世界へ向ける眼差しを、日常の中で
この夏はとりわけ、
毎日が本当にあっという間に過ぎていくのを
感じています。
家のこと、子どもたちのこと、仕事のこと。
毎日のようにやることが山のように
押し寄せてきては、
なんとかその波に溺れずにこなしている。
気がつけば、夜。
もう一日が終わっている。
そんな日々の中で、
先日ふと立ち止まったとき、
気づいたことがありました。
この夏、私は家族とカミーノ巡礼を歩きました。
旅の中で、たくさんのことを感じました。
そして帰ってきたとき、
「こんな眼差しを持って日常も生きていきたい!」
と思っていたはずでした。
ところが——
そのことを、私はすっかり忘れていました。
カミーノで感じたことを振り返るどころか、
そんなことを考える余裕さえなく、
目の前にあることをこなすのに
精一杯になっていたのです。
それに気づいたとき、
少し悲しくなりました。
前回の記事では、
カミーノを歩きながら感じた
「世界へ向ける眼差し」
について書きました。
巡礼中の私は、
普段よりもずっと
世界に対して開いていたように思います。
ただ、カミーノでの一日のタスクといえば、
「その日の目的地まで歩くこと」
という、とてもシンプルな生活でした。
道端に小さな花が咲いていれば、足を止める。
初めての町に着けば、
きょろきょろと辺りを見回す。
思いがけないことが起きても、
すぐに「良かった」「悪かった」と決めるのではなく、「これは何だろう」
と、しばらくその出来事を眺めてみる。
あのときの私は、
「まだ私の知らない何かがあるかもしれない」
と、世界に向かって
大きく目と心を開いていたのだと思います。
こんなふうに過ごしていると、
いつもなら通り過ぎてしまうようなものが、
思いがけず豊かなものとして
現れてくることがありました。
私の周りの世界が変わったわけではありません。
おそらく、
私の「世界との関わり方」が、
いつもとは少し違っていたのでしょう。
旅に出たときは、
誰もがこのような感覚になりやすいですよね。
だから日常へ戻ってきても、
私はそんな眼差しを持って暮らしていきたい
と思っていました。
ところが、
現実はなかなかそうはいきませんでした。
朝起きた瞬間から、
「あれをしなくちゃ」
「これもやらなくちゃ」
と、頭の中には今日やるべきことが
ズラッと並びます。
一つ終われば、次のことへ。
それが終われば、またその次へ。
けれど、私の日常に
「世界に対する驚き」が
なくなったわけではないのです。
先日は、空を見上げれば
部分日食が起きていました。
たまたま通りかかった駅の花壇には、
私の大好きな桔梗の花が咲いていました。
ちゃんと豊かな世界はそこにあって、
毎日の中にも、
私が知らなかったものや初めて出会うもの、
小さな驚きや不思議がある。

日本と同じ桔梗が咲いているのは嬉しいです。
ご近所の方のお庭からいただきました。
見ていないわけではない。
気づいていないわけでもない。
「あ、日食だ」
「あ、桔梗が咲いている」
でも、
やることリストでびっしり埋まった生活の中では、
気づいたその次の瞬間には、
もう次のことへと意識が向かっています。
次へ、また次へ、と。
「これは何だろう」と、
そこからもう一歩、
目の前にあるものへ向かっていく前に、
意識は次へ移ってしまう。
もしかすると、
カミーノと日常の違いは、
単に「ゆっくりした時間」
があるかどうかではなく、
「これは何だろう」と、
目の前にあるものに関心を向け、
自分を開いて関わっていたかどうか
だったのかもしれません。
だからといって、
日常をカミーノのような生活に
することはできません。
家のこともある。
仕事もある。
子どもたちのこともある。
朝になれば、
やるべきことはやってきます。
日々の忙しさそのものは、
すぐには変えられないかもしれません。
でも、同じ日常の中でも、
世界との関わり方は変えられるかもしれない。
巡礼での深い体験から帰ってきた今、
どうしたら、
あのときのような
「世界へ向ける眼差し」を、
日常の中でも失わずにいられるのだろう。
私はそんなことを考えています。
そして最近、
そのための一つの入り口が、
「感覚」
なのではないかと思っています。
