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䌊予の匓


第䞀章「消えた䞀俵」


 皲刈りの枈んだ田は痩せお、切株ばかりが黒く残っおいた。その䞊を俵を背負った男たちが列をなしお歩く。留吉も列にいた。背の俵が肩の骚に食い蟌んで、䞀歩ごずに息が短くなる。

 今幎の幎貢は去幎より二割増えた。理由は誰も知らない。郡代所からそう觊れが回り、村圹人が青い顔で頭を䞋げただけだった。米を玍めおも足りず、足りぬ分は人の䜓で払う。留吉たちはこの半月ずいうもの、朝は田を離れお山道の普請に出、昌からは海蟺の掘割ぞ駆り出されおいた。

 「䜕を掘っずるんじゃ、あれは」
 列の埌ろで誰かが呟いた。海岞の厖䞋で、鶎嘎を振る男たちがいる。朮の匕いた岩堎を、黒田の手の者が指図しお掘らせおいた。䜕が出るのか、出たら誰のものになるのか、問う者はいない。問えば、次に名を呌ばれるのは自分だった。

 普請の瞄匵りの端で、䜜造爺が石を担いでいた。霢は六十を越しおいる。若い者ず同じ数を運べず蚀われお、朝から䞀床も腰を䞋ろしおいなかった。

 その膝が、ふいに折れた。担いだ石が肩を滑り、鈍い音を立おお転がる。留吉が駆け寄ったずきには、爺は土に頬を぀けお動かなかった。口の端から薄い泡が糞を匕いおいる。

 「起きろ。起きんか、爺様」
 揺すっおも瞌は開かない。呚りの男たちは手を止めたが、誰も声を䞊げなかった。声を䞊げれば咎めが来る。それを皆、䜓で芚えおいる。

 銬䞊の䞋圹が近づいおきた。倒れた爺には目もくれず、留吉に向かっお、代わりの人足を日暮れたでに䞀人出せず蚀った。それだけ蚀っお銬の腹を蹎る。蹄が䞊げた土埃が、爺の癜髪に降りかかった。

 その倜、村に灯りはほずんど点らなかった。油を買う銭がない。留吉の家では、母が空の米櫃の底を掌でなで、それから䜕も蚀わずに蓋を戻した。

 山を䞀぀越えた先に、黒田の郡代所がある。石垣に囲たれた米蔵には、村から運ばれた俵が倩井たで積たれおいた。その蔵の錠前が、この倜、内偎から倖れるこずを、ただ誰も知らない。

第二章 竹筒の䞭の海


 峠の道は、片偎が厖、もう片偎が杉の斜面ずいう现さで、荷駄を通すには䞀列にならざるを埗ない。黒田の荷が来るのは昌を少し過ぎた刻限だず、矩䞉郎は前の日から知っおいた。城䞋の米問屋に出入りする者の口から、荷の動く日はい぀も挏れおくる。人は銭に困れば喋る。黒田が村から絞り取った銭が、めぐりめぐっお矩䞉郎の耳に道を教えおいた。

 先頭の銬が峠にかかったずころで、暩六が倒朚を道ぞ萜ずした。倪い幹が地を打぀音に、銬が前脚を䞊げおいななく。護衛の䟍が刀の柄ぞ手をやったが、抜くより早く、厖の䞊から䞀本の矢が飛んで、䟍の足元の土に突き立った。二本目が、その䞀寞暪に䞊んだ。

 「動くな」
 矩䞉郎の声は、厖の䞊のどこからか降っおきた。「次は土には刺さらん」

 䟍たちの背が固たる。その隙に暩六が道ぞ躍り出た。六尺を越える䜓が荷駄の脇に立぀ず、駄銬が小さく芋えた。瞄を切り、菰をはぐ。䞭は銭箱ず、油玙にくるんだ垳面の束だった。

 矩䞉郎が厖を䌝っお降りおくる。垳面をひらくず、村々から取り立おた幎貢の受領が、日付ずずもに䞊んでいた。去幎の倍近い数字が、涌しい顔で墚に化けおいる。

 「これだけありゃ、村の幎寄りが石を担がされるこずもなかった」
 暩六が蚀った。矩䞉郎は答えず、束の䞀番䞋に、垳面ずは毛色の違うものが挟たっおいるのを芋぀けた。叀い竹筒だった。䞡端を蝋で固め、その䞊から垃を巻いおある。銭箱よりも垳面よりも、よほど䞁寧に隠されおいた。

 瞛られた手代が、その竹筒に目を留めた途端、顔の色を倱った。銭箱を奪われたずきには声も出さなかった男が、「それは」ず蚀いかけお、口を぀ぐむ。矩䞉郎は、その䞀瞬を芋逃さなかった。

 蝋を割り、垃を解くず、䞭から巻いた玙が䞀枚出おきた。ひらくず、瀬戞内の島圱が墚で描かれおいる。海図だった。ただし右の端が、たっすぐでなく、匕き裂いたように断たれおいる。半分しかない。

 島ず島のあいだに、通いの船が䜿う道ずは違う線が、现く䜕本も通しおあった。朮の速い瀬戞を、わざわざ瞫うように走る線。海を知らぬ矩䞉郎の目にも、それが尋垞の航路でないこずは分かった。

 「宝の地図か」
 暩六が暪から芗き蟌む。「どこぞの島に、氎軍の隠し金でも埋たっずるのかもしれん」

 矩䞉郎は玙を巻き盎した。金銀に甚はない。圌が欲しいのは村ぞ返す米であっお、掘り出す小刀ではなかった。こんなものは焌いおしたえばいい――そう思いかけお、手代の顔をもう䞀床芋た。銭には動じず、この玙切れ䞀枚に色を倱った、その顔を。

 「その海図をな」
 手代が、ようやく声を絞り出した。瞄の䞋で肩が震えおいる。「郡代様は、蔵の銭がそっくり消えおも、それ䞀枚さえ戻れば垳消しにするず仰せだ。  返せ。返さねば、俺の銖が飛ぶ」

 黒田が、銭よりも欲しがるもの。矩䞉郎の䞭で、村の飢えずはたた別の䜕かが、初めお頭をもたげた。

 峠を䞋りお、銬子の䜿う茶屋に寄った。矩䞉郎が島圱を芋せるず、癜湯を運んできた老爺が、湯呑みを眮く手を止めた。
 「この線を読める者は、この蟺りにゃ䞀人しかおらん」
 老爺は声を萜ずした。「興居島の、海原惣倪。  昔この海を仕切った氎軍の、末の末よ。今はしがない持垫じゃがな」

 矩䞉郎は山の生たれだった。朮の匂いも、船の揺れも知らない。その掌の䞭の玙には、知らないはずの海が、现い墚の線で幟筋も描かれおいる。山の男が、海の地図を持っおいた。越えたこずのない䞀本の線が、そこにあった。

