堀越勉『荒廃した学校を立て直す』を読んでみた その1
はじめに 読み応えすさまじく
今話題の本を一言一句漏らさず読んでみた。本稿はそのことを受けてのコメントである。その本とは、堀越勉『荒廃した学校を立て直す 再建を託された校長の2年半の記録』(育鵬社、2026)の電子書籍(Kindle)版である。先に言っておくと、Kindle版においては、引用機能に付属する書誌情報は「扶桑社BOOKS」となっているので、各引用時には、Kindle版の吐き出す書誌情報に従うものとする。
Kindleにはハイライトとメモ機能がついており、そのカウントを見ると、
ハイライト206ヵ所
メモ 196ヵ所
であった。急いで読み終えたかったので、これでも言及を抑えたのであるが、それでもなおこの量になってしまった。ある意味大変読み応えのある本であることは間違いない。
「その1」としての本稿では、個々のポイントではなく、全体を読んだ上で言及すべき大枠についての話を中心に行い、続く「その2」以降で、具体的な指摘を全て掲載しようと考えている(実現するかは未定)。
※Kindle版の引用機能に付随している書誌情報の頁数は、紙媒体とは異なる。また、文字表記の設定によっても頁数は異なる(=ズレる)ので、頁数については参考程度であると理解されたい。
1. 本稿の立場
本題に入っていく前に、まず、著者の堀越氏にミサイル(彼は自分の麴町中校長時代に対する応援以外の批判的な反応や妨害を「ミサイル」(p.141)と形容している)だなんだと言われないよう(別に言われても構わないのだが)、公平を期して先に本稿のコメントに際する私自身の立場を表明しておこう。
第一に、本稿の言及対象は基本的に当該書及びその記述へのものである。すなわち著者である堀越氏の発信が直接の言及対象であって、実際の麴町中の様子や実態については一切断定する立場にない。したがって、堀越氏の改革が実態としてどうなのかという点を(予想はするが)判断しないし、すべきとすら思っていない。SNS上では、堀越氏が着任した当時の状況が実際にはどうであったのかとか、荒廃していると言えるか言えないかとか、そんなようなことばかりが争点となっている様子が目に入るが、そんなことは外野の人間が判断できることではないし、すべきでもないだろう。工藤氏時代の麴町中が工藤氏本人がいうような学校であったのかとか素晴らしかったのかという点に疑問符がつくことを受け入れるのであれば、この堀越本の語る学校の実態にも当然ながら疑問符がつくことを受け入れるべきである。これは懐疑論だとか陰謀論的態度だとかとは全く異なるリテラシーと倫理の問題であり、判断不可能なことを判断可能かのように振る舞うべきではない、ということである。
なお、教育現場にいるわけではない読者の方のために一つ付け加えておくと、「トラブルのない学校は存在しない」と思ってよい。仮にそう名乗る学校があったとして、それは最大限好意的に解釈したとしても、一時的なポイント=ある任意の時点のことを述べているに過ぎない。要するに無意味な判断なのだ。一定程度の時間幅で見たときには、生徒指導的トラブルがゼロというのはあり得ない。これはおそらく文部科学省や各教育委員会などのような教育行政も同様の想定でいるはずである。月別または年間の生徒指導案件がゼロまたはそれに近い件数で報告をあげてくる学校は行政の立場からは「それはあり得ないだろう」という要チェックの対象になりうる(のでそんな学校はほぼないのではないかと思う、全校生徒が1名などのような特殊な事例なら話は別だが)。そして、どの程度の件数か、どのような内容のトラブルか、これらの実態に対してどの程度の位置にいる学校を「荒れている」とか「荒廃している」とか形容すべきかという全国共通の基準(単一の尺度)は存在しない。したがって、少なくとも当該書の文脈においては、基本的にこのような「荒れ」系の形容は教育学における学術的な事実を述べている性質の言説ではない、ということを理解しておく必要がある。もし、1件または数件のトラブルをもって「荒れている」と捉える極端な論者がいるとすればそれは学術的なエビデンスとなるような診断ではなく、その個人の印象の開陳である。そして、何件であったとしてもそれは同様に、個人の印象の開陳である。勿論、印象の開陳が重要でないと言いたいわけではない。逆にそれはさまざまな意味で重要ではあるのだ(特に、そう開陳した論者を理解する際の資料として大変貴重ですらある)。しかし、その重要さは万能を意味するわけではないので、例えば堀越氏の前々任校長である工藤氏の提示する事実と証言はなんらかの意味で重要ではあるものの、それをもって「荒れていない」と判断することはおかしいと考える適切な慎重さをあなたが持つのであれば、同様に、この本の著者である堀越氏によって提示されるものとしての事実と証言をもって「工藤—長田校長時代は荒れていた」と判断することにも慎重でなければならない。であるからこそ、当該の学校が荒れていたかどうかという、私たちにはわかりようのない判断への欲求自体を慎むべきだ、と私は主張する。そこにあなたがわけ知り顔で判断を下さなくても、この麴町中の校長の論争から語るべき/汲み取るべき知見は無数にあり、そのどれもがあなたの審判者ポジを手にいれることへの欲望に基づいてなされる「学校の荒れ具合判定」よりもはるかに重要でありうる。勿論、あなたが特定の印象の開陳に対してどんな印象を抱くのも自由であり、そのこと自体を否定はしない。よって、仮に審判者ポジからの言説であろうともそれをどれだけ述べようが完全にあなたの自由である。しかしそれを特定の教育論議として言説化したところでそれは正しさとかとは別次元へのコミットにしかなり得ませんよ、と言っているのである。そこはきちんと切り分けて理解されたい。
このように述べると「いや、本に書いてあることが一つでも事実ならもうそれは普通は荒れてると判断すべきでしょうし、少なくとも是正する必要があるということになるでしょう」という反論を述べたくなる人がいるかもしれない。このような反論に言えることは次のとおりである。まず「是正する必要がある」という判断が生じうることを上述の見解は否定していないので、私の上述の見解をそう読んだとしたら単に読み違い=誤解であるし、あなたがそう印象を抱くことも全く否定していない。ただ、それは印象論の域を出ない判定であって、ここで行おうとしている議論の手前のものであるから、もし議論に組み込みたいと思ってそう言っているのならそれに対しては反論が失敗している(=有効な水準とは言い難い)ことを指摘可能である。というのも、「普通は荒れていると判断する」とか「現場の教師ならそう判断すべきだ」というような、一種の常識的教育観に訴えるその論理は、おそらく工藤氏が麴町中の改革に取り組んだ動機の当のものであり、彼はそのような常識的教育観がそもそもよくないと価値判断していたがゆえの改革推進者だったわけなのだから、当該の反論は議論を循環させるだけで取り立てて有効な論立てにはなっていないし、むしろ「工藤氏サイド」や「工藤氏サイドと呼ぶまでに至らなくとも従来の教育の常識的見解に違和を覚えている側」への格好の材料提供となるだけである。その反論が、議論として有効打を狙ったものではなく、あくまで個人の印象の開陳として述べられているのであれば、それは「どうぞご自由に」ではあるし、ゆえに議論に値するものではないという自認があるようであればその点でも同意する。印象論をやりたいのであればやる自由はあるので、どんどんやるべきだが、私は印象論としての意見には応じる義務も意思もないという点についてはここに明確にしておく。
