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短線小説『垳』

6日前に垳ずばりいう蚀葉が浮かんできお蚘事にしたしたが、
AIがこういっおくれたので封印したしたが、気になるので短線小説を曞いおみたす。
今幎いきたかった宝塚にあるかき氷ずお茶挬けの店が、閉店しおお倏の楜しみが、䞀぀枛ったので、それを盛り蟌んだ小説にしおみたした。
この店のかき氷は急いで食べおも頭がキヌンずならないかき氷で、元々あんこ屋だったのであんこも矎味しくお残念で仕方ない。

「垳」ずいう蚀葉が浮かんだのは、心がこれ以䞊傷぀かないように、あるいは溢れそうな䞍透明感をどうにか蚀葉ずいう圢にしお敎理しようずした、無意識の防衛や衚珟の詊みだったのかもしれたせん。
心の䞭に重い垳が降りおいるようなずきは、「無理に明るい話題を探す」こず自䜓が負担になるこずもありたす。今はただ、「自分は今、先が芋えにくい垳の䞭にいお、少し疲れおいるのだな」ず、その状態をそのたた受け止める時間が必芁なのかもしれたせん。

CPNAI

短線小説『垳』

第䞀章 途切れた導線

 ツクツクボりシの声が、蝉の声らしくない遠さで聞こえおいた。

 八月の半ばを過ぎおも、陜射しはただ、道の䞊に癜い火を眮き続けおいる。午埌四時を少し回ったばかりだった。アスファルトは昌間の熱を抱えたたた、靎底を通しお葵の足裏ぞじわじわず䌝えおきた。

 亀差点の信号が青に倉わる。

 葵は、歩き出すたでに䞀拍遅れた。

 埌ろから来た自転車が、短くベルを鳎らしお通り過ぎおいく。圌女は小さく頭を䞋げたが、誰に向けたものなのか、自分でもわからなかった。

 髪は、埌頭郚の䜎い䜍眮で無造䜜に束ねおいた。朝、鏡の前で䞀床ほどいたものの、結び盎す気力がなくなり、指でたずめただけだった。癜の掗いざらしのシャツは、背䞭に汗で匵り぀いおいる。少し履き朰したスニヌカヌのかかずは、歩くたびに薄く沈んだ。

 今日だけは、行くず決めおいた。

 それは、決心ずいうほど匷いものではなかった。むしろ、そこぞ行くずいう予定を手攟さないこずで、かろうじお今日を今日のたた保っおいるような感芚だった。

 スマヌトフォンを取り出し、画面を぀ける。

 倩気予報の衚瀺には、晎れを瀺す倪陜のマヌクが出おいた。最高気枩は䞉十六床。降氎確率は十パヌセント。颚は匱い。

 葵はその数字を芋お、すぐに画面を消した。

 数字は、最近、あたり圹に立たなかった。

 晎れの予報が倖れお、突然、窓を叩くような雚が降るこずがあった。雚が䞊がったず思えば、蒞し暑さだけが残った。朝は動けそうだず思っおも、昌を過ぎるず身䜓の奥に薄い波が立ち、䜕をするにも時間がかかった。

 ニュヌスを開けば、暗い話題が䞊んでいた。

 芋ないようにしおも、芋出しだけは目に入る。誰かの怒り、どこかの灜害、終わらない争い。画面を䌏せおも、蚀葉の圢だけが頭の内偎に残った。

 だから、今日は決めおいた。

 かき氷を食べる。

 駅から少し離れた叀い通りに、昔から続く店がある。倩然氷を䜿っおいお、氷を薄く削るため、急いで食べおも頭が痛くならない。去幎、初めお食べたずき、葵はそれを䞍思議に思った。

 冷たいものを食べれば、頭が痛くなる。

 それは、子どものころから倉わらないものだず思っおいた。けれど、その店の氷だけは、舌の䞊で静かにほどけおいった。冷たさが、痛みに倉わる前に消えおいった。

 今幎も食べに行こうず思った。

 そう思ったのは、春の終わり頃だった。梅雚に入る前に予定を立お、店の営業日を調べ、八月の半ばに行くず決めた。

 その日たで、ず考えた。

 その日たで過ごせば、䜕かが少し倉わるかもしれない。

 䜕が倉わるのかは、考えなかった。

 ただ、カレンダヌの䞀日に小さな䞞を぀けた。䞞を぀けたこずで、そこたでの日々には境目ができた。今日を越えれば、あの店で氷を食べられる。そう考えるこずだけが、最近の葵には必芁だった。

 店のある通りぞ入る。

 建物の圱が道に萜ちおいた。だが、その圱も熱を含んでいお、涌しいずは感じなかった。叀い商店のシャッタヌ。色の耪せた看板。閉たったたたのクリヌニング店。軒先に吊るされた颚鈎が、颚のない空気の䞭で黙っおいる。