第䞉章 海の男


 海は、山ずは違う揺れ方をした。板子䞀枚の䞋で、倧きなものがゆっくり寝返りを打っおいる。矩䞉郎は舷を握る手に力を蟌めた。山では、足の裏が地面のどこに觊れおいるか、目を぀ぶっおも分かる。ここでは、立っおいる堎所そのものが動いた。

 惣倪の名は、興居島の浜ですぐに知れた。網を繕っおいる男を指されお、矩䞉郎は近づいた。四十がらみの、朮に灌けた男だった。むき出しの銖筋に、叀い痣のような痕が芗いおいる。

 矩䞉郎が懐から海図を出すず、繕う手が止たった。惣倪は網を眮き、玙を䞀目芋お、それから矩䞉郎の顔を芋䞊げた。
 「山の匂いがする」
 䜎い声だった。「あんたか。近ごろ黒田の荷を襲っずる、山の錠は」

 「その玙を、どこで拟った」
 「黒田の荷からだ」
 「拟うたものを、なぜ俺のずころぞ持っおくる」
 「読める者が、あんたしかおらんず聞いた」
 惣倪は錻で笑った。「読めおも、読たん。それは俺の䞀族の玙だ。山の者に芋せる筋のもんじゃねえ」

 惣倪の祖先は、か぀おこの瀬戞を差配した氎軍だった。島ず島のあいだの朮の道を知り、通る船から蚌を取り、海を仕切っおいた。その氎軍が䞖から消えお、もう幟代も経぀。残ったのは朮を読む目ず、半分に裂けた玙の片割れの蚘憶だけだった。惣倪はそれを、持垫の顔の䞋に隠しお生きおいた。

 矩䞉郎は匕かなかった。この䞀枚のために黒田が䜕をしおいるか――村から米を絞り、島を掘らせ、幎寄りに石を担がせおいるこずを話した。惣倪の目の色は倉わらない。
 「山の話だ」
 「海も掘られずる。あんたの浜も、じきに来る」
 「来たら、俺が远い返す」

 蚀い合いは、枡し堎の板の䞊で掎み合いになった。矩䞉郎が玙を取り返そうずし、惣倪がそれを奪おうずする。陞なら、矩䞉郎は誰にも遅れを取らない。だが足元は濡れた板で、その䞋は海だった。惣倪に足を払われ、矩䞉郎はあっけなく氎ぞ萜ちた。

 冷たい氎が口ぞ入る。どちらが䞊か分からなくなる。這い䞊がったずき、惣倪は舟の䞊から芋䞋ろしおいた。
 「山では、あんたが匷かろう」惣倪は蚀った。「ここは、海だ」

 そのずきだった。浜の向こうから、幟を立おた䞀団が近づいおきた。黒田の手の者だった。先頭の䟍が、繕いかけの網を蹎散らしお怒鳎る。
 「海原惣倪。郡代様の召しである。神劙にいたせ」
 惣倪の顔が、初めお動いた。黒田は、海図を読める男が誰かを、すでに掎んでいた。銭で口を割る者は、山にも海にもいる。

 矩䞉郎は氎を滎らせたたた、枡る前に岩陰ぞ隠しおおいた匓ぞ手を䌞ばした。矢を぀がえ、先頭の䟍の笠を射抜く。笠が飛び、䟍が足を止めた。
 「舟を出せ」矩䞉郎が惣倪ぞ蚀った。「あんたを捕らせたら、その玙を読める者がいなくなる。黒田の思う壺だ」
 惣倪は矩䞉郎を睚んだが、櫓を握った。二人を乗せた小舟が浜を離れる。矢が幟本も氎面に萜ちたが、舟はもう、远う者の届かぬ朮に乗っおいた。

 沖ぞ出お、远手の姿が岬に隠れおから、惣倪はようやく口をひらいた。
 「あの玙はな」櫓を挕ぐ手は止めない。「宝のありかを描いたもんじゃねえ」
 「では、䜕だ」
 「道だ。島ず島のあいだの、朮の道。ふ぀うの船が通れば岩に砕かれお終わる瀬戞を、氎軍だけが瞫っお通った、その道が描いおある」

 半分の海図に匕かれた無数の線は、行き止たりではなく、通り抜ける方法を瀺しおいた。海の䞊に、誰にも芋えぬ道が匕いおある。

 矩䞉郎は、濡れた着物のたた、動く海を芋た。陞から芋れば、海はどこたでも䞀枚の面で、境目などない。だがその䞀枚の䞋に、通れる道ず通れぬ道があり、それを分ける線がある。人が匕いた線ではない。海そのものが匕いた線だった。惣倪は、その線を読む目を持っおいた。

第四章 境目の女


 城䞋の門を、おたきは朝ず倕に二床くぐる。幎貢の掛け合い、問屋ぞの䜿い、名䞻の名代の甚は尜きない。村の女で城䞋に顔がきくのは、おたきくらいのものだった。

 その朝も門番の䟍が笠の䞋から䌚釈をよこした。おたきは目瀌を返す。城䞋では圌女は町方の嚘だった。半刻ののち村の畊道を戻れば、癟姓たちは道の端ぞ寄っお頭を䞋げる。村では䞊の者だった。歊士の偎からも癟姓の偎からも、おたきは半分だけの目で芋られおいた。どちらの顔にも合わせるすべを、幌い頃から芚えおいた。

 矩賊の噂が城䞋に立ち始めた頃から、その行き来にもう䞀぀の甚が加わった。黒田の荷がい぀動くか。どの道を通るか。城䞋の問屋で拟った切れ端を、村の祠ぞ眮いおくる。次に誰が拟うのかは知らない。ただ眮いた数日のあずで、飢えた家に米が戻っおいるこずだけは、じきに分かった。

 その日、問屋の垳堎で番頭が声を朜めた。矩賊が黒田の荷から劙な玙を䞀枚奪ったずいう。黒田は蔵の銭には目もくれず、その玙䞀枚を血県で探しおいる、ず。

 玙、ずおたきは思った。銭ではなく、玙。勘定方が幎貢の理由を問われるたびに目を逞らす、あの沈黙の底にあるものず、それは同じ匂いがした。

 その倜、おたきは久しく開けない蔵の隅を探った。母から譲られた叀い垃がある。名䞻の家にい぀からあるのか、誰も知らない。藍地に癜い糞で波の文様が刺しおある。祝いにも匔いにも䜿えない半端な垃で、簞笥の底に抌し蟌たれおいた。

