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カール大帝は「欧州の父」?ゲームと史実で追う巨大帝国

第6回で追った、カール・マルテル。

732年のトゥール・ポワティエの戦いで有名になり、

王ではないのにフランク王国の実権を握った人物です。

その息子ピピン3世は、ついにメロヴィング朝の王を退け、

自らフランク王になりました。

そして、そのピピンの息子が今回の主人公です。

カール大帝。

英語ではCharlemagne。

フランス語ではシャルルマーニュ。

名前そのものが、

「偉大なるカール」

という意味で知られる人物です。

フランク王。

ランゴバルド王。

そして西暦800年には、ローマ教皇から皇帝の冠を授けられました。

現在でも、

「ヨーロッパの父」

と呼ばれることがあります。

しかし、ここでいつもの疑問です。

本当に彼は、

現代ヨーロッパの原型を作った理想的な皇帝だったのでしょうか?

史実を追っていくと、

学校を作る。

学者を集める。

古典文化を復興する。

行政制度を整える。

そんな「知的な皇帝」の顔が見えてきます。

一方で、

30年以上続く戦争。

強制的なキリスト教化。

大量処刑。

住民の移住。

という、かなり苛烈な支配も行っています。

今回は「ゲームで見た歴史人物を史実から見直す」シリーズ第7回。

カール大帝です。

この記事でわかること

  • カール大帝はどうやって西ヨーロッパ最大級の帝国を作ったのか

  • なぜ西暦800年に「皇帝」となったのか

  • 「ヨーロッパの父」という評価はどこまで妥当なのか

今回も、

英雄か悪人か、

という二択では見ません。

巨大な帝国を作った人物は、何を残し、そのために何をしたのか。

そこを追ってみます。


「カール大帝」は最初から皇帝ではない

カール大帝は、742年ごろに生まれたとされています。

父は、

ピピン3世――小ピピン。

そして祖父が、前回登場したカール・マルテルです。

つまりカール大帝は、

いきなり歴史に現れた天才ではありません。

祖父カール・マルテルが、

フランク王国の実権を握る。

父ピピンが、

その権力を正式な王位へ変える。

そしてカールが、

その王国を巨大帝国へ拡大する。

3世代かけて作られた権力

の最終走者だったのです。

768年。

父ピピンが死去すると、

王国はカールと弟カールマンに分けられました。

つまり最初から、

カール一人がフランク王国全部を支配したわけではありません。

兄弟による共同支配から始まります。

ところが771年。

弟カールマンが急死。

その結果、

カールはフランク王国唯一の王となりました。

ここから本格的な拡大が始まります。


最初の大仕事は「イタリア征服」

カール大帝と聞くと、

ドイツやフランス方面のイメージが強いかもしれません。

しかし初期の重要な戦争の一つは、

イタリア

でした。

当時、北イタリアを支配していたのが、

ランゴバルド王国。

ローマ教皇とランゴバルド王国は対立していました。

そして教皇側は、

以前からフランク王国に支援を求めていました。

カールの父ピピンも、

イタリアへ軍事介入しています。

カールもこの関係を引き継ぎました。

773年。

カールはアルプスを越えてイタリアへ侵攻。

翌774年には、

ランゴバルド王国の首都パヴィアを攻略します。

そしてカールは、

「ランゴバルド王」

の称号まで手に入れました。

単に敵国を倒しただけではありません。

自分自身が、

その国の王になったのです。

この時点で彼は、

フランク人の王だけではなくなりました。


しかし最大の戦争は「ザクセン」だった

カール大帝の人生で最も長く続いた戦争。

それが、

ザクセン戦争

です。

772年から804年まで。

30年以上にわたって断続的に続きました。

相手は、

フランク王国の北東に住んでいたザクセン人。

彼らは当時、キリスト教化されておらず、

伝統的な信仰を持っていました。

