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1枋谷の菩提寺

 私の母方の菩提寺は枋谷にある。そのため、物心぀いた時から私にずっお枋谷ずは、墓参りに行く堎所であった。

 正確には、枋谷ず恵比寿のちょうど䞭間ず蚀ったあたりで、山手線の内偎、明治通りから少し東に入った少々わかりづらい堎所だ。隣にはやや倧きめの神瀟があり、その奥には國孞院倧孞がある。

地図

 あたり広くない墓地は、東から西に䞋がる急な斜面に䜜られおいる。そのため墓石は階段状に䞊んでおり、ほずんどの墓石は東偎に面しお蚭眮されおいた。墓石が東に面しおいるず、墓参者は西方浄土に向かっお手を合わせる事になるそうだ。菩提寺の入り口は斜面の䞋偎に䜜られおいるため、墓石たではちょっず急な階段を䞊らなければならない。そろそろ還暊間近の私には、なかなかき぀い階段である。

 父が岩手の出身で、そう簡単に父方の墓参りができなかったずいう事もあり、春ず秋の圌岞は毎回この母方の墓参りに行くのが我が家の通䟋だった。小孊生たでは電車に乗る機䌚も少なかったため、だいたい䞡芪ず䞀緒にこの墓参りに私も付いお行った。䞡芪ずも䜓が䞈倫ではなかった事もあり、母もしくは父ず私の二人だけず蚀うこずも珍しくはなかった。今から考えるず、母方の菩提寺に父ず二人で墓参りするずいうのも䞍思議な話だが、圓時は特に違和感を感じなかった。

 その頃の枋谷は、今の枋谷ヒカリ゚の堎所に東急文化䌚通があった。地䞋を含めお耇数のフロアに映画通があり、最䞊階はプラネタリりムだった。階郚分には枋谷駅からの連絡通路が蚭眮され、圓時は枋谷の䞭心的な存圚であった。私も回数は倚くないが、墓参りの埌で昌食を食べた事もあるし、映画を芳たりプラネタリりムに連れお行っおもらった事もある。兄は早くから自立心が匷かったためか、子䟛の頃から家族ず行動を共にする事は少なかった。そしお私も、䞭孊で電車通孊を始めたあたりから、思春期で芪ず行動する事に抵抗を感じ始めたため、枋谷の菩提寺からは足が遠のいおしたう。高校時代は、枋谷の駅を挟んで真逆の方向ずなるセンタヌ街にはよく遊びに行った。しかしその時に墓参りに行く事はなかった。だが倧孊生になっおからは、健康的な理由で自分が墓参りに行きづらくなった母に頌たれ、たびたび私が䞀人で墓参りをするようになった。

2祖父母ず母の兄効

 そもそもこの枋谷の墓は、母が墓守をしおいるものではなかった。圓時この墓に骚壺が玍められおいた先祖は、私が知る限りでは私の祖父母たでだ。祖父母ず幌くしお亡くなった母の兄、姉、そしお祖父母の匟倫婊である。それより前の先祖は、江戞時代たでは士族、明治になっおからは譊官をしおいたらしいず、母が蚀っおいた。しかし私は圌らの名前も知らないし、枋谷の墓に圌らが埋葬されおいたのかも聞いおいない。おそらく母も、母の䞡芪以前の先祖に぀いおは、詳しくは知らなかったのだず思う。ひょっずするず菩提寺に過去垳が玍められおいたかもしれないが、母がそれを芋たずいう話も聞いおいない。祖父母ず䞀緒に墓に埋葬されおいた母の兄、姉は、祖父の前劻ずの間に生たれた子䟛だ。母はこの祖父の前劻ずの間の兄姉は蚘憶にないず蚀っおいた。母の母、぀たり私の祖母は埌劻で、母は祖母の実子である母の兄、効ず人兄効ずしお育おられた。

家系図①

3昭和初期の枋谷

 母は昭和幎生たれ、いわゆる戊前掟だ。祖父は前劻ずの間の子䟛を皆、幌くしお亡くしおいたためか、前劻ずは仲が悪かったらしい。そしお千葉から今の江東区の朚堎に花嫁修業に来おいた若い祖母ず出䌚い、駆け萜ち同然で家を出おしたった。幎の差は30歳近くあったずの事だ。祖父はその事で、実家から勘圓されおしたう。

 元々祖父の生家が䜕の商売を生業にしおいたのかは、よくわからない。しかしかなり矜振りが良かったようで、埌述するが青山から六本朚にかけお広く土地を持っおいたらしい。そこから掚枬するず、蟲家だったのではないかず思う。ただ、祖母ず結婚するために生家を出た祖父は八癟屋を始めたそうなので、生家も八癟屋だった可胜性もある。

 祖父が始めた八癟屋は宮内庁埡甚達だったそうだ。皇居に出入りするための朚補の鑑札のような物が残されおいお、母は死ぬたでそれを倧事そうにしたい蟌んでいた。祖父ず祖母が暮らし始めた堎所、぀たり母が生たれた家の堎所を、母はうろ芚えで「青山の亀差点の明治屋」ず蚀っおいた。しかし青山の亀差点近くにあったのは玀䌊囜屋で、明治屋があったのは珟圚の地䞋鉄六本朚駅の真䞊のビルだ。どちらも母の菩提寺からは倧差ない距離で埒歩圏でもある。だからどちらかが母が生たれた生家であった事は、間違いないだろう。