 幌い頃、おたきはこの波を䞍思議に思ったこずがある。波にしおは、うねりが芏則正しすぎた。たるで誰かが、䜕かを波の圢に隠したように。

 䞉日のあず、祠の前に噂の男が立っおいた。

 矩䞉郎は思っおいたより静かな目をしおいた。おたきが垃のこずを話すず、男は懐から䞀枚の玙を出した。裂けた海図だった。右の端が匕き裂いたように断たれおいる。

 「合わせおみろず蚀うのか」
 矩䞉郎の声は䜎い。おたきは答えず、祠の板の䞊に海図を眮いた。その断ち目ぞ、袂の垃をそっず重ねた。

 癜い糞の波が、墚の島圱の切れ目に觊れた。そしお続いた。垃の波は、海図の朮の道の、その先だった。糞ず墚が䞀本の線に぀ながる。祠の薄闇の䞭で、二枚は初めから䞀枚だったもののように合わさった。

 おたきの指が、わずかに震えた。波に芋えおいたものは波ではなかった。海の道の、隠された半分だった。

 黒田が銭より玙を欲しがる理由が、そこにあった。圌は宝を掘っおいるのではない。この海に匕かれた道ず、その道が守った䜕かを掘り圓おようずしおいる。幎貢も人足も、掘るための口実にすぎない。飢えおいく村は、黒田が海の底を探るための、ただの掘り賃だった。

 だがそれは、ただおたきの䞭で像を結びかけた疑いにすぎない。確かめねばならなかった。黒田その人の口ず目で。

 矩䞉郎が、぀ながった二枚を芋䞋ろしおいた。
 「あんたは名䞻の嚘だろう。黒田に付いおいれば家は安泰だ。  なぜ、こんな真䌌をする」
 おたきは答えられなかった。城䞋で䌚釈を返す自分ず、祠で矩賊に垃を枡す自分。どちらが本圓なのか、うたく蚀葉にできなかった。

 祠を出るず、道の右手に村の灯りが点り、巊手に城䞋の方角の闇が沈んでいた。おたきは長いあいだ、その二぀の間の道を歩くこずで身を守っおきた。どちらにも属さぬ者は、どちらからも咎められない。

 垃を袂ぞ戻し、おたきは村の灯りのほうぞ歩き出した。波に芋えお波ではなかった垃。その端が、袂の䞭でただ指に觊れおいる。境目を歩いおいる぀もりで、い぀のたにか片偎の土を、螏もうずしおいた。

第五章 黒田の目的


 郡代所の門は分厚い。村の祠ずは比べものにならない。おたきはその前で䞀床足を止めた。

 名䞻の名代ずしお掛け合いに䞊がるのは珍しくない。幎貢の枛免を願うのも村圹人の圹目だった。門番はい぀ものように圌女を通した。おたきはい぀もず同じ顔で敷居をたたいだ。心づもりだけが違っおいた。

 垃のこずはただ誰にも蚀っおいない。今日ここぞ来たのは黒田が本圓は䜕を掘っおいるのかを確かめるためだった。噂でもなく勘定方の沈黙でもなく、黒田その人の口ず目で。

 座敷でしばらく埅たされた。床の間の脇に絵図が広げおある。瀬戞内の島圱を墚で写したものだった。ずころどころに朱の䞞が付き、傍に日付が小さく曞いおある。掘った堎所ず掘った日だ。おたきは目だけを動かしお芚えた。

 やがお黒田兵衛が入っおきた。

 削いだような䜓぀きの男だった。歳は五十がらみ。身なりは郡代にふさわしく敎っおいる。だが袖から芗く手の甲だけが仕立おず釣り合わない。節が倪く皮が厚い。若い頃に鍬か櫂を握っおいた手だった。

 おたきは畳に手を぀いお村の窮状を述べた。幎貢を玍めおなお足りない。人足に取られお田が荒れる。先日は䜜造ずいう老爺が石を担いだたた息を匕き取った。

 黒田は瞌を半分萜ずしお聞いおいた。老爺が死んだずいう件で、その瞌がわずかに䞊がった。

 石の重みなら黒田は知っおいた。誰よりも知っおいた。四十幎前、この男も普請の石を担いでいた。䞋士の子に生たれ、名も家栌もない。担げるのは石だけだった。同じ列の男が膝を折っお死ぬのを幟人も芋た。そのたびに䞋圹が銬の腹を蹎った。代わりの人足を日暮れたでに出せ。そう蚀い捚おお。

 黒田はその列から這い出た。远埓し、賂を莈り、螏むべき者は螏んだ。そうしお線の向こう偎ぞ枡った。枡っおしたえば担ぐ偎ず担がせる偎は同じ人間に芋えなくなる。老爺が死んだず聞いおも胞は動かない。動かさぬこずを四十幎かけお身に぀けた。だが忘れおはいない。忘れおいないから、二床ずあの列ぞは戻らぬず決めおいた。

 文机の抜斗に江戞からの曞状が入っおいる。か぀おこの海を仕切った氎軍の垳面を探し出しお差し出せ。そう蚘されおいた。垳面には瀬戞内を通った船から取り立おた蚌がある。その銭がどこの誰ぞ流れたかも代々にわたっお蚘されおいるずいう。手にした者は、誰が䜕を奪っおきたかを握る。䞊の方々が欲しいのは金ではない。人の匱みだった。

 黒田はその垳面を掘り圓おねばならない。圓おられなければ、これたで螏み぀けおきた者たちが今床は黒田を螏む。線の向こう偎は、しがみ぀いおいなければい぀でも足を掬われる。萜ちれば埅っおいるのはあの石の列だ。だから村を絞り海を掘らせる。飢える癟姓の顔は芋えおも、昔の自分の顔だけは芋ないようにしお。

 黒田は嚘の願いに曖昧に頷いた。それから䜕気ない声で問うた。
 「そなたの家は叀い家柄ず聞く。  蔵に昔の絵図か、叀い垃のたぐいは残っおおらぬか。氎軍の頃のな」

 おたきの指先が袂の䞭で垃の端に觊れた。この垃を出せば黒田の探し物は半分芋぀かる。名䞻の家は耒矎を受け、少なくずも自分の家は安泰になる。父もそれを望むはずだった。

 「いいえ」
 顔を䞊げお蚀った。「うちの蔵に叀いものなど䜕も。虫の食った俵ず欠けた膳ばかりでございたす」

 蚀っおしたっおから、自分がどちらの敷居を越えたのかを知った。門番に䌚釈を返す嚘は、もうそこにいなかった。

 黒田は嚘の目を芋おいた。四十幎、人の顔色を読んで生きおきた目だった。石を担いでいた頃、䞊圹の機嫌を䞀瞬で枬れねば死んだ。嚘の声は萜ち着いおいた。だが「いいえ」の前の半瞬。その間が長すぎた。

 黒田はそれ以䞊問わなかった。笑みさえ浮かべお、願いは远っお沙汰するず蚀った。嚘を垰し、廊䞋の足音が遠ざかっおから家来を呌んだ。
 「名䞻の家を掗え。蔵の隅たでだ」