さらに一人の王がすべてを支配していたわけでもありません。

複数の集団が存在し、

地域ごとに強い自立性を持っています。

これはカールにとって非常に厄介でした。

一度軍隊を破って終わり、

とはならないからです。

ある地域が服従する。

カールが別の戦場へ向かう。

すると再び反乱する。

また遠征する。

その繰り返し。

『Age of Empires』で言えば、

敵のTCを落としても何度も再建される

ような戦争です。


カールはなぜザクセンをそこまで攻めたのか

理由は一つではありません。

フランク王国の安全保障。

領土拡大。

政治的支配。

そして、

キリスト教化。

カールの支配とキリスト教は、

非常に強く結びついていました。

ザクセン人を服従させるだけではなく、

キリスト教へ改宗させ、

フランク王国の政治・宗教秩序へ組み込もうとしたのです。

ここで、

「キリスト教を広めた皇帝」

と聞くと、

宣教師を送って平和的に布教したように感じるかもしれません。

もちろん宣教活動もありました。

しかしカールの場合、

軍事力と改宗がかなり直接的に結びついています。


782年、「ヴェルデンの虐殺」

カール大帝を語るうえで、

避けられない事件があります。

782年。

ヴェルデン。

フランク側の記録では、

カールの命令によって、

約4500人のザクセン人が処刑されたとされています。

いわゆる、

「ヴェルデンの虐殺」

です。

背景にはザクセン側の反乱がありました。

指導者として有名なのが、

ヴィドゥキント。

ザクセン側はフランク軍に抵抗し、

教会なども攻撃しました。

カールはその反乱に対して、

非常に厳しい報復を行います。

さらにザクセン地域では、

異教の儀礼などを厳しく禁じ、

違反に死刑を科す規定も設けられました。

ここまで来ると、

「キリスト教ヨーロッパを作った偉大な皇帝」

という言葉の印象が変わってきます。


「改宗しろ。さもなくば死刑」

現代の感覚では、

宗教は個人が選ぶものと考えます。

しかしカールの時代、

政治と宗教は簡単に分けられません。

王に服従する。

キリスト教を受け入れる。

フランク側の秩序に入る。

この三つは強く結びついていました。

だからザクセン征服は、

領土を取る戦争

であると同時に、

社会そのものを作り替える戦争

でもありました。

しかも強制改宗については、

カールの側近だった学者アルクインでさえ批判的だったとされています。

信仰は強制されるものではない。

本人の自由意思によるべきだ。

そうした考えを示しました。

つまり、

当時の人間が全員、

「改宗しないなら処刑して当然」

と考えていたわけでもありません。


それでもザクセン戦争は終わらない

782年に大量処刑をした。

なら抵抗は終わったのか。

終わりません。

ヴィドゥキントはその後も抵抗を続けます。

785年ごろにはカールへ服従し、

キリスト教の洗礼を受けたとされています。

しかし、

それでザクセン全体が完全に平定されたわけではありません。

反乱はその後も起きます。

最終的に804年、

カールは多数のザクセン人を別地域へ移住させ、

代わりにフランク系住民を配置するなどして、

長い戦争を終わらせました。

30年以上です。

彼の治世の大部分が、

この戦争と重なっています。


カール大帝は「戦争ばかりの王」だった

ザクセンだけではありません。

カールは各地で戦っています。

ランゴバルド。

バイエルン。

アヴァール。

スラヴ系諸勢力。

イベリア半島方面。

そしてザクセン。

現在の地図で見ると、

カールの支配は、

フランス。

ベルギー。

オランダ。

ドイツ西部。

スイス。

オーストリア。

北イタリア。

その周辺地域へ広がっていきました。

メトロポリタン美術館の歴史年表でも、カールは772年以降の軍事遠征によって、現在のフランス・ドイツ・オーストリア・スイス・イタリアの一部に及ぶ広大な地域を支配したと整理されています。