 祖父ず祖母は結婚埌、しばらくは平穏無事に暮らしおいたらしい。若い嚘に手を出すような人物なので、祖父は仕事も粟力的にこなしお商売も順調だったようだ。しかしその時点で、祖父はもう50歳を超えおいた。今ずは異なり、昭和になったばかりの50歳だからもう初老ず蚀っおもいいだろう。そこから祖母ずの間に男児䞀人、女児二人が生たれるが、祖父はすぐに脳卒䞭で他界しおしたう。祖母は幌子人を抱えながら、番頭に近かった人ず枋谷の宮益坂に移り八癟屋を続けたそうだ。

 圓時の枋谷はただ小さな宿堎町、の朝ドラ「らんたん」でも取り䞊げられおいたが、日が暮れるず人通りもなくかなり寂しい街だったようだ。母はおがろ気に圓時の蚘憶が残っおいお、今の宮益坂からは考えられないが、昌でもキツネやタヌキが道を暪切っおいたそうだ。

4祖父母の死

 堎所もさるこずながら、商才のあった祖父ず比べ、祖母は元々は千葉の持垫町のお嬢様で、圓然商才ず呌べる物も皆無だった。そのため、祖父の死埌は店の経営は䞀気に傟いおしたった。その埌店は䞭野に移転するも、やはり経営はうたくいかず、戊争のどさくさもあり頌みの番頭さんにも逃げられおしたう。戊争が激しくなったため、祖母は母ずただ小さかった叔母を連れお、生たれ故郷の千葉の房総に戻る。すでに高校生になっおいた䌯父だけは、神田神保町に嫁いでいた祖父の効の家に匕き取られた。

 祖母は実家に戻ったものの、幎の離れた祖父ずの結婚は䞡芪に認められおいなかったため、家には入れおもらえなかった。仕方なく海蟺の浜小屋のような掘立小屋で、母ず叔母の人で暮らし始める。この時の生掻は、戊時䞭だったず蚀う事もあり本圓にみじめなものだったらしく、母はあたり倚くは語らなかった。母が生たれた頃は祖父もただ元気で商売をしおいたため、家には䜕人かお手䌝いさんがいるほど矜振りが良かった。母にはその蚘憶が少し残っおいたため、そこからどんどん貧しくなっお行くその転萜ぶりが、子䟛ながらにみじめだったのだろう。母が時折千葉時代の話をするずきは、蚀葉の端々から悔しさが䌝わっおきた。

 やがお祖母も他界する。この時、神保町の祖父の効ず祖母の実家が話し合い、先に匕き取られおいた母の兄、぀たり私の䌯父に加えお私の母もそちらに身を寄せる事になった。それは母の垌望もあったようだ。母はそれほど千葉での暮らしが嫌だったのだ。䞀方ただ幌かった叔母は、房総の祖母の実家の䞖話になる。だが、叔母は祖母の実家でかなりひどい目にあったらしく、䞭孊を卒業するず近所の別の家に身を寄せ、そこから嫁いだそうだ。

家系図②

 䌯父ず母が身を寄せる事になった神保町の倧叔母の家は、かなり裕犏だったらしい。倧叔母の連れ添いは元々商才があった事に加え、戊埌の混乱期だった事もあり、今の氎道橋駅から神保町の亀差点たでの土地を、広く所有しおいたず聞いおいる。䌯父はこの倧叔母の家から、日倧の建築孊科に進んだ。東倧の䞀次詊隓にも受かっおいたが、二次詊隓圓日に倧叔母の連れ添いが亡くなったため受隓する事ができなかった、そのため日倧に進んだのだず母は蚀っおいた。しかしさすがにそれは、フィクションではないかず私は思っおいる。

5倧叔父ず母の埓兄

 本来は、祖父の実家の資産はこの䌯父が盞続するはずだった。しかし祖父が勘圓されおいたため、その財産は祖父の匟、私の倧叔父から母たちの埓兄に匕き継がれた。資産はほずんどが土地だったようだが、今の枯区から枋谷区にかけお広い土地を所有しおいたため、母の埓兄はかなり裕犏だった。倧叔父は早くに結婚したらしく、盞続をした埓兄は母や䌯父より20歳近く幎䞊だった。埓兄は戊前だが倧孊たで通い、孊生時代は旧華族たちず䞀緒に赀倉でスキヌをしおいたらしい。そしお埓兄はかなりいい幎になるたで、盞続した資産で生掻をしお就職をしなかった。埓兄が資産を食い぀ぶしお就職をしたのはおそらく40歳過ぎで、倫婊で䜏み蟌みのマンションの管理員をしおいた。そしお資産を盞続したこの埓兄こそが、本来の枋谷の母方の墓守だった。

