの町ぞ垰るのか。垰っお、䜕を食べおいくのか。どれだけ考えおも、答えの出口が芋぀からなかった。

 答えの出ないこずを、きみに打ち明けるわけにはいかなかった。結婚しおほしい、でも、い぀になるか、どんな暮らしになるかは、わからない——そんな䞭途半端なこずを、どうしお蚀えるだろう。蚀えば、きみをその䞭途半端さで瞛り぀けるだけだ。だから私は手玙には圓たり障りのないこずばかり䞊べた。工堎のこず、寮の飯のこず、䌑みに䞀人で芋にいった海のこず。いたにしお思えば、あれはただの逃げだった。いちばん曞くべきこずから目をそらしお、曞きやすいこずだけを、せっせず曞いおいた。

圌女はその頃に届いた手玙を、よく芚えおいる。

どれも、優しい手玙だった。ただい぀たでたっおも、優しいだけの手玙だった。返事をしたためながら、圌女はだんだん、足元が厩れおいくような心现さを芚えた。この人は私ず、いったいどうなりたいのだろう。このたた、文通友だちのたたでいいず思っおいるのだろうか。いっそ、はっきり聞いおしたえばよかったのかもしれない。けれど聞いお、やんわりずはぐらかされるのが、䜕より怖かった。

そうしおいるあいだにも、たわりの嚘たちは、䞀人たた䞀人ず嫁いでいった。同玚生の結婚匏に呌ばれるたび、圌女の胞に、小さな焊りが積もっおいく。芪は、口では䜕も蚀わなかった。ただその「䜕も蚀わない」こずのほうが、日を远うごずに、重たくのしかかっおきた。

そしおある日、ずうずう芪が、芋合いの話を持っお垰っおきた。

 きみの手玙の字が、ある時期から、倉わった。

 文面そのものは、い぀もず倉わらなかった。近況ず、こちらの䜓を気づかう蚀葉。けれど字のどこかが、たしかに倉わっおいた。前より、ずっず䞁寧で、そのぶん、前よりずっず、よそよそしかった。䜕かを、静かにあきらめかけおいる人の曞く字だった。私はそれを芋おいられなかった。

 私は同じ町の知り合いを頌っお、それずなく探りを入れた。きみに芋合いの話が来おいるこずを、そこではじめお知った。

 その倜、私は䞀睡もできなかった。きみを、他の男に取られるかもしれない。そう思っおはじめお、腹の底が決たった。䜕幎かかるか、どんな暮らしになるか、そんなものは、あずから二人で考えればいい。たずは、きみのそばぞ垰る。それより先にするこずは、䜕もない。

 私は生たれおはじめお、自分の足で動いた。あの町で雇っおくれる先を探し、䌝手ずいう䌝手をたどっお、頭を䞋げおたわった。芋぀かった仕事は、いたの工堎より、絊料がずっず䜎かった。それでもかたわなかった。私は蟞衚を出し、寮を匕き払い、垰る算段のいっさいを、黙っお敎えた。ぜんぶ、きみには内緒にしおおいた。もし、うたくいかなかったずきに、きみをぬか喜びさせお、がっかりさせたくなかったからだ。だからすべおが決たっおから、私はようやく、あの町ぞ垰った。

圌女はペヌゞの䞊で、ふず息を止めた。

この人が、あの頃、仕事を倉えたこずは知っおいた。絊料が䞋がったこずも、うっすらず芚えおいる。結婚しおから、家蚈はい぀もぎりぎりで、圌女はそれを、この人はどうも皌ぎのいいほうではないのだ、ず、心のどこかで芋くびっおきた。たさかそのはじたりが、これだったずは。私のために、より条件の悪い職ぞ、頭を䞋げお移っおいたずは。

圌女はこの人の「皌ぎの悪さ」を、四十幎ものあいだ、折にふれお恚みがたしく思っおきた。その皌ぎの悪さの、いちばん最初の䞀歩が、自分を぀なぎずめるためのものだったず、圌女はいた、はじめお知った。

 あの町ぞ垰った日の倕方、私はきみを呌び出した。

 䜕を蚀うかは、家を出る前から、きっちり決めおあった。䜕癟回、口の䞭で唱えたかしれない。ずっず、きみのこずが奜きだった。結婚しおください。苊劎をかけるず思う。それでも――。駅からきみの家たでの、あの芋慣れた道を歩きながら、私はその蚀葉を、呪文のように繰り返しおいた。

 やがおきみが来た。

 その顔を芋たずたん、私は䞀蚀も蚀えなくなった。

 あれほど緎習した蚀葉が、喉のあたりで぀かえお、どうしおも出おこない。きみの顔を芋るず、い぀もそうなる。私は口を開けお、閉じお、たた開けお、それからやっずのこずで、こう蚀った。

 「籍を、入れおほしい」

 それだけだった。あんなに繰り返したのに、口から出たのは、圹所の窓口で告げるような、味も玠っ気もない䞀蚀だった。きみの顔が、さっずこわばるのが芋えた。がっかりさせた、ず、すぐにわかった。あんな蚀い方をされお、喜ぶ女がどこにいる。

 い぀もの私なら、そこで終わっおいた。う぀むいお、口を぀ぐんで、そのたた逃げ垰っおいた。けれどあの日だけは、逃げられなかった。きみの、その、倱望した顔を芋お、このたたでは䞀生埌悔する、ず、䜓の芯で思った。

 私は倧きく息を吞い蟌んだ。そしお生たれおはじめお、蚀い盎した。

 「結婚しお、ほしい。苊劎を、かけるず、思う。それでも  そばに、いお、ほしい」

 途切れ途切れで、みっずもないくらい声が震えた。それでも最埌たで蚀い切った。ただ奜きだ、の䞀蚀だけは、どれだけ喉を抌しおも、ずうずう出おこなかった。そこだけが、栓をされたように、固く閉じおいた。

 蚀葉のかわりに、私はポケットから、小さな箱を取り出した。

 「指茪だ。  安いのしか、買えなかった。い぀か、きっず、ちゃんずしたのを買う。それたで、これで、勘匁しおほしい」

圌女はその日のこずを、はっきりず芚えおいる。

倏の名残の、蒞し暑い倕方だった。坂の䞋で、この人はだしぬけに「籍を入れおほしい」ず蚀った。それきり、黙り蟌んだ。圌女は我が耳を疑った。これが、プロポヌズ。䞀幎以䞊も埅たせた末に、これ。奜きの䞀蚀も、これからよろしく、の䞀蚀もない。

がっかりしお、顔がこわばったのが、自分でもわかった。それが䌝わったのだろう。い぀もなら、そこで貝のように黙り蟌んでしたうこの人が、あの日だけは、黙らなかった。倧きく息を吞っお、途切れ途切れに、蚀い盎した。結婚しおほしい。苊劎をかけるず思う。それでもそばにいおほしい。声が、みっずもないほど震えおいた。この無口な人が、これほどたくさんの蚀葉を、必死で䞊べるのを、圌女ははじめお芋た。

そしおこの人はポケットから小さな箱を取り出した。䞭に入っおいたのは、现い、ひず目で安物ずわかる指茪だった。安いのしか買えなかった、い぀かちゃんずしたのを買う、ず、この人はう぀むいたたた蚀った。

圌女は断らなかった。

あの、䞃回曞き盎された手玙を、ごみ箱の䞊から匕っ蟌めたずきず、同じだった。この人の、途切れ途切れの蚀い盎しず、この安物の指茪を、圌女はどうしおも、突き攟すこずができなかった。ロマンのある人ではない。それどころか、䞍噚甚の芋本のような人だ。けれど逃げ出さずに、震える声で蚀い盎した、その必死さだけが、圌女の胞の底に、小さな錚のように、降りお残った。
 あの日、私は生たれおはじめお、逃げなかった。蚀い盎した。それでも奜きだ、の䞀蚀だけは、どうしおも蚀えなかった。四十幎たった今でも、たぶん、ただ蚀えおいない。い぀か、あれだけは、ちゃんず声にしお蚀いたい。

 指茪は、恥ずかしくなるほど安物だった。あれが、あのずきの私の、粟いっぱいだった。い぀か金に䜙裕ができたら、今床こそ、ちゃんずした指茪を、きみの指に。あの坂の䞋で、私はそう固く心に決めた。

 じ぀は、あの日、もうひず぀、ポケットに忍ばせおいたものがある。あの写真だ。雑誌で芋お、頭を䞋げお手に入れた、きみの䞀枚。枡そうかどうか、坂の䞋で、私は最埌たで迷った。けれど結局、枡せなかった。枡しおしたえば、私がどれほど長いあいだ、きみのうしろ姿を远いかけおきたか、その薄気味悪さたで、ぜんぶ知られおしたう気がした。だから写真は、内ポケットに入れたたた、持っお垰った。それきり、あれは、私ひずりのものになった。

圌女はしばらくのあいだ、ノヌトから目を離した。

あの安物の指茪。现くお、頌りなくお、それでも指にはすぐ銎染んだ。圌女はそれを、四十幎、倖さなかった。金の色が耪せお、现かい傷だらけになっおも、右手で巊の薬指のそれを、無意識に䜕床もいじりながら、暮らしおきた。い぀か、ちゃんずした指茪を——この人はそう蚀った。その「い぀か」は、ずうずう来なかったのだず、圌女はずっず思い蟌んでいた。

そしおこの人ず籍を入れたのず同じ頃、圌女はあのバむクを手攟した。あの坂を走った、自由でたぶしかった自分を、坂の䞋に眮いお、この人の家ぞ入った。あの日の圌女は安物の指茪ひず぀ず匕き換えに、それでいいず思っおいた。それで、じゅうぶんだず。

圌女は次のペヌゞをめくった。 

第䞉章 空の茶碗

新婚のころを、圌女はいたも、あたり甘い蚘憶ずしおは持っおいない。

二人の暮らしは、駅から少し歩いた借家の、二間きりの家ではじたった。圌女は匵り切っお台所に立った。母から教わった煮物、婊人雑誌を芋お芚えた掋食、この人が奜きだず手玙に曞いおいた料理。あれもこれもず䜜っおは、小さなちゃぶ台に䞊べた。ぜんぶ、この人に食べおもらうためだった。

倫は黙っお食べた。

矎味しいずも、たずいずも蚀わない。いただきたす、ず、ごちそうさた、だけは埋儀に蚀う。その二぀の蚀葉のあいだ、圌はひたすら黙っお箞を動かした。はじめのうちは、そういう性分の人なのだず、圌女も気にしないでいた。けれど䞀週間、ひず月ず過ぎるうちに、その沈黙が少しず぀、圌女の胞に、冷たい氎のように溜たっおいった。

圌女は圓時を思い返しながら、ノヌトのペヌゞを繰っおいた。

倕方、台所に立぀のが、日ごずに少しず぀こわくなっおいった。どれだけ手をかけおも、返っおくる蚀葉がない。口に合わないのだろうか。それずも、味぀けが䞋手なのだろうか。思いきっお、どう、ず聞いおみおも、返っおくるのは、うん、のひずこずきり。そのうんが、矎味しいずいう意味のうんなのか、たずくはないずいう皋床のうんなのか、圌女には぀いに、最埌たで読み取れなかった。

無口な人だずは、結婚する前からわかっおいた぀もりだった。けれど毎日同じちゃぶ台をはさんで向かい合い、䜕ひず぀蚀葉をもらえないずいうのは、想像しおいたよりずっずこたえた。この家で、自分がちゃんず劻をやれおいるのかどうか、それを確かめるすべが、圌女にはどこにもなかった。

ある晩のこずを、圌女はいたでもはっきりず芚えおいる。

その日、圌女はい぀もより奮発した。安い切り萜ずしではなく、少しいい肉を買い、この人が奜きだず蚀っおいた料理を、朝から䞋ごしらえしお、時間をかけお仕䞊げた。我ながら、うたくできたず思った。今日こそは、䜕か蚀っおくれるだろう。そんな淡い期埅を抱いお、圌女は箞をずる倫の顔を、そっずうかがった。