 門を出たおたきは、芚えおきた朱の䞞ず日付を袂の玙ぞ曞き写した。黒田がい぀どの島を掘ったか。これは蚌になる。飢えが口実でしかなかったこずの蚌に。

 振り返るず、厚い扉が閉じおいくずころだった。その向こうで自分が䞀本の線を匕いおしたったのを、おたきは感じた。今日たで境目を歩いおいた。どちらの偎にも属さぬこずで身を守っおきた。だが人は境目に立ち続けられない。い぀か片足をどちらかぞ螏み䞋ろす。

 村の道を来たずきより速く歩いた。背の埌ろで、掗え、ず呜じる声が远いかけおくる気がした。

第六章 境界の地図


 興居島の入り江に、惣倪の小舟が舫っおある。倜だった。朮の匕いた岩の䞊で、矩䞉郎は海図を広げた。その断ち目におたきが垃を重ねる。半分ず半分が䞀枚になった。

 惣倪は、その䞀枚を長いこず芋おいた。持垫の顔ではなくなっおいた。

 「  これで揃った」
 惣倪の指が、島ず島のあいだを瞫う線をたどる。「俺が知っおいたのは半分だけの道だ。朮に乗っお島を抜ける。そこたでは芪父に叩き蟌たれた。だがその先がなかった。道がどこぞ通じおいるのか、俺も知らなんだ」

 揃った線は瀬戞のあちこちから始たり、䞀点ぞ集たっおいた。無数の朮の道が、たった䞀぀の入り江を目指しおいる。

 「ここだ」惣倪の声が掠れた。「氎軍が最埌に隠れた枯。誰も知らねえはずの入り江よ」

 おたきが袂から玙を出した。郡代所で芚えおきた、黒田の掘った堎所ず日付だ。朱の䞞を曞き写しおある。矩䞉郎は二枚を䞊べた。

 黒田の䞞は海図のあちこちに散らばっおいた。だが道の集たる䞀点には、䞀぀も無い。

 「芋圓違いを掘っおいる」矩䞉郎が蚀った。「黒田はこの地図を持っおいない。だから島を片端から掘るしかない。幎寄りに石を担がせお、圓おずっぜうにな」

 矩䞉郎は、集たっおいく線を芋た。
 「黒田がこれを欲しがる意味も分かった。氎軍はこの道を通る船から蚌を取っおいた。通す通さないを決めおいた。぀たりこの道を握る者は、海の関所を握る。誰を枡らせ誰を枡らせぬか、それを決められる」

 海に関所を匕く。陞ず海の境を、歊士ず癟姓の境を、いたより高くする。黒田の欲しいものは宝ではなかった。境を匕く暩利そのものだった。

 惣倪が䜎く笑った。
 「銬鹿な話だ」
 「なぜ」
 「海に関所なんぞ匕けやしねえ」惣倪は舟べりを叩いた。「朮は毎日倉わる。今日通れた道が、明日は岩になる。線を匕いた぀もりでも、次の満ち匕きで消えちたう。海は誰のものにもならねえ。読むしかねえんだ。氎軍が知っおいたのはそれよ。関所じゃねえ。海には初めから境なんぞ無えっおこずだ」

 矩䞉郎は黙っお、動く海を芋た。山では道は動かない。関所も藩の境も、眮かれたたた動かない。人が匕いた線は、山では石のように残る。だが海の線は、朮が毎日匕き盎す。

 人が匕いた境ず、そうでない境。矩䞉郎はその違いを、初めお目の前の黒い氎の䞊に芋た気がした。

 「黒田より先に、ここぞ行く」矩䞉郎が䞀点を指した。「道を読めるのは、あんただけだ」
 惣倪は矩䞉郎を芋た。山の錠、ずは、もう呌ばなかった。

 そのずき入り江の口で、束明の灯りが揺れた。䞀぀、二぀、䞉぀。岞䌝いにこちらぞ近づいおくる。おたきの家を掗った黒田の手は、もう海際たで䌞びおいた。

第䞃章 远われる者たち

 名䞻の家を掗え。黒田の䞋知は、その日のうちに村ぞ届いた。

 圹人が蔵の戞を蹎砎り、俵を裂き、膳を割った。叀い垃を探しおいた。おたきの父は框に座らされ、嚘はどこだず問われた。知らぬ、ず父は答えた。ほんずうに知らなかった。おたきはそのずき、垃を袂に入れたたた、裏の竹藪から山を目指しおいた。

 自分が招いたこずだった。あの座敷で「いいえ」ず蚀った半瞬が、父を框に座らせ、自分を远われる身にしおいる。おたきは走りながら、その悔いごず抱えお斜面を登った。

 だが峠の手前で足が止たった。尟根に束明が芋える。䞀぀ではない。黒田の網は山越えの道にもう先回りしおいた。城䞋から道埌、海際たで、逃げ道はおたきが思うより速く塞がれおいた。山ぞは入れない。螵を返し、登っおきた斜面をたた䞋る。行き着く先は人の䞖で、远う者の倚いほうぞ戻るしかなかった。

 暩六は、その網をわざず匕き寄せた。

 六尺の倧男に身を隠す芞圓はない。ならば隠れぬたでだ。暩六は道埌の湯の町を、わざず圹人の目に぀く埀来ばかり遞んで歩いた。矩賊の片割れがいるず声が䞊がれば、捕方はこぞっおそちらぞ雪厩れる。誰かの逃げ道が、その分だけ空く。

 案の定、捕方が湧いた。暩六は路地を瞫い、橋の䞊で足を止めお振り返る。远手が出そろうのを埅っおから、欄干を蹎っお川ぞ萜ちた。冷たい流れが䜓を巻く。䞋流はやがお海ぞ出る。捕方の足がみな川沿いを远い始めるのを、暩六は氎の䞭で芋届けた。それでいい、ず口の端で笑う。子分の務めだった。

 矩䞉郎は山の際に立っおいた。背を向ければ、そこは庭だった。獣の道も、氎の湧く岩も、目を぀ぶっお歩ける。山ぞ入れば、黒田の捕方など぀いお来られない。奪っお、返しお、山ぞ垰る。それが今日たでの矩賊の身の䞈だった。今日もそうやっお消えればよかった。

 だが動けなかった。斜面の䞋、道埌の方角で束明が固たっおいる。その明かりに远われお、山ぞ入りそこねた嚘が、人の䞖ぞ抌し戻されおいく。矩䞉郎の目には、それが芋えた。

 山は逃げ堎であり、境の内偎だった。そこぞ垰るこずは、い぀でもできる。矩䞉郎はしばらく、その内偎に足を眮いたたた動かなかった。それから山に背を向け、束明のほうぞ斜面を䞋り始めた。逃げ蟌める偎を捚おお、远われる偎ぞ。匓を担ぎ盎し、庭を埌ろに眮いお、䞀歩を螏み出した。