第二に、本稿は工藤氏の擁護論でも、堀越氏の擁護論でもない。はっきり言えば、どちらに対しても批判的である。どちらにも共通する理由と、それぞれに固有の理由の両方がある。共通する理由はこれから何回か本稿の中で述べることになるので、ここでは簡単に一つずつ、それぞれに固有の批判点を書いておこう。工藤氏に関しては、脳科学の言説を用いてあたかも因果関係が明らかであるかのように、すなわち権威主義的な仕方で脳科学を利用して自身の教育言説を正しく見せようとしているように感じられることが過去に何度もあった点について、私は失望を覚えている。それ以来工藤氏の著書は読んでいない。堀越氏に関しては、自身へのインタビュー(リクルートEd-tech総研「学校教育における「自律」とは──東京都千代田区立麹町中学校長に聞く、「規律」が真の自律を育む理由」2025年10月30日 https://ed-tech.shingakunet.com/research/2025/10/post-9868.html 【最終閲覧2026/08/17】)の中で、「権利には必ず義務(責任)が伴います。義務を教えずに権利だけを与えると、それはわがままになります」と述べている。批判の対象は前段の「権利には必ず義務(責任)が伴います」という一文である。これは権利概念そのものについて義務を含意させる主張であり、単に間違いであるばかりか、江戸しぐさのような偽史と同等かそれ以上に有害である。権利は義務の対価ではないし、人権は義務の履行を条件に付与されるものではない。なお、「義務(責任)」という括弧書きによって、これは法的義務ではなく道義的責任の話だと読み替える擁護もありうるが、それはここでは成立しない。「伴う」という含意関係の主張は、義務と読もうと責任と読もうと同じく成り立たないからである。無論、権利の行使が他者の権利との調整を要することはあるが、それは「伴う」という含意関係とは全く別の事柄である。なお、後段の「義務を教えずに権利だけを与えると、それはわがままになります」については、「これは教える順序やバランスの話であって権利行使の条件の話ではない」という擁護がありうるだろう。しかしその擁護を認めるとしても、前段の含意関係の主張が撤回されるわけではない。
第三に、本稿は当該書の全肯定でも全否定でもない。結果として基本的には批判的なスタンスとなっているが、それは当該書になんらかの「よい面」や「事実」があることを否定するものではない。と同時にそれはまた、全体としての評価を高くしたり批判すべきポイントを免責することを要請するわけではない。したがって本稿はかなり積極的に批判を展開することになるが、それはこの本を全否定することとは異なる。無論、全否定することが道徳的に悪いわけではなく、そのような選択も実際あり得ただろうが、私が読んだ限りでは、評価したり同意したりできるポイントも複数発見に至ったという事実から、結果として全否定にも全肯定にもならなかった、ということである。ただし付け加えておくと、当該書の主張を全体として擁護することはほとんど不可能である。本題に入った後で詳しく言及するが、本書は主張したい内容の論証にほぼ完全にと言ってよいほど失敗しているのである。よって、何度も言うように麴町中の実態がどうかとは一切関わりのない次元で、本書は著者自身の課した目的としての主張の信頼ある提示を達成していないという失敗を看取せざるを得ない水準のものになっているのである。
第四に、本稿に述べる当該書への批判含めた評価は、私の実践者としての無謬性やある種の「実力」を保証することを意味しない。勿論、批判が価値判断を伴うとき、私の教育観や実践者としての経験に基づいてなされる面がないということはあり得ない。しかし、批判の正当性という点に関して言えば、私がどのような理念の実践者であるかとは関係なく言えるものがほとんどである。そして勿論、批判も一つの言説であり主張であるのだから、無謬を保証するものではない。私の批判もまた、他者からの批判に開かれている。
さて、実はこの時点で3500字を超えているのだが、このように前置きを長くしているのは、単なる言い訳というわけではない。SNSの状況に明らかなように、この話題はイデオロギー的にもセンシティブな話題であるからか、雑なやり取りによって対立軸が一向に噛み合わない罵り合いのようになりがちである。論理の飛躍が相互に起きやすい、そしてそれを訂正しにくい論点を含んでいるということであると思われる。そのため、きちんと前提を整えてから、すなわち何が述べたくて、それはどのような認識論的所与のもとに述べるものなのか等々をはっきりとさせてからでなければ、誰の意見もきちんと汲み取ることができないままに終わってしまう。当然ながらそんなふうにはしたくないし、議論以前の残念な応酬に巻き込まれたくもないので、事前に可能な限り整理をつけておく必要があるのである。
2. 取り上げる4つの大きな問題
では本題に入っていこう。堀越本に含まれる批判すべき大きな問題は大きく分けて4つある。
「数値的根拠」などのエビデンスの扱いに失敗している
学習指導要領の無理解、および解説編の記述を学習指導要領の記述として複数掲載している
「スクールカースト」観への疑念とそれに基づく主張への疑念
安易かつ恣意的(証拠不十分的)な、堀越氏着任以前の学校が荒廃かつ非安全、堀越氏着任による改革以降の学校が生徒にとっての安心安全、という対立軸のレトリカルな構造化
1〜3は具体的な論述上の不備として扱われ、4においては一般論の水準でその主張が検討される。
2.1 「数値的根拠」などのエビデンスの扱いに失敗している
まず、堀越氏は「本書刊行にあたって」という冒頭言において、工藤氏時代の実践を頼りに問い合わせてくる世間の教員や関係者、「魔法の杖を信じた人たち」からの「抵抗」があったことを語っている。「麴町中学校の名を冠した書籍を読み、その内容が真実かどうかにかかわらず「麴町中学校に入学すれば全てうまくいく」と信じ込んだ保護者」(p.3)をはじめ、議員や法人、行政職、各種メディアの中にいるそのような人たちについて、堀越氏は「令和5年度に着任した校長が、学校の真実の姿をエビデンスと共に公開し、学校の立て直しの改革を打ち出したわけですから、これらの人たちは躍起になって抵抗をしたわけです」(p.3)と語っている。そのすぐ後に「当時(工藤氏校長時代)の麴町中学校の取り組みについて教育長などの中には「一石を投じた」と評価する人もいるようですが、投げた石が全て命中するとは限りません。時間をかけて数値検証をするべきであり、その上で、成果として打ち出すことが望ましいのではないでしょうか」(p.3、()は引用者による補足)とも述べている。
要するに、工藤氏の魔法の杖による「キラキラ実践」(p.2)とは違って、自分はエビデンス、とりわけ数値的根拠を伴って改革を公開していると述べているわけである。別のところでは「私は、学校現場において、粛々と根拠に基づく学校教育を実践することに全力を注ぎました。法的根拠を法令、学習指導要領、教育施策等とし、常に照らし合わせながら進めてきました。そして数値的根拠を積極的に公開し、理想像との乖離した状況を示すとともに、2年半の間の子供たちの変化、学校が立ち直っていく状況を公開してきました」(p.4)という宣言も見られる。