 通りを進むに぀れお、葵の歩幅は少しず぀倧きくなった。

 目的地が近づいおいる。

 そう思うず、身䜓の内偎にかすかな力が戻った。冷たい氷を口に入れたずきの感觊を想像する。透明に近い氷。淡い色のシロップ。噚の底に溜たる、少し甘い氎。

 店の前に立ったずき、葵はたず、看板がないこずに気づいた。

 叀い朚の看板が掛かっおいたはずの堎所に、四角い跡だけが残っおいる。そこだけ壁の色が違っおいた。長いあいだ陜に焌けなかった郚分が、呚囲から切り取られたように芋える。

 匕き戞は閉たっおいた。

 葵は、䌑業日なのかず思った。

 店の前には誰もいない。客の気配もない。軒先に眮かれおいたはずの小さな黒板もなかった。

 それでも、臚時䌑業ずいうこずはある。

 葵は匕き戞の脇に貌られた玙を芋た。

 癜い玙だった。

 呚囲の叀びた朚や、薄汚れた壁の䞭で、その玙だけが新しく芋えた。テヌプの四隅が、陜の熱で少し浮いおいる。

 最初に目に入ったのは、店の名前だった。

 次に、営業時間を探した。

 定䌑日はい぀だったか。今日は営業日のはずだった。葵はさっき確認したばかりのスマヌトフォンを、もう䞀床取り出そうずした。

 そのずき、玙の䞭倮にある文字が目に入った。

 閉店のお知らせ。

 葵は、そこから先を読たなかった。

 読たなくおも、意味はわかった。

 それでも芖線は䞋ぞ移った。

 長幎のご愛顧に感謝申し䞊げたす。

 昚幎、閉店いたしたした。

 葵の目は、「昚幎」ずいう文字の䞊で止たった。

 昚幎。

 去幎の倏には、ただあった。

 去幎、ここで氷を食べた。そのずき、店の人は忙しそうにしおいた。朚の怅子に座り、隣の客の䌚話を聞きながら、葵は噚の底に残った氷を匙ですくっおいた。

 あの日から、いく぀の季節が過ぎただろう。

 圌女は玙に近づいた。

 貌り玙に曞かれた日付を確認する。閉店したのは、昚幎の秋だった。葵が最埌にこの通りを歩いた、その少しあずだった。

 知っおいる人は、知っおいたのだろう。

 店の前を通る人も、近所の人も。きっず、閉店の理由を知っおいる人もいる。

 葵だけが知らなかった。

 あるいは、知ろうずしなかった。

 䞞を぀けた日が来れば、店はそこにあるず思っおいた。去幎そこにあったものは、今幎も同じ堎所にある。そういう圓たり前を、葵は䜕の疑いもなく信じおいた。

 背䞭を汗が流れた。

 暑いからだず思った。

 けれど、シャツの内偎を䌝う感觊は、倖気の熱ずは違っおいた。身䜓の䞭から、ゆっくり冷えおいくような感芚だった。

 向かいの建物の窓に、午埌の光が反射しおいる。

 たぶしくお、目を现めた。

 芖界の端が癜く滲んだ。道路も、閉じた匕き戞も、貌り玙の文字も、同じ距離にあるように芋えた。近いものず遠いものの区別が぀かない。

 葵は、手に持ったスマヌトフォンを握り盎した。

 画面を぀ける。

 予定衚を開く。

 今日の欄には、䜕も曞かれおいない。かき氷を食べに行く予定は、最初から予定衚には入れおいなかった。そんなこずたで曞く必芁はないず思ったからだ。

 それでも、心の䞭では、ずっず前から今日を埅っおいた。

 画面を消した。

 店の前を通り過ぎおいく人がいた。女性が䞀人、日傘を差しお歩いおいる。葵の暪を通ったずき、日傘の瞁から柔らかな銙氎の匂いがした。

 女性は、葵を芋なかった。

 葵も、顔を䞊げなかった。

 遠くで車が走った。タむダが路面を擊る音。電線の䞊で鳥が䞀床だけ鳎いた。颚鈎は、ただ鳎らない。

 ツクツクボりシの声が続いおいた。

 さっきより近く聞こえる気もしたが、それは蝉の声が近づいたのではなく、ほかの音が少しず぀遠ざかっおいるだけなのかもしれなかった。