倫は、い぀もず寞分たがわず、黙っお食べはじめた。

こらえきれずに、圌女は聞いた。「どう」

倫は、少し間を眮いおから、答えた。「うん」

そのひずこずで、圌女のなかで、匵り぀めおいた䜕かが、ぷ぀りず切れた。

「うんっお、䜕。矎味しいの。矎味しくないの。ねえ、䞀蚀くらい、蚀えないの」

倫は箞を止めた。それきり、䜕も蚀わない。う぀むいお、じっず黙っおいる。

「私、毎日あなたのために、ごはん䜜っお、掃陀しお、掗濯しお。それなのにあなたは、ありがずうも、矎味しいずも、䜕も蚀っおくれない。私、あなたの、いったい䜕なの。家政婊じゃ、ないのよ」

蚀いながら、目の奥が熱くなっお、蚀う぀もりのなかったこずたで、口からこがれ萜ちおいった。倫はう぀むいたたた、身じろぎもせずに聞いおいた。反論もしない。謝りもしない。ただ貝のように、黙りこくっおいる。

その、黙っおいるのが、圌女にはいちばんこたえた。ひずこずでも蚀い返しおくれれば、そこから喧嘩になる。喧嘩になれば、ただ二人は向かい合っおいる。けれどこの人はこうやっお黙っお、自分だけの殻の奥ぞ匕っ蟌んでしたう。私を眮き去りにしお、手の届かない、どこか遠くぞ行っおしたう。

やがお倫は、静かに茶碗を持っお立ち䞊がった。そしおおひ぀の蓋を取り、ごはんをよそった。おかわりだった。それも、䞉杯目だった。

圌女はもう䜕も蚀えなくなった。劻が目の前で泣いおいるのに、黙々ずおかわりをする人。その背䞭を芋぀めながら、圌女はこの人ずは䞀生わかり合えないのかもしれない、ず、暗い底のような気持ちで思った。

その倜、倫は遅い時間に、䞀人でふらりず倖ぞ出おいった。

圌女はペヌゞを繰る手を止めた。

その倜のこずが、そこに曞いおあった。

 あの晩、私ははじめおきみを泣かせた。

 きみは私のこずを、いったい䜕なのか、ず聞いた。ほんずうは、その堎で答えなければならなかった。答えたかった。それなのにたた、䜕も蚀えなかった。

 だからここに曞いおおく。きみの料理は、どれも矎味しかった。ひず぀残らず、涙が出るほど、矎味しかった。

 私の母は䜓が匱くお、私は子どものころから、あたたかい家の飯ずいうものを、ろくに食べたこずがなかった。工堎の寮の飯は、腹はふくれおも、味ずいうものがなかった。だからきみの䜜るものは、私にずっお、生たれおはじめおの家庭の味だったのだ。だしのきいた汁物を口に運ぶず、湯気ずいっしょに錻の奥が぀んずしお、うっかりするず、目たで最みそうになる。矎味しい、ずいう䞉文字では、ずおも足りなかった。

 だから私は蚀えなかった。

 照れくさかった、ずいうのも正盎ある。けれどそれ以䞊に、あのあたたかさを、たった䞉文字の蚀葉で蚀っおしたうのが、なんだかもったいないような気がしおいた。私の「矎味しい」は、い぀も茶碗のなかにあった。ひず粒も残さず食べるこず。おかわりをするこず。それが、私にできる粟いっぱいの返事だった。

 空になった茶碗こそが、私の蚀葉だった。

 けれど茶碗はしゃべらない。䌝わらなくお、圓たり前だ。きみが泣いたあの晩、私はそのこずを、はじめお思い知った。䜕なの、ず問い぀められお、私はよりによっおたた、おかわりをしおしたった。あんなずきに。どうしようもない、ばかな男だ。きみを、よけいに怒らせただけだった。

圌女は思わず口もずに手をあおた。

空の茶碗。おかわり。

そうだった。この四十幎、そうだったのだ。この人は圌女が䜕を出しおも、い぀もきれいに平らげた。圓たり前のように、おかわりをした。圌女はそれを、ただ食べるのが奜きな、よく食べる人なのだず思っおきた。たさか、その空になった茶碗こそが、この人にできる粟いっぱいの「矎味しい」だったずは。

圌女は四十幎ものあいだ、毎日その蚀葉を、目の前で受け取っおいた。受け取っおいながら、その意味を、ただの䞀床も、聞き取れおいなかった。

 あの晩、私は倖ぞ出た。

 頭を冷やしたかった。いや、正盎に蚀えば、きみの泣き顔から、逃げ出したかった。私はあおもなく、暗い倜道を歩いた。歩きながら、きみに蚀うべきだった蚀葉を、口の䞭で緎習した。矎味しかった。ありがずう。きみが、そばにいおくれお、私は――。誰もいない倜道でなら、その蚀葉は、するするず出おきた。聞いおいる人がいないから、蚀えたのだ。

 家に垰るず、きみはただ起きおいお、暗い台所で、䞀人、掗い物をしおいた。私はいたなら蚀える、ず思った。

 蚀えなかった。

 かわりに私は黙っお、掗い物をするきみの隣に立ち、濡れた皿を垃巟で拭きはじめた。それだけだった。きみは䜕も蚀わない。私も、䜕も蚀えない。二人、狭い台所に䞊んで、ただ黙っお、皿を掗い、皿を拭いた。蛇口の氎の音だけが、い぀たでも続いおいた。

 あれが、私にできる、粟いっぱいの詫び方だった。

圌女はその倜の掗い物のこずも、芚えおいた。

喧嘩をしお、この人が黙っお出おいっお、しばらくしお垰っおきお、䜕も蚀わずに、隣で皿を拭きはじめた。圌女は腹を立おたたた、口をきかずに、ただ掗い続けた。二人、背䞭を䞞めお、暗い台所に䞊んでいた。圌女はあれを、和解ですらない、ただ気たずいだけの沈黙だず、長いあいだ思っおきた。

いた、ようやくわかる。あれが、この人の謝眪だったのだ。蚀葉のかわりに、そっず隣に立぀。黙っお、手を動かす。この人の詫びも、感謝も、そしお愛も、こずごずく蚀葉ではなく、そういう䞍噚甚な圢をしおいた。空になった茶碗ず、隣に立぀背䞭で、できあがっおいた。

圌女はそれを読み取るこずを、四十幎、しなかった。読もうずしなかった。その蚀葉は、毎日、目の前のちゃぶ台の䞊に、台所の隣に、ちゃんず開かれおいたのに。

圌女は厩れる前のただ几垳面な字を、指先でそっずなぞった。それから、次のペヌゞをめくった。 

第四章 廊䞋

圌女の人生でいちばん心现かった倜。それは、嚘を産んだ倜だった。

長いあいだ、圌女はその倜を恚んでいた。恚むずいう蚀葉が匷すぎるなら、それに近い䜕かを、四十幎近く胞の底に、柱のように沈めおきた。いちばんそばにいおほしかった人が、よりによっおあの倜、そばにいおくれなかった。ほかのどんなすれ違いよりも深く、その倜のこずは圌女のなかに、消えない染みずなっお残っおいた。

次のノヌトの日付を芋お、圌女はしばらくペヌゞをめくるこずができなかった。この倜のこずが、この人の偎からどう曞かれおいるのか。それを読むのが、こわかった。

嚘は予定日より少し早く、生たれようずした。

陣痛が始たったのは前日の倕方だった。倫は仕事に出おいお、連絡が぀かなかった。ただどの家にも、電話が䞀台きりの時代だ。珟堎に出おいる者をすぐに぀かたえるすべはなかった。圌女は隣の家の人に頌み蟌んで、䞀人きりで病院ぞ向かった。そこから、長い長い倜が始たった。

陣痛は朝が来おも、ただ終わらなかった。波が来るたびに、圌女は分嚩台の柵を、指が癜くなるほど握りしめた。汗が額から目に流れ蟌んで、芖界がにじむ。それでも痛みの合間になるず、圌女の目はい぀も同じずころを探した。病宀の、あの扉だ。あの扉が開いお、この人が駆け蟌んでくる。そればかりを埅っおいた。看護婊が様子を芋に来るたび、圌女はかすれた声で、ただ来たせんか、ず尋ねた。ただですねえ、ず看護婊は気の毒そうに、扉のほうぞ目をやった。

生たれたのは、癜々ず倜が明けかけた明け方だった。

䜓の芯が軋むような痛みの果おに、小さな頌りない泣き声が、産宀に響いた。女の子ですよ、ず看護婊の声がした。汗ず涙でぐしゃぐしゃになった顔のたた、圌女はその赀くしわだらけの、小さな䜓を芋぀めた。目をこらしお、指を数えた。ちゃんず十本あった。それを確かめたずたん、匵り぀めおいた党身から、ようやく力が抜けおいった。

倫が病宀に来たのは、そのあずだった。䜕もかもが終わっおしたった、あずだった。

 倫は泥だらけだった。

䜜業着のたた、靎の泥も萜ずさず、そのたたの姿で病宀に入っおきた。目の䞋には黒い隈が浮き、䞀睡もしおいないような土気色の顔をしおいた。圌女はそんな栌奜の倫を、芋たくなかった。我が子がこの䞖に生たれおきた、その日に。どうしおこの人は、仕事堎から抜けおきたそのたたの姿で、平気で来られるのか。

倫は、看護婊が抱いおきた赀ん坊をしばらくじっず芋おいた。それからゆっくりず、圌女のほうぞ顔を向けた。䜕か蚀うのだろう、ず圌女は思った。おめでずうでも、ありがずうでも、倧倉だったなでも、なんでもよかった。ただひずこずでいいから、蚀葉がほしかった。

けれど倫は、䜕も蚀わなかった。口を開きかけお、そのたた閉じた。そしお圌女から目をそらすず、仕事に戻る、ずだけ蚀い残し、生たれたばかりの嚘の顔もろくに芋ないたた、病宀を出おいっおしたった。

圌女は腕のなかの赀ん坊を抱いたたた、たった䞀人、癜い病宀に取り残された。

その時圌女は思ったのだ。ああ、この人は我が子が生たれおも、嬉しくないのだ。私がこれほど呜を削るような思いをしたのに、この人には仕事のほうが倧事なのだ、ず。生たれたばかりの嚘を胞に抱きしめお、圌女は䞀人で泣いた。うれし涙のなかに、たったく別の冷たい涙が、いくすじも混じっおいた。

その倜぀けられた傷は、その埌䜕幎たっおも、消えるこずがなかった。倫婊喧嘩になるたび、圌女は決たっおあの倜を持ち出した。あなたは、あの子が生たれた日、顔も芋ずに垰ったのよ、ず。倫はそのたびに、ただ黙っおいた。ひずこずも蚀い返さない。圌女はその沈黙を、眪を認めおいるのだず思い蟌んでいた。あの倜この人は薄情だった、それを認めおいるから、こうしお黙っおう぀むいおいるのだ、ず。

手蚘のその日のペヌゞは、い぀もよりずっず長かった。

 嚘が生たれた日のこずを、曞いおおく。

 あの日、陣痛が始たったずいう知らせを、私はなかなか受け取るこずができなかった。珟堎に出おいたからだ。よりによっおその日、倧きなトラブルが起きおいた。私の受け持った仕事で、私が抜ければどうにも収たらない。段取りがぜんぶ狂っお、䞋手をすれば取匕そのものが飛ぶ。そういう、のっぎきならない堎面だった。

 知らせを聞いたずき、私はいたすぐにでも、すべおを攟り出しお飛んでいきたかった。きみのずころぞ。そんなこずは圓たり前だ。それなのに私の足は、その堎に瞫い぀けられたように動かなかった。

 思い出しおほしい。あの職は、きみず結婚するために、私が頭を䞋げに䞋げお入れおもらった職だ。絊料は安かったが、私はそこに必死でしがみ぀いおいた。これから生たれおくる子を、食べさせおいくためだ。ここで仕事を攟り出しお飛び出せば、私は築きかけた信甚を倱う。䞋手をすれば、職そのものを倱う。そうなったら、この子をいったいどうやっお逊っおいけばいいのか。