これだけを見ると、

「ヨーロッパをまとめた皇帝」

というより、

「西ヨーロッパをほぼ毎年のように戦って拡大した征服王」

という姿が見えてきます。


スペイン遠征で生まれた有名な伝説

カール大帝の戦争には、

後世の文学へ大きな影響を与えたものもあります。

778年。

カールはイベリア半島方面へ遠征しました。

しかし遠征は期待どおりには進みません。

撤退中、

ピレネー山脈のロンセスバリェスで、

カール軍の後衛部隊が襲撃されました。

その中で死亡した人物の一人が、

ローラン。

後世のフランス文学、

『ローランの歌』

の主人公となる人物です。

物語では、

ローランはイスラム勢力との壮絶な戦いの末に死ぬキリスト教騎士として描かれます。

しかし史実では、

襲撃した側はバスク人だったと考えられています。

ここでも、

史実の出来事が、後世に宗教戦争の英雄物語へ変化する

という現象が起きています。

第4回のエル・シッドにも似ています。

歴史上の人物と、

文学の英雄は、

同じではありません。


アヴァールとの戦争では巨大な財宝を手に入れた

カールが戦った相手には、

アヴァール人

もいました。

中央ヨーロッパ方面に勢力を持っていた集団です。

790年代。

フランク軍はアヴァール勢力へ攻撃を続けます。

その過程で、

「リング」と呼ばれるアヴァール側の中心地から、

大量の財宝が奪われたと伝えられています。

この勝利は、

カールの威信と財政をさらに強くしました。

そして征服地には、

フランクの政治秩序とキリスト教が広がっていきます。

カールの帝国拡大は、

剣・政治・宗教

の三つがセットになっていました。


そして800年、ローマへ

カール大帝の人生で、

最も有名な場面がやってきます。

西暦800年12月25日。

クリスマス。

場所はローマ。

サン・ピエトロ大聖堂。

カールが礼拝していると、

教皇レオ3世が彼の頭に冠を載せます。

そしてカールは、

「ローマ人の皇帝」

として扱われることになりました。

西ヨーロッパで、

「皇帝」という称号が大きな意味を持って復活した瞬間です。

メトロポリタン美術館も、800年のローマで教皇レオ3世がカールを皇帝として戴冠し、キリスト教帝国の統治者としての権威を与えた出来事として整理しています。


でも「ローマ帝国」はまだ存在していた

ここで少しややこしい問題があります。

「西ローマ帝国は476年に滅亡した」

というのは有名です。

では800年、

カールが皇帝になったことで、

ローマ帝国が復活したのでしょうか。

西ヨーロッパ側から見ると、

そのような意味を持ちます。

しかし、

東にはローマ帝国がまだ存在しています。

現在「ビザンツ帝国」と呼ばれる国家です。

でも当時の人々は、

自分たちを普通にローマ人だと考えていました。

つまりコンスタンティノープルには、

すでにローマ皇帝がいる。

そこへ西側で、

もう一人の「ローマ皇帝」

が登場したのです。

当然、

政治的には非常に微妙です。

カールの戴冠は、

ただの華やかなイベントではありません。

「ローマ帝国の正統性を誰が持つのか」

という巨大な政治問題でもありました。


教皇はなぜカールに冠を与えたのか

教皇レオ3世にも事情がありました。

ローマ内部で政敵との対立があり、

教皇自身が襲撃される事件まで起きています。

そこでレオ3世が頼った有力者が、

カールでした。

カールはローマへ入り、

教皇の立場を支えます。

そして800年の戴冠へつながっていく。

つまり、

教皇が一方的に偉大な王を祝福した、

だけではありません。

教皇にはカールの軍事力が必要だった。

カール側にも、

教皇の宗教的権威は価値がある。

双方に利益があります。

政治と宗教の、

かなり高度な取引でもあったのです。