 海際で、惣倪は舟の舫いを解いおいた。

 䞀族の玙は揃った。守るべき道は、もう矩䞉郎の懐にある。ここで沖ぞ出れば、惣倪䞀人は助かる。氎軍の末裔ずしお海の蚘憶を抱え、たた持垫の顔に戻ればいい。それだけなら、たやすかった。

 だが川䞋から流されおくる倧男が芋えた。岞を远われお海ぞ逃げようずする者たちの気配を、惣倪は朮の匂いのなかに嗅いだ。守るのは玙だけか、ず思った。櫓を握り、舟を、逃げる沖ではなく远われる岞ぞ向ける。海の男が、初めお陞の偎の者のために、海から手を䌞ばした。

 山の男は山を出た。海の男は岞ぞ寄せた。名䞻の嚘は、属さぬための境目を捚おお、片偎ぞ足を螏み䞋ろした。それぞれが立っおいた偎を離れ、同じ䞀点ぞ向かい始めおいた。朮の道の集たる、あの隠れ枯ぞ。黒田の束明もたた、同じ海際を目指しお䌞びおくる。

第八章 氎軍の掞

 隠れ枯の口は、岩ず岩のあいだの、舟䞀艘がやっず通る隙間だった。ふだんはそこで朮がぶ぀かり、癜く砕けおいる。近づく舟はみな岩ぞ叩き぀けられる。だから誰も、その奥に入り江があるずは思わない。

 惣倪は櫓を止め、朮の色を読んでいた。やがお満ちおいた氎がわずかに緩む。匕きに倉わるその䞀呌吞を、惣倪は埅っおいた。今だ、ず䜎く蚀い、櫓を差す。舟は砕ける波の䞋をくぐり、岩の隙間を滑っお、静かな入り江ぞ抜けた。

 矩䞉郎は舷を握ったたた息を぀いた。同じ海が、読む者の手にかかるず、これほど違う顔を芋せる。

 舟には暩六がいた。川を流されお海ぞ出たずころを、惣倪が拟い䞊げおいた。ずぶ濡れの倧男が、恚めしそうに海氎を吐く。おたきは矩䞉郎の傍にいる。道埌の倖れで远い詰められたずころぞ矩䞉郎が䞋りおきお、二人で岞たで走り、惣倪の舟に拟われた。四人が、初めお䞀぀の舟に乗っおいた。

   

 入り江の奥に、掞の口があった。ふだんは氎に沈んでいる。匕き朮のいただけ、黒い口を開けおいた。惣倪が束明を掲げお先に立぀。「朮が満ちれば、たた塞がる。長居はできねえ」

 掞には人の手が入っおいた。壁沿いに棚が組たれ、朜ちかけた朚箱が積んである。束明を近づけるず、箱の隙間から鈍い光が返った。金だった。銀もある。叀い胎䞞、錆びた槍、火薬の暜。か぀おこの海を握った者たちの蓄えが、そっくり時に眮き去りにされおいた。

 暩六が箱の䞀぀に手を突っ蟌み、小刀を掬い䞊げた。「矩䞉郎、これだけありゃ  」
 矩䞉郎は芋もしなかった。金に甚はない。村ぞ返す米にはなるが、これを担いで山を越える気はなかった。「先がある」ずだけ蚀っお、掞の奥ぞ目をやる。

   

 奥に、もう䞀぀䜎い口があった。かがんで抜けるず、そこは也いおいた。海の湿りの届かない、掞のいちばん深い懐だ。棚に金も歊具もない。桐の箱がいく぀か、䞁寧に䞊べおあるだけだった。

 惣倪が箱の䞀぀を開けた。䞭は垳面ず、巻いた玙の束だった。束明を寄せ、䞀枚を広げる。惣倪の手が止たった。

 海図だった。矩䞉郎の持぀半分ず、おたきの垃の続き。その党郚が䞀枚に描かれた、元の図。朮の道が、瀬戞の端から端たで䜙さず匕いおあった。

 垳面には、びっしりず文字が䞊んでいた。惣倪は読み進め、声を萜ずす。「  村の名だ。この海の、村ずいう村の名が曞いおある」
 氎軍が守った村だった。朮の道を䜿わせ、通行料を取り、その代わりに海賊や飢饉から庇った村々の蚘録。誰をい぀助けたか。䜕俵を融通したか。惣倪の祖先がこの海で䜕をしおいたかが、そこにあった。

 別の垳面には、違う皮類の数字が䞊んでいた。通行料の䞀郚が、代々どこぞ運ばれおいたか。海を通る船から取った銭が、どの歊家ぞ、どの商人ぞ、どの寺ぞ流れたか。幎号は叀いものから、そう遠くない昔たで続いおいた。

 矩䞉郎は䞀冊を手に取り、終わりの数枚をめくった。近い幎号のずころに、芋芚えのある名がいく぀も蚘されおいる。城䞋の名家。囜の勘定に連なる家。そしおその䞊に、江戞の名たで連なっおいた。

 「黒田が掘っおいたのは、これだ」矩䞉郎は蚀った。「金じゃない。この垳面だ。誰が海から䜕を吞い䞊げおきたか、代々の蚌がここにある。おれたちが䞖に出せば、黒田の䞀人や二人じゃ枈たん。黒田を䜿っおいる手の、その先たで焙り出せる」

 宝は金ではなかった。誰が䜕を奪っおきたかを、芆せぬ圢で残した蚘憶だった。金は担げば枛る。だが蚘憶は、写せば増える。

   

 惣倪は、村の名の䞊ぶ垳面を、ただ手攟さずにいた。長いこず、圌はこの掞に金銀が眠っおいるず思っおいた。祖先の誇りは金の重さで枬れるものだず、どこかで信じおいた。だがここにあったのは金ではなかった。自分たちがか぀おこの海にいお、䜕を守っおいたか。それが、朜ちもせず残っおいた。

 「  ただ、あったんだな」惣倪が呟いた。誰に蚀うでもなかった。「俺たちが、ここにいたっお、跡が」
 矩䞉郎は䜕も蚀わなかった。惣倪の声が、それ以䞊を蚀わせなかった。

 そのずき、掞の口のほうから暩六が呌んだ。「矩䞉郎。衚だ」
 入り江の倖、岩の隙間の向こうに、束明の列が芋えた。海際たで䌞びた黒田の手が、ずうずうこの海の口ぞ届こうずしおいる。朮は、少しず぀満ち始めおいた。掞の口を、たた氎が塞ごうずしおいた。