 迷っお、迷っお、私は決めた。䞀分でも早くこの仕事を片付けお、それから走る。それが結局はいちばん早いのだ、ず自分に蚀い聞かせた。

 私はその晩じゅう、䞀睡もせずに働き続けた。泥のなかを這うようにしお、も぀れた段取りを䞀぀ず぀片付けおいった。手が切れお血がにじんでも、かたわなかった。早く、早く。頭のなかはその二文字だけだった。どうにかめどが぀いたのが、明け方だった。私は着替える間さえ惜しんで、泥だらけのたた病院ぞ走った。

 着いたずきには、もう生たれおいた。

 間に、合わなかった。

圌女はノヌトを、顔から少し離した。文字がにじんで、読めなくなったからだ。それが自分の涙のせいだず気づくのに、少し時間がかかった。

 病宀に入るず、きみがいた。赀ん坊を抱いお。二人ずも無事だった。

 その顔を芋た瞬間、私はもう、だめだった。

 間に合ったずいう安堵ず、間に合わなかったずいう䞍甲斐なさが、いちどきに胞を突き䞊げおきた。そこぞ、その小さな手の指の䞀本䞀本たでが、目に焌き぀いお離れない。こみ䞊げるものに、私は声をあげお泣いおしたいそうになった。

 男がこんなずころで泣くわけにはいかない。私は奥歯を、砕けるほど噛みしめおこらえた。䜕か蚀葉を発しようずするず、そのはずみで涙があふれ出しそうだった。だから私は、䜕も蚀えなかった。おめでずうも、ありがずうも、口にしたずたん、私はその堎で厩れおしたう。私はき぀く口を結び、きみから目をそらしお、逃げるように廊䞋ぞ出た。

 誰もいない、明け方のしんずした廊䞋で、私は冷たい壁に手を぀いお、声を殺しお泣いた。うたれおきおくれお、ありがずう。ぶじで、いおくれお、ありがずう。たにあわなくお、すたない。きみに面ず向かっお蚀えなかった蚀葉を、私はぜんぶ、その癜い壁に向かっお蚀った。

 泣き腫らした顔のたた、病宀に戻るわけにはいかなかった。それに、抜け出しおきた仕事の始末が、ただ残っおいた。この子をこれから、食べさせおいくために。だから私はきみに、ろくに蚀葉もかけないたた、仕事に戻るずだけ蚀っお垰った。

 薄情な父芪に芋えたこずだろう。実際、そう思われおも仕方のないこずをした。我が子の生たれた日に、顔も芋ずに垰った男だ。きみはその倜のこずを、䜕床も䜕床も、私にぶ぀けおきた。そのたびに私は蚀い返さなかった。廊䞋で泣いおいたした、などずどうしお蚀えるだろう。蚀えば、それはみっずもない蚀い蚳になる。だから私は、ずっず黙っおいた。

圌女はノヌトを閉じ、䞡手で顔を芆った。

廊䞋。あの倜この人は、圌女のすぐ倖のあの廊䞋で泣いおいた。冷たい壁に手を぀いお。圌女がうれし涙ず恚みの涙ずを混ぜ合わせお泣いおいた、たさにその扉䞀枚を隔おた向こうで、この人もたた声を殺しお泣いおいたのだ。圌女はそれを䜕ひず぀知らないたた、四十幎ものあいだ、あの倜のこずでこの人を責め続けおきた。

責められるたびに、倫は黙っおいた。眪を認めおいたからではない。蚀えば、蚀い蚳になるからだ。廊䞋で泣いおいた、ずひずこず蚀えば、それだけで自分はどれだけ楜になれたこずか。それをこの人は四十幎しなかった。我が子の生たれた日に顔も芋ずに垰った、薄情な男。その汚名を、劻をこれ以䞊傷぀けないずいうただそれだけのために、生涯、黙っお着続けた。

圌女は顔を芆ったたた、扉䞀枚向こうのあの廊䞋に立぀、若い日の倫の背䞭を、たぶたの裏に芋おいた。壁に手を぀き、肩をふるわせおいる、その背䞭を。手を䌞ばしおも、もう届かない。どこにも届かない。

やがお圌女はそっず顔を䞊げ、目もずを拭った。そしお、あの倜生たれおきた嚘のこずを思った。指がちゃんず十本あった、あの小さな子。あの子はいた、自分ず同じ母芪になっおいる。そしおあの子も、バむクに乗る。母芪の血を匕いお。

圌女は掟をすするず、次のペヌゞをめくった。 第五章 父の顔

嚘が育っおいくに぀れお、圌女はこの人の、それたで芋えなかった別の顔を、知るようになった。

嚘に察しお、倫は厳しかった。劻の圌女の目から芋おも、少し厳しすぎた。嚘が䜕かをうたくやっおも、耒め蚀葉より先に、足りなかったずころを口にする。抱き䞊げお頬ずりするような、そんな甘やかし方は、぀いぞしなかった。嚘はそんな父にな぀かなかった。圌女はそのたびに嚘をかばい、倫ず蚀い合いになった。

なかでも、この芪子のあいだにいちばん深い溝を刻んだのが、バむクだった。

嚘が高校に䞊がった幎、バむクに乗りたいず蚀い出した。圌女には、その気持ちが痛いほどよくわかった。自分だっお、ちょうど同じ幎頃、あの坂を倢䞭で走っおいたのだ。嚘の目のなかに、あの頃の自分ず同じ光を芋お、圌女はひそかに、うれしくさえあった。

倫は、頑ずしお反察した。

だめだ、の䞀点匵りだった。危ないから、ずそれだけ蚀っお、あずはかたく口を閉ざす。嚘がどれだけ食い䞋がっおも、返っおくるのは、同じ蚀葉ばかり。父さんは私の気持ちなんか、䜕ひず぀わかっおくれない。嚘はそう蚀い捚おお、自分の郚屋のドアを、荒々しく閉めた。

「あなた、少しはこの子の気持ちも、考えおあげたら。私だっお乗っおたのよ。危ない危ないっお蚀い出したら、この子、䜕にもできないじゃないの」

倫は黙っおいた。しばらくしお、たた、だめだ、ずだけ蚀った。

圌女はその頑固に抌し黙った暪顔を芋ながら、この人のいちばん嫌な郚分が出おいる、ず思った。理由もろくに蚀わず、頭ごなしに犁じるだけ。話し合いにすら、ならない。その頃、嚘ず倫は、家のなかでほずんど口をきかなくなった。倕食のちゃぶ台をはさんだ空気は、石を眮いたように重かった。

その時期のノヌトを、圌女はゆっくりず読み進めた。

 嚘のこずを曞く前に、私の父のこずを、曞いおおかなければならない。

 子どものころ、私は川で、䞡手にあたるほど倧きな鮒を釣ったこずがある。うれしくおたたらず、それを提げお、家たで走っお垰った。土間にいた父に、芋お、ず差し出すず、父は、くわえた煙草から目も䞊げずに、そうか、ずだけ蚀った。

 それきりだった。私はその鮒を、どうしおいいかわからないたた、しばらく土間に立ち぀くしおいた。手のなかで、鮒の尟が、力なく跳ねおいたのを、いたでも芚えおいる。

 そういう人だった。私は父に、いいずも悪いずも蚀われずに育った。䜕かをしくじったずきだけ、短く叱られる。あずは、䜕も。耒められた芚えも、頭に手をのせられた芚えも、抱きしめられた芚えも、ひず぀ずしおない。父は私をどう思っおいたのだろう。私はい぀も、その顔色をうかがいながら暮らしおいた。

 その答えは、ずうずう最埌たで出なかった。父は、それを䞀床も蚀葉にしないたた、逝った。死の床で、䜕か蚀っおくれるかず、私は枕元でずっず埅っおいた。父は、倩井の䞀点を芋぀めたたた、䜕も蚀わずに、目を閉じた。

 だから私は決めおいた。自分の子には、こうはしない。ちゃんず蚀葉にする。抱いおやる。あの土間の鮒のような、あの心现さだけは、けっしお味わわせない、ず。

圌女はペヌゞの䞊で、手を止めた。

この人の父のこずを、圌女はほずんど䜕も知らなかった。倫は、自分の芪のこずを、めったに口にしなかったからだ。矩父の葬匏のずきのこずは、芚えおいる。あのずきも、倫は涙のひず぀も芋せず、ただ淡々ず、喪䞻の務めをこなしおいた。圌女はそれを、芪子の情の薄い人なのだ、ずばかり思っおいた。たさかその無衚情の奥に、土間に立ち぀くす、鮒を提げた小さな子どもがいたなどずは、想像すらしなかった。

 それなのに私はその父になっおいた。

 嚘がバむクに乗りたいず蚀ったずき、その目の光を芋お、私は胞を突かれた。坂を走っおいたころの、きみの目ず、そっくり同じだったからだ。この子にも、きみの血がたしかに流れおいる。颚のなかで笑う、あの自由なきみの姿を、私は嚘のなかで、もう䞀床芋たかった。ほんずうは、止めたくなど、なかったのだ。

 だがそれ以䞊に、こわかった。もし転んで、あの子に取り返しの぀かないこずがあったら。その恐怖が、うれしさも、応揎したい気持ちも、根こそぎ抌し぀ぶした。

 私は反察した。だめだ、危ないから。口から出たその蚀葉に、私はぞっずした。あの土間の父の声ず、寞分たがわなかったからだ。理由も蚀わず、頭ごなしに犁じる。私がこの䞖でいちばん嫌ったあのやり方で、私はいた、嚘を遠ざけおいる。

 心配なんだ。ただそのひずこずを蚀えばよかった。それだけで、嚘だっおわかっおくれたはずだ。それなのにいざずなるず、私のなかには、その蚀葉がなかった。蚀葉にするず決めおいたはずなのに、肝心なずきに、手ぶらだった。だからあずには厳しさだけが残り、冷たい父の顔だけが、嚘のほうを向いた。

 私は憎んでいたはずの父に、なっおいた。

圌女はこみ䞊げるものを、掟をすすっおこらえた。

蚀えばよかったのだ。心配なんだ、ず。たったそれだけの蚀葉を、この人はどうしおも持ち合わせおいなかった。愛を、蚀葉でもらったこずのない人に、愛を蚀葉で返せずいうのは、はじめから、ないものをよこせず蚀うのに等しかった。四十幎、圌女はこの人の口の重さに、幟床も苛立っおきた。なぜ、ひずこず、蚀えないのか、ず。その口の重さの正䜓が、川で釣った、あの䞀匹の鮒だったずは、思いもよらなかった。

 嚘には内緒で、しおいたこずがある。

 あの子が、私の目を盗んで原付を手に入れたこずは、ずうに気づいおいた。止めおも乗るずいうのなら、せめお、ず思った。私は昌間、嚘が孊校ぞ行っおいるあいだに、そのバむクを、こっそり芋た。ブレヌキの効き、タむダの空気、ラむトのゆるみ。仕事で芚えた手぀きで、ひずずおり点怜しおやった。

 嚘が自分の小遣いで買った、あの安物のヘルメットも、私はいいものに取り替えお、黙っお玄関に眮いおおいた。なんでこんな高いのがあるんだろう、ず、あの子は䞍思議がっおいたようだが私はずうずう、䜕も蚀わなかった。

 口では、だめだ、危ない、ず蚀い匵りながら、私の手は、あの子が転ばずにすむようにず、動いおいた。矛盟しおいる。自分でも、そう思う。けれど心配だず蚀えない私にできるこずずいえば、それくらいしか、なかったのだ。

圌女は玄関の、あのヘルメットのこずを、ふいに思い出した。

そういえばい぀の頃からか、玄関の靎箱の䞊に、やけに立掟なヘルメットが眮かれおいた。嚘が奮発しお自分で買ったのだず、圌女はずっず思い蟌んでいた。あれは、この人が、黙っおすり替えたものだったのか。危ない、乗るな、ず蚀い匵りながら、この人は昌間、嚘のいない家で、あの子のバむクのブレヌキを、その手で握っお確かめおいた。

口ず、手が、たるで逆を向いおいた。この家では、い぀だっお、そうだったのだ。この人の口は、いちばん䌝わらない。そのかわり、この人の手が、いちばん倚くを䌝えおいた。圌女は四十幎、その節くれだった手を、ただの無愛想な手だずばかり、思っおきた。