カール本人は「皇帝になると知らなかった」のか

これも有名な話があります。

カールの伝記を書いたアインハルトによれば、

カールは、

もし教皇が皇帝の冠をかぶせると知っていたなら、

その日は教会へ行かなかっただろう、

という趣旨の発言をしたとされています。

つまり、

「突然、勝手に皇帝にされてしまった」

という話です。

非常にドラマチックです。

しかし、

これをそのまま信じてよいかは議論があります。

巨大な政治イベントが、

完全なサプライズだったのか。

カールが戴冠そのものを嫌ったのか。

それとも、

教皇が皇帝を作れるという構図を嫌ったのか。

さまざまな解釈があります。

ここでも大切なのは、

有名な逸話と、確実に確認できる事実を分けること

です。

確実なのは、

800年12月25日に、

カールがローマで皇帝として戴冠されたこと。

それによって彼の政治的立場がさらに大きく変化したことです。


戦争だけではない。「学校を作った皇帝」

ここまで読んで、

「ひたすら戦争している」

という印象になったかもしれません。

しかしカール大帝が後世に高く評価された理由は、

軍事だけではありません。

彼の宮廷には、

ヨーロッパ各地から学者が集められました。

その代表が、

ヨークのアルクイン。

イングランド出身の学者です。

カールは、

教育。

聖書や古典文献の写本。

ラテン語。

聖職者の教育。

学校。

などを重視しました。

現在、

「カロリング・ルネサンス」

と呼ばれる文化振興です。

メトロポリタン美術館も、アーヘンを中心にカールが学校を設け、アルクインらの学者を宮廷へ招き、古代ギリシャ・ローマ文化を意識した写本制作や芸術を奨励したと説明しています。


なぜ征服王が「教育」に力を入れたのか

純粋に勉強が好きだった。

それだけではありません。

もちろんカール自身が知識や宗教に強い関心を持っていたことは知られています。

しかし、

巨大な帝国を統治するには、

文字を扱える人間が必要です。

命令を書く。

記録を残す。

宗教儀礼を統一する。

法律を伝える。

地方の統治者へ指示を出す。

聖職者を教育する。

巨大化した国家には、

知識を共有する仕組みが必要になります。

だから教育改革は、

文化事業であると同時に、

帝国を動かすためのインフラ

でもありました。


私たちが読める古典にも影響している

カロリング・ルネサンスの重要な成果の一つが、

写本の大量制作

です。

印刷機はまだありません。

本を増やすには、

人間が一文字ずつ書き写します。

カールの時代、

修道院や宮廷の写字室で多くの文献が複製されました。

宗教文書だけではありません。

古代ローマなどの作品も写されます。

その結果、

古典作品の中には、

この時代に作られた写本によって後世まで伝わったものがあります。

さらに、

読みやすい書体として知られる、

カロリング小文字体

も広まりました。

「文化を守った皇帝」

という評価には、

こうした背景があります。


アーヘン――帝国の中心

カールは広大な帝国を移動しながら統治しました。

現代国家のように、

首都の官邸からすべてを指示するわけではありません。

王は各地を移動します。

その中でも特に重要になった場所が、

アーヘン。

現在のドイツ西部です。

カールはここに大規模な宮殿を整備。

宮廷礼拝堂も建設しました。

メトロポリタン美術館は、792年ごろからアーヘン宮殿礼拝堂の建設が進められ、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂などローマ帝国の建築伝統を意識した設計だったとしています。

つまり建築でも、

「自分はローマ皇帝の後継者である」

という世界観が表現されていました。


『Age of Empires II』ではどう描かれている?