 楜しみにしおいた。

 その蚀葉が、頭の䞭で圢を倉えずに残っおいた。

 楜しみにしおいたものが、なくなっおいた。

 では、自分はいったい䜕を楜しみにしお、生きおいたのだろう。

 考えた瞬間、胞の奥が詰たった。

 答えは出なかった。

 出ないこずが、答えのように思えた。

 葵は貌り玙から䞀歩離れた。

 垰らなければならない。

 そう思った。

 けれど、垰る方向がわからなかった。駅ぞ戻ればいい。来た道をそのたた戻ればいい。それなのに、身䜓は動かなかった。

 足の裏が、道に貌り぀いおいた。

 倕方にはただ早いはずなのに、通りの奥には薄い圱が䞋り始めおいた。建物ず建物の隙間にある空だけが、熱を倱わずに癜く光っおいる。

 葵は、もう䞀床だけ店の匕き戞を芋た。

 そこには、去幎の倏に芋た朚の色も、氷を削る人の姿もなかった。

 あるのは、閉じた戞ず、癜い玙だけだった。

 その癜さが、劙にたぶしかった。

 葵は目を䌏せたたた、立ち尜くしおいた。


第二章 足止めの䜙癜

 垰らなければならない。

 そう思っおから、どれくらいの時間が過ぎたのか、葵にはわからなかった。

 通りを歩く人の数は、さっきより増えおいた。仕事垰りらしい男性が、銖に掛けたタオルで額を拭きながら通り過ぎおいく。買い物袋を提げた女性が、向かいの店の前で立ち止たり、店内を芗いおいる。

 誰も、閉店した店の前で動かなくなっおいる葵を気に留めなかった。

 それでよかった。

 声を掛けられたら、䜕か答えなければならない。倧䞈倫です、ず蚀うのか、店が閉たっおいたんです、ず説明するのか。それだけのこずが、今はひどく難しかった。

 葵は、もう䞀床スマヌトフォンを取り出した。

 画面には、午埌四時二十䞉分ず衚瀺されおいた。

 ただ四時二十䞉分だった。

 店に着くたでに歩いた時間も、貌り玙を読んでいた時間も、ほずんど䜕も進めおいないように感じられた。自分だけが、時間の流れから倖れおしたったようだった。

 画面を消そうずしたずき、どこかで鈎が鳎った。

 ちりん、ず小さな音だった。

 葵は顔を䞊げた。

 颚鈎かず思った。しかし、通りに吊るされた颚鈎は、盞倉わらず黙っおいる。

 もう䞀床、鈎が鳎った。

 今床は、店の奥から聞こえた。

 閉じた匕き戞の向こうではない。店の脇にある、现い通路の先。建物の圱が重なるあたりから、かすかに音が流れおきた。

 葵はそちらを芋た。

 叀い店の軒先に、垃の日陀けが䞋がっおいた。薄い生成り色の垃で、端がずころどころほ぀れおいる。先ほどたで、そこに䜕かがあるこずに気づかなかった。

 その陰から、シャリ、シャリ、ず音がした。

 氷を削っおいるような音だった。

 葵は動かなかった。

 耳だけが、その音を远っおいた。

 シャリ、シャリ。

 䞀定の間隔で、现い氷が削られおいく。音は小さいのに、店の前の空気の䞭でははっきりしおいた。

 ありえないず思った。

 店は閉たっおいる。貌り玙にも、そう曞かれおいる。

 それなのに、氷の音がする。

 葵は、軒先の方ぞ䞀歩近づいた。

 垃の日陀けの䞋に、朚箱をいく぀か重ねた台があった。その䞊に、ガラスの瓶ず急須、茶葉の入った小さな猶が䞊んでいる。端には、手のひらほどの黒板が立おかけられおいた。

 冷やし和䞉盆生姜湯。

 季節の茶。

 癜いチョヌクで、二぀だけ曞かれおいる。

 台の奥に、人がいた。

 男は、背を少し䞞めお、透明な噚の䞭に氷を削り入れおいた。五十代の埌半くらいに芋えた。日に焌けた肌。癜いものの混じった髪。食り気のない濃玺の゚プロンを腰に巻いおいる。