いうまでもなく、数値検証においてはただ数値を出すことが重要なのではなく、何を見るために何をどのように数値化するのか、そのための適切な手続きは何か、という目的と手続き(手段)に関するデザインの方が、価値判断を含むような議論においては重要である。そしてこの場合、とりわけ何をどう数値検証すべきかの議論こそ重要なのだが、この書き方にはその点への無関心を感じる。というのも、その重要性をわかっていれば、ここでこのようにただ〈数値で証明すべきだ〉以上の含意を読み取れないような権威主義的用法に与するかのように書くことが不適切だとわかるはずだからである。そんなつもりはないともし言うのだとしたら、単純にここら一帯の文章は不備があると言わざるをえない。読者に一定の印象を形成させる効果を持つ書き方にはなっているが、その効果は文章としての誠実さを意味しない。確かに、これは冒頭言だからそのように詳しく述べていないから誤解を呼ぶような表現になっているだけで、実際はきちんとそこら辺も含めて言及した数値検証が適切になされているのではないかと、普通は想像する。私もそう思って読み通した。結果、そのように文句のつけようがない数値検証としてのエビデンスはほとんどなかったのである。堀越氏が自分でこれがエビデンスなり数値的根拠だと思っているものが出てきていないわけではない。そうではなく、そのような数値や情報が、それによって担保しようとしている当の主張を支持するような建て付けになって出てきていないのである。
全てをここで取り上げることはできないが(そんなことをしたら引用で埋め尽くされてしまい、その状況自体が引用を伴う論述の規範(主従関係規範)に抵触してしまう)、何例か象徴的なもののみ以下に示しておこう。
検討1 指導がない?
⚪︎指導がない
「指導してはいけない」という呪縛によって、教職員集団はなるべく生徒を指導しない大人集団になっていました。また、この呪縛を免罪符として、本来在るべき生徒指導を回避する教職員の傾向は強く残っていました。「指導しない」のはこれほど教職員にとって楽なことはありません。
それでも、教師としての矜持が許さず「指導するべき」という声を上げる教員も一部にいましたが、長く「麴町中のやり方」に染まってきた教職員の醸し出すオーラによって、動きが妨げられる状態もありました。4月の始業式以前の職員会議で、「ヘッドホンをしながら登校してくる生徒の指導を徹底するべき」という意見が出されました。私は、至極当然のことを言っていると思いましたが、この意見に対して「これまでそのような指導はしていない」「生徒に主体的に考えさせましょう」という反対意見が出されるという状態でした。
ここには、「指導がない」という、一般的にどういう状況かを共通理解することが困難な事態の存在を名指したという意味でかなり強い主張が置かれている。まず初めの段落であるが、「呪縛」という言葉が使われているのだが、これは隠喩というレトリックであって、実態が描写されているとは言えない。実際に問題になるのはこの呪縛という隠喩がどのような仕組みと機能と実態を反映しているのかであるが、その点について本書は何も語っていないのである。換言すれば、「指導してはいけない」という呪縛、というのは、指導したら何らかのサンクションを伴うという意味なのか否か、明文化されているのか否か、誰がどのように判断する基準なのか、これらの情報がまるっきり抜け落ちているのである。これではとても論拠=エビデンスとしての体をなしているとは言えないだろう。呪縛という隠喩のレトリックで述べる主張ではなく、実際にそれはどういう次元でどういう実装をされた制度あるいは規範あるいは言説であったのか、極めて具体的に語らないと、ストローマン論法になってしまう記述である。その後の段落の「長く「麹町中のやり方」に染まってきた教職員の醸し出すオーラ」という記述も同様である。ここでいうオーラとは何なのか。それが何の時どう作用しているがゆえのその状況なのか、一つもまともな説明がないのである。
極めつけは「職員会議で、「ヘッドホンをしながら登校してくる生徒の指導を徹底するべき」という意見が出されました。私は、至極当然のことを言っていると思いましたが」という箇所である。そもそもそうなっていたのは、登下校中のヘッドホンを規制する権限が学校にはないという共通理解があったからではないのかというのが読者としては思いつくわけで、そのような、堀越氏がまさに批判する前前任者の頃の論理と、論理で対決して論駁すべき部分であるのに、この論理の論駁は一切せずにただ「指導の徹底」が「当然のこと」だという判定が先行してしまっている。これではまさにただの現状への判定(ラベリング)であって、論証でもエビデンス産出でもない。この「現状」(を改めること)を改革推進のエビデンスとするためには、当の状況が正当化されてきたまさにその論理を相手取って論理で返す必要があるのである。つまり、ヘッドホンをつけた登下校が問題ないという共通理解があって実際にそれで回っていた現実に介入するには、ヘッドホンで登下校することが是認できない理由を説得的に(これまでの論理を上回る形で)述べる必要がある、ということである。しかし、そのような記述は見られない。指導の徹底とはおそらくここではやめさせる強制力を発揮するまたはそれに類するような介入のことだと思われるが、登下校中の私物使用に対する規制権限が学校にどこまで認められるかは、法的にも学説的にも争いのある論点である。少なくとも「徹底すべき至極当然のこと」として論証を省略できる事柄ではない。とりわけ自律やらルールやらを尊重するのであればなおこの点をきちんと言及する手続きが重要となるであろう。しかし、その争いのある論点に踏み込んで自説を支えるような理屈を、本書は用意していないのである。
なお、他の箇所でも「指導の徹底」という語が出てくるのだが、実際に何を意味するのか明確にされておらず曖昧なため、読みたいように読めてしまって、擁護派には「よい」語彙に、他方で批判者が批判してきた際には「いや、ここでの指導の徹底という意味はそうではない」と躱すための便利なワードになってしまっている。
検討2 土足
令和5年度当時の教職員に聞けば、少し前まで、校内を生徒が平気で土足で歩いていたとのことです。
今は「生徒会が立ち上がり、呼びかけて土足禁止になっています」というのです。私はこの話を聞いて、生徒会の頑張りを素晴らしいと感じながらも、一方で、麴町中の抱える闇の深さを感じました。校内の土足化は、生徒会が立ち上がる問題ではありません。上履きと下履きの区別は、学校のルールの問題であり、教職員の生徒指導の問題です。
学校は本来、皆が気持ちよく学び、生活する公共の場です。上下履きを区別するルールがあるならば、全員が遵守しなければ、安全安心な居場所は守られません。集団の決まり事を守って生活するのは、学校教育において積み重ねてきた尊い教育文化であり、日本の文化でもあります。麹町中では、目の前に土足の生徒がいても、教職員が指導をしてこなかったことが大きな問題です。