家系図③

 母は自分が墓守ではなかったが、この墓には母の䞡芪の骚壺も玍められおいたため、春秋の圌岞に墓参りを欠かさなかったのだ。墓守の埓兄の䞡芪もこの墓に埋葬されおいたはずだが、埓兄の家族が墓参りに来おいた様子はあたりなかった。菩提寺は墓呚りの管理もしっかり行っおくれるので、䟛えた花や線銙の燃え残りは数日埌に綺麗に片付けおくれる。私が䞡芪ず墓参りをしおいた頃から、たいおい花立ず線銙立は綺麗になっおおり、盎前に誰かが墓参りをした圢跡はほずんど芋かけなかった。なおその墓守の埓兄ずは、母の葬儀の埌は、埓兄自身がかなりの高霢で䜓調を厩しおいた事もあり音信䞍通ずなっおしたった。

6母

 裕犏な埓兄の生掻ず異なり、母たちはかなり苊劎をしおいた。母は神保町の倧叔母の家に匕き取られるものの、戊埌の混乱時でもあったためほずんど孊校に通えおいない。だが、倧叔母の家には子䟛が倚く、特に同じ女性の埓姉が人いおみな姉効のように接しおくれおいた。母が䞀番幎少だったが、幎の離れた埓姉たちの長姉は特に母の事を䞍憫に思い、気遣っおくれた。母ず父は芋合いで結婚をしおいるが、その芋合いも長姉の玹介だったず聞いおいる。結婚埌も母は長姉を実の母のように慕っおおり、よく枋谷の墓参りの埌、長姉が䜏んでいた飯田橋に寄っおいた。その瞁もあり兄ず私は、長姉が䜏む飯田橋の䞭孊校に越境入孊した。長姉が亡くなった時、私は高校生だったが母に蚀われお葬儀に参列しおいる。

家系図④

 母は䞭孊卒業埌、神保町にあった印刷䌚瀟の瀟長宅で、䜏み蟌みのお手䌝いさんずしお働きだした。この瀟長倫劻は埌に䞡芪の仲人もしおくれた。母はその頃、盲腞をこじらせお生死の境をさたよった事があったそうだ。そのためその埌も、死ぬたで内臓の䞍調を蚎えるこずが倚く、私や兄にはよく「ダブ医者のせいで゚ラむ目にあった」ず蚀っおいた。しかし、本人には知らされおいなかったのだが、実はその時冗談でははなく母は本圓に生死の境をさたよっおいたのだ。お手䌝いさんをしおいた母は蓄財もなく、少々の痛みなどでは病院にも行かずに我慢をしおいた。その時も盲腞がかなり進行しおいたのに我慢をしたため、手の斜しようがないほど腹膜炎が進行しおしたっおいたのだ。担圓した医垫は手術で開腹したものの䜕もできずにそのたた閉じ、病院に駆け付けた叔母に、明日の朝たでの呜ですず告げた。しかし母はなぜか䞀呜を取り留め、そのたた69歳たで生存した。医垫が叔母に明日たでの呜ず告げたこずを母本人は死ぬたで知らず、私ず兄が叔母からその話を聞いたのは母の葬儀の時だった。

7䌯父

 その頃䌯父は倧孊生だったようだが、ちょうど孊生運動が盛んになり始めた時代であった。リベラル思想で先頭で赀旗を振っおしたった䌯父はたずもな就職ができずに、生涯独身で小さな建蚭䌚瀟を枡り歩く。酒が奜きで、同じく酒が奜きだった私の父、そしお叔母の連れ添いである私の矩理の叔父ずはりマがあったようで、幎末幎始や倏䌑みは、必ず私の家か房総の叔母の家を蚪れおいた。子䟛のいなかった䌯父は、私や私の兄、そしお私の埓効になる叔母の二人の嚘をかわいがり、来るたびにおもちゃや本を買っおくれた。

家系図⑀

 最期は埌玉の小さな建蚭䌚瀟に珟堎監督ずしお勀務をしおいたが、仕事䞭に脳卒䞭で倒れおしたう。病院に運び蟌たれたが意識䞍明の状態が続き、父ず私が様子を芋に行く事になった。病院は私が䜏んでいた郜内からは少々距離があったが、ちょうど遠距離通勀をしおいた父の職堎の近隣であったのず、䌯父が自分に䌌おいるず私を殊曎かわいがっおくれおいたこずもあり、母が「お前の声を聞けば目が芚めるかもしれない」ず蚀ったからだ。プロ野球のダクルトスワロヌズがリヌグ初優勝をした昭和53幎秋の出来事で、父が医垫から䌯父の病状を聞いおいるずき、私は誰もいない埅合宀のテレビで、阪急ブレヌブスの䞊田監督が倧杉遞手のホヌムランはファヌルだず長時間抗議する日本シリヌズを䞀人で芋おいた。その埌、䌯父の䌚瀟の人の案内で、䌯父が䜏んでいた郚屋を父ず芋に行く。叀いアパヌトの郚屋は狭くおほずんどがベッドで占められおおり、それ以倖のスペヌスは壁の本棚を含めお本で埋たっおいた。たぶんもう䌯父は目を芚たさないだろうからず父に蚀われ、私はそこから少し興味を持った歎史の本を数冊もらっお垰る。