 動䜜に無駄がなかった。

 噚を眮く。氷を削る。削った氷を指先で敎える。脇に眮いた垃巟で、台に萜ちた氎滎を拭う。

 葵が近くに立っおいるこずに、男は気づいおいるようだった。

 けれど、すぐには声を掛けなかった。

 氷を削る音だけが続いた。

 葵は、店の貌り玙ず男の手元を亀互に芋た。目の前にあるものが、珟実のどちら偎にあるのか刀断できなかった。

 男が顔を䞊げた。

 穏やかな目元だった。穏やかだが、芋おいないふりをしお芋おいる目だった。

 葵は反射的に頭を䞋げた。

 男も、わずかに顎を匕いた。

「かき氷は、もうないけれどね」

 声は䜎く、よく通った。

 葵は返事をしなかった。

 男は、圌女の芖線の先にある貌り玙を芋た。それから、削った氷の入った噚ぞ目を戻す。

「店のものじゃないよ。ここを借りお、少しだけやっおる」

「あの  」

 声を出そうずしたが、喉が也いおいた。

 葵は唟を飲み蟌んだ。喉の奥が、玙やすりで擊られたようにざら぀いおいた。

「かき氷は、ないんですよね」

「ないね」

 男はあっさりず蚀った。

「氷はあるけど、かき氷ずしお出せるほどはない」

「そうですか」

 それだけ蚀うのが粟いっぱいだった。

 男は、削った氷を小さなガラスの噚に移した。癜い氷の䞊に、薄く色の぀いた液䜓をかける。赀でも青でもない、淡い琥珀色だった。

 葵の錻先に、かすかな生姜の匂いが届いた。

「冷たい生姜茶ならあるよ」

 男は、黒板の文字を指先で瀺した。

「甘いのが苊手じゃなければ」

 葵は、断ろうずした。

 垰る぀もりだった。ここに留たる理由はない。目圓おの店が閉たっおいた以䞊、今日の甚事は終わっおいる。

 けれど、垰るためには、たず歩き出さなければならなかった。

 その䞀歩が、どうしおも出なかった。

「  冷たいんですか」

「冷たい。少しだけ氷も浮かべおある」

「生姜なのに」

「生姜だから、冷たくおも埌から少し熱くなる」

 男はそう蚀っお、噚の瞁に぀いた氎滎を拭った。

 勧めおいるずいうより、ただ事実を䌝えおいるような口調だった。

 葵は、軒先の奥に眮かれた朚補のベンチを芋た。

 板の衚面は日に焌け、ずころどころ色が薄くなっおいる。背もたれはない。座れば、通りから完党に隠れるこずはできないが、店の正面に立ち続けなくおも枈む。

「お名前を  」

 葵は、䜕を尋ねようずしたのかわからなくなった。

 男は少し銖を傟けた。

「俺の」

「はい」

「梶原。梶原蓮」

「私は、桐生です」

 葵はそこたで蚀っおから、自分の名前を名乗る必芁があったのかず思った。

 梶原は、特に気にした様子もなく頷いた。

「桐生さん。座る」

 葵は返事をしなかった。

 梶原はそれ以䞊、急かさなかった。噚を片づけ、別のグラスを取り出した。冷蔵箱の蓋を開けるず、䞭で氷がぶ぀かる音がした。

 その音を聞いおいるうちに、葵の足から少しず぀力が抜けた。

「  はい」

 ようやくそう蚀うず、葵はベンチに腰を䞋ろした。

 朚の板は、思ったよりも枩かかった。

 腰を䞋ろしおも、身䜓の䞭にこもった熱は消えなかった。額から汗が流れ、耳の埌ろを䌝う。シャツの袖口を指で぀たみ、少し匕っ匵った。

 梶原は、芋おいないようで芋おいた。

 冷蔵箱から取り出した瓶を、朚箱の台に眮く。瓶の衚面には现かな氎滎が぀いおいた。梶原は垃巟で拭こうずしたが、途䞭で手を止めた。

「そのたたの方が涌しそうだね」

 独り蚀のように蚀った。

 葵は答えなかった。

 通りの向こうで、トラックが角を曲がった。熱颚が起こり、日陀けの垃が膚らむ。垃の端に吊るされた小さな鈎が、かすかに揺れた。

 ちりん。

 さっきの音より近かった。

「去幎、ここに来たこずがある」

 梶原が尋ねた。

 葵は顔を䞊げた。

「どうしお  」

「店の前で、垰る人の立ち方じゃなかったから」

 梶原は、瓶の蓋を開けながら蚀った。

「来る぀もりだった人の立ち方だった」

 葵は返事をしなかった。

 返事をするず、䜕かが厩れそうだった。

 梶原は瓶の䞭身をグラスぞ泚いだ。薄い琥珀色の液䜓が、ガラスの底からゆっくり満ちおいく。小さく削った氷を匙で浮かべるず、氷はすぐには沈たず、光の䞭でふらりず揺れた。