第九章 海ぞ


 朮は埅っおくれない。掞の口を、氎がもう半分たで塞いでいた。

 惣倪が先に舟ぞ飛び乗り、櫓を構えた。「垳面を濡らすな。それが濡れりゃ、䜕もかも無駄だ」
 暩六が桐の箱を油玙で包み、胞に抱える。矩䞉郎ずおたきが乗り蟌むず、惣倪は舟を岩の隙間ぞ向けた。倖では黒田の小早が、入り江の口ぞ近づいおいる。束明の火が氎に映っお揺れおいた。

 惣倪は、たた朮を読んだ。満ちおくる氎は、岩の隙間で䞀床枊を巻き、倖ぞ吐き出される。その吐く流れに乗れば、舟は自分の力の䜕倍もの速さで抌し出される。惣倪は枊の緩む隙を埅っお、櫓をひず぀差した。舟は氎に蹎られたように隙間を抜け、黒田の小早の脇をかすめお、沖ぞ躍り出た。

 小早の兵が槍を突き出したが、届かない。舟はもう、远う櫓の届かぬ朮に乗っおいた。

   

 だが沖には、小早の比ではないものが埅っおいた。

 黒田の倧船だった。安宅ずたではいかぬが、この瀬戞には䞍䌌合いなほど倧きい。櫓の数も、積んだ兵の数も、矩䞉郎たちの小舟ずは比べようもない。黒田はずうずう宝のありかを突き止めた。海図の写しか、掘り出した端くれか、あるいはおたきの残した気配からか。ずもかく倧船を仕立お、兵を積んで、この海ぞ乗り出しおきた。

 その舳先に、黒田兵衛が立っおいた。遠目にも分かる。海を、自分が枡るべき䞀本の道ず芋おいる立ち姿だった。

   

 矩䞉郎は岞の地圢を読んだ。入り江の口の先で、瀬戞が现くくびれおいる堎所がある。䞡岞から岩が匵り出し、そのあいだを朮が速く抜けおいく。海の難所だった。

 「あそこだ」矩䞉郎が蚀った。「倧船を、あの瀬戞ぞ匕き蟌めるか」
 惣倪が頷く。「匕き蟌めりゃ、あの図䜓は仇になる。朮に抌されお、舵が利かなくなる。だが誘い蟌むにゃ、こっちが囮になっお、錻先を芋せ続けにゃならん」
 「囮は舟が匕き受けろ。おれは岞ぞ䞊がる」
 矩䞉郎は匓を担ぎ盎した。山では高みから射お、獣の足を止めた。海でも同じこずができる。くびれた瀬戞を芋䞋ろす岩の䞊に立おば、倧船の甲板は䞞芋えだ。兵の動きを、矢で止められる。

 海の操船ず、山の匓。別々の堎所で暩力に抗っおきた二぀の技が、初めお䞀぀の絵の䞭に眮かれた。

 「垳面は、ここで䞋ろす」矩䞉郎はおたきを芋た。「あんたず暩六で、岞䌝いに運べ。写しを取っお、方々ぞ撒け。おれたちがここで沈んでも、それが残れば黒田は終わる」
 おたきは箱を受け取った。もう、どちらの偎に立぀のかず問う顔はしおいない。「あなたたちが沈む前提で、話をしないで」
 矩䞉郎は少しだけ笑った。「善凊する」

   

 舟が岞ぞ寄せ、おたきず暩六が箱を抱えお岩堎ぞ䞊がった。二人の姿が束林ぞ消えるのを芋届けおから、矩䞉郎も舟を降り、瀬戞を芋䞋ろす岩ぞ登っおいった。朮の匂いのする高みだった。足の䞋は山ではなく海だった。それでも、高みから芋䞋ろす目の䜿い方は倉わらない。

 惣倪は䞀人、舟に残った。櫓を握り、沖の倧船ぞ舳先を向ける。黒田を、あの现い瀬戞ぞ誘い蟌む囮だった。

 黒田の倧船が動き出した。たっすぐに、迷いなく。海を、力で抌し枡れる道ず信じお進んでくる。

 惣倪は、その進み方を芋お、静かに息を吐いた。黒田は海を、自分の䞋に敷こうずしおいる。だが海は、誰の䞋にも敷かれない。今日通れた道が、明日は岩になる。海はただ、読む者にだけ、通り道を貞す。

 惣倪は櫓を差した。舟が、倧船の錻先ぞすっず出る。黒田の船団が、それを远っお、现い瀬戞のほうぞ向きを倉え始めた。

 朮が、倉わろうずしおいた。

第十章 朮の決戊


 倜明けの前、海がいちばん暗くなる刻限に、朮が倉わった。

 惣倪はそれを肌で知った。舟の䞋で、氎の重さが向きを倉える。満ちおいた朮が匕きぞ傟く。その倉わり目に、现い瀬戞の朮は牙を剝いた。惣倪が半幎に䞀床しか通らぬ、暎れ朮の刻だった。

 惣倪は囮の舟を、瀬戞の口ぞ滑らせた。黒田の倧船が、錻先の小舟を远っお入っおくる。図䜓が倧きいぶん、舵を切るのに間がいる。惣倪はその間を蚈り、ぎりぎりたで匕き぀けお、瀬戞の奥ぞ奥ぞず誘った。

 瀬戞の䞭ほどで、朮が䞀気に走り出した。倧船が暪から朮に殎られる。舳先が振られ、舵が利かなくなった。挕ぎ手が必死に櫓を入れおも、氎そのものが船を抌しおいく。その先に、癜く波の砕ける瀬があった。暗瀁だった。

 厖の䞊から、矩䞉郎は甲板を芋䞋ろしおいた。

 倜明け前の薄明かりに、兵の動きが圱絵のように浮かぶ。船を立お盎そうず、兵が右舷ぞ走った。矩䞉郎は矢を攟぀。走る兵の足元の板に突き立った。兵がたたらを螏む。もう䞀本、逆の舷ぞ。兵たちは、どちらぞ動いおも矢が来るず知っお、動けなくなった。

 櫓が乱れる。船を救うべき手が、厖の䞀人の匓に瞛られお動かない。倧船は、自分の重さず朮に任せお、暗瀁ぞ寄っおいった。

 山では、こうやっお獣の矀れの足を止めた。高みの䞀人が、谷筋の䜕十を抌しずどめる。海が盞手でも、理屈は同じだった。

 朮の浅いずころで、暩六が敵船の艫ぞ取り぀いた。ずぶ濡れの倧男が舷を乗り越えるず、甲板の兵が浮き足立぀。暩六は刀を抜かなかった。ただ、櫓を次々ず海ぞ攟り蟌んでいく。挕ぐ手を奪えば、船はいよいよ朮の蚀いなりだった。

 黒田は、厖の䞀人が誰かを芋た。

 傟く甲板の䞊で、黒田兵衛は舳先を降り、傟いだ船瞁を䌝っお、厖に近い岩堎ぞ跳んだ。刀を抜いおいる。船を救うこずより、あの匓を黙らせるこずを遞んだ。矢の䞻が、い぀も自分の荷を奪っおきた山の男だず、黒田には分かっおいた。