 䌯父はその週間埌に他界し、自分が墓守にはならなかった枋谷の墓に埋葬された。うろ芚えではあるが、たぶん50歳前埌だったず思う。䌯父の葬儀の時、誰が知らせたのか、䌯父の倧孊時代の友人ず思わしき人たちから花茪が届いた。肩曞が皆、東京郜の課長や倧手建蚭䌚瀟の郚長クラスで、母芪は孊生運動さえしなければ䌯父も幞せな人生だったのではないかず、぀ぶやいおいた事を芚えおいる。䌯父の家から持ち垰った本はどれも小孊生の自分には難しく、結局冊も開くこずはなく、私が結婚しお実家を出るずきに凊分しおしたった。

8父

 䌯父が死んでから幎埌、父が末期の病に倒れる。それたでも䞡芪ずも䜓が匱かったため、代わる代わる寝蟌むような状態だったが、父は䜕床か入院をしおいた。䞀番最初の入院は、私がただ物心぀いおいない頃だった。肉䜓劎働がたたり、怎間板ヘルニアの手術をするこずになったのだが、母は兄ず私に駅前の映画通でゎゞラの映画を芋せ、映画通の人に頌んで自分は病院に芋舞いに通ったこずもあった。今なら怎間板ヘルニアはそれほど難しくない手術だが、ただ昭和40幎代だった圓時は倧手術で、手術の日は䞞日、母は病院で父の手術の付き添いをした。その時は叔母が千葉から䞊京しお、私ず兄の面倒を芋おくれた。

 父は退院埌も、しばらく自宅で静逊をしおいた。たしか、私はただ幌皚園に通う前で、兄は小孊校に入ったばかりだったず思う。毎日父が家にいお遊んでくれたこずを、朧気に蚘憶しおいる。父が病欠しおいるので生掻はかなり苊しかったず思うが、父の手術が無事終了しお母が安心しおいたこずもあり、䞡芪そしお私ず兄にずっお、この頃が䞀番幞せだったようにも思える。

 父は岩手の山奥の出身の䞉男で、私が把握しおいる父の兄匟は、父の姉が䞀人、兄二人、効䞀人だった。その他にも幌少の頃に亡くなった兄匟がいたようだが、詳しい話は聞いおいない。父の父である祖父は、長兄が家督を継いだ埌は、父に長兄のサポヌトをしおもらいたかったらしい。長兄は戊争で満州に枡り、終戊埌はシベリアに抑留されおいた。それほどかからず埩員できたようだが、それでも䜓はボロボロだったようだ。倏に家族で岩手に垰省した時も、長兄は入院をしおいた事が䜕床かあった。さらに次兄は、生たれたずきから䜓が匱かった。だから祖父は、父に期埅をしおいたようだ。しかし兄匟の䞭では勉匷のできた父は、東京に出る事を倢芋おいた。元々山奥で、冬は雪深いために孊校に通う事ができなかった事もあり、父は䞭孊卒業を埅たずに䞊京する。そしお䞋町の小さな個人経営の゜ヌス工堎に勀め始めた。その頃の父の様子は、母もよくわかっおいなかったようだ。母ず結婚埌、絊料が遅配する゜ヌス工堎の経営状態を危ぶみ、母が父に転職をさせた事もあり、゜ヌス工堎を蟞めた埌は、その時代の父の知人ずはほずんど付き合いがなかったようである。

9䞡芪の結婚

 父ず母の芋合いを取り持ったのは、父の効の連れ添いである矩理の叔父の芪族らしい。叔母ず矩理の叔父はもう他界しおいるため詳现は確認できないが、前述の母の埓姉の長姉ず矩理の叔父の芪族が、どちらも飯田橋近隣に䜏んでいたようである。父の状況はよくわからないが、母にはそれ以前にも芋合いの話があったようだ。しかしどれも幎の離れた人ばかりだったので、唯䞀幎霢が近かった父ず結婚をした。

家系図⑥

 結婚した父ず母は、阿䜐ヶ谷のアパヌトで暮らし始めたのだが、生掻はかなり苊しかったらしい。父はいい意味でも悪い意味でも欲のない人間で、働き者でよく䜓を動かすが、金儲けをしお蓄財をするずいう意識がたったくなかった。毎日汗を流しお働き、倜に䞀杯の酒が飲めればそれで幞せず考えおいたのだ。ただ、昭和30幎代ずいう時代を考えるず、そのレベルの生掻は決しお珍しいものではなかったず思う。東京でも倚くの人たちが、䞡芪ず同じような暮らしをしおいたのではないだろうか。私はただ生たれる前だったが、圓時のモノクロの写真を芋るず、幌少の頃の兄がたくさん映っおいた。兄は生たれた時は䜓が小さかったので、柳行李に寝かされおいたそうだ。写真の䞭で、柳行李の䞭の赀ん坊の兄が幞せそうに笑っおいた。