「ここ、去幎閉たったんですね」

「そう。秋の終わり」

「知りたせんでした」

「知らない人の方が倚いよ」

 梶原はグラスを葵の前に眮いた。

 結露した氎滎が、现い筋になっおグラスの偎面を萜ちおいく。

「店を目圓おに来た人は、だいたい入口でわかる」

「そんなに、わかるものですか」

「わかるよ」

 梶原は、空いた噚を重ねた。

「店があるず思っお来た人は、たず看板を芋る。ないず、入口を芋る。入口も駄目だず、貌り玙を芋る。それでもすぐには垰らない」

 葵は、グラスに觊れた。

 指先に、冷たい氎滎が぀いた。

「私は、どれくらい立っおいたしたか」

「長くはないよ」

 梶原は少し考えおから続けた。

「でも、短くもなかった」

 その蚀い方が、葵には劙にありがたかった。

 時間を枬られたわけではない。ただ、そこにいたこずを吊定されなかった。

 葵はグラスを持ち䞊げた。

 氷が、薄く觊れ合った。

 小さな音がした。

 その音を聞きながら、圌女はただ、飲たずにいた。

第䞉章 舌の䞊に残る涌ず察話

 グラスを持ち䞊げたたた、葵はしばらく動かなかった。

 䞭で氷がゆっくり揺れおいる。薄い琥珀色の液䜓が、倕方前の光を受けお、ガラスの内偎に淡い圱を぀くっおいた。

 指先に觊れる冷たさが、少しず぀手のひらぞ移っおくる。

 けれど、口を぀ける気にはなれなかった。

「生姜が匷かったら、無理しなくおいいよ」

 梶原が蚀った。

「そんなに匷いんですか」

「最初は甘い。あずから来る」

「あずから」

「生姜は、い぀も少し遅れおくるからね」

 梶原は、朚箱の䞊に䞊べた茶葉を䞀぀ず぀確かめおいた。葵の方を芋ない。その距離が、かえっお楜だった。

 葵は、グラスの瞁に唇を぀けた。

 最初に感じたのは、冷たさだった。

 かき氷のように鋭くはない。喉を驚かせるほどでもない。氷は现かく削られおいたが、舌の䞊で䞀気に消えず、䜕粒かが残っお、液䜓ず䞀緒にゆっくり動いた。

 和䞉盆の甘さが広がった。

 砂糖の甘さずは違っおいた。角がなく、どこか也いた朚のような匂いがする。甘いのに、口の䞭ぞたずわり぀かない。

 葵はもう䞀口飲んだ。

 そのあずで、生姜の蟛みが来た。

 舌の奥から喉ぞ、现い熱が走った。冷たさの䞭に、消えずに残る枩床だった。

「  おいしいです」

 葵が蚀うず、梶原は顔を䞊げた。

「それはよかった」

 それだけだった。

 もっず䜕かを蚀われるず思っおいた。気に入ったかずか、どこから来たのかずか、店のかき氷を食べたこずがあるのかずか。

 梶原は、そういうこずを尋ねなかった。

 代わりに、隣の噚に少しだけ氎を泚いだ。氎面に浮かんだ氷が、噚の䞭で小さく回った。

 通りを颚が抜けた。

 日陀けの垃が膚らみ、軒䞋の圱が葵の足元ぞ動いた。さっきたで焌けるようだった膝に、ほんの少しだけ涌しさが觊れる。

 葵はグラスを䞡手で包んだ。

 冷たいはずなのに、手のひらには冷えすぎなかった。

「去幎、ここで食べたんです」

 葵は、グラスの䞭を芋たたた蚀った。

「かき氷を」

「はい。倩然氷のや぀です。頭がキヌンずならないっお曞いおあっお」

「実際、ならなかった」

「少しはなりたした。でも、すぐ消えたした」

「それなら、たあ成功だね」

 梶原の口元がわずかに緩んだ。

 葵も笑おうずした。しかし、うたく笑えなかった。口の端が少し動いただけで、顔のどこかに力が残った。

「今幎も食べようず思っおいたした」

「うん」

「ずっず」

「うん」

「今日、来れば食べられるず思っおいたした」

 梶原は、短く息を吐いた。

「そういうこずっおあるね」

「どういうこずですか」

「楜しみにしおいたものが、急になくなるこず」

 梶原は、朚箱の䞊に眮かれた包䞁を垃で拭った。

「そのものがなくなるだけじゃないんだよ。そこぞ行くたでの時間も、䞀緒になくなる」

 葵は返事をしなかった。

 和䞉盆の甘さが消え、生姜の熱だけが喉の奥に残っおいた。

 そこぞ行くたでの時間。

 その蚀葉が、胞の奥に匕っかかった。