これも、自身が着任するまでの麴町中への批判的主張ではあるが議論がおかしい。そもそも校舎内は土足がデフォルトという文化圏は日本国内にも実例がある。この記述からは元々土足がOKだったのかどうかが曖昧にぼかされているのがまず問題である。仮に上履きと土足の区別が規則として存在していなかったのであれば、集団ルールの遵守という論点からの非難は成立しないが、本書の記述はどちらであったかを明確には示していない。単純に土足で上がるのを許容すると校舎が汚れるから嫌だというのであればある意味筋は通るが、そうするとまさにそのルール化は自律とかとは相反する他律的禁止になるわけで、主張の整合性が取れないからそう言えないのだと思われる。しかも唐突な「日本の文化」という文言もある。ちなみにこの少し後の方で「麴町中は、生徒の自律を促す理想の学校のように宣伝されてきましたが、現実は違いました。土足化した状態を教職員が止められなかったということは、その教育が間違った方向に進んでしまった証となる重大な事実です」という記述も登場するのだが(p.19)、やはり同様に根拠たり得ていない。推論が飛躍しているのである。先ほども書いたように、そもそも上履きと土足を分けるというルールがあったのかもわからないし、仮にあったとして土足の方が合理的でなし崩し的にそうなっていくことは必ずしも否定的に捉えるべきこととはこの時点の情報からだけでは言えない。むしろルールへのアクションであり、自律的な営みであるとも言えてしまう。要するに、用意された資料(ここでは土足で授業を受ける生徒の写真が2枚提示されている)とロジックでは、必ずしもこの帰結まで必ずたどり着くような主張は構成できないのである。
検討3 荒れと破壊
続いて、数値を出すべきところで出していない、または出していると解釈しても説得力に欠けるパターンをみよう。
堀越氏は、自身が麴町中に着任した時点での校舎が新築11年目であったこと、その上で壊れにくいはずの壁に、穴を補修した跡(タイガー模様のテープで強調された箇所)が各階に確認されたことを報告し、その写真を資料として4点挙げている。そこから堀越氏は、生徒のモラールや学校への愛着が低下し、教師の指導放棄が掛け合わされたことで「校内破壊が常態化された学校になっていったと考えられます」と結論づけている(p.24)。提示されているのは写真4点のみであり、これだけでは「常態化」という頻度・持続性に関する主張を支持できない。頻度を主張するのであれば補修件数・時期・箇所数といった数値が示されるべきである。よく考えればわかるように、工藤氏着任から堀越氏着任までのこの長期間における壁の損傷が本当に(実数として)たったの4例のみだった場合、それを意図的な「破壊」の「常態化」とまで言えるのかは甚だ疑問である(普通は言えないというか、基準がなければ印象論以外に論じようがない)。あるいはこれは例示であって実際にはもっと多かったということなのであれば、それこそ数値的に示せるはずであり、そうすべきである。にもかかわらずそうしないというのは、このような破壊の常態化という批判的含意の強い主張をするためにはそれなりの質の論拠が必要であるという知見を持っていないからなのかもしれない。いずれにせよ主張している内容に対してその根拠が薄弱であるということに変わりはない。
実はこの話の直後に、ピアノについても次のように言及がある。
ピアノまで標的にされるという悲しい現実が麴町中にはあったようです。ピアノは、美しい音楽を奏で、生徒が音楽に親しむ機会を作り出す大切な教育財産です。壊される対象では決してありません。そして、体育備品のように偶発的に壊れる性質のものでもありません。
この写真を見たときに、信じがたい感覚と同時に、当時その中に身を置いてきた生徒たちの心情はどうであったのか心配になりました。誰も、ピアノが破壊される学校で学びたいとは思いません。このような学習環境の中で、大人しい生徒たちは、ひたすら我慢し続けてきたのでしょうか。メディアで宣伝されてきた理想の学校とは程遠い姿がここにあります。
この文の直後に、白鍵が二つ低くなってしまっているピアノの写真が2枚、資料として挿入されているのだが、これも、そもそも破壊行為による破損と何の根拠もなく決めつけているように読める時点で論証としては論外な、レトリックに奉仕した文章である。と、私がまさにこのように言ったときに「でも事実ピアノが壊れてたんでしょ?だったら嘘ではないのだから言い方の問題は些細なことだ」という反応を想起してしまった人がいたとしたら、まさにその反応がこのレトリックに仕掛けられた効果が発揮されている証拠なので、気をつけてほしい。生徒が近くで遊んでいたり、重いものを運んでいたり、その他様々な過失によっても(つまり、故意的でなくとも)ピアノは壊れるが、そのような疑いを適切に挟む余地があることに気づかせないような書き振りになっている。そうでなければ上記の鉤括弧内の発想は出てこないし、出てきたとしても主張するに適切ではないことがわかるはずである。
検討4 タブレット関連
次は、実際に数値を出している部分を見てみよう。堀越氏は生徒に支給されるタブレット端末の破損について語っている箇所(pp.31-32)で、麴町中の破損率の高さ(麴町中がトップで26%、次点が研究指定校の17%)から、当時の麴町中(令和4年度末まで)を「教育の機能不全」と結論づけている。曰く、この破損率にはソフトの交換なども含まれており、研究指定校の場合は研究のためのソフトの交換なども含まれて報告されていると推測されており、麴町中は研究指定校よりもそのようなソフト交換などは少ないはずだと推測されている。当時の職員が麴町中の破損の特徴が破壊だったと語っていること、壊れた場合には生徒に代替機が与えられていたために、PC室のロッカーから壊れたままのタブレット数十台が出てくるということがあったとのこと。先に断っておくが、私はこの状況自体を疑っているわけでもなければ、このような状況を何も改善しなくてよい望ましい状況だとも全く思っていない。あくまでエビデンスの扱いとしてこの記述がどうなのかという点からの以下の評論を述べているに過ぎないということは改めて強調しておこう。
結論から言えば、この記述も数値的エビデンスに基づく適切な主張を構成することに失敗していると言ってよいだろう。まず、この記述においては、冒頭で「破損」の定義を、ソフト上の不具合や再インストールのための修理も含むとして広くとっているのだが、一方、結論ではその26%という数字がそのまま「教育が機能不全を起こしてきたことによる代償」と読み替えられているのである。ここで起きているのは、複合的な指標が分解されないままに単一の原因に帰属せられているという形での論理の飛躍である。しかも比較している両方の項の説明が、いずれも裸のデータとしての言及ではなく、堀越氏の推測/解釈が埋め込まれたものになってしまっている。17%の側は〈研究校だからソフト交換の必要性に起因する破損が多いはず〉、26%の側は〈研究校でないからソフト交換の必要性という起因のものは少ないはず〉という想定になっており、どちらの判定にも学校の属性からの推定が入り込んでいるのである。「破壊」による破損の実数が示されない限り、17%対26%という9ポイント差は、著者が主張したい質的差異(〈問題視すべきでない不具合〉と〈問題視すべき破壊〉の差)を支える根拠とはなり得ない。