家で子供と二人きりだと息ができない
なぜ、家で子供と二人きりで過ごしていると、こんなにしんどくなるのか。
でも不思議と、公園など外に行くと少し楽になる。
たとえ誰とも話さなくても。
最初は単純に「気分転換」だと思っていた。
でも、もう少し違う気がする。
家の中では、子供の世界の中心がほぼ親になる。
「見て」
「来て」
「これ取って」
「一緒にやって」
要求がずっと続く。
もちろん可愛い。
でも同時に、脳はずっと呼ばれ続けている状態でもある。
そして、些細な中断すら許されない。
仕事のチャットを一通だけ返したい、税の支払いを済ませたい、トイレでゆっくり用をたしたい、お菓子を一口食べたい。
何一つ許されない。「何やってるの〜?」と無邪気な質問が飛んできて、こちらについてくる。
いちいち子供に対してムキになるのも面倒に感じる。正直、「めんどくさい」。
時間に余裕がある時、メリハリがある時は余裕を持って子供の相手ができる。そして楽しい。幼い可愛さをフルに堪能できる。そう「余裕がある時」は。
しかも家には、“終わっていないもの”が視界に入り続ける。
洗い物。
洗濯。
片付け。
中断された家事。
人間の脳は、未完了のものがあるだけで認知負荷が上がるらしい。
家の育児は、子供を見ること以上に、「未処理タスクに囲まれ続けること」が地味にしんどいのかもしれない。
一方、公園に行くと、子供の興味が親から環境へ移る。
石を拾う。
葉っぱを見る。
他の子を追いかける。
犬に反応する。
風を感じる。
親が“世界そのもの”でいなくてよくなる。
それだけで、少し呼吸ができる。
あと、公園の見守りは、家の中と少し違う。
家では、
「次は何を求められるか」
という連続的な対応が必要だけど、
公園では、
「危ないことだけ気をつける」
に変わる。
同じ見守りでも、脳の使い方が違う。
さらに不思議なのは、話し相手がいなくても少し楽になること。
他の親子がいる。
誰かの気配がある。
子供たちの声が聞こえる。
それだけで、人間は少し「一人で全部背負っていない」と感じるのかもしれない。
人類の歴史のほとんどは、もっと共同体の中で子育てしていたはずで、
完全に閉じた空間で、一対一でずっと育児をする方が、むしろ不自然なのだと思う。
そして、外には“時間の流れ”がある。
風。
光。
季節。
空の色。
家の中にいると止まりがちな時間が、
公園ではちゃんと進んでいる感じがする。
育児で苦しいのは、疲れているからだけじゃなく、
「終わりが見えない感覚」なのかもしれない。
公園は、子供の遊び場である前に、
親の認知を換気する場所なのだと思った。
別に、豪華なディナーを優雅に2時間楽しみたいわけでも、2時間の新作映画を見せてくれというワガママではない。
余裕がない時は、10分でいいので息がしたい。
※環境そのものが悪いというわけではなく、外的要因の組み合わせで、特にこう感じてしまう日が時々あるという話です。
追記
なんてツラツラと苦しい1日の日記を書いていたら、育児の辛さをとんでもなく統計的に分析して、言語化された記事を見つけた。
本当にかなり面白かった。
記事の本質は、
「育児の辛さは、家事量ではない」ということ。
食洗機やロボット掃除機で家事は効率化されているのに、なぜ育児は楽にならないのか。
それは、辛さの本体が、「皿洗い」や「掃除」ではなく、
・いつ呼ばれるかわからない
・自分のペースで動けない
・終わりがない
・常に感情対応が必要
・自分のペースで動けない
という、“コントロール不能な拘束状態”にあるからだ、と。
特に分かり易い点は、育児ストレスを、
・予測不能性
・自律性の喪失
・社会的孤立
・感情労働
・終わりの見えなさ
など、構造化している点。
感覚論ではなく、
「なぜしんどいのか」をちゃんと言語化してくださっている。
そして一番うまい比喩だと思ったのは、
「家事ツールは、当直室のベッドを高級マットレスに変えただけ」という表現。
確かに寝心地は改善する。
でも、“いつ呼ばれるかわからない”という当直の本質は変わらない。
育児も同じなのだと思う。
「何がそんなに大変なの?」
というズレが起きやすいのは、
育児の負荷が“作業量”としては見えにくく、
“認知負荷”として積み上がっているからなのかもしれない。
なので、育児をする親のスケジュールなんて他人に共有しようもんなら、「え、何がそんなに大変なの?私なんて朝7時から夜7時まで会議詰めだけど?」と、全く通じないということが起こる。
世の親たちよ、いざ立ち上がれ。
ようやく我々は、皆に理解してもらえる武器(引用させていただいた記事)を手に入れたのだ。