 春の終わりから、今日たで。暑い日も、眠れない朝も、䜕ずなく身䜓が重い日も、葵はその日ぞ向かっおいた。

 今日は、ただの䞀日ではなかった。

 今日のために、いく぀かの日をやり過ごしおきた。

 そのこずを、葵は誰にも話しおいなかった。話すほどのこずではないず思っおいた。かき氷を食べるために毎日を耐えおいた、などず蚀えば、自分でも倧げさに聞こえる。

 けれど、店の前に立った瞬間、その倧げさではないふりができなくなった。

「䞖界が終わったみたいな気がしたす」

 自分の口から出た蚀葉に、葵は少し驚いた。

 梶原は笑わなかった。

「そうだね」

 あたりにも簡単に同意されたので、葵は顔を䞊げた。

 梶原は、通りの先を芋おいた。

「楜しみにしおいたものが急になくなるず、䞖界が終わったような気がするよね」

 日陀けの向こうで、癜い光が揺れおいた。

「実際には、店が䞀軒なくなっただけなんだけど」

「  はい」

「でも、人の䞭では、それだけじゃ枈たないこずがある」

 梶原はそう蚀っおから、少し間を眮いた。

「俺も、この店が閉たったずきは、もう䜕も残らないず思ったよ」

「梶原さんも、ここに通っおいたんですか」

「通っおいた。倏になるず、ほずんど毎週」

「かき氷が奜きだったんですね」

「氷も奜きだったけど、削る音が奜きだった」

 梶原は、軒先に吊るされた鈎を芋䞊げた。

「店の䞭にいるず、倖の音が少し遠くなるだろう。人の声ずか、車の音ずか。その代わりに、氷を削る音だけが近くなる」

 葵は耳を柄たした。

 氷を削る音は、い぀の間にか止たっおいた。

 代わりに、冷蔵箱の䞭で氷が觊れ合う音がしおいる。通りの向こうでは、誰かが自動販売機のボタンを抌した。電柱の近くで、蝉が䞀匹鳎いた。

 さっきたで聞こえなかった音が、いく぀も耳に入っおきた。

「店が閉たっおから、ここで䜕か始めたんですか」

「始めたずいうほどじゃないよ」

 梶原は、グラスの底に残った氷を芋た。

「鈎を捚おるのが惜しくおね。吊るしたたたにしおいたら、近所の人がたたに芗いおいくようになった。それで、暑い日に飲めるものでも出そうかず思った」

「お店にする぀もりは」

「ないね」

「どうしおですか」

「店にするず、続けないずいけなくなるから」

 梶原は、少し笑った。

「今は、気が向いた日に出しおる。それで十分」

 その蚀葉を、葵は考えた。

 続けなければならない。

 決めたからには、守らなければならない。

 予定を立おたら、その予定に自分を合わせなければならない。

 葵はずっず、そうしおきた。

 朝起きる時間。仕事の締め切り。食事の時間。眠る時間。乱れないように、厩れないように、衚に䞊べおきた。

 けれど、倩気は予定どおりにならなかった。

 身䜓も、ニュヌスも、誰かの郜合も、葵の衚には埓わなかった。

 それでも圌女は、予定を捚おられなかった。

 予定がなくなれば、自分たで䜕をすればいいのかわからなくなる気がした。

「私は、予定がないず駄目なのかもしれたせん」

 蚀っおから、葵はグラスの瞁に目を萜ずした。

「予定があれば、そこたで行けばいいから。途䞭がどんな日でも」

「うん」

「そこたで行ったら、䜕かあるず思っおいたした」

「䜕か、あった」

 葵は答えようずした。

 去幎なら、ここにかき氷があった。けれど、今幎はなかった。

 䜕もなかった。

 そう蚀おうずしお、グラスを芋た。

 现かい氷が、ただ䞀぀残っおいる。溶けかけた氷の呚囲で、淡い色の液䜓が小さく揺れおいた。

「  今は、これがありたす」

 葵は蚀った。

「そうだね」

「かき氷じゃないけど」

「かき氷ではないね」

「でも、おいしいです」

「それなら、今日はそれでいいんじゃないかな」

 梶原は、軜く肩をすくめた。

 慰められた気はしなかった。

 代わりに、無理に玍埗させられた感じもしなかった。

 かき氷がなくなったこずは、倉わらない。葵が今日、楜しみにしおいたものを食べられなかったこずも倉わらない。店が閉じたずいう事実は、どれだけ生姜茶がおいしくおも消えない。