また、端末の破損率という一つの指標から「教育の機能不全」という学校の営み全体への評価が導かれている点も無視できない。教育活動の何が、どの範囲で機能していなかったのかは特定されていないままだからである。さらに、破壊行為が事実だとしても、その原因を教育の失敗一つに帰す根拠がこの記述部分には示されていない。しかもこの点に関しては、著者自身の記述によって掘り崩されている。堀越氏によれば、それまでの麴町中は、破損した場合には生徒に代替機を配布することを繰り返してきたということだが、これはむしろ管理運用上の意図的な取り組みであって、生徒が端末の不具合や破損が軽微であっても破損を申し入れるインセンティブを確保する方向に働いていた可能性がある。つまりは教育の失敗とは別の説明を要する変数であるはずだ。堀越氏はこのような競合する要素を自ら提示していながら、結論では参照していないというアンフェアな操作というか記述をしているのである。さらに付け加えておけば、証拠として挙げられている証言の性質が「当時の教職員が話しています」という年単位の過去の伝聞であること、しかもその語りが、堀越氏が新任校長として着任する文脈で、つまり「改革前の荒廃」というナラティブのなかで収集/言語化されている点も、方法論上は留保が必要な部分であると言えるだろう。
検討5 学力
次に見るのは、学力について論じている章での論証についてである。全てを嘘などとはもちろん思わないが、おそらくこの章全体が本書の中で最も数値的エビデンスの扱いの失敗としては酷いものになっている。
ここで取り上げる堀越氏の主張は、「学力の二極化」である。曰く、麴町中は隣の神田一橋中と比べて、学力上位層も下位層も厚いのだという。その原因として堀越氏が考えているのは、自由進度学習、朝学習の「麴中スタディ」、数学のAIドリル教材、授業が成立していないこと、宿題廃止、などのようである(pp.35-42)。しかしながら、驚くべきことに、どの要素がどのような要因としてどのように学力の二極化に作用しているかの具体的分析も、それを検証可能にするデータセットも、本書には一切載っていないのである。もうこの時点で当該主張はエビデンスに基づくことに失敗していると言って差し支えないのだが、手続き上の問題はこればかりではない。まず、学力の二極化を主張するデータ自体が示されていない。驚かれるかもしれないが、データの大元も示していないし、母集団が何かすらはっきりと書かれていないのである。隣の中学との比較結果から直ちに「二極化」を結論づけること自体おかしな論理なのだが、そもそもその手前の問題として、比較の対象となった調査(検査)は何であり、その対象は学年なのか全校なのか抽出児なのか、なんの情報もないのである。確かに、地の文の他の箇所には「NRT標準学力検査」や全国学力・学習状況調査という文言が登場しているのだが、それが学力の二極化という主張に資料として接続されている形跡も実際見当たらない(そもそもそのようなものは誰からも誤解ないようにわかりやすく明示的に接続されていなければならないものである)。もしかしたら紙の書籍には載っていたりする可能性があるかもしれないが、少なくともKindle版には載っていない。
この章でめちゃくちゃなのは、数値の扱いばかりではない。論述もかなりめちゃくちゃである。次の文章を見ていただきたい。少々長いが、公正を期すためにそのまま引用しておこう。
2つ目は、学力の2極化です。前にも述べましたが、隣の中学校と比較して、学力上位層は麴町中の方が厚く、学力低位層も麴町中の方が厚いのです。偏差値40未満の生徒が17%もいる状況でした。
様々なヒアリングを行うと、授業が成立していないため、塾で勉強している生徒の学力だけが伸び、授業を受けないあるいは家庭学習もしない生徒の放置状態が続いてきたと語る声が教職員から聞こえてきました。宿題廃止論がメディアで宣伝されてきた学校ですから、極端に家庭学習の時間が少ない傾向もありました。
生徒の学習状況を観察していくと、50分授業を45分にして授業時間を削ってまで創出してきた、朝の麴中スタディ (30分間のモジュール学習・5分✕6コマ分)では、3分の1の生徒は寝ているか漫画を読んでいる、3分の1の生徒はタブレットPCでネットサーフィンをしたり遊んだりしていて、残りの3分の1の生徒は周りの喧騒をシャットアウトして塾の宿題に取り組んでいる状況でした。宿題廃止論で大々的に宣伝されてきた学校が、授業時間を削ってまで「塾の宿題を仕上げる時間」を創出するという皮肉な結果になっていました。
生徒会役員との意見交換会を行った際にも、「麴中スタディの時間は、最初のころは先生たちが課題を配っていたけど、今は何もありません。遊んでいる人が多すぎて無駄な時間です」とはっきり生徒目線での問題意識を報告してくれました。自分で勉強できる生徒と放置される生徒の2極化、この差は益々広がるばかりです。これを、「自律」と呼ぶにはあまりにも無理があります。学習指導要領では、主体的に学ぶ力の育成を求めています。「麴中スタディ」と銘打たれたモジュールを使った時間を作るだけで、実際には生徒が放置されてきた学校現場を、学習指導要領の作成に携わった方々は、まさか想定はしていないことと思います。
まず疑問に思うのは、偏差値40未満が17%いることが妥当で信頼できる事実であるとして、その数値は二極化というほどの事象を説明するのか明らかではない、ということである。正規分布を仮定すれば、偏差値40未満は約16%なわけで、17%という数字自体は、全国的な集団でも特別異常な数字とは限らないと思うのだが、どうなのだろうか。少なくとも、堀越氏の主張をどれだけ好意的に解釈したとしても「偏差値40未満が17%もいる。だから学力が二極化している」という推論は、途中に基準を明らかにする何らかの説明を挟まなければ成り立たないのではないか。
さらに指摘すべきは、引用した文においては、堀越氏が述べたい主張が宿題廃止論と無関係だということである。宿題廃止によって極端に家庭での学習時間が少なくなったというのはそれ自体論証責任の生じている主張なので、それを示さなければエビデンスとしては利用できない(そもそも事実なのかどうかすら、データも論証もないせいで読者からは判別不可能なのだから)。ここで述べられている仕組み(実態ではなく)が事実であるならば、私自身は「麴中スタディ」という取組み自体を決してよいものとは思わないが、このような時間の過ごし方として挙げられている過ごし方のいずれについても、直ちに望ましくないと断ずることはできないという点で、堀越氏の主張に対しては批判することが必要であると判断できる。なお、漫画を読むことを目の敵にしているようだが、それの何がまずいというのかという点については堀越氏は一切述べることがないのである。
引用文の最後の二つの段落も、エビデンスに基づく主張としては全く認められる水準のものではない。寝ているor漫画、ネットサーフィン、塾の宿題が3分の1ずついたという記述は、嘘だとはもちろん言わないが、少なくともそれは定量的数値ではなく印象でしかないということは間違いない。というのも、それを定量的数値として主張するためには、観察者は誰か、何クラスを何回、どういう基準で分類したのかなどの情報が必要だからである。たまたま見た学級がそんな感じだったという話でしかないように私には思えるが、とにかく必要な情報が一切書かれていない。さらに、机上のプリントが「塾の宿題」であることを巡回観察でどう判別したのだろうかという点も厳密には手続き上の疑問に付されて然るべきであると言えるだろう。また、「放置」認定の杜撰さも気になるところである。学力向上という結果至上主義であるが故にそうなっていると思われるのだが、麴中スタディというのはそもそも教科学習しか許されない時間なのか? そうだとしてそれは望ましいのか? そこら辺の議論が微塵もないあたりが、個人的にはどうなのかと思うところの一つである。