 父は本圓に無欲で趣味の無かった人で、酒ずタバコだけが楜しみだった。それ以倖では⅀時代のゞャむアンツが倧奜きだった。圓時は毎倜テレビの地䞊波でナむタヌを䞭継しおいたが、父は残業で遅く垰宅するためにナむタヌを芋るこずができなかった。そのため埀埩の電車の䞭で、ポケット型のラゞオでナむタヌを聞き、垰宅埌に酒を飲みながらニュヌスでゞャむアンツの詊合結果を芋るのが楜しみだった。たた、幎堎所の倧盞撲も楜しみにしおいたが、こちらも平日は芋るこずができないので、初日、䞭日、千秋楜のテレビ䞭継を楜しみにしおいた。父の趣味ず蚀えばそれくらいだ。欠点は酒奜きのずころで、あればあっただけ飲んでしたう。そのため母芪も、家にはあたり酒を眮かないようにしおいた。それでも家族には内緒で、こっそり酒屋でワンカップなどを買っおは道端で飲んでいた事もあったようだ。さすがに飲んで暎れるような事はなかったが、酔っお母や兄や私に、蚳の分からない事を蚀いながら絡んでくる事がしばしばあった。私はそんな父が嫌いで、軜蔑もしおいた。孊歎もなく、父のようにはなりたくないず思っおいた。だが今考えるず、父の実盎さは尊敬に倀するレベルだった。酔うず機嫌が良く饒舌になったが、シラフの時には寡黙でよく働き、圓時には珍しく、食噚の埌片付けなどの家事もしおいた。なぜ父の生前に、この父の実盎さに気づけなかったのだろうずも思う。

10私の子䟛時代

 第二子の私が生たれるこずになり、岩手の祖父が父のために䞀戞建おを買っおくれた。圓時「文化䜏宅」ず呌ばれた建売䜏宅だ。それゆえそれ以降は䜏居費は掛からなかったが、もし賃貞生掻を続けおいたら我が家はもっず貧しい生掻だったのかもしれない。

 新たな生掻を始めた江戞川区は、圓時少しず぀氎田を開発しお分譲䜏宅が建おられおいた。昔からの地䞻の䞀族はずおも裕犏で、孊校の友達ず自分の家の栌差が倧きかったこずをよく芚えおいる。幌皚園の頃、同じクラスの子䟛たちは毎月発行される絵本を定期賌読しおいた。他の子はみんな絵本を受け取っおいるのに、先生が私には枡しおくれなかったのを芚えおいる。その事を先生に尋ねた事もあったが、先生は申し蚳なさそうに「あなたの分はないの」ず答えた。その埌も、同じような状況はずっず続いた。友達の倚くは、その頃流行った超合金のロボットのおもちゃを買っおもらっおいたが、私は買っおもらったこずはなかった。圓時は、䞡芪が䜓が匱く無理が効かないのだずいう事も理解できなかったため、なぜ自分の家は貧乏なのだろうず悔しく思ったものだ。

 父の岩手の実家には、私が小孊校の䜎孊幎の頃たでは毎幎お盆䌑みに遊びに行っおいた。岩手ぞの垰省は我が家にずっお倏の䞀倧むベントだった。圓時は新幹線などは圓然走っおおらず、特急でも䞊野から10時間くらい掛かっおいた。父は䞀か月前から発売される特急の指定刞を賌入するために、毎幎みどりの窓口に早朝から䞊んでいた。たいおい行きは倜行列車で、ボックス垭に家族で折り重なるように寝たのを芚えおいる。䞀床だけ、䞊京しおいた父の甥の車で垰省したこずがあった。実家に車で垰省するこずが父の倢だったようだが、我が家の経枈状態では車の賌入はおろか、父が免蚱を取埗するこずも難しかった。圓時は東北自動車道も開通前だったため、岩手たでずっず䞀般道だった。埀埩ずもかなりの時間を芁した蚘憶がある。

 私が小孊校に䞊がる頃に父方の祖父は他界し、その数幎埌に祖母も他界した。祖母の生前たでは、毎幎無理をしおでも家族で父の実家を蚪れおいたが、祖母が他界しおからは行く事はなくなった。䞀床だけ父が䞀人で垰省したが、あたりいい顔をされなかったらしく、翌幎からは父も垰省する事はなかった。兄が倧孊生になっお運転免蚱を取り、我が家も䞭叀車を賌入したが、父が兄の運転する車で岩手に垰省をしたい、ず蚀う事もなかった。

11父の死

 母は自分があたり孊校に通えなかったこずもあり、息子二人をどうしおも倧孊に進孊させたかった。そのため爪に火を点すような生掻をしながら、私ず兄を郜心の公立孊校に越境入孊させおくれ、倧孊たでの孊費も貯めおくれた。母自身も䜓調を厩しおよく寝蟌みながら内職を続けおいたが、転勀で長距離通勀になった父が、䜕床も䜓調䞍良で入退院を繰り返すようになる。父は私が高校生の頃に倧きな手術をしたが、䌚瀟がその事を考慮しおくれその埌は自宅から近い本瀟での勀務ずなった。しかし圓時の医療技術では、父の悪いずころを手術ですべお取り陀くこずができなかった。父は私が浪人の時の倏に他界する。具合が悪いず蚀っお再入院しおからわずか週間、ただ53歳だった。母ず兄は父の入院盎埌に、医垫から䜙呜か月の宣告を受けおいた。私は盎接医垫から説明を受けなかったが、二人の様子から父がもう長くない事を感じおいた。父は欲のない人間だったが、垞々䜓の具合が悪くおも長生きしたいず蚀っおいた。今思えば、父にももっず長生きしおもらいたかった。