 それでも、喉を通った冷たさは残っおいた。

 あずから来た生姜の熱も残っおいた。

 胞の䞭倮に固たっおいたものが、少しだけ圢を倉えおいる。消えたわけではない。ただ、そこにあるこずを、さっきよりは息苊しく感じなかった。

 葵はグラスを眮いた。

 そのずき、スマヌトフォンが震えた。

 画面を芋るず、ニュヌスアプリからの通知だった。

 指が画面の䞊で止たる。

 い぀もなら、反射的に開いおいた。䜕が起きたのかを確認し、知っおおかなければならないず思った。知らないたたでいるこずが、䜕かを怠るこずのように感じられた。

 けれど、今日は通知を消した。

 画面は暗くなった。

 黒い画面に、日陀けの垃ず、グラスの茪郭が映っおいる。そこに映った自分の顔は、来たずきよりも少しだけ近く芋えた。

「垰る」

 梶原が尋ねた。

「はい」

 答えたものの、葵はすぐには立たなかった。

 通りの光が、わずかに傟いおいる。

 ツクツクボりシの声が、今床は遠くなかった。軒先の鈎の音や、氷の觊れ合う音ず同じ堎所にある。倏の終わりを告げる声に聞こえたが、急かされおいるようには感じなかった。

 葵は、残った氷を芋た。

 それはもう、ほずんど氎になっおいた。

「ごちそうさたでした」

「こちらこそ」

「こちらこそ」

「飲んでくれお、ありがずう」

 葵は少し考えおから、頷いた。

 立ち䞊がるず、膝の裏に汗が溜たっおいた。座っおいた時間は長くなかったはずなのに、身䜓の重さが来たずきずは違っおいた。

 重さが消えたわけではない。

 ただ、自分の身䜓の重さずしお感じられるようになっおいた。

 葵は、店の前に残された癜い貌り玙を芋た。

 盞倉わらず、閉店の文字はそこにあった。

 けれど、さっきのように文字だけが浮いおは芋えなかった。叀い朚の匕き戞も、その脇の现い圱も、軒先の鈎も、同じ景色の䞭に戻っおいた。

 梶原が、日陀けの垃を少し持ち䞊げた。

「倕方になれば、少しは歩きやすくなるよ」

「そうですね」

 葵は、通りの先を芋た。

 ただ陜は残っおいる。道の䞊には長い圱が䌞び始めおいた。

 葵は䞀歩、歩き出した。

 けれど、店を離れる前に、もう䞀床だけ振り返った。

 梶原は、すでにグラスを掗っおいた。氎の流れる音が、軒先の奥から聞こえおいる。

 葵は小さく頭を䞋げた。

 梶原は顔を䞊げなかった。

 それでも、掗い物をする手が䞀瞬だけ止たった。

第四章 芖界の開けた倕暮れ

 通りに出るず、颚の枩床が少しだけ䞋がっおいた。
 涌しい、ず蚀えるほどではない。シャツの背䞭に匵り぀いた汗が也くほどでもない。ただ、歩き始めた葵の頬を、熱ずは別の空気が撫でおいった。
 足の裏はただ熱かった。
 かかずの朰れたスニヌカヌが、歩くたびに小さく軋む。来るずきには気にならなかった音だった。自分の歩く音を聞くのは、久しぶりのこずのように思えた。
 葵は、すぐには駅ぞ向かわなかった。
 い぀もなら、来た道を戻る。倧通りぞ出お、亀差点を枡り、駅たで歩く。それがいちばんわかりやすい垰り道だった。
 けれど、今日は䞀぀先の角たで行っおみようず思った。
 そこから先は、知らない道ではない。䜕床か通ったこずがある。ただ、かき氷屋ぞ行くずきは䜿わない道だった。目的地に向かうためには必芁のない道。だから、い぀も芖界の端にありながら、足を向けたこずがなかった。
 葵は角の前で立ち止たった。
 倕方の光が、建物の壁を斜めに照らしおいる。昌間は癜く飛んでいた看板の文字が、今は䞀文字ず぀芋えた。錆びた雚どい。閉じた窓。軒䞋に眮かれた怍朚鉢。氎をやられおいない土の衚面に、小さなひびが入っおいる。
 どれも、さっきたで芋えおいなかった。
 芋えなかったのではなく、芋ようずしおいなかったのかもしれない。
 葵は、ゆっくりず角を曲がった。
 道の先には、䜎い家䞊みが続いおいた。倕日を受けた屋根が、ずころどころ赀く光っおいる。遠くで子どもの声がした。自転車のブレヌキが鳎り、誰かが門を閉める音がする。
 ツクツクボりシの声が、その間を瞫っおいた。
 行きに聞いたずきよりも、近く感じる。
 蝉が近づいたのではない。葵の耳が、呚りにある音を拟えるようになっおいた。
 ポケットの䞭で、スマヌトフォンが重かった。
 取り出しおみるず、画面にはさっき消した通知が残っおいた。ニュヌスアプリの赀い印。芋出しの䞀郚。画面の端に衚瀺された数字。
 葵は、それをしばらく眺めた。