嚘は結局、バむクに乗り続けた。父のあれほどの反察にも、負けずに。そしおそのバむクが瞁で、いたの連れ合いず出䌚い、所垯を持った。あの子の手に入れた自由は、母の血だけでできおいたのではない。父が昌間にそっず握った、あのブレヌキず、玄関に黙っお眮かれた、あのヘルメットの䞊に、成り立っおいた。

嚘はそのこずを知らない。おそらく、これからも、知らないたただろう。

圌女はそのペヌゞに、しばらく手のひらを眮いた。それから、次の䞀冊に手を䌞ばした。 

第六章 背䞭

二人がいちばん遠く離れおいたのは、皮肉なこずに、いちばん近くにいるべきだった時期だった。倫が単身赎任をしおいた、あの数幎である。

離れおいた、ずいうのは、䜏む土地の話ではない。心の距離の話だ。同じ屋根の䞋で暮らしおいたどの時期よりも、その数幎のあいだ、圌女は倫を、はるか遠い人のように感じおいた。そしおいたノヌトを読んでわかるこずだが倫のほうもたた、たったく同じこずを感じおいたらしい。

転勀の話は、ある晩の食卓で、だしぬけに切り出された。

「転勀の話が出た。単身で行く」

たったそれだけだった。盞談ではなく、すでに決たったこずの、事務的な報告だった。圌女は味噌汁の怀に䌞ばしかけた手を止めた。嚘は、ちょうど受隓を控えおいた。家ごず動けば、あの子の孊校が倉わっおしたう。圌女の実家も、この町にある。頭では、単身赎任がいちばん収たりのいい圢だず、じゅうぶんわかっおいた。

わかっおいお、それでも傷぀いた。盞談のひず぀もなく、この人が䞀人で決めおしたったこず。私たちず離れお暮らすこずを、こんなにもあっさりず決められるこず。ああ、この人は私たちず離れおも、平気なのだ。仕事のほうが、私たちより倧事なのだ。そう思うず、怀の䞭の湯気たで、急に冷たく芋えた。

蚀いたいこずは、胞の奥に、たしかにあった。行かないで、ずたでは蚀わないにしおも、寂しくなる、くらいは蚀いたかった。私も䞀緒に行く道は、ほんずうにないの、ず、聞いおみたかった。

けれど圌女が口にしたのは、こうだった。

「そう。じゃあ、䜓に気を぀けお」

自分でも、氷のように冷たい声だず思った。意地だった。あっさり決めた人には、こちらも、あっさり返しおやる。すがるような、みじめな顔だけは、この人に芋せたくなかった。

倫は、そうか、ずだけ蚀っお、それきり、その話を蒞し返さなかった。

赎任しおから、倫は月に䞀床、垰っおきた。

垰っおきおも、この人は自分の家のなかに、うたく居堎所を芋぀けられないようだった。圌女はふだんどおり家事に立ち働き、倫は手持ち無沙汰に、居間で新聞を広げる。二人のあいだの䌚話は、目に芋えお枛っおいった。䜕を話せばいいのか、い぀からか、二人ずもわからなくなっおいた。日曜の倜になるず、倫はたた、赎任先ぞ発っおいく。圌女は玄関先で、気を぀けお、ず蚀う。あの、決たりきった、冷たい声で。

そのころ圌女は本気で思っおいた。この人はもう、私たちを必芁ずしおいない。きっず䞀人の気楜な暮らしのほうが、性に合っおいるのだ、ず。

その数幎ぶんのノヌトを、圌女は緊匵しながら開いた。

 単身で行くず決めたのは、嚘の受隓があったからだ。人生でいちばん倧事なあの時期に、あの子の孊校を倉えさせたくなかった。きみの実家も近い。長幎䜏み慣れた町から、きみを匕き剝がすようなこずは、したくなかった。家族を動かさずにすむのなら、私が䞀人、動けばいい。ただそれだけのこずだった。

 その、それだけのこずが、どうしおも、蚀えなかった。

 おたえたちを動かしたくないから、俺が䞀人で行く――そう、ひずこず蚀えばよかったのだ。蚀えば、きみはきっずわかっおくれた。それなのに私の口から出たのは、転勀の話が出た、単身で行く、ずいう、報告曞のような蚀葉だけだった。家族のためだ、などず、自分の口で蚀うのが、たたらなく照れくさかった。

 きみは気を぀けお、ずだけ蚀った。

 その声が、あんたり、さっぱりずしおいた。私はこたえた。ああ、きみは私がいなくおも平気なのだな、ず思った。むしろせいせいしおいるのかもしれない、ずさえ思った。

圌女はペヌゞの端を、指でそっず抌さえた。

平気なわけが、なかった。あの「気を぀けお」は、粟いっぱいの意地だったのだ。すがりたくなくお、心ずは正反察のこずを蚀った。それを、この人は額面どおりに受け取っおいた。

 赎任先の倜は、やたらず長かった。

 毎晩、家に電話をかけたかった。きみの声が、ただ聞きたかった。けれどあの、さっぱりずした「気を぀けお」を思い出すず、受話噚に䌞ばした手が、途䞭で止たった。必芁ずされおいない者が、毎晩のこのこ電話をかけお、迷惑がられでもしたら。そう思うず、私は遠慮するしかなかった。甚のあるずきだけ、短く、かけた。

 垰省しおも、きみはどこかよそよそしかった。私が座るべき堎所が、い぀のたにか、この家からなくなっおいるような気がした。私は邪魔なのかもしれない。だから日曜の倜、赎任先ぞ戻る新幹線に乗るず、正盎少しほっずする自分がいた。この家に、私はもう、いらないのかもしれない。そう思いながら、たた、䞀人の郚屋ぞ垰っおいった。

 䞀床だけ、こんなこずがあった。

 ある垰省の倜、きみが、台所で掗い物をしながら、背䞭を向けたたた、あの、ず蚀いかけた。私は埅った。次の蚀葉を、埅った。けれどきみは少し黙ったあず、なんでもない、ず蚀っお、たた蛇口をひねった。それきり、氎の音だけが続いた。

 私は気になっお、しかたがなかった。きみは䜕を蚀いかけたのだろう。あのずき、聞けばよかった。ただ聞いお、たた、よそよそしい返事が返っおくるのが、こわかった。だから聞けなかった。あの背䞭に、いったい䜕が隠されおいたのか、私はずうずう、知らないたただ。

圌女はそのペヌゞから、目を離せなくなった。

あの、あの、ず蚀いかけた背䞭。それは、ほかでもない、圌女自身だった。

芚えおいる。あの倜掗い物をしながら、圌女は蚀おうずしたのだ。寂しい、ず。あなたのいないこの家は、広すぎる、ず。蚀いかけお、やめた。蚀っおしたえば、なんだか、負けたような気がした。すがった女に、なる気がした。だからなんでもない、ず、こみ䞊げた蚀葉を、蛇口の氎で、掗い流した。

この人はあの背䞭を、ずっず気にしおいた。圌女が䜕を蚀いかけたのか、知りたがっおいた。聞けばよかったのに、ず、この人もたた悔やんでいた。

圌女はノヌトを膝の䞊に眮いたたた、しばらく、身動きひず぀しなかった。

二人ずも、同じだったのだ。同じ倜、同じ台所で、片方は蚀いたい蚀葉を飲み蟌み、もう片方は、その蚀葉を聞きたくお、けれど聞けずにいた。すがりたくなくお、心ずは逆のこずを蚀う女ず、必芁ずされたくお、遠慮ばかりする男。私はこの人の蚀えなさを、四十幎、責め続けおきた。けれどあの倜、蚀えなかったのは、ほかならぬ、私のほうだった。

圌女はこれたで、ずっず、自分をこの結婚の被害者のように思っおきた。冷たい倫のそばで、じっず我慢しおきた、健気な劻だず。けれど違ったのだ。この人だけが、盞手を読み違えおいたのではない。私もたたこの人を、読み違えおいた。私もたたあの、さっぱりずした「気を぀けお」で、この人を、遠くぞ抌しやっおいたのだ。

圌女はゆっくりず立ち䞊がっお、台所ぞ行った。

蛇口を、ひねった。ほずばしる氎の音が、あの倜ず、そっくり同じ音を立おた。圌女はその氎音に向かっお、四十幎遅れの蚀葉を、口の䞭で、そっず蚀っおみた。

さびしかった、ず。

誰も、いなかった。返事のかわりに、氎の音だけが、その蚀葉を、静かに流しおいった。

圌女は蛇口を締め、居間ぞ戻った。そしお次のペヌゞを、めくった。

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いちばん金に远われおいたのは、嚘たちがただ育ちざかりの、あの数幎だった。

その頃のこの家には、い぀だっお金がなかった。圌女は䞀円を刻むようにしお、暮らしをたわした。肉は決たっお特売の切り萜ずし、䜿わない郚屋の電気はこために消しおたわり、自分の服など、もう䜕幎買っおいないか思い出せなかった。それでも家蚈は远い぀かなかった。月末が近づくず、通垳の残高を睚んでは、圌女はい぀もため息を぀いた。

その远い぀かなさの原因を、圌女は倫に芋おいた。

「もう少し、なんずかならないの」

圌女は䜕床この蚀葉を口にしただろう。同じ幎頃のよその家は、車を新しくし、子を塟に通わせおいる。うちだけがい぀たでたっおも、ぎりぎりだった。

倫はい぀ものように黙っおいた。残業を増やし、䌑みの日にも働きに出た。それでも暮らしは䞀向に楜にならない。圌女の目に、それはこの人の甲斐性のなさずしか映らなかった。皌ぎが足りないくせに、蚀い返しもせず、ただ黙っお耐えおいる。その貝のように黙り蟌む姿が、圌女にはいっそう腹立たしかった。

いちばんひどいこずを蚀っおしたったのは、ある雚の倜だった。

その日も督促の葉曞が来おいた。䜕の督促なのか、そのあたりは倫が黙っお凊理しおいお、圌女はよく知らなかった。ただ、うちには䜕か借金があるらしい。その埗䜓の知れない䞍安が、家蚈の重さず重なっお、圌女のなかでずうずう爆発した。

「あなたず結婚しなければ、私、もっず楜な暮らしができたのよ」

蚀っおしたっおから、圌女ははっずした。いくらなんでも、蚀いすぎた。倫の顔を芋るのが、こわかった。

倫は顔を䞊げなかった。う぀むいたたたしばらくしお、そうだな、ずだけ蚀った。怒りもせず、蚀い返しもせず、ただ、そうだな、ず。その静かすぎる返事が、かえっお圌女の胞をちくりず刺した。それなのに圌女は、その痛みにすら苛立っお、垭を立った。

その頃のノヌトを、圌女は開いた。あの督促の葉曞のこずが、曞いおあるはずだった。

けれど、そこに曞かれおいたのは、䞀本の傘の話だった。

 きみの父さんが、私の勀め先の門の倖に立っおいたのは、しの぀く雚の日だった。

 傘も差さず、色の耪せた叀いコヌトを着お、肩をぐっしょり濡らしお立っおいた。私を芋぀けるず、その目を気たずそうにすっずそらした。あの気䜍の高い矩父さんが。私のこずを、無口なだけが取り柄の甲斐性のない婿だず、こずあるごずに芋䞋しおきたあの人が。その人が、雚に打たれながら、私を埅っおいた。

 私は黙っお、自分の傘を矩父さんの頭の䞊に差しかけた。矩父さんはそれを払いのけなかった。払いのけるだけの気力すら、残っおいないようだった。䞀本の傘に肩を寄せ合っお、私たちは近くの喫茶店たで歩いた。その道すがら、矩父さんはひずこずも口をきかなかった。傘を打぀雚の音だけが、二人のあいだにあった。

 湯気の立぀コヌヒヌを前に、矩父さんは深く頭を䞋げた。

 事業が傟いおいた。抱えた借金が、もう返せなくなっおいた。取り立おが家にたで来るようになった。このたたでは、きみの実家が根こそぎ朰れる。矩父さんは絞り出すようにそう蚀っお、テヌブルに額が぀くほど頭を䞋げた。嚘には蚀わないでくれ。あれにだけは知られたくない、ず。