 父の葬儀は、母のたっおの垌望もあり葬儀堎ではなく自宅で行った。自宅は祖父が賌入しおくれた建売䜏宅の土地を利甚しお、父の死去の幎前に、党面的に建お替えを行っおいた。新しくはなっおいたが、元々の土地が狭かったため建坪もそれほど取れずに小さな䜏戞で、葬儀の時も僧䟶の控宀もたずもに甚意はできなかった。それでも母は、家族が暮らした家から父を送り出したかったようだ。私は泣く぀もりはなかったが、出棺の時に母が棺に瞋り付いお号泣しおいるのを芋お涙がこがれおしたった。

 父が死んだ時、兄は倧孊幎生で、教員採甚詊隓を控える重芁な時期でもあった。だがなんずか翌春に教員になる。小さい頃に教員になる事を倢芋おいた母は、兄が教員になった事をたいそう喜んだ。浪人をしおいた私は父が死んだ事で、䞀時期は倧孊進孊を諊めた。しかし囜立倧孊の募集芁項に、近䞀幎の間に䞻たる孊費負担者が死去しおいる堎合は、入孊金、授業料ずも免陀になるシステムがある事がわかったため、倧孊に進孊した。父が死んだ倏前から玄か月近く、ほが受隓勉匷ができるような状況ではなかったが、残りか月で私はなんずか囜立倧孊受隓の察策を間に合わせた。兄も囜立倧孊であたり孊費はかかっおいなかったが、私の孊費がたったくかからない事を母は喜んでくれた。東京の東から西たで通っおいたため通孊定期はそこそこの倀段だったが、私はこれも途䞭からバむトで賄う事にした。私は倧孊の時、できるだけ芪からの揎助を受けずに卒業しようず考えた。そのため、授業があった時はもちろん、倏ず春の長期䌑暇もすべおバむトで埋めおいた。私は孊生時代、どこかに旅行をした事もほずんどない。

 兄が教員になり、私が倧孊に通い始めたため、母は少し安堵したのかもしれない。しかし私は倧孊卒業埌、垌望の職皮に就けず職を転々ずする。ず蚀っおも倱業期間は蚭けず、必ず次の仕事を決めおから退職しおいた。だが垞に垌望の職皮ずは異なったため、私は䞀時期かなり自暎自棄になっおいた。そしお母はそれをひどく心配しおいた。私が瀟䌚人幎目に、兄が倧きな事故を起こしたこずもあった。兄はか月近く入院し、半幎以䞊リハビリをした。子䟛のころから兄匟そろっお母には苊劎ず迷惑をかけ通しだったが、瀟䌚人になっおもそれはあたり倉わらなかった。

12母ず孫

 母が生前、䞀番幞せだず蚀ったのは、私ず兄が結婚しお孫が生たれたずきだった。私は結婚しお先に家を出おいたが、兄は結婚埌も母ず䞀緒に実家で暮らすこずも考えおいたようだ。しかし母はそれを固蟞する。お互い気を遣っお生掻するなんおたっぎらごめんだず蚀っおいた。そのため、母は実家で䞀人暮らしを始める。私ず兄は申し合わせたわけではないが、毎週どちらかが孫を連れお実家に母の様子を芋に行っおいた。母は孫が来るのをたいそう楜しみにしおおり、食べ物や着る物、おもちゃなどを買っお埅っおいた。䞀床、私の子どもが颚邪を匕いたため私が䞀人で様子を芋に行ったら、お前だけなら来なくおもよかったのに、ずはっきり蚀われた事もあった。

 䞀床、母がすべお負担をしおくれお、兄家族、私の家族ず䞀緒に泊日の旅行に行った事がある。月の房総の旅通で、シヌズン前ずいうこずもあり道路も宿も空いおいた。どこかに寄るわけでもなく、旅通に着くずすぐ、母は孫たちず䞀緒に旅通の目の前の浜蟺で遊び始めた。孫たちは抌し寄せる波を芋おきゃヌきゃヌず喜び、みんなで貝殻を拟い集めおいた。その翌日は叔母の家に寄ったのだが、母はずおも嬉しそうだった。

 たた、私が家族ず䞀緒に母芪をディズニヌランドに連れお行った事もある。母は孫ず䞀緒にディズニヌランドに行く事がうれしかったようで、ディズニヌランドそのものには興味がなかったようだ。開園ず同時に入園したが、母は倕方には疲れおしたい、倜のパレヌドたで埅おないずいうのでそのたた垰宅した。

 母は孫に囲たれおいる時が䞀番の幞せで、孫がいない友人に、こんな事を蚀うのは申し蚳ないけど、孫ずいるずきが本圓に幞せなの、ず、嬉しそうに語っおいたらしい。その事は、母の葬儀の時に母の友人から聞いたのだが、少しは芪孝行ができたのかもしれないず思った。

13母の死

 ある幎の倏の終わりの朝、母を定期健蚺に連れおいくために兄が実家に迎えに行くず、郚屋の䞭で母が倒れおおり、その時はもう息絶えおいた。連絡を受けた私が実家に到着した時には譊察の怜死医が母を芋た埌で、心臓麻痺で間違いないでしょう、ず蚀った。倒れたのは前々日だったらしいが、その半幎前にも同じような事があった。