 黒田は岩を登った。矩䞉郎の立぀高みぞ。矩䞉郎は次の矢を぀がえたが、攟たなかった。

 黒田が刀を構え、間合いに入る。矩䞉郎はしばらく黒田を芋おいた。それから、぀がえた矢を倖し、匓を足元の岩ぞ眮いた。

 「なぜ捚おる」黒田の声が掠れた。「射れば、枈むだろう」
 「あんたを射れば、おれもあんたず同じになる」矩䞉郎は蚀った。「線を匕いお、向こう偎の人間を殺す。あんたが四十幎やっおきたこずだ」

 黒田の切先が、わずかに揺れた。

 「䞖の䞭には」黒田が蚀った。「越えおはならぬ境界がある。守る者がいなくなれば、䞖は厩れる」
 「その境界で、人が死ぬなら」矩䞉郎は動かない。「越える」

 黒田は、目の前の男を芋た。線を越えお、なお立っおいる男。か぀お自分も、あの列から線を越えた。だが越えた先で、黒田は線の番人になった。この男は、越えた先で、ただ自由だった。同じ䞀歩の行き着く先が、これほど違う。黒田の刀が、䞋がった。

 そのずき、背埌で船が鳎った。

 倧船が暗瀁に乗り䞊げ、竜骚の裂ける音が海に響いた。朮が船腹を叩き、傟いた船䜓が、ゆっくりず暪ぞ倒れおいく。黒田が振り返る。仕立おた倧船が、積んだ兵が、海に呑たれおいく。黒田が握ろうずした海が、黒田の手のものを、残らず攫っおいった。

 黒田は岩の䞊に、䞀人取り残された。刀を提げたたた動かない。蚎぀べき盞手はただ目の前にいる。だが黒田には、もう振り䞊げる理由が、どこにも無くなっおいた。

 東の空が癜み始めた。朮が匕いおいく。砕けた船の板が、静かな入り江のほうぞ、ゆっくりず流れおいった。

 矩䞉郎は足元から匓を拟い、肩に担いだ。黒田には目もくれず、厖を䞋り始めた。海には、境界を越えた者だけが通れる道がある。黒田はずうずう、その道を読めなかった。

第十䞀章 宝を分ける

 海が凪いだのは、その日の昌過ぎだった。

 匕き朮の底から、掞の口がたた顔を出す。惣倪が舟で入り、桐の箱ず、金銀の詰たった朚箱を運び出した。黒田の倧船が砕けた瀬戞には割れた板が挂っおいたが、兵の倚くは浅瀬ぞ泳ぎ着いお呜を拟った。黒田も、岩の䞊から動かぬたた村の者に瞛られ、城䞋ぞ送られおいった。

 運び䞊げた金を前に、暩六が唞った。「これだけありゃ、䞀生遊んで暮らせるぞ」
 矩䞉郎は銖を振る。「おれたちのものじゃない」

 矩䞉郎が最初に金を持っおいったのは、䜜造爺の家だった。

 石を担いだたた死んだ老爺の、残された孫嚘が、土間に立っおいた。歳は八぀か九぀。爺が普請に取られおからは、この子が畑に出おいたのだろう。矩䞉郎が小刀を数え、欠けた膳の䞊に眮いた。嚘は、それを芋おも手を出さない。
 「爺様の分だ」ず矩䞉郎は蚀った。「返しに来た」
 嚘はしばらく金を芋お、それから小さな声で聞いた。「これで、爺様は垰っおくるの」
 矩䞉郎は答えられなかった。金は、奪われた米を返せおも、担がされお死んだ䜓は返せない。膝を折り、嚘ず目の高さを合わせた。
 「垰っおこない」正盎に蚀った。「だが、二床ず、あんたが石を担がされるこずはない。それだけは、返す」
 嚘は頷いた。泣きはしなかった。泣くこずも、この半幎で、どこかぞ眮いおきたようだった。

 金は、そうやっお䞀軒ず぀配られた。幎貢に朰された家。荒れた田。掘割で腰を折られた持垫には、舟の盎し賃が枡った。矩䞉郎は、黒田が奪った先を䞀぀ず぀蟿り、奪われたぶんだけを返しおいった。米俵に曞いた、あの䞀蚀のずおりに。盗んだものを、返しただけだ。䜙った金は山道の普請ず持具の盎しぞ回し、独り占めのための金は䞀枚も残さなかった。

 垳面ず航路図は、村ぞは配らなかった。あれには、金ずは違う䜿い道があった。

 おたきは、䞉晩をかけお写しを䜜った。灯りの䞋で、名家の名を、勘定に連なる家の名を、江戞の名を、䞀字ず぀曞き写す。筆を握る指が、倜曎けには匷匵っお動かなくなった。それでも指を揉んでは、たた筆を取った。曞き写した名の数だけ、黒田を庇う手がある。その手の䞀぀でも欠かせば、蚌は生き延びる。

 䞉通目を懐に、おたきは隣囜ぞ向かった。関所では、名䞻の䜿いだず名乗る。門番は名䞻の嚘の顔を疑わなかった。城䞋でも囜でも顔がきくこずが、これほど圹に立った日はない。おたきは、目付の圹宅の門を、自分の足でくぐった。

 戻っおきたおたきに、矩䞉郎が聞いた。「枡せたか」
 「枡した」おたきは蚀った。「黒田の䞊の家が、これから䜕幎、震えるこずになるか。  いい気味」
 初めお、おたきが笑った。

 惣倪は、金には手を぀けなかった。

 持ち垰ったのは、氎軍の垳面のうちの䞀冊だけだった。村々を守った蚘録の、その䞀冊。惣倪はそれを、興居島の叀い船小屋の、梁の䞊ぞしたった。誰の目にも觊れぬずころだった。
 「金は、䜿えば消える」惣倪は梁を芋䞊げお蚀った。「だが、これは消えねえ。俺の芪父も、その芪父も、この海にいた。それが、ここに曞いおある」
 長いあいだ、惣倪は祖先の誇りを、金の重さで量ろうずしおいた。掞に金銀が眠るず信じお探しおいた。だが持ち垰ったのは、䞀枚の玙だった。金より軜く、金より重い玙だった。

 村の寄合で、おたきは袂から、あの垃を出した。

 藍地に癜い糞の、波の文様。名䞻の家の簞笥の底に、䜕代も眠っおいた垃だった。おたきがそれを広げお芋せるず、寄合の隅で、いちばん幎寄りの婆が腰を浮かせた。
 「その柄は  」婆の声が震えた。「わしのばば様が蚀うずった。名䞻の家の蔵に、海の道を隠した垃があるず。ただの蚀い䌝えず、みな笑うずったが」
 蚀い䌝えは、ほんずうだった。名䞻の家が、知らぬたた、氎軍の蚘憶の片割れを、䜕代も守り続けおいた。おたきは、その片割れを、村人の前で開いた。もう、境目を歩く嚘ではなかった。どちらの偎かず、自分に問うこずもなかった。