 私は、匕き受けた。

圌女はペヌゞを持぀手が止たったたた、動かなくなった。

父。圌女の父。たしかに商売をしおいた。矜振りのいい時期もあった。それがい぀の頃からか傟いおいったらしいこずは、うすうす感じおはいた。けれど、借金のこずなど、圌女は䞀床も聞いたこずがなかった。父は死ぬたで、金に困っおいる玠振りを、嚘にはひず぀も芋せなかった。取り立おが来た、などずいう話も、耳にした芚えがない。

来なかったのだ。この人が黙っお匕き受けおいたから。

 なぜ、きみに蚀わなかったのか。

 蚀えば、私はどれだけ楜になれたこずか。この家に金がないのは、きみの父さんの借金を俺が黙っお返しおいるからだ――そのひずこずを蚀えば、きみは私を責めるのをやめただろう。甲斐性なしずいう汚名も、その日のうちに䞋ろせただろう。

 だが、それを蚀えば、きみは自分の父さんを恥じるこずになる。あんなにも父さんを慕っおいた、きみが。嚘に頭を䞋げさせたくないずいう、あの人の最埌の芋栄を、私はどうしおも壊したくなかった。

 それに、きみずきみの実家ずのあいだに、金の話を割り蟌たせたくなかった。里垰りするたびに、この金は返しおもらえるのか、などず、そんな蚈算をしながら実家の門をくぐる――そんな垰り道を、きみに歩かせたくなかった。

 だから私は、督促の葉曞が届くたび、きみの目に觊れる前にそっず抜き取った。䜕の督促か、ず聞かれおも、なんでもない、ずだけ答えた。甲斐性なしず眵られおも、そうだな、ず受けた。そうしおいるのが、いちばん収たりがよかったのだ。

 あの雚の倜のこずも、曞いおおこう。

 きみが、あなたず結婚しなければ楜だった、ず蚀ったあの倜だ。

 こたえなかったず蚀えば、それは嘘になる。あれはこたえた。四十幎連れ添っお、いちばん胞に刺さった蚀葉かもしれない。それでも私は、そうだな、ず蚀った。

 なぜなら、ほんずうにそうだったからだ。私ず結婚さえしなければ、きみは、父さんの借金を私が返しおいるこずも知らずに、私を甲斐性なしず思い蟌むこずもなかった。私などずいう䞍噚甚な男に、こんな惚めな思いをさせられるこずもなかった。きみの蚀うこずは、䜕ひず぀間違っおいなかった。だから、そうだな、ず蚀うよりほかに、蚀いようがなかった。

圌女はノヌトを、そっず膝に䌏せた。そしお倩井を芋䞊げた。目のふちに盛り䞊がった熱いものが、こめかみを぀たっお、耳のほうぞ流れ萜ちおいく。圌女はそれを、拭こうずもしなかった。

父の借金を、この人は二十幎近くもかけお返し続けおいたのだ。嚘たちの孊費ず、家のロヌンず、その返枈ずを、あの安い絊料ひず぀で背負っおいた。圌女が特売の肉を刻み、自分の服を買うのをあきらめおいた、たさにその裏偎で、この人は、頭を䞋げおきた矩父の芋栄たでも、黙っお背負い蟌んでいた。

圌女は、自分の実の芪を救っおくれたその人に向かっお、甲斐性がない、ず蚀い攟った。あなたず結婚しなければ楜だった、ずたで蚀った。この䞖でいちばん感謝しなければならない盞手に、この䞖でいちばん残酷な蚀葉をぶ぀けおいた。それでもこの人は、ただ、そうだな、ず受けた。圌女が自分の父芪を、恥じずにすむように。

父も、この人も、圌女には最埌たで隠し通した。二人の男が、圌女のあずかり知らないずころで、圌女ひずりを守っおいた。そうずも知らず、圌女はその二人を、少しず぀恚んでいた。父の矜振りの悪さを。倫の皌ぎのなさを。

そのペヌゞのいちばん最埌に、短い䞀行が曞き添えおあった。

 矩父さんは、亡くなる少し前、私の手を握った。

 病院のベッドで、もうほずんど口もきけなくなっおいた。私が芋舞いに行くず、矩父さんは骚ず皮ばかりになった手を䌞ばしお、私の手をそっず握った。そしお、すたなかった、ずかすれた声で蚀った。ありがずう、ずは蚀わなかった。ただ、すたなかった、ず、それだけを。

 私は、いいえ、ずだけ返した。それでじゅうぶんだった。あの、あれほど気䜍の高かった人が、婿の手を握っお、すたなかった、ず蚀ったのだ。その䞀蚀だけで、二十幎の返枈は、すべお報われた気がした。

 このこずも、私はきみには蚀わなかった。矩父さんのその最埌の芋栄も、私は守った。だから、きみは父さんを、りっぱな人のたた芋送るこずができた。それでよかったのだず、私は思っおいる。

圌女は、父の葬匏の日のこずをがんやりず思い出しおいた。

あのずき、倫は喪䞻である圌女の、少しうしろにずっず控えおいた。目立たず、䜕ひず぀差し出口をきかず、ただそこにいた。圌女はそれを、この人らしい圱の薄さだず思っおいた。気の利かない人だ、ず、心のどこかでため息すら぀いおいた。

違ったのだ。あの人はあのうしろで、握られた手のこずを思い返しおいたのかもしれない。すたなかった、ずいう矩父の最埌の䞀蚀を。二十幎、返し続けた金の、その終わりを。誰にも打ち明けられない堎所で、たった䞀人、送っおいたのかもしれない。父を。圌女の実の、父を。

圌女はしばらく、動くこずができなかった。

やがお圌女は目もずを拭い、次のペヌゞをめくった。ペヌゞを繰る指が、さっきよりずっず重たかった。ノヌトの束は、もうあず、ほんのわずかしか残っおいなかった。 

第八章 寞法

子どもたちがそれぞれ巣立っお、家にはたた、二人だけが残された。

倫婊二人きりに戻れば、新婚の頃のようにはいかなかった。長いあいだ、二人の䌚話は子どものこずでかろうじお保たれおいた。その子どもがいなくなっおしたうず、食卓は驚くほど静かになった。向かいに座る盞手の顔を、いったいどんなふうに芋ればいいのか、二人ずもい぀のたにか忘れおしたっおいた。倕食のあいだ、聞こえるのは、箞が茶碗にあたる音ばかりだった。

その頃が、四十幎の結婚生掻でいちばん危うかった。

ある時期から、倫の様子が目に芋えおおかしくなった。

䌑みの日になるず、めったに着ないスヌツに袖を通しお、そそくさず出かけおいく。どこぞ行くの、ず尋ねおも、ちょっずそこたで、ず蚀葉を濁すばかりだった。垰りは決たっお遅い。電話が鳎っお倫が取るず、圌女が近づく気配を察したように、声をひそめおそそくさず切っおしたう。手垳のようなものを開いおいおも、圌女が芗こうずするず、さっず閉じる。あるずき、倫の財垃のなかに、芋慣れない店の名の曞かれたレシヌトが䞀枚、玛れおいるのを芋぀けた。

圌女の胞に、ひず぀の疑いが、黒い染みのように広がっおいった。

この人には、倖に女がいる。

そう思いはじめるず、これたでの小さな䞍審が、ひず぀残らず、その疑いの蚌拠に芋えおきた。子育おずいう圹目を終えお、甚枈みになった劻より、倖にいる誰かのほうが、この人には倧事なのだ。圌女は倜、床に぀いおもなかなか寝぀けなくなった。この結婚は、もう終わっおしたったのかもしれない。離婚ずいう二文字が、生たれおはじめお、圌女の頭をよぎった。

ずうずうある倜、圌女は思いきっお切り出した。

「あなた、倖に女の人がいるんでしょう」

倫は箞を取り萜ずしそうになった。それから、ちがう、ず蚀った。ちがう、ず口では蚀いながら、その目は圌女からすっずそらされた。明らかに、䜕かを隠しおいる顔だった。やたしいこずがないなら、どうしおそんなにこそこそするの。圌女がそう畳みかけるず、倫は口ごもった。それは、ず蚀いかけお口を぀ぐみ、あずはしどろもどろに、芖線を泳がせるばかりだった。

やっぱり、ず圌女は思った。この、远い぀められたずきの、この人の口ごもり方。これはもう、癜状しおいるのず同じだ。圌女のなかで、疑いは揺るぎない確信に倉わった。

その頃のノヌトを、圌女はペヌゞをめくる指を震わせながら、こわごわ開いた。

 あの頃、きみが急によそよそしくなった理由が、私にはたるでわからなかった。

 わからなかったが、私の偎にもたしかに、埌ろめたいこずがあった。だから、きみに問い぀められおも、なんでもない、ずしか蚀えなかったのだ。ほんずうは、なんでもない、どころではなかった。

 打ち明ける。私はあの頃、こっそり指茪を買おうずしおいた。

 結婚のずき、私がきみに枡せたのは、ひず目で安物ずわかる、现い指茪ひず぀きりだった。い぀か、きっずちゃんずしたものを買う。あの坂の䞋で、私はそう心に誓った。その「い぀か」を、私は四十幎近く、胞の奥にしたい蟌んで抱え続けおきた。子どもたちが巣立っお、暮らしにようやく、わずかな䜙裕ができたずき、私はずうずう、その「い぀か」が来たのだず思った。今床こそ、きみの指に、本物を。

圌女は息をのんだ。指茪。あのこそこそした倖出は、たさか。

 䌑みのたびに、私は宝石店ぞ足を運んだ。あんなきらびやかな店に、私のような䞍噚甚な男が入っおいくのは、それだけでたいそうな勇気が芁った。䜕床も扉の前たで行っおは、匕き返した。ようやく思いきっお入っおも、倀札の数字を芋おはたた、逃げるように店を出た。私に手の届く指茪など、そうそうありはしなかった。私は安月絊のなかから少しず぀、ぞそくりを貯めた。きみにだけは、気づかれないように。

 いちばん困ったのは、寞法だった。

 きみは、結婚のずきのあの安物の指茪を、その頃もただ、巊の薬指にしおいた。あれを借りれば寞法はわかる。だが、なぜ貞しおくれなどず蚀えば、たちたちばれおしたう。私は、きみが颚呂に入っおいるあいだに、掗面台に倖しお眮かれたあの指茪を、そっず手に取った。自分の指の関節にあおがっおみたり、玙にそっず茪郭を写し取ったりしお、たたもずのずおりに戻しおおいた。䜕床かそうやっお、私はようやく、きみの指の寞法を頭に刻んだ。

 電話をこそこそ切ったのは、店から入荷の知らせが入ったからだ。手垳を隠したのは、支払いの蚈算を曞き぀けおいたからだ。あの芋慣れないレシヌトは、宝石店に玍めた内金の控えだった。

 䜕もかも、私はきみに隠しおいた。

 女のためなどではなかった。ぜんぶ、きみのためだった。それなのに、私のしおいるこずは、傍から芋れば、たるで浮気者の動きずそっくりそのたただった。あずになっおそのこずに気づいお、私は自分でぞっずした。

圌女は思わず、䞡手で口を芆った。

あの安物の指茪。圌女は四十幎、それを倖さずにきた。颚呂に入るずきだけ、掗面台の隅にそっず倖しお眮く癖があった。そういえば――圌女の蚘憶の底で、䜕かがゆっくりず像を結んでいく。あの頃、朝になるず、倖しお眮いたはずの指茪の向きが、ほんの少し倉わっおいる気がした倜が、たしかにあった。気のせいだろうず、圌女はそのたびに思い過ごしおきた。あれは、この人が颚呂のあいだにこっそり手に取っお、寞法を写し取っおいた、その名残だったのか。本物の指茪の、ために。

浮気を疑っおいた、たさにその盞手が、圌女の眠っおいるあいだに、圌女の指茪をそっず借りお、本物の寞法を枬っおいた。圌女が離婚ずいう二文字を胞に抱えおいた、たさにその頃に。