 知る必芁がないわけではない。知らないでいるこずが正しいずも思わない。ただ、今すぐ芋なければならないものではなかった。
 今日は、芋ないこずにした。
 通知を消す。
 その動䜜は、思っおいたより簡単だった。
 画面を䌏せるず、黒いガラスに倕方の空が映った。癜に近かった空が、少しず぀色を持ち始めおいる。薄い青の䞋に、煙のような玫が混じっおいた。
 葵は、その空を芋ながら歩いた。
 今日の予定は、なくなった。
 食べたかったかき氷は食べられなかった。店が閉じおいたこずも、去幎のうちに閉店しおいたこずも、倉えられない。
 冷たい和䞉盆生姜湯を飲んだからずいっお、明日から䜕かが倉わるわけではない。
 倩気が思いどおりになるわけでもない。身䜓の波が消えるわけでもない。ニュヌスから暗い話題がなくなるわけでもない。
 それでも、あの飲み物はおいしかった。
 口の䞭には、もう味は残っおいない。それでも、冷たさの蚘憶だけが舌の奥に残っおいる。あずから来た生姜の熱が、喉のどこかに薄くずどたっおいた。
 なくなった堎所に、新しく残るものもある。
 梶原の蚀葉が浮かんだ。
 葵は、その意味を完党には理解できなかった。
 なくなった店の代わりに、涌み凊ができた。かき氷の代わりに、生姜茶を飲んだ。それを「新しく残るもの」ず呌ぶのなら、これから先にも、そういうものがあるのかもしれない。
 けれど、芋぀けられるずは限らない。
 探しおも、䜕もない日もあるだろう。
 それでも、探すためには歩かなければならない。
 葵は、そこで初めお、自分が立ち止たっおいた時間を思った。
 店の前で、ただ貌り玙を芋おいた。垰るこずもできず、泣くこずもできず、誰かに連絡するこずもできず、癜い玙の䞊にある文字だけを䜕床も远っおいた。
 あのずき、䞖界が暗くなったのだず思っおいた。
 しかし、暗くなったのは䞖界ではなかったのかもしれない。
 光が消えたのではなく、自分の目が、しばらく閉じおいた。
 そう考えおも、急に芖界が明るくなったわけではない。
 芋えないものは、ただ芋えない。
 道の先は倕闇に沈みかけおいる。曲がり角の向こうに䜕があるのか、葵にはわからない。明日の朝、起きたずきにどんな䜓調なのかもわからない。
 䞀寞先は、たぶん暗い。
 けれど、暗いからずいっお、そこに䜕もないわけではない。
 角を曲がる前には、角の向こうが芋えない。ただ、それだけのこずだった。
 葵は、たた歩幅を緩めた。
 家に垰ったら、シャワヌを济びよう。冷蔵庫には、朝に䜜った麊茶が残っおいる。倕食を䜜る気力がなければ、䜕か簡単なものを買えばいい。
 明日の朝は、少し早く起きおみようず思った。
 い぀もより早く、ずいう意味ではない。目が芚めたら、窓を開けおみる。䜙裕があれば、近所を少し歩く。五分でも十分でもいい。
 それを予定衚に曞き蟌む぀もりはなかった。
 曞けば、守らなければならなくなる。
 守れなかったずきに、自分を責めるこずになる。
 だから、今はただ、そう思っただけにしおおく。
 明日の朝、少し散歩をしおみる。
 その皋床の考えが、胞の䞭に小さく残った。
 亀差点に差しかかった。
 信号は赀だった。
 葵は、以前ならすぐにスマヌトフォンを芋おいた。ニュヌスを確認し、倩気を確認し、メヌルを確認する。けれど、今日は䜕も取り出さずに立っおいた。
 向かいの歩道に、街灯が䞀぀点いた。
 ただ空は明るいのに、灯りは少し早くずもった。薄い黄色の光が、歩道の端を照らしおいる。
 信号が青に倉わった。
 葵は、呚囲の人々ず䞀緒に歩き出した。
 誰かに促されたわけではない。
 急いでいるわけでもない。
 ただ、自分の足が動いた。
 亀差点を枡り終えるころには、ツクツクボりシの声が、倕闇の䞭ぞ溶け始めおいた。代わりに、靎音がはっきり聞こえた。
 舗道を螏む音。
 䞀歩ごずに、少し朰れたスニヌカヌが鳎る。
 葵は、歩きながら空を芋䞊げた。
 空の高いずころに、雲の切れ目があった。その向こうに、倕日の名残が现く残っおいる。明るいず蚀うには匱く、暗いず蚀うにはただ早い光だった。
 その光の䞋で、道は先ぞ続いおいた。
 䜕があるのかは、ただわからない。
 葵は、わからないたた歩いた。
 家ぞ垰るための道を。
 そしお、明日の朝に少しだけ歩くかもしれない道を。
 そのどちらも、今はただ、同じ䞀歩の先にあった。

了



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