エビデンスというもの
以上、全体から見れば一部ではあるが、本書のエビデンスに基づくはずの主張のいい加減さがお分かりいただけただろうか。上記に示した問題点だけで十分「エビデンスに基づいたとか論証と呼べる水準にない」ことは明らかになったと思われる。そもそも、「エビデンス」という概念自体、とても扱いの難しい概念であり、同時に「エビデンスの扱い」という実践レベルのことについても難しいのがこのエビデンスというものの沼の奥深さなので、その道に精通した専門家でもない限りは、そう簡単にエビデンスだなんだと言うことを私はあまりおすすめしない。エビデンスについては、その万能そうに見えるベールを引き剥がし、エビデンスか主観(ナラティブ)かというおかしな二項対立にも陥らずに考えるためのヒントが、例えば杉谷和哉『エビデンスの罠――数字と物語に囚われない思考法』(PHP研究所、2026)という優れた専門家の先生が書かれた新書として出ていたりするほか、
英語教育政策が専門の寺沢拓敬さんのご著書
https://www.kenkyusha.co.jp/book/b10090838.html
や、記事、例えば
などもある。あとはガート・ビースタのエビデンス・ベースド教育批判の議論は各書優れた翻訳で読むことができるし、わかりやすい。また、ビースタの翻訳も一部手がけている亘理陽一さんのこちらの論考も、抜群にわかりやすくて参考になるので、この堀越本の態度を考える上では参考になるだろう。
亘理陽一 (2020).「エビデンスに基づく教育は何をもたらすのか」『人間と教育』106, 20−27.
無論私自身も概念としてのエビデンスに関して十全な知見を持っているわけではないが、それにしても堀越本の述べるエビデンスが(産出としても伝達としても活用としても)堀越氏自身の示すべき十分なエビデンスたり得ていないということは判断に難くない。はっきり言えば、堀越本の立場はEBEですらないし、それを目指してすらいないと思われる。単に、本当に単純な意味で根拠という言葉の代替としてエビデンスという語を使っているに過ぎないのではないか。それはそれでストイックな姿勢として肯定することも可能だが、問題は、堀越氏の主張の根拠が根拠となり得ていないという点にある、ということは改めて強調しておこう。その意味では、堀越氏の言説のアップデートに必要なのはエビデンスに係る論争の手前の、より基礎的な部分なのかもしれず、私の知る限りその点について有識者からよくお薦めとして取り上げられている本で実際に手元にあるものとしては、
という本がある。我々はこのような基礎の基礎から改めて証拠や根拠というものが何なのかについて学び直す必要があるように思う。
改めて言えば、堀越本にはエビデンスに基づくという勇ましい宣言が度々登場するわりには、エビデンスに基づくと宣言する際に、そして実際に自身がエビデンスとするものを主張する際に最低限必要な手続きを踏んでおらず、つまり何がどういう意味において「エビデンスに基づいている」ことを宣言しているのか不明なのであり、問題は完全に議論が不足していることにあるのである。つまり堀越氏のエビデンスへの説明は十全な説明となっていない(というか、ほぼ「無い」)という指摘なので、むしろこちらとしては説明を要求しているという構図である。したがって私の主張に関してはここですべきことは十分果たしたというか、この点についてはこれ以上の論証責任は堀越氏側にあるので、勘違いなきよう。
2.2 学習指導要領の無理解、および解説編の記述を学習指導要領の記述として複数掲載している
続いて、 【2. 学習指導要領の無理解、および解説編の記述を学習指導要領の記述として複数掲載している】点についてである。おそらく堀越本の主張に鑑みれば、4点のうちこれが最も重大な内在的問題である。
本稿のこの節で指摘することになるのは、堀越氏の論述が自身の立て直し改革の正当化に失敗しているということである。正確に言えば、著者自身で自分に課した構図である〈学習指導要領に基づいた立て直し(例えば「学習指導要領を根拠とした教育内容を確実に実施していく方針」p.16「学習指導要領の趣旨に基づいた学校行事の実施、特別活動などの実施」p.16「法的根拠を法令、学習指導要領、教育施策等とし、常に照らし合わせながら進めてきました」p.4「学習指導要領上のねらいを、教職員が理解して修学旅行実施計画に反映させることは麴町中の課題でした」p.95等)の論証〉に失敗していることを指摘する。
ただし、ここでいう「失敗」には性質の異なる三つの層がある。これらは重なり合ってはいるが、それぞれ独立に成立するものであり、混同するとこじれてしまうので、あらかじめ腑分けして示しておこう。
第一に、宣言と論証の齟齬である。 堀越氏は「学習指導要領を根拠とする」と繰り返し宣言しておきながら、その根拠として実際に引用している文章が学習指導要領ではなく『解説』のものである箇所が複数存在する。これは、学習指導要領の法的性格をどう考えるかとは一切関わりなく、書かれたものの外観だけで確認できる客観的事柄である。
第二に、文書としての身分の差に由来する論証上の帰結である。 学習指導要領と『解説』は文書としての位置付けが異なり、それゆえに『解説』の文言の引用によって「学習指導要領に基づいていない」という批判を構成することはできないのであるが、堀越氏の議論はまさにその陥穽の中にある。
第三に、仮に正しく引用していたとしてもなお残る不備である。 学習指導要領は大綱的基準であるがゆえに、他者の教育活動を指して「学習指導要領に基づいていない」と論証することは、そもそも原理的に極めて難しいのであり、実際に堀越氏はそれを実現できていないのである(ちなみにこの第三の指摘は第一の失敗の指摘と矛盾するものではない。この点は後述する)。
検討6 下支えする学校文化
上記の三層からなる失敗の具体的議論に入る前に、堀越氏の学習指導要領の扱い方の性格が端的に表れている箇所を一つ見ておこう。堀越氏は、「学校の当たり前」を強調する節の中で、次のように述べる。
(略)学習指導要領を下支えする、ベースになるものが全て失われているのです。これらのベースになる事項は、学習指導要領には書かれていない学校の文化です。これまでの我が国の教育が長年にわたって積み重ねてきた貴重な教育文化です。
例えば、儀式的行事における整列や号令のかけ方など、どこにも規定はされていないのです。しかし、学習指導要領の趣旨に基づいた儀式的行事を成立させるためには、全国各地の学校で整列指導が行われ、号令がかけられています。こういった、一つ一つの教育文化が、麴町中ではことごとく失われていました。