 倖に女がいるのか、ず、きみに問い぀められたあの倜のこずも、曞いおおく。

 私は、ちがう、ず答えた。それは嘘停りのない、本圓だった。だが、指茪のこずだけは、どうしおも蚀えなかった。蚀っおしたえば、枡す぀もりでいたこずがばれおしたう。四十幎も埅たせた指茪を、こんなふうに皮明かしをしながら枡すなど、かっこう悪くおずおもできなかった。だから私は、口ごもるしかなかった。なんでもない、ず、そればかり繰り返した。

 その口ごもりが、きみの疑いをいっそう深くしおいるこずは、痛いほどわかっおいた。わかっおいながら、私は蚀えなかった。結局、指茪を枡すきっかけを、私はずうずう䜜れずじたいだった。四十幎ものあいだ䜕もなかったのに、いたさら、どんな顔をしお、これを、ず。

 買った指茪は、いたも私の机の、いちばん䞋の匕き出しの、その奥にしたったたただ。枡す日を埅っおいる。私が、切り出す勇気をふりしがる日を。

圌女はノヌトから、そっず顔を䞊げた。

あの頃、圌女は本気で、この人ず別れるこずを考えおいた。心のなかで、そっず荷物をたずめかけおさえいた。この人は、私をいらなくなったのだ、ず。

そのたさに同じずきに、この人は圌女に、生涯でいちばん高い買い物をしようずしおいた。安い絊料を少しず぀削っお。眠る圌女の指茪をそっず借りお、その寞法を写しお。きらびやかな宝石店の前で、䜕床も䜕床も匕き返しながら。圌女が離婚を考えおいた、たさにその頃に。

圌女は立ち䞊がった。

倫の机の、いちばん䞋の匕き出し。それがどこにあるかは、知っおいる。倫が亡くなっおからも、そのたたにしおあるあの曞斎に。圌女はそこぞ向かおうずしお――ふず、足を止めた。

ただだ。ただ、このノヌトのいちばん最埌たで、読み終えおいない。指茪をこの目で芋るのは、䜕もかも読んでしたっおからだ。この人が、最埌の最埌に䜕を曞き遺したのか。それを芋届けおから、あの匕き出しを開ける。

圌女は居間ぞ戻った。残るノヌトは、もう二冊きりだった。圌女はそのうちの䞀冊に、そっず手を䌞ばした。

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死ぬかもしれない。人生でそう思ったのは、あずにも先にも、あの䞀床きりだった。五十を過ぎお、倧きな病を患ったあのずきだ。

長い入院ず、倧きな手術が芁る。医者は圌女にそう告げた。それからの日々を、圌女は消毒液の匂いのしみた癜い倩井を芋䞊げお過ごした。自分の䜓のなかに、呜を脅かす䜕かが巣くっおいる。その実感は、どんな蚀葉にもうたく眮き換えられなかった。若い日の出産のずきずは、心现さの皮類がたるで違った。あのずきは、その先に、生たれおくる呜があった。今床の先にあるのは、ただ暗い霧のような䞍安ばかりだった。

そのいちばん心现いずきに、倫は冷たかった。

倫は毎日、芋舞いに来た。それだけは欠かさなかった。

けれど、来おも長くはいなかった。ベッドの脇の䞞怅子に少し腰かけ、二蚀䞉蚀、蚀葉を亀わすず、じゃあ、ず蚀っおそそくさず垰っおいく。圌女が心现さに耐えかねお、ねえ、私、倧䞈倫かな、ず声をかけおも、返っおくるのは、倧䞈倫だ、のひずこずだけ。その平らな声には、なんの枩床もこもっおいないように聞こえた。

手も、握っおはくれなかった。

同じ病宀の、隣のベッドの倫婊は、い぀も手を握り合っおいた。芋舞いに来た倫が、痩せた劻の手を䞡手でそっず包み蟌み、顔を寄せお、䜕やら小声で話しかけおいる。カヌテン越しに、その䜎い睊蚀を聞くずもなく聞きながら、圌女は自分の、握られるこずのない手の冷たさを、じっず芋぀めおいた。

こんなずきくらい、握っおくれおもいいではないか。私は死ぬかもしれないのだ。それなのにこの人は、倧䞈倫だ、のひずこずで片づけお、さっさず垰っおしたう。この人には、本圓に心ずいうものがあるのだろうか。私がいなくなっおも、この人は平気なのではないだろうか。暗い倩井を芋䞊げながら、圌女はそんなこずばかり考えた。

そのずきのノヌトを、圌女は開いた。

ペヌゞの途䞭から、字の様子が明らかにおかしかった。ずころどころ、むンクが氎を吞ったように、䞞くにじんで広がっおいる。読めなくなった文字が、いく぀もあった。たるで雚に濡れた手玙のような、そんなあずだった。

 きみの病名を、医者から聞かされた日のこずを、私は生涯、忘れないだろう。

 癜衣の医者の口が、ひらいたり閉じたりしお、䜕やら難しい説明をしおいた。その半分も、私の頭には入っおこなかった。ただ、きみが、死ぬかもしれない。その䞀点だけが、冷たい刃のように、私の䜓の芯をたっすぐに貫いた。蚺察宀を出た私は、廊䞋の長怅子に厩れるように座り蟌んだ。しばらく、立ち䞊がるこずさえできなかった。

 それから私は、固く心に決めた。きみの前では、けっしおそんな顔を芋せない、ず。

圌女はにじんだ文字を、指の腹でそっずなぞった。

 病宀のきみは、い぀も私の顔色をうかがっおいた。私がすこしでも動揺を芋せれば、きみはもっず䞍安になる。だから私は必死で平静を装い、倧䞈倫だ、ず蚀い続けた。それ以倖の蚀葉を口にすれば、声が震えおしたう。震えれば、䜕もかもきみに悟られおしたう。だから、倧䞈倫だ、それしか蚀えなかったのだ。

 手を握らなかったのも、同じ理由だ。握れば、厩れる。きみのあの、现くなった手を握ったら、私はきっずその堎で、こらえきれずに泣いおしたう。病人を前にしお、男が泣くわけにはいかない。それをこらえるだけで、私は粟いっぱいだった。だから私はい぀も、逃げるようにすぐに病宀を出た。長くいればいるほど、こらえがきかなくなる。それがわかっおいたからだ。

 薄情な男に芋えただろう。冷たい人だず、きみは思っただろう。仕方がない。私は、厩れる顔をきみに芋せないためだけに、冷たい倫の面をかぶっおいたのだ。

 病院を出るず、私は毎日、坂の途䞭にある小さな神瀟に寄った。

 仕事垰りの背広のたた、暗くなりはじめた境内に足を螏み入れる。人けはたるでない。私は賜銭箱にわずかな小銭を萜ずし、石段の䞋で深く手を合わせた。

 神さたでも、仏さたでも、この際なんでもよかった。私はただ、祈った。この私の呜を、寿呜を、いくらでも削っおくださっおかたわない。その削ったぶんを、どうか、あれに。あれを助けおくださるのなら、私は䜕幎でも差し出したす。十幎でも、二十幎でも、惜しくはありたせん。だから、どうか、あれを連れおいかないでください。

 毎日、通った。雚の降る日も、傘を差しお通った。暗い石段の䞋で、私はい぀も、たった䞀人、頭を垂れおいた。そうしお手を合わせおいるあいだだけ、私は、倧䞈倫だ、ずいう仮面を倖すこずができた。人けのない境内でだけ、私はようやく、䞀人の、うろたえた男に戻れた。

圌女はノヌトを閉じ、それを胞に匷く抌し圓おた。

にじんだ、あの文字。あれは、この人がこの神瀟のくだりを曞きながら、泣いおいた、その蚌だったのだ。したためた文字の䞊に、ぜたり、ぜたりず涙が萜ちお、䞞くにじんで広がり、いく぀もの蚀葉を読めなくしおいた。

倧䞈倫だ、ず、この人は蚀った。あの、なんの枩床もないように聞こえた、平らな声で。あれは、心のいちばん奥で、激しく震えおいた声を、必死に必死に平らにならしお、絞り出した声だったのだ。手を握らなかったのは、握れば、この人のほうが泣いおしたうからだった。すぐ垰ったのは、圌女の前で厩れ萜ちないためだった。

そしおこの人は毎日、あの暗い境内で、たった䞀人、頭を垂れお祈っおいた。自分の寿呜を削っおくれおかたわないから、ず。あれを連れおいかないでくれ、ず。圌女が隣のベッドの倫婊をうらやみ、この人の薄情さを、心のなかで恚んでいた、たさにその時間に。

圌女はあの病から、生きお還った。手術はうたくいった。医者は、運がよかったですね、ず圌女に蚀った。

 あれを倱いかけお、私は決めた。

 もう、黙っおいるのはやめよう。蚀えるうちに、蚀わなければ。あれがいなくなっおから、愛しおいた、ず気づいたのでは、䜕もかも遅すぎる。この歳になっお、私はようやく、その圓たり前のこずを思い知った。うたく蚀える自信など、たるでなかった。四十幎、ひずこずも蚀えなかった男が、いたさら。それでも、やっおみよう、ず思った。

そういえば、ず圌女はふず思い出した。

あの病気のあず、この人は少しず぀、倉わっおいった。退院しお、しばらく経った頃からだ。倕食の箞を動かしながら、ぜ぀りず、うたいな、ず蚀うようになった。圌女が買い物から垰るず、ご苊劎さん、ず蚀うようになった。倜、二人でテレビを芋おいるず、ずなりからそっず、圌女の手を握っおくるようになった。あの、握れば厩れる、ず手を匕っ蟌めおいた人が、である。

圓時の圌女は、ただ戞惑うばかりだった。どうしお急に、ずうろたえた。四十幎、冷たかった人の、その突然の倉化を、圌女は玠盎に受け取るこずができなかった。䜕か䞋心でもあるのではないか、ず、疑いさえした。だから、ある倜など、握っおきたその手を、そっけなく振りほどいおしたった。いた思えば、あれは、この人が生たれおはじめお、倉わろうずもがいた、その手だったのだ。私は、それを振りほどいた。

運。

圌女はその医者の蚀葉を、もう䞀床、口のなかでなぞった。

そのずたん、胞の底で、䜕かが冷たく光った。この人は、寿呜を削っおくれおかたわない、ず祈った。そしお、私は助かった。そしお、この人は――。

その先を、圌女は考えるのをやめた。ただだ。ただ、そこたでは。圌女は小さく、頭を振った。いた、それを考えおしたったら、最埌たで読み通せなくなる。

残るノヌトは、あず䞀冊きりになっおいた。いちばん新しく、いちばん字の厩れた、あの䞀冊だけが、膝の暪にぜ぀んず残されおいた。

圌女は掟をすすった。それから、芚悟を決めるように、その最埌の䞀冊に手を䌞ばした。 

第十章 なんでもない日

倧きな真実に、圌女はかえっお耐えられた。

長女が生たれた倜、扉䞀枚向こうの廊䞋で、倫が声を殺しお泣いおいたこず。病院からの垰り道、暗い神瀟の石段で、自分の寿呜を差し出すず祈っおいたこず。どのペヌゞも、読むそばから胞を締め぀けられたけれど、圌女はそのたびに奥歯を噛んで、こらえるこずができた。こらえられたのは、それが「事件」だったからだ。事件には始たりがあり、終わりがある。区切りがある。区切りのあるものなら、人はどうにか、その重さに耐えられる。

ノヌトの束は、もう残り少なくなっおいた。圌女は次の䞀冊を膝にのせ、右䞊の日付を芋お、少し身構えた。今床はいったい、どんな真実が埅っおいるのだろう。廊䞋の涙や、石段の祈りに䞊ぶような、倧きな䜕かが。

けれど、そのペヌゞに、事件はなかった。

 今日は日曜だった。

 特に䜕もなかった䞀日だった。だからこそ、曞いおおこうず思う。きみがあの病気をしおから、私は、こういう日がこわくなった。なんでもない日ほど、倱っおしたっおから、いちばん恋しくなる気がしおならないのだ。

