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映画「美式天然」ができるまで #2▶️25年ぶりのお客さん(1996年後半)

■老紳士の正体

ミゾレまじりの寒風の中、劇場前で準備している僕らの前にハイヤーで乗りつけた老紳士。
しばらく劇場を見上げたまま泣いておられたが、やがて涙を拭って僕らのもとへやって来た。

「まだ営業しているんですか?」
と老紳士。

「いえ、映画撮影のために開けてもらったんです」
と僕たち。

「じゃあ、営業はしてないんですね」
老紳士は、少し寂しそうな表情をしながら続ける。
「何十年も前の話しですが、私は水原弘のバックバンドをやってたんです」

水原弘といえば往年の名歌手だ。1958年に名曲「黒い花びら」でデビュー。作詞/永六輔、作曲/中村八大という「上を向いて歩こう」コンビによるこの歌が爆発的に大ヒット。デビュー曲でいきなり第一回レコード大賞を受賞した伝説の歌手。1960〜70年代にかけて、甘い低音の美声で一世を風靡し、歌のみならず主演映画も作られるほどの人気を博した。
だが、酒とギャンブルに溺れ、再起不能説が流れるほどの荒れた生活を送り、一時期は芸能界から姿を消す。1967年に再起をかけた歌「君こそわが命」が大ヒットして復活。"奇跡のカムバック"と言われた。
しかし、その後も荒んだ生活と縁が切れず、悪い筋からの借金も億単位に膨れあがり、病身をおして全国のクラブやキャバレーの営業回りを続けざるえなくなる。
1978年に巡業先の北九州で倒れ、肝硬変による静脈瘤破裂のため42歳の若さで死去。その破天荒な生涯は、作家の村松友視氏によって『黒い花びら』(河出書房新社、2005年)という本にもまとめられた。

往年の名歌手 水原弘(1935〜1978)


聞くと老紳士は、某楽団の元バンドマスター。かつて水原弘と一緒に巡業した街を訪ね歩いてきたが、演奏した思い出の場所はひとつも残っていなかった。
帰りの新千歳空港へ向かう前に、諦めかけながら最後に立ち寄った長萬部劇場だけが、当時の姿で残っていたと。
そっちの方が映画のようなお話しだ。
僕らは作業の手を止めて劇場内へご案内した。
この撮影をしていなかったら館内には入れなかった筈だから、まるで水原弘さんに導かれてきたようなタイミングだ。
舞台裏に当時のチラシが貼りっぱなしになっていないか探したけど、1960年代の"仲宗根美樹"リサイタルやマジックショーのチラシは見つけたが、水原弘さんのものは見当たらなかった。

老紳士は、名残惜しそうにもう一度劇場を見上げてから、満足そうな笑顔を残してハイヤーで去っていった。
どんな場所にでも、誰かの思い出が宿っている。道端の電柱にも、何気ない空き地にも、朽ちかけた看板にも。
この長萬部劇場の窓や椅子、壁の染みにだって誰かの思い出が残っているかもしれない。
解体されて消え行くそれらの一端を、少しでもフィルムに残せたらと、あらためて気を引き締めた。

底冷えの映画館内。撮影は続く。
"転がった望遠鏡が蓄音機にあたるカット"に悩む夜


◽️深夜のヴァイオリン

元バンマス老紳士を見送った後、ヴァイオリン弾き役の片岡さんが、蓄音機から流れる「天然の美」と合奏するシーンの撮影をした。
祖母の家で見つけた"音飛びするSPレコード"によって生まれたシーンだ。
一曲分を丸ごと長回しで撮ることにした。
フィルムは残り僅かだが、やるしかない。
しかも親方役の内田さんが"演奏を聴きながら広い館内を見下ろしている"カットも必要だった。
少ない照明機材をやりくりしながら、カメラマン板垣氏が試行錯誤しながらアチコチ走り回っている。
シンシンと底冷えのする中、暖房は火鉢のみ。全員で白い息を吐きながらの撮影。
撮影を終えたら、時計は深夜2時をまわっていた。

※動画リンクを貼ってみます
 画質がかなり悪いのはご容赦ください。
 なにせ、メイキングは"HI-8"という家庭用ビデオ 
 で30年前に撮られたものなんです。
 今や再生するのも一苦労な代物。

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映画を撮り始めて30年。 2026年までに発表した5本の長編映画 『美式天然』(2005年) 『アリ…

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