ここでゲームへ戻りましょう。

カール大帝は現在、

『Age of Empires II: Definitive Edition』のDLC、

『Victors and Vanquished』

に専用シナリオを持っています。

2024年に登場したこのDLCには19のシナリオが収録され、

ラグナル・ロズブローク、

織田信長、

ティムール以前のテムジンなどと並んで、

Charlemagne

がプレイ可能な歴史人物として登場します。

公式のアップデート情報を見ると、

カール大帝シナリオでは、

敵を倒すだけでなく、

学者を見つける

Wonderを建設する

副目標を達成する

といった行動によって「Imperial Score」を獲得する仕組みがあります。

これはかなり面白い表現です。

なぜなら史実のカール大帝も、

ただ征服したから「皇帝」になったわけではありません。

軍事。

宗教。

学問。

建築。

教皇との関係。

これらを組み合わせて、

帝国というものを作っていった人物

だからです。


【ゲーム vs 史実】「帝国を作る」とは何だったのか

ゲームでは分かりやすい。

敵を倒す。

領土を取る。

資源を集める。

時代進化する。

Wonderを建てる。

帝国が完成する。

史実のカール大帝も、

意外なほど似ています。

軍事力で領土を増やす。

地方の有力者を服従させる。

教会を利用する。

学者を集める。

行政制度を整える。

宮殿を建てる。

そして最後に、

皇帝という称号を獲得する。

ただし決定的に違うのは、

ゲームでは領地の住民が、

一つの色に塗り替えられることです。

史実ではそうはいきません。

ザクセン人。

ランゴバルド人。

バイエルン人。

フランク人。

その他さまざまな集団。

言語も文化も習慣も異なります。

そんな人々を、

一つの王の支配下へ入れなければならない。

だからカールは、

キリスト教という共通の枠組み

を強く利用しました。

そして時には、

それを武力で押しつけました。


カール大帝は本当に「ヨーロッパの父」なのか

ここでタイトルの問いに戻ります。

カール大帝は、

しばしば

「Father of Europe」

と呼ばれます。

確かに、

彼の支配領域を見ると、

現在の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパのかなり広い部分が含まれています。

フランス。

ドイツ。

イタリア。

ベネルクス。

オーストリア周辺。

スイス。

現代のヨーロッパ統合を連想したくなる地図です。

しかし、

カール本人が「ヨーロッパ統合」を目指していたわけではありません。

EUのような国家連合を作ろうとしていたわけでもありません。

彼が作ろうとしていたのは、

キリスト教を中心に、

自分と一族が支配する帝国です。

現代の「ヨーロッパ」という価値観を、

そのまま1200年前の人物へ当てはめるのは危険です。


しかも「ヨーロッパの父」は一人ではない

ヨーロッパ史は、

カール大帝一人が作ったものではありません。

ローマ帝国。

キリスト教。

ゲルマン系諸王国。

ビザンツ帝国。

イスラム世界との交流。

修道院文化。

交易。

各地の言語や社会。

何百年もの積み重ねがあります。

だから、

「カール大帝がヨーロッパを作った」

と断言するより、

「後世の西ヨーロッパが、自分たちの歴史的な祖先の一人としてカール大帝を位置づけた」

と考えるほうが近いでしょう。

「ヨーロッパの父」という言葉自体が、

彼の死後に作られていった評価なのです。


そして最大の皮肉――帝国はすぐ分かれる

カール大帝は、

巨大な帝国を作りました。

では、

その帝国は何百年も一つの国として続いたのでしょうか。

続きません。

814年。

カール大帝はアーヘンで死去します。

後継者となったのが、

息子ルートヴィヒ1世。

しかしその後、

ルートヴィヒの息子たちの間で争いが起こります。

そして843年。

ヴェルダン条約。

帝国は大きく三つに分割されました。

そこから後世の、

フランス。

ドイツ。

イタリア周辺。

につながる政治圏が形成されていきます。

もちろん、

「843年に現在のフランスとドイツが誕生した」

と単純化することはできません。

でも、

カールが統一した巨大な帝国が、

孫たちの時代には分裂したことは重要です。


「ヨーロッパを統一した男」の帝国が、ヨーロッパ分裂の起点になる

ここが歴史の面白いところです。

カール大帝は、

「ヨーロッパを統一した人物」

として語られます。

しかし彼の帝国が分裂した結果、

後世のフランスとドイツにつながる地域的な違いも強まっていきました。

つまり、

統一したことも重要。

分裂したことも重要。

どちらもヨーロッパ史につながっています。

だから、

「カール大帝が現代ヨーロッパを作った」

というより、

「カール大帝の帝国と、その後の崩壊がヨーロッパの歴史に巨大な影響を与えた」

と考えるほうが自然でしょう。


ではカール大帝は、名君だったのか?