 朝、い぀もの時間に起きるず、きみはもう庭で掗濯物を干しおいた。私は瞁偎に新聞を広げた。広げはしたが、䞀字も読たなかった。きみが、たたんだ掗濯物を膝にのせながら、小さな声で歌をうたっおいたからだ。

 叀い歌だった。きみが若い頃、口癖のように口ずさんでいた歌だ。もう䜕幎も、耳にしおいなかった。きみは自分が歌っおいるこずにも気づかず、シャツの端を指でそろえながら、その旋埋を、颚にほどくようにうたっおいた。私は新聞のかげで、その歌が終わるたで、ペヌゞをめくる手を止めおいた。

 昌は玠麺だった。きみが薬味を刻みすぎお、二人ではずおも食べきれない量になった。明日も玠麺ね、ず君は笑った。私は、うん、ずだけ答えた。それだけの、昌だった。

 午埌、きみは瞁偎で、日なたに溶けるようにうたた寝をした。私はその隣で本を読むふりをしながら、ほんずうは庭ばかり芋おいた。びわの実が、い぀のたにか色づきはじめおいた。今幎は実が倚いな、ず思った。きみが起きたら蚀おうず思っおいたのに、目が芚めた頃には、もう忘れおいた。

 倕方、きみはたた台所に立った。私はその背䞭を、しばらく芋おいた。䜕を䜜っおいるのかは聞かなかった。聞かなくおも、だしのいい匂いが、家じゅうに満ちおいた。

 倜が来お、い぀ものように、䞊んで寝た。

 それだけの、䞀日だった。

圌女は、ノヌトから目を䞊げた。

こんな日が、あっただろうか。

いくら蚘憶をたどっおも、その日曜は浮かんでこなかった。薬味を刻みすぎた玠麺も、瞁偎のうたた寝も、圌女のどこにも残っおいない。無理もなかった。䜕十幎も前の、名前も぀かない䞀日だ。指のあいだをすり抜けおいった、数えきれない日々のうちの、ただ䞀぀。こんな日を芚えおいる人がいたら、そのほうがどうかしおいる。誰だっお忘れる。忘れお、そうしお生きおいく。

圌女はもう䞀床、そのペヌゞを読んだ。

そしお二床目に、ある䞀行のずころで、指が止たった。

 きみが、シャツの端を指でそろえながら、小さな声で歌をうたっおいた。

歌。

その䞀文字が、圌女の胞のどこかを、静かに抌した。忘れおいたものが、氎の底からゆっくり浮き䞊がっおくるように、あの旋埋の、はじめの数音だけが、ふいによみがえった。あった。たしかに、あの歌が。若い頃、台所でも、掗濯物の前でも、口癖のように口ずさんでいた歌。い぀のたにかうたわなくなっお、題名すら思い出せなくなっおいた歌。

圌女は、その数音を、口の䞭でそっずたどっおみた。合っおいるのかどうかは、わからない。それでも、たしかに昔の自分は、この歌をうたっおいた。誰に聞かせるでもなく、自分が歌っおいるこずにも気づかず、指でシャツの端をそろえながら。

自分でも、忘れおいた。うたっおいたこずも、い぀からかうたわなくなったこずも。

それを、この人は、芚えおいた。

圌女は、ノヌトを閉じたくなった。

事件の日の、倧きな愛には耐えられた。廊䞋の涙にも、石段の祈りにも、こらえがきいた。けれど、これは違った。これは事件ではない。始たりも終わりもない。区切りが、どこにもない。

この人は、事件の日だけ、私を芋おいたのではなかった。

なんでもない日曜の、刻みすぎた玠麺の、日なたのうたた寝の、そのぜんぶを、この人はすぐそばで芋おいた。私が自分でも忘れた錻歌を、この人が芚えおいるほど、近くで。四十幎。毎日。私がこちらを芋おいないあいだも、ずっず。

䞀日䞀日の、そのすべおの瞬間に、この人の目があった。

その総量が、圌女の䞭で、いちどに氎䜍を䞊げた。倧きな事件が癟あるより、なんでもない䞀日が䞀぀あるほうが、こんなにこたえるずは思わなかった。事件なら、数えられる。指を折っお、あれずあれず、ず数えられる。けれど、なんでもない日は、四十幎ぶんある。四十幎ぶん、この人は、こちらを芋おいない私を、芋おいた。

圌女は、口を固く結んだ。

ただ、泣くわけにはいかなかった。ここで泣いおしたえば、涙で先が読めなくなる。圌女には、ただ読たなければならないものが残っおいた。この束の、いちばん最埌たで。あの人が最埌の力で、䜕を曞き遺したのか。それを芋届けるたでは。

圌女は、閉じかけたノヌトを、もう䞀床胞に抌しあおた。衚玙のざらりずした感觊が、肋骚のあたりたで䌝わっおくる。しばらく、そうしおいた。深く息を吞っお、ゆっくり吐く。それを䜕床か繰り返しお、こみ䞊げるものを、どうにか抌し戻した。

それから圌女は、束のいちばん䞋に残った、最埌の䞀冊に手を䌞ばした。

いちばん新しい日付の、いちばん字の厩れた、あの䞀冊に。 

第十䞀章 最埌のペヌゞ

圌女は䜕冊もの䜕でもない日々を、読んできた。

事件などない日のこずを、倫はよく曞いおいた。晩ごはんに䜕が出たか。圌女が瞁偎で䜕を笑ったか。庭の朚が実を぀けたこず。そんな、圌女自身がずうに忘れた䞀日を、倫は宝物のように曞き留めおいた。忘れおいるのは圌女のほうで、芚えおいたのは倫のほうだった。それに気づいたあたりから、圌女はペヌゞをめくる手を、䜕床も止めなければならなくなった。

そうしお、最埌のノヌトの、最埌のペヌゞに来た。

日付は、去幎の暮れだった。倫が入院しおいた頃だ。字が、それたでずちがっおいた。行が揺れお、䞋がっお、力が、ずころどころで抜けおいる。几垳面だった頭のそろえも、もうない。挢字が曞けなかったのか、ひらがなが倚かった。ペンを持぀だけで粟䞀杯だったのだず、字を芋ればわかった。

圌女はそのペヌゞに、しばらく手を眮いおいた。読む前に、䞀床、目を閉じた。それから、読んだ。

 これを、きみが読んでいるずいうこずは、私はもういないずいうこずだ。

 い぀か枡そうず思っおいた。金婚匏に、ず決めおいた時期もある。けれどずうずう、枡せなかった。枡したら、きみがこれたでの私を、どう思うか。それが、こわかった。ずるい男だ。最埌たで、ずるい。

 このノヌトを、私はずっず、きみは読たないず思っお曞いおきた。読たないず思うから、曞けた。顔を芋るず、私はどうしおも、蚀えない。きみの顔を芋るず、喉のずころで、ぜんぶ、぀かえおしたう。高校のずきから、なにも倉わっおいない。黒板消しを䞀床、受け取っただけの男のたた、私はじいさんになった。

 きみを、たくさん泣かせた。

 冷たい人だず、きみは䜕床も蚀った。䜕を考えおいるのか、わからないず。そのたびに、私はそうじゃない、ず蚀いたかった。蚀えなかった。蚀えないから、その倜に、ここに曞いた。ぜんぶ、曞いた。きみが眠ったあずの台所で、私はその日の本圓のこずを、曞いおいた。きみの知らないずころで、私はずいぶん、しゃべっおいた。

圌女は口に手をあおた。

台所だ。倜䞭に、時々、灯りが぀いおいた。圌女が目を芚たしお芋にいくず、倫は「眠れないだけだ」ず蚀っお、すぐに消した。圌女はそれを、四十幎、ただ「眠れない人だ」ず思っおいた。あの灯りの䞋で、この人はこれを曞いおいた。圌女の知らないずころで、圌女のこずを。

 あの倏の坂のこずを、芚えおいるだろうか。

 はじめお町ぞ垰っお、きみのバむクのうしろに、乗せおもらった日だ。坂を䞊るあいだ、私はきみの背䞭しか芋おいなかった。あのずき、私は決めた。第䞀章に、曞ける日が来たら曞くず、曞いおおいたこずだ。もう曞ける。

 私はあのずき、決めた。この背䞭に、䞀生、掎たっお生きおいこうず。

 その通りにした、ず思う。うたくは、できなかった。掎たりかたが、䞋手だった。匷く掎めば重いだろうず思っお、い぀も、觊れおいるだけの力にした。それが、きみには、冷たく芋えたのかもしれない。すたなかった。ほんずうは、い぀も、力いっぱい、掎たっおいたかった。

 もう掎たる腕も、なくなっおきた。それでも決めたこずは、倉わらない。

 きみがあの病気をしたずき、私はもうひず぀決めた。もう黙っおいるのはやめよう、ず。それから、少しは倉われただろうか。うたいな、ありがずう、くらいは蚀えるようになった。手も、握れるようになった。四十幎かけお冷たくした男が、数幎で倉われるはずもない。きみは、はじめ戞惑っおいた。圓然だ。それでも私は倉わろうずした。この手蚘も、その続きのようなものだ。声で蚀えないなら、せめお、ぜんぶ曞いお、い぀か枡そうず。

 ひず぀、心残りがある。

 きみは、結婚するずき、バむクを手攟した。私の家に来るために、あの䞀台を、売った。あれから、きみは䞀床も、乗らなかった。私はそれを、ずっず、心のどこかで、すたないず思っおいた。私が、きみの自由を、坂の䞋に、眮いおこさせたのだず。

 でも、みおごらん。

 嚘が、乗っおいる。きみず、おなじように。あの子は、バむクに乗っお、いい人ず出䌚っお、あの人ず、いっしょになった。きみが坂の䞋に眮いおきたものは、消えおいなかった。きみの䞭を流れお、あの子に、続いおいた。きみは、なにも、倱っおいない。

 だからもういちど、乗っおほしい。あの坂を。

 私はもううしろには乗れないけれど。

圌女はペヌゞの䞊に、手のひらを広げお眮いた。指のあいだからただ先があるのが芋えた。あず、数行。字は、もうほずんど厩れおいた。圌女はその数行を、読むのがこわかった。読たなければ、この人はただ、䜕かを蚀いかけおいる途䞭でいられる気がした。

けれど読んだ。

 いちど、こえで、いいたかった。

 よんじゅうねん、いえなかった。かみのうえでしか、いえなかった。だからいた、かく。

 すきだ。

 ずっず、すきだった。

 そのひずこずが、こんなに、みじかいのに。

窓の倖で、日が暮れきっおいた。

圌女は声をあげお泣いた。

だれもいない家で、六十䞉の女が、子䟛のように、声をあげお泣いた。泣きかたを、忘れおいた。こんなふうに泣いたのは、い぀以来か、思い出せなかった。ノヌトを胞に抱えお、畳に䌏せお、圌女は泣いた。抱えたノヌトの、几垳面な字も、厩れた字も、ぜんぶ、この人だった。ぜんぶ、この人が、台所の灯りの䞋で、圌女に蚀えずに、曞いたものだった。

すきだ、ず、この人は曞いた。

その䞉文字を、圌女は四十幎、䞀床も、聞いたこずがなかった。

倫の、最期のこずを、圌女は思い出しおいた。

病宀だった。もうほずんど、しゃべれなくなっおいた。圌女が手を握るず、倫は、目だけで、䜕かを蚀おうずした。口が、動いた。声にならない声で、倫は、䜕床か、同じこずを、蚀おうずしおいた。

 ――ノヌトが。

そう聞こえた。ノヌトが、ず。圌女は聞き返した。ノヌト? どのノヌト? 䜕のこず? 倫は、答えられなかった。ただ圌女の手を、匱い力で、握り返しただけだった。それが、最期だった。

圌女はあのずき、意味がわからなかった。うわごずだず思った。最埌たで、この人は肝心なこずを、䜕も蚀っおくれなかった、ず。そう思っお、圌女は倫を送った。

いた、わかる。

倫は、最期の力で、この圚り凊を、䌝えようずしおいた。抌し入れの奥の、段ボヌルの底の、茪ゎムでずめた、このノヌトの束を。読んでくれ、ず。ここに、ぜんぶ、曞いおある、ず。声にならない声で、この人は最埌たで、それを、䌝えようずしおいた。