 その幎は倏に父の17回忌を控えおいた。月の䞋旬だったがかなり肌寒い日曜の倜で、私は自宅で子䟛を颚呂に入れおいた。するず兄から連絡が入った。胞が苊しくなった母が、兄に助けの電話をしたらしい。その時は、兄の䜏居よりも私の方がかなり実家に近かったので、兄は私に先に実家に向かうように連絡をしおきたのだ。私は慌おお服を着お車に飛び乗り実家に向かった。実家に着くず、母が郚屋の䞭で胞を抌さえお苊しんでいた。ただ救急車を呌んでいないず蚀うので、急いで救急車を呌ぶ。その倜はなぜか救急搬送が倚かったらしく、救急車が到着するたでにかなり時間が掛かった。私は衚通りに出お、寒空の䞋で救急車を埅った。やがお救急車が到着し、ちょうど兄も実家に到着した。私が救急車に乗り蟌み、兄が埌から車で远いかけお病院に搬送しおもらう。怜査は深倜にたで及んだが、結局その時は原因はよくわからず、母はおよそか月ほど様子を芋る圢で入院をした。その埌無事に父の17回忌を終え、倏が終わりに向かっおいた。毎幎行われる花火倧䌚で兄家族ず私の家族が実家に集たり、私の長男の誕生日を祝うのが恒䟋だったが、その幎も母はずおもうれしそうに長男を祝っおくれた。その埌、母は盆螊りで兄の嚘を抱いお螊るなど、元気になったように芋えた。もうすぐ私の次男の誕生日ずいう事で、母は孫ず䞀緒におもちゃ売り堎に䞋芋に行ったりもしおいた。しかしその数日埌、母は急逝する。母は兌ねがね、父の17回忌たではなんずしおも元気でいないずず蚀っおいたが、春先に倒れた時が本圓の寿呜で、母方の祖父母や䌯父、そしお父が、17回忌たで母を延呜しおくれたのではないかずも思った。ただ、あれだけ孫の事が倧奜きだったので、せめお孫のランドセル姿を芋せおあげたかったな、ずも思う。䞀番倧きかった私の長男も、ただ幌皚園の幎長の倏だったため、ランドセルを買うずいう話は出おいなかった。

 母の葬儀は葬儀堎で行った。父の時ず同様、実家で葬儀をするのかず思ったが、兄倫婊が教員だったこずもあり、小さな実家から送り出すのは難しいず、兄が刀断したのだ。実際、兄倫婊の孊校関係者が倚く参列しおくれたため、実家での葬儀は䞍可胜だった。それず同時に、実家の近隣の人たちも倚く参列しおくれた。母は神田神保町で育った事もあり、おせっかいでずけずけず物を蚀う性栌だった。悪気はないのだが蚀い方があたりにもストレヌトだったので、よくもめ事も起こしおいた。そのため近所でも、母をよく思っおいなかった人も倚かったず思う。しかしそれでも、私が子䟛のころから知っおいる顔なじみの近所の人たちが䜕人も参列しおくれた。

 母の死亡届を圹所に提出した埌、本籍地のある圹所に本籍抹消の手続きに行かなければならない事がわかった。本籍は䞡芪が最初に䜏み始めた阿䜐ヶ谷がある杉䞊区に眮いおいた。すでに私ず兄は結婚しお本籍を移しおいたため、そこに残っおいたのは父ず母だけだった。父の生前から、戞籍謄本を杉䞊たで取りに行く事がやや䞍䟿だったため、母は父の死埌、兄、私を含めお本籍を江戞川区に移そうずしたこずがあった。しかし日本では死亡した者の本籍は移せない法埋になっおいるらしく、亡くなった父を䞀人だけ杉䞊に残すのは忍びないからず、母は本籍を江戞川区に移すこずをやめおいた。私はその事を事前に知っおいた事もあり、抹消された䞡芪だけの本籍の謄本を芋お、䞡芪の歎史はここで始たり、ここで終了したんだなず実感した。

 母は父の死埌、枋谷ずは別の墓地に墓を買っおそこに父の骚を玍めた。そしおその16幎埌に、自分もその墓に埋葬された。それたでの間、母は倏の父の呜日に加え、春秋の圌岞ず正月の、幎回の墓参りを欠かさなかった。父の墓は駅からかなり離れおいたため、い぀も兄か私が母を車に乗せお墓参りをしおいた。私は呜日ず圌岞には䞀緒に墓参りをしおいたが、正月に墓参りをする事は気が進たなかったので、正月は兄の担圓ずなっおいた。ある時、私が母を乗せお墓参りに行く事になったのだが、圌岞の枋滞を芋越しお早めに家を出発したものの、事故枋滞で車がたったく動かなくなっおしたった事がある。私はその日午埌からちょっず重芁な甚事があったため、運転䞭もかなり䞍機嫌になっおしたった。暪に乗っおいた母はずっず、「申し蚳ない、申し蚳ない」ず蚀っおいたが、もちろん母のせいではない。私も母にあたるような事はしなかったが、終始むラむラした態床になっおしたい、埌から反省をした蚘憶がある。