まず、引用部分の前半の段落を見ていただきたい。ここは、かなり強い主張であるにもかかわらず、議論が杜撰である。「学習指導要領を下支えする教育文化」という考え方自体が自明でないが、その内容そのものも共通了解の取れるようなものとは言えない。そしてこの引用した文の直後にある図表には「漫画」という文言があるのだが、おそらく文脈的にはこれを禁止ないしは取り締まる対象とするという意味で図中に表記していると思われるのだが、その「漫画の禁止」のどこがどういう意味で、ここで言われる望ましいものとしての規範的教育文化なのか、一切の議論がないのである。
また、後半の段落についても、なぜ整列指導が必要なのかの論理的な説明になっていない。仮にその必要性を認めるとして、しかしこの主張の構成自体も恣意的な切り取りが入り込んでいて、例えばここでいう整列指導とはどのレベルの指導を言っているのかという問題が残ることになる。「ここに並んで〜」と声をかけて整列を待つことなのか、それとも、「遅いよ! やり直し!」という叱責まじりの命令なのか、「ほらそこ前から顔出さない、ちゃんと腕伸ばせ」というような教師が列をまさに指示しながら整えることを言っているのか、何もわからない。例えば一つ目の声掛け指導がある場合でも、教員によっては「整列指導がない(なってない)」とも言いうるし、逆に整列指導をしたとも言いうる。実際に整列したかどうかで指導があったかどうかを判断するという過激派の主張を想定している可能性もある。とにかく、具体的にこの指導が何を指すのか、適切な情報が全く示されておらず、読者は推測でこの文章を補完するしかないのである。もちろん部分的にはそのような文章が本の中にあってもよいのだが、このように強い主張に際しては全くふさわしくないと言わねばならない。そうでなければ言ったもの勝ちで、論証も何もあったものではなくなってしまう。
ここで確認しておきたいのは、堀越氏が「学習指導要領には書かれていない」ものを自ら「ベース」として持ち出しているという事実である。これから見ていく三層の失敗の問題は、この振る舞いと地続きなのだ。
第一層 宣言と論証の齟齬 (検討7 避難訓練)
堀越本において何より問題なのは、学習指導要領とその解説編の区別を付けていないままに、解説の文言を学習指導要領の文言として引用していることである。しかも一箇所や二箇所ではない。例えば避難訓練について述べる章では、次のような言い切りが登場している。
中学校学習指導要領には、「東日本大震災をはじめとする様々な自然災害の発生や、情報化等の進展に伴う生徒を取り巻く環境の変化などを踏まえ、生徒の安全・安心に対する懸念が広がっていることから、安全に関する指導の充実が必要である。さらに、生徒が心身の成長発達について正しく理解することが必要である」という記述があり、「安全に関する指導においては、様々な自然災害の発生や、情報化やグローバル化等の社会の変化に伴い生徒を取り巻く安全に関する環境も変化していることから、身の回りの生活の安全、交通安全、防災に関する指導や、情報技術の進展に伴う新たな事件・事故防止、国民保護等の非常時の対応等の新たな安全上の課題に関する指導を一層重視し、安全に関する情報を正しく判断し、安全のための行動に結び付けるようにすることが重要である」と明記されています。
上の中で堀越氏が引いている文章はどちらも、中学校学習指導要領には存在しない。これらの文章が記載されているのは、『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 総則編』である(前者がp.32、後者がp.33)。この間違いは、意図的であれ過失であれ、本書においては極めて重大な影を落とす類の「かなりまずい」ミスである。というのも、堀越氏は学習指導要領に基づいて改革してきたことを事あるごとに強調した上でそこに自分の改革の正統性を主張しているわけで、換言すれば、それこそ「根拠」として学習指導要領を位置付けると宣言しているのである。先にも引いたが、「私は、学校現場において、粛々と根拠に基づく学校教育を実践することに全力を注ぎました。法的根拠を法令、学習指導要領、教育施策等とし、常に照らし合わせながら進めてきました」というのが堀越氏の自己認識なのである。つまり、自身の改革の正統性を学習指導要領に求めることを宣言する形式での正当化にコミットしているにもかかわらず、それを対外的に示すための本書において、学習指導要領を正しく引用していないという恐ろしい事態が展開されているのである。しかも、修学旅行の章でも、文化祭の章でも、同様の記載ミスが散見される。とりわけ修学旅行の章は酷い有り様で、「単なる物見遊山に終わることのない有意義な旅行」という文言を学習指導要領の文言として(それまでの麴町中の取り組みを批判し、自身の改革を正当化する目的で)繰り返し引いているのだが(p.93、p.94、p.98)、これは『解説 特別活動編』の文言である(そもそも論として言えば、この文言は「こういう言い回しが学習指導要領に登場するわけなくね?」と、それこそ事あるごとに学習指導要領を使う必要のある立場の現場教員ならわりと気づく人が多いような言い回しだったりするのだが、それはさておく)。
この失敗の構造は例えば次のように考えるとわかりやすいかもしれない。「卒業式では礼服をきちんと着こなすこと」と自他に対して宣言した管理職が、卒業式本番で着用した服装がそもそも全く礼服ではなく所謂ジャケパンだった、という事態である。卒業式にジャケパンを着てきてはいけないという公的なルールは存在しない。問題は、管理職が「礼服」を指定したにもかかわらず、その張本人が礼服と言いながらジャケパンを着てきたことであり、自分で課した構図を自ら再現することに失敗している、ということが他者からは批判されうる、ということである。
この比喩が示しているのは、ここでの失敗の指摘が学習指導要領の法的性格に一切依存していないということである。仮に、学習指導要領には何ら法的拘束力がないという見解が正しかったとしても、この失敗の事実は動かせないのだ。「学習指導要領に明記されています」と書いてある文章が学習指導要領に存在しないという事実は、外から確認可能なものだからである。学習指導要領と解説編の違いは「解釈」の問題ではなく、観察可能な客観的事実なのである。そして、堀越氏が学習指導要領に基づいていることに自身の改革の正当性を託していることも、本の記述から確定する事実であり、ここも解釈が分かれるというようなものではない。したがってこの失敗は、私の解釈という次元ではなく「事実」として外部から検証が可能な、客観的な失敗なのである。
したがって、この本を素直に読むならば、堀越氏は、自分は学校管理職でありながらそこら辺をうやむやにして論じてよいと本気で思っているのか、それとも本当に学習指導要領と解説編の文書としての身分の決定的区別がついていないのか、あるいは自身の改革のプロパガンダをしたい(読者を騙せるし騙してよいと思っている)のか、論理的にはこれらのうちのどれかになってしまう。これは学校を法的・学習指導要領・数値的根拠に基づいて立て直してきたと自称する立場の書籍としては致命的にまずいことだと思われる。
第二層 文書としての身分の差
ここまでの議論は、学習指導要領の法的性格に一切踏み込まずとも成立するものであった。ここから先は、学習指導要領と解説編の身分の差そのものを扱っていく。
