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【ホラー小説】最後の観測者


私の視界の端で、空がゆっくりと剥がれていた。

剥がれた隙間からは、銀河のような光が漏れていたが、それは星ではなかった。もっと粘度の高い、液体のような輝きが、重力に逆らって上へと流れ続けていた。私はその光を、もう三時間ほど見つめている。

足元のコンクリートは、所々でガラスのように透明化していた。その下には、都市の配管も、地盤も、何も見えない。ただ、深い闇が広がっているだけだ。私はその闇の上に立っている感覚を、靴底の冷たさを通して感じていた。

風はなかった。音もなかった。自分の呼吸音すら、鼓膜を振るわせる前に消えていくような、圧倒的な静けさ。この街には、かつて人がいた痕跡だけが、あまりに整然と残されていた。信号機は青く点灯したまま、誰を待っているのか。カフェのテーブルには、冷めたコーヒーカップが、湯気の形を保ったまま凝固していた。

私は歩き出した。

歩幅一つごとに、地面がわずかに沈み込む感触があった。しかし、その沈み込みは、通常の物理法則とは違う何かだった。一歩踏み出すたびに、視界の端が数ミリ秒だけ歪み、色が反転する。赤だった信号が青に、青だった空が橙色に、瞬間的に置き換わる。

この世界は、観測されることによって、ようやく形を保っているのかもしれない。

そう思った瞬間、私の背後で、建物の一つが崩れ落ちた。しかし、音はしなかった。ただ、無数の破片が、ゆっくりと、舞い落ちる花びらのように、空中で静止した。

私は振り返らずに、前を向いた。

振り返れば、私もまた、あの静止した破片の一部になってしまう気がした。この世界で動いているのは、私だけだ。あるいは、私が動いているからこそ、この世界はかろうじて「今」を続けているのか。

空の剥がれが、さらに広がった。

液体のような光が、街路樹の枝をなぞり、アスファルトの亀裂を埋めていく。その光に触れた部分は、色を取り戻した。褪せていた灰色の街が、鮮烈な原色へと塗り替えられていく。しかし、それは美しすぎた。現実の色彩ではない。どこか人工的な、作為的な、あまりに完璧な色彩。

私はその光の中に、自分の影がないことに気づいた。

地面を見ても、壁を見ても、私の姿を映すものはない。ただ、光だけが、私を透過している。私はこの世界で、観測者であると同時に、存在しないものなのかもしれない。

遠くで、誰かの声がした。

いや、声ではなかった。記憶の断片が、空気の振動として届いてきただけだ。「早く来て」という、誰かの言葉。私はその方向へと歩き出した。

街の果てには、海があるはずだった。しかし、そこにあるのは、水平線ではなく、垂直に立ち上がる光の壁だった。その壁の向こうには、別の世界があるのか。あるいは、何もないのか。

私は光の壁の前に立ち、手をかざした。

私の指先が、壁に触れた瞬間、視界全体が白色に染まった。

そして、私は知った。

この世界は、私が最後に観測した世界であり、私が次に観測する世界は、まだどこにも存在しないことを。

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