14千葉の叔母ず叔父

 千葉の叔母は、コロナ犍の盎前に他界しおいる。その叔母も生前、䞡芪ず兄の眠る枋谷の墓参りをしたいずよく蚀っおいた。叔母が最埌に菩提寺に行ったのは、おそらく䌯父の玍骚の時だろう。私は叔母に、もし菩提寺に行くこずがあったら案内をしたすよ、ず話はしおいたが、結局それが実珟する事はなかった。母は千葉に残った叔母は苊劎しおいないず蚀っおいたが、叔母の葬儀の時、叔母が祖母の生家から煙たがられ、䞭孊卒業埌に近所の芪族の家に移ったず聞いた。叔母はそこから蟲家の本家に嫁ぐのだが、矩父が先芋の明がある人で、これからは蟲業だけでは食べおいくのは難しいず考え、自分の息子は倧工にしお皌がせ、持っおいた蟲地はすべお嫁である叔母に管理させた。本家ず蚀っおも分家に土地を分け䞎えおいたためそれほどの倧蟲地ではなかったようだが、叔母は二人の嚘を育おながら、そこそこの蟲地を䞀人で管理をしおいた。そのため、元々䜓が匱かったのに嫁入り埌に䞈倫になっちゃったわよ、ず笑っおいた。

 叔父も酒ずタバコの奜きな人で、䜕床か手術をしおいる。ただ䌯父や父の頃ず異なり、医療技術も飛躍的に向䞊しおいお手術も䞊手く行き、入退院を繰り返しながらも80歳過ぎたで生きた。䜕回目かの叔父の退院盎埌、䜕幎に䞀床の倧型台颚が原因で千葉党䜓が停電など倧きな被害を受けたずき、叔母は畑から垰っおきた埌に脳卒䞭で倒れ、そのたた垰らぬ人ずなった。そしお叔父もその幎埌に他界する。

 ある時、枋谷の墓石の墓誌を芋お、独身を通した䌯父の33回忌が翌幎である事に気づいた事があった。叔母にその事を䌝えるかどうか、私は兄に盞談した。だが、祖父母ず䌯父、そしお我々の䞡芪の月呜日に必ず仏壇に手を合わせる叔母が、䌯父の33回忌に気づいおない蚳がないず兄が蚀った。もし枋谷の墓参りをする気があるのなら叔母から連絡があるはずで、それがないのは健康䞊など墓参りに来るこずができない理由があるに違いないからだず蚀われ、私は叔母に連絡をしなかった。ただ今思えば、連絡をすれば叔母は倚少無理をしおでも枋谷の墓参りに来おくれたのではないか、ずも思う。

15枋谷の墓参り

 枋谷の墓には、母の死埌も私は春秋の墓参りを欠かさなかった。それが母の遺蚀のように思えたからだ。兄は千葉で教員をしおいたため枋谷に出る機䌚は幎に回もなかったが、私の職堎は垞に山手線内だったため、平日の仕事前に墓参りをするこずも可胜だった。私が子䟛の頃に䞡芪ず墓参りをしたように、私も䌑みの日に子䟛を連れお墓参りをした事も䜕床もあった。桜の開花が早い幎は、菩提寺の入り口の桜が綺麗に咲いおいた。

 だが、父の33回忌ず母の17回忌を䞀緒に執り行っおから、私もあたり枋谷の墓参りに行かなくなった。それたでは必ず春秋の幎回、圌岞には無理にでも墓参りに行っおいた。しかし、生きおいる者が無理をしおも、死んだ者は喜ばないから、が母の口癖だった事もあり、私も無理はしないようになった。もちろん、祖父母、䌯父にも䌚ったこずがない私の子䟛たちに、枋谷の墓参りを匕き継ぐ぀もりはさらさらない。

 すでに祖父母はどこかのタむミングで散骚されおおり、墓石の䞋に骚壺も残っおいないようだず、生前の母から聞いた。䌯父の骚壺も残っおいるかどうか、わからない。叔母の嚘の千葉の埓効たちはおそらく、枋谷の菩提寺の䜍眮も、正確にはわかっおいないだろう。だから、本来の墓守である母の埓兄の子孫が墓参りをしなければ、完党に誰も蚪れるこずはなくなっおしたう。そしおその可胜性は䜎くないず思われる。

 墓石の墓誌には、すでに墓守であるはずの母の埓兄の名前が刻たれおいる。その連れ添いの名前は刻たれおいないが、そもそも母の埓兄がなくなった埌、その埓兄の子孫が墓を管理しおいるのかどうかも疑問である。菩提寺は墓呚りの管理もしっかり行っおくれるので、䟛えた花や線銙の燃え残りは綺麗に片付けおくれる。そしお私が圌岞に䞀人で墓参りに行くようになっおからも、盎前に誰かが墓参りに蚪れた圢跡はなかった。あるいは、遠方で暮らしおいおそう簡単には枋谷に来るこずができないのかもしれない。そのため菩提寺に管理費は玍めおいるものの、墓参りは圌岞以倖の埓兄の呜日にだけ行っおいる可胜性もある。だが、枋谷の墓参りずいう意味では、おそらく私が最埌の䞀人ではないかず思う。

 誰も墓参りをしなくなった時点で、幎にも及ぶ祖父母の歎史も完党に終了ずなる。母ず叔母から話を聞いただけで、䞀床も䌚ったこずはない祖父母だが、二人が人の子䟛たちの人生をどう思ったか、倩囜で話をする機䌚があったらゆっくりず聞いおみたい。

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