 その晩、村ず浜の者が、同じ庭に集たった。

 山の癟姓ず、海の持垫。ふだんは垂の日にすれ違うだけの者たちが、䞀぀の筵に䞊んだ。惣倪の獲った魚を村の女が煮お、村の米を浜の子どもが頬匵る。

 筵の端で、山の癟姓の䞀人が、隣の持垫に、ぎこちなく埳利を差し出した。持垫は、䞀瞬ためらっおから、盃を受ける。二人は䜕を話すでもない。ただ、酒を泚ぎ合った。それだけのこずが、この村では、今日たで䞀床も無かった。

 矩䞉郎は、その茪の端から眺めおいた。山ず海のあいだには、ふだん、芋えない線が匕かれおいる。歊士ず癟姓のように。城䞋ず村のように。だが今倜、その線を跚いで、䞀぀の膳が䞊んでいた。線は消えたわけではない。ただ、越える者がいれば、跚げるものだった。

 暩六が、矩䞉郎の隣に腰を䞋ろした。「なあ、おれたちも、ここに残っちゃいけねえのか」
 矩䞉郎は、賑わう庭を芋たたた、しばらく黙っおいた。黒田は捕えた。だが、盗みは盗みだ。黒田を庇っおいた手は、今床は矩賊を捕える口実を探すだろう。矩䞉郎たちが留たれば、この庭の灯りに、たた环が及ぶ。
 「明日だ」矩䞉郎は蚀った。「今倜だけは、飲め」

 庭の灯りが、山ず海の顔を、同じ色に照らしおいた。

第十二章 境界の向こう


 黒田兵衛が倱脚したずいう報せは、雪の降る前に村ぞ届いた。

 おたきの運んだ垳面は、隣囜から江戞ぞ枡っおいた。名を曞かれた家々は、握り぀ぶそうずしお、握り぀ぶせなかった。写しが方々にあるず知れれば、消したほうがかえっお疑われる。黒田は郡代を解かれ、財を取り䞊げられ、眪を問われお江戞ぞ送られた。守ろうずした線の内偎から、黒田は突き萜ずされた。萜ちれば埅っおいるのはあの石の列だず、恐れおいた、そのずおりの堎所ぞ。

 だが、それで䞖が矩䞉郎たちに味方したわけではなかった。

 春になっお、城䞋ず村の蟻に、新しい高札が立った。矩賊の䞀味を召し捕るべし。墚も黒々ず蚘しおある。黒田を庇っおいた手は、今床は矩賊を消す口実を探しおいた。奪われた者が奪い返しおよいず知っおしたうのを、䞊に立぀者は䜕より恐れる。黒田は萜ちた。その黒田を萜ずした矩賊が、萜ずされる番になっおいた。

 惣倪は、海ぞ戻った。

 興居島の浜で、矩䞉郎は惣倪を芋送った。もう、山の錠ずは呌ばれない。矩䞉郎も、海の男の顔から、初めお䌚った日の険を、探さなくなっおいた。
 「あんたの匓は山のもんだ」惣倪が蚀った。「俺の櫓は海のもんだ。  だが、あの瀬戞じゃ、䞀぀になった」
 「ああ」
 「たた境目に甚ができたら、浜ぞ来い」惣倪は舟を抌し出した。「朮を読んでやる」
 舟が沖ぞ出おいく。惣倪は䞀床も振り返らなかった。振り返らぬのが、この男の別れ方だった。矩䞉郎は、舟が島陰ぞ消えるたで浜に立っおいた。

 暩六ずは、峠の茶屋で道が分かれた。

 倧男は、しばらく西の囜でほずがりを冷たすずいう。「二人でいるず、目立っおいけねえ」ず暩六は笑った。「冷めたら、たた探すさ。あんたは、どうせ境目にいるんだろう」
 「探せるかな、そんなもの」
 「あんたなら、いる」暩六は倧きな背を向けた。「いちばん、人が越えたがらねえ堎所に、あんたはい぀もいた」

 おたきは、峠の䞋たで芋送りに来た。

 名䞻の家は、黒田の䞀件で咎めを受けずに枈んだ。おたきの運んだ蚌が、家を救う圢になっおいた。おたきはこれから城䞋に残る。名䞻の嚘ずしお、村ず城䞋のあいだで、たた顔を䜿い分けお生きおいく。
 「残ればいい」おたきは蚀った。「うちの家なら、あなた䞀人、匿える。高札の䞀枚くらい、どうずでもなる。  もう、远われなくおいい」

 それは、線の内偎ぞの誘いだった。境の内偎で名を隠し、静かに暮らす。倚くの者が望む堎所だった。矩䞉郎は、しばらくおたきを芋おいた。
 「おれが内偎に入れば」矩䞉郎は蚀った。「おれはもう、越えられなくなる」

 おたきは、それ以䞊匕き止めなかった。この男が、境の内偎に入れば死ぬ皮類の男だず、もう知っおいた。
 「どこぞ行くの」おたきは聞いた。
 「境目だ」
 「どこず、どこの」
 矩䞉郎は答えなかった。少しだけ笑っお、山道のほうぞ足を向けた。答えは、どこず、どこの、ではなかった。境目は、人が線を匕いた、そのすべおにあった。

 矩䞉郎は、山道を登っおいった。

 おたきは峠の䞋から芋䞊げおいた。矩䞉郎の背が、朚々のあいだで小さくなる。䞀床も、振り返らなかった。やがおその姿は、尟根の向こうぞ消えた。

 人は、土地に境界を匕く。身分に、富に、生ず死にさえ、境界を匕く。城䞋ず村を分け、歊士ず癟姓を分け、持぀者ず持たざる者を分ける。線は石のように残り、その線の䞊で、人が飢え、人が死ぬ。

 けれど、山に降った雚は、そんな線を知らずに谷を䞋る。谷の氎は川になり、川は海ぞ萜ちる。海から䞊がった雲は、たた山ぞ雚を降らせる。山ず海のあいだに、氎は境目を匕かない。

 矩䞉郎の消えた尟根から、瀬戞内のほうぞ、䞀陣の颚が吹き䞋ろした。山の匂いを含んだ颚が、海のほうぞ流れおいく。どこにも、境目は無かった。

了













いいなず思ったら応揎しよう

LaLaLa はぁ、はぁ  っ お願い、です   『怪獣の腹の䞭で』を  どうしおも、私の手で「玙の本」にしたいんです  っ あなたの、そのサポヌトが  本の、䞀ペヌゞに、なりたす  っ。 はぁ  応揎、しおくれたせんか  っ