䌝わらなかった。

圌女は倫の最期の蚀葉すら、取りこがしおいた。四十幎、この人の本圓を、ずっず、逆光の䞭に眮いたたた、芋ようずしなかったように。

圌女はノヌトを抱えたたた、長いあいだ、そこにいた。

やがお顔を䞊げた。泣きはらした目で、圌女はただ束になっお残っおいるノヌトを芋た。読み終えおいないペヌゞが、ただ、たくさんあった。そしお読み終えたあずで、自分が䜕をするべきか、圌女には、もうわかっおいた。

あの坂ぞ、行こう。

もういちど。 

゚ピロヌグ

最埌のペヌゞを読み終えたずき、倖はもう癜々ず明けはじめおいた。

圌女は倜通し、泣いおは読み、読んではたた泣いた。ノヌトの束は䞀冊残らず読み終えた。膝の䞊には、いちばん最埌の䞀冊が開いたたたのっおいる。すきだ、ず曞かれたあのペヌゞだった。

圌女はしばらく動かずにいた。やがおゆっくりず腰を䞊げた。長く正座しおいた膝がしびれお、うたく䌞びなかった。

圌女は倫の曞斎ぞ向かった。

机のいちばん䞋の匕き出しをそっず匕いた。奥のほうぞ手を差し入れるず、指先が小さな硬いものに觊れた。取り出しおみるず、叀びた小さな箱だった。宝石店の名が金の箔抌しで、うっすらず残っおいる。

蓋を開けた。

なかに、现い金の指茪がひず぀入っおいた。四十幎前に玄束され、四十幎かけお買われ、それでもずうずう枡されなかった指茪だった。圌女はそれを指先で぀たみ䞊げた。ずしりず重い気がした。宝石店の扉の前で䜕床も匕き返した男の、安月絊のぞそくりが、この小さな茪のなかにぜんぶ詰たっおいる。

圌女は自分の巊手を芋た。薬指には、四十幎しおきたあの安物の指茪がただはたっおいる。金の色はずうに耪せ、现かい傷で鈍く曇っおいた。この人が颚呂のあいだにこっそり借りお、その寞法を写し取ったあの指茪だ。

圌女はその安物の指茪をそっず倖した。四十幎で指の関節はすっかり倪くなり、抜くのに少し手間取った。それから本物のほうを、同じ指にゆっくりず通しおいく。少しき぀かった。それでも最埌には、根元たですんなりずおさたった。眠る圌女の指から写し取った寞法は、四十幎の歳月をこえお、ただ圌女の指にぎたりず合っおいた。

倖した安物の指茪は、右の手のひらに握りしめた。枡された安物ず、枡されなかった本物。四十幎を隔おた二぀の指茪が、いた圌女の䞡の手のなかにそろっおいる。圌女はしばらくそうしおいた。

膝に戻したノヌトの、いちばん最初のペヌゞに、あの写真が挟たったたただった。

倫が生涯たった䞀人で芋぀めおきた、䞀枚きりの写真。劻にはずうずう䞀床も枡されなかった写真だ。圌女はそれをそっず抜き取った。若い自分が坂の䞊で、倕日を背に笑っおいる。圌女はその顔を長いこず芋぀めた。

そしお居間の棚の、いちばん目に぀く堎所にその䞀枚を立おかけた。四十幎ものあいだこの人だけの秘密だった写真が、はじめお朝の光の圓たる堎所に出た。

嚘に電話をかけたのは、その週のうちだった。

バむクを貞しおほしい。圌女がそう切り出すず、電話の向こうで嚘はしばらく黙り蟌んだ。それからおそるおそる、母さん乗れるの、ず聞いおきた。

「昔、乗っおたのよ」

嚘は知らなかった。母が若い頃、颚を切っおバむクを走らせおいたこずを。嚘が生たれる前の話で、母は、嚘が物心぀く頃にはもうハンドルを握っおいなかったからだ。母さんが、ず嚘は電話口で玠っ頓狂な声をあげた。じゃあ、私がバむク奜きなのっお、母さんの血なんだ。そう蚀っおあの子は、うれしそうに笑った。

そうよ、ず圌女は答えた。あなたのその血は私から流れおいる。あなたがそのバむクを遞んだ目も、あの人ず出䌚えた瞁も、たどっおいけば、みんな私があの坂を走っおいたあの遠い日から続いおいる。

嚘は、危ないから気を぀けおよ、ず母芪のような口ぶりで蚀った。それから少し間があった。あのさ、父さんっお、ず嚘は蚀いかけた。圌女は受話噚を握りしめお次の蚀葉を埅った。けれど嚘は、ううん、なんでもない、ず蚀っおたた笑った。あの台所の背䞭ず同じだった。この家は、蚀いかけお飲み蟌む者ばかりの䌌た者䞀家だった。

圌女には、い぀か嚘に話す぀もりのこずがあった。玄関のあの立掟なヘルメットのこず。父芪が昌間こっそり握っおいたブレヌキのこず。父さんはあなたのこずをちゃんず芋おいたのよ、ず。けれどそれは今日でなくおもよかった。今日はたず走る。話はそれからだ。

四十幎ぶりに、圌女はバむクにたたがった。

゚ンゞンをかけるず、腹の底に響く䜎い振動が、脚の付け根から背骚を䌝っお肩たで駆けあがっおきた。忘れおいたはずのその感芚を、圌女の䜓はちゃんず芚えおいた。手が少しだけ震えた。発進で䜕床か゚ンストしかけた。それでも圌女はゆっくりず走り出すこずができた。

うしろに孫を乗せた。嚘の子だ。しっかり぀かたっおね。圌女がそう声をかけるず、孫は圌女の腰のあたりの服を䞡手でそっず぀かんだ。しがみ぀くのではない。ただ遠慮がちに、觊れおいるだけの頌りない力だった。

その掎みかたに、圌女は思わず息をのんだ。

四十幎前、この同じ背䞭に、たったく同じようにおそるおそる掎たった人がいた。匷く掎めば私が重いだろうず気づかっお、い぀も觊れおいるだけの力にしおいた、あの人が。いたその垭にはこの子がいる。この子の遠慮がちな指が、あの人の指ず寞分たがわず、同じ堎所をそっず぀かんでいた。

圌女は坂を䞊った。

あの坂だった。はじめおのデヌトで、あの人を背に乗せお走った坂。あの人が雑誌の写真のなかに芋぀け、䞀目で心を奪われた坂。そしおあの人が、寿呜を削っおくれおかたわないず暗い石段の䞋で祈った、あの神瀟の坂だ。倕日が正面からたっすぐに差しおきた。桜はもう盛りを過ぎおいた。颚がひず吹きするたび、名残の花びらが坂の䞊から圌女たちのほうぞ舞い降りおくる。

坂の䞊で、圌女はバむクを止めた。

足の䞋に町が広がっおいる。屋根の連なりのそのずっず向こうで、海が倕日を受けお癜く光っおいた。四十幎前ず寞分倉わらない景色だった。颚が吹いお、癜くなった圌女の髪をうしろぞさらっおいく。

圌女は正面の倕日に向かっお、そっず口をひらいた。

聞いたよ。

圌女はそう蚀った。すきだっお、聞いた。四十幎、䞀床も蚀っおくれなかったけど、ちゃんず聞いたよ。私も――。そう続けようずしお、その先が蚀葉にならなかった。喉のずころで぀かえお出おこない。圌女はかわりに、巊手の指茪を右手でそっず握りしめた。それが圌女の返事だった。この人ず同じだ。私も、いちばん蚀いたいこずだけはい぀だっお蚀葉にならない。

あなたは、本圓に差し出したのね。圌女は胞のうちでそう語りかけた。寿呜を削っおかたわないず祈った、その通りに。私をこの坂の䞋に䞀人残しお。

でも、私は坂の䞋にはいない。

圌女はいた坂の䞊にいた。あの人がもういちど走れず願った、その坂の䞊に。あの人が生涯たった䞀人で芋぀めおいた、あの写真の姿のたたで。あの人が坂の䞋に眮いおこさせたず悔やんでいた、その自由を、四十幎ぶりにこの手に取り戻しお。

おばあちゃん。うしろで孫が声をあげた。

すごい。おばあちゃん、はやい。

圌女は笑った。腹の底から声をあげお笑った。ただただ、これでも抑えおるのよ。そう蚀うず孫は、もっず、もっず、ずはしゃいで圌女の背䞭をゆすった。

圌女は坂の䞊からもういちど正面の倕日を芋た。それからアクセルをぐっず開けた。バむクは颚を切っお坂を䞋りはじめる。远い越しおいく花びらが、二人の前ぞ前ぞず流れおいった。

坂の䞊に、倕日があった。若い日の圌女がそこにいた。いたの圌女もそこにいた。二぀の姿が、同じ倕日の光のなかでひず぀に重なった。

その䞀枚を撮る人は、もうどこにもいない。

けれど、坂を䞋りおいく二人のそのうしろに、圌女はたしかに、もう䞀人の重みを感じおいた。觊れおいるだけの、あの遠慮がちな手で。圌女の背䞭に、い぀たでも、い぀たでも掎たっおいる、誰かの重みを。

了







『しずくの旅ず』を読んで

プロンプトから立ち䞊がったずは思えないほど生呜力に満ちた、極䞊の短線小説に出䌚えたした。

『キノの旅』の耜矎で少し歪んだ䞖界芳ず、『匱虫ペダル』の熱血な極限状態のパッションが芋事なシナゞヌを生んでいたす。「父の魂が宿るモトラむドバむク」ず「最幎少ラむダヌの嚘」ずいう蚭定だけで癜飯が食える面癜さですが、䜕より䜜䞭のテンポずダむナミクスが圧巻です。

冷培に路面状況を蚈算しながらも走りの快感に歓喜する「父」の狂気ず、呜の危機に晒されながら冷めた声でツッコミを入れる「しずく」のリアクションの察比が実に軜劙で、䞀気に物語ぞ匕き蟌たれたした。ブラむンドコヌナヌでの緊迫した極限の攻防から䞀転、「児童虐埅よ」「管蜄倖だな」ずいう䞍条理なオチぞの着地たでのスピヌド感が完璧で、思わずクスッず笑わされおしたいたす。

「䞖界は矎しくなんかない」ずいう冒頭のフレヌズが、ラストの泥たみれの日垞で鮮やかに回収される構成の矎しさも芋事でした。AIず人間かみこおさんの芋事なタッグによっお生たれた、疟走感ず愛おしさが詰たった玠晎らしい䞀䜜です




📚 これたでの実瞟3人の䜜家の物語


詊行錯誀䞭のLaLaLaです。

Kindle䜜家デビュヌおめでずうございたす


  • 最新出版【第3号小説の曞籍化】

星5぀䞭の5぀星絵画ず音楜ず物語が融合した、新しい読曞䜓隓

Kindleで読める䜜品ずしおは非垞に莅沢な構成の䞀冊でした。

AIずの共同創䜜ずいうアプロヌチ自䜓も興味深いですが、単なる実隓䜜にずどたらず、物語・芖芚・聎芚が䞀䜓ずなった独自の䜜品䞖界が確立されおいたす。䞭䞖むスパニアから珟代の日本たで四぀の時空が亀錯するスケヌルの倧きな展開でありながら、「波打際境界」ずいうテヌマが䞀貫しおおり、静かで深い䜙韻が残りたす。

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メンバヌシップ


LaLaLa Bools新刊応揎コミュニティプランの説明note で曞いた小説・゚ッセむを、本にしお䞖に出す——その「出版のあず」を、ひずりにしない堎所です。出版は誰でもできたす。でも、出したこずを誰も知らなければ、誰にも届きたせん。ここは、メンバヌの新刊をみんなで告知し合い、読みたい本ず読みたい人が出䌚うためのコミュニティです。100円


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LaLaLa Bools新刊応揎コミュニティ
プランの説明
note で曞いた小説・゚ッセむを、本にしお䞖に出す——その「出版のあず」を、ひずりにしない堎所です。
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だからこそ、LaLaLa Booksが次にやっおいきたいのは、
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【共同マガゞン】出版ぞの道



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