教育を広げた。

学者を保護した。

写本文化を発展させた。

行政制度を整えた。

広大な地域に一定の政治秩序を作った。

これを見ると、

名君

と呼びたくなります。

一方で、

30年以上ザクセンと戦った。

宗教改宗を強制した。

ヴェルデンでは大量処刑を命じたと記録されている。

住民の強制移住も行った。

こちらを見ると、

まったく別の顔になります。

でも、

どちらか一つだけが「本当のカール大帝」なのではありません。

両方です。

文化を保護した皇帝と、

苛烈な征服者。

信仰心の強いキリスト教君主と、

改宗を武力で押しつけた支配者。

学者を集めた知的な王と、

人生の大部分を戦争に費やした軍事指導者。

その矛盾を抱えたまま見るほうが、

歴史上の人物としては面白いのではないでしょうか。


カール大帝の本当の強さとは?

第6回の祖父、

カール・マルテルは、

王ではないのに王以上の権力を持ちました。

父ピピンは、

その実権を正式な王位へ変えました。

そしてカール大帝は、

その王国を帝国へ変えます。

だから彼の最大の強みは、

単なる戦闘能力ではありません。

祖父と父が作ったものを、さらに一段上のシステムへ変えたこと。

軍事力。

宗教。

行政。

教育。

文化。

建築。

外交。

そして皇帝という称号。

それらを一つにまとめ、

自分の支配を正当化しました。

『Age of Empires』風に言えば、

軍隊だけ最大強化したプレイヤーではありません。

軍事・宗教・研究・建築・外交を全部使って勝利条件を達成した人物。

そう考えると、

『Victors and Vanquished』のカール大帝シナリオが、

敵を倒すだけではなく、

学者やWonderまで「Imperial Score」に組み込んでいるのは、

かなり面白い表現に見えてきます。


ゲームから歴史を見ると「偉大」という言葉が怖くなる

ここまで7人を追ってきました。

ジャンヌ・ダルクでは、

「強い英雄とは、自分で敵を倒す人なのか?」

チンギス・ハーンでは、

「最強とは、本人の武勇か。それとも仕組みを作る力か?」

サラディンでは、

「英雄とは、誰から見た英雄なのか?」

エル・シッドでは、

「敵と味方は、本当にきれいに分けられるのか?」

アッティラでは、

「その人物像を書いたのは誰なのか?」

カール・マルテルでは、

「歴史を変えた決戦は、本当にその時から“決戦”だったのか?」

という疑問が残りました。

そしてカール大帝を調べると、

もう一つ問いが増えます。

「“偉大”とは、誰にとって偉大なのか?」

フランク王国から見れば、

巨大帝国を作った王。

教会から見れば、

キリスト教世界を守り広げた皇帝。

学者から見れば、

教育と文化を保護した君主。

しかし、

征服されたザクセン人から見れば、

まったく違う人物だったでしょう。

「大帝」。

「ヨーロッパの父」。

「偉大なるカール」。

そうした名前は、

彼が歴史に与えた影響の大きさを表しています。

でも、

影響が大きいことと、すべての行動が善だったことは同じではありません。

そこを分けて考えると、

歴史上の英雄は一気に人間らしくなります。

次に『Age of Empires II』でカール大帝のシナリオをプレイするとき、

Imperial Scoreが増えていく画面の向こう側を、

少しだけ想像してみてください。

学者を集める皇帝。

教会を建てる皇帝。

ローマで冠を受ける皇帝。

そして同時に、

30年以上ザクセンと戦い続けた征服者。

そのすべてを合わせて、

カール大帝です。

そして次回は、

カール大帝とはまったく違う方法でヨーロッパを震わせた人々へ進みます。

海から突然現れる。

修道院を襲う。

川をさかのぼる。

交易する。

定住する。

そして後世には、

角付き兜をかぶった野蛮な戦士として描かれるようになった人々。

その象徴的な人物、

ラグナル・ロズブローク。

『Age of Empires II: Victors and Vanquished』にも登場する伝説のヴァイキングです。

でも、

そもそもラグナルは、本当に実在したのでしょうか?

第8回は、

「ゲームで操作できる英雄が、実在したかどうかすら分からない」

という、これまでとは少し違う歴史の世界へ入ります。