まず、学校教育法施行規則第74条には「中学校の教育課程については,この章に定めるもののほか,教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する中学校学習指導要領によるものとする」とあり、これが学習指導要領に法的拘束力があるとする通説の根拠である。他方、『解説』に対してはこれに対応する条文が存在しない。なお、これはご存知でない読者の方も多いかもしれないが、学習指導要領の法的性格については議論が存在し、拘束力の有無についての議論も存在している(その上で、法的拘束力があるとされるのが通説というか常識的見解と今日ではみなされているという状況なのである)。他方、解説編に法的拘束力がないことは議論の余地なく確定している。作成者である文部科学省を含め、誰もそう主張していないし争ってもいないからである。
文書自身の自己規定も、この差を明示しているというのも重要なポイントだ。学習指導要領は前文において「学習指導要領とは,こうした理念の実現に向けて必要となる教育課程の基準を大綱的に定めるものである」(中学校学習指導要領(平成29年告示)前文 p.17)と自己規定し、各解説編のまえがきには「本書は,大綱的な基準である学習指導要領の記述の意味や解釈などの詳細について説明するために,文部科学省が作成するもの」という注意書きがある。文科省自身が、解説編は学習指導要領本文とは異なって解釈の説明であると銘打っているのだ。つまり、学習指導要領にも解説編にも、それぞれ互いとは異なるものであることを明らかにする=自己規定する文言がきちんと入れ込んであるという事実がここに確認されるのである。
ちなみにこの区別には有名な出自というか理由もある。「平成28年2月24日総則・評価特別部会 参考資料2 学習指導要領等の構成、総則の構成等に関する資料」の中で「幼稚園、小中学校については、平成元年以前は「指導書」としていたが、学習指導要領等と同様の拘束力を有すると誤解されるとの指摘もあったため、その位置付けを一層明確にする観点から、高等学校と同様に「解説」に改めた」(p.2)とあるように、文部省(当時)自身が、現場において「指導書」が学習指導要領と同等に強い根拠であるかのように扱われてしまっている状況への反省と解消を目指して「解説」と名称を改めたという経緯があり、この構造については議論の余地がない(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/061/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/03/03/1367713_12_1.pdf )。
なお、これは「でも実際には現場などさまざまな場面で解説の方が参照されている(だから解説を根拠にするのは問題ではないはずだ)」という主張によっては論駁されない。まず、実態がそうであるという点についても議論があるし、また仮に実態がそうであると認めるにしても、その実態は直ちに規範(≒べき)を意味できない。なんなら、むしろそういう状況こそ、当の文科省が改善したいがために「指導書」から「解説」に名称を改めた動機となっているような状況が依然として今日においてもあるのだと指摘しているわけで、少なくとも学習指導要領の権威性を肯定的に利用しようとする側の論者が規範的に是とすることができるような言説ではないはずだ。
以上から、次の帰結が確認される。ある特定の教育活動が『解説』の解釈(文言)に依拠していないからといって、その活動が「学習指導要領に基づいていない」ということまでは意味できない、ということである。したがって、「学習指導要領に基づいていない」という批判を、解説編の文言の引用によって構成することはできない。『解説』は、文部科学省による一解釈ではあるものの、その正しさを保証するものでもなければ、学習指導要領そのもののように法的拘束力≒強制力となるような地位にもないからである(実をいうと学習指導要領自体の記述も金科玉条のように無謬的には扱えないのだが、『解説』については尚更そうである)。
堀越氏の論立ては、大まかにいえば〈着任以前の麴町中の教育活動は学習指導要領にきちんと基づいていると言える状態ではないと主張する→学習指導要領と言いつつ解説編の文言を引用する→それに依拠する方向に教育活動を立て直したことを説明〉という形をとっている(一つ目と二つ目の順序は逆だったり、一つ目が二つ目の後に反復していたりすることもあるが、大枠の論理構成としてはいずれも同一のものと判断可能である)。そもそもタイトルにあるように「荒廃した学校」を立て直すというストーリーなのだ。そのため、自身の着任以前の状況が「荒廃」レベルで大きな問題があることを主張しなければならない。そこでしばしば取り上げられる/言及される参照枠として、学習指導要領が位置付けられているのである。学習指導要領がここで便利なのは、着任以前の麴町中の問題の指摘(=批判パート)と、自身の着任以後の取り組みの根拠と、その両方に同時に使えるという一石二鳥のものだからである。しかしそれゆえに、批判パートの側で解説編の文言を引いてしまうことは、批判そのものを完全に空振りさせることになるのである。第一層で指摘した引用元の誤りは、この意味においても堀越氏の論立てを内側から掘り崩していると言えよう。修学旅行の章にある次の文章は、この実例である。
学習指導要領における旅行・集団宿泊的行事のねらいは「校外の豊かな自然や文化に触れる体験を通して、学校における学習活動を充実発展させる」「集団生活を通して、基本的な生活習慣や公衆道徳などについての体験を積み、集団生活の在り方について考え、実践し、互いを思いやり、共に協力し合ったりするなどのよりよい人間関係を形成しようとする態度を育てる」と位置付いています。
更に「実施上の留意点」として、「生徒の自主的な活動の場や機会を十分に考慮し、生徒の役割分担、生徒相互の協力、きまり・約束の遵守、人間関係を深める活動などの充実を図ること」「単なる物見遊山に終わることのない有意義な旅行・集団宿泊的行事を計画・実施するよう十分に留意すること」とあります。これらを確実に押さえることなく、修学旅行をキャッチーな「ツアー企画取材旅行」と命名し、ねらいから外れた「ミッション」なるもので形づくってきた教育活動の在り方が、生徒の行動に影響してきたのではないでしょうか。
この記述は、着任以前の麴町中の取り組みが学習指導要領のねらいから外れていると指摘したものである。この文章の後に、堀越氏が行なった2年間にわたる改革(行事ポロシャツで服装を統一する規制の導入の検討、服装指導の徹底、「修学旅行」への名称変更等)が述べられている。しかし、ここで学習指導要領の文言として引用されている文章は全て、解説の特別活動編の文言なのである。そのため、最後の文で勇ましくなされている批判は、学習指導要領を基準とした批判としては成立していない。批判の物差しとして掲げられたものが、学習指導要領ではないからである。しかも、学習指導要領の中には解説の文言とは別にねらい(内容)の規定「平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」(p.165)が存在しているのだが、堀越氏はそれについては拾わずスルーしているのである。引くべき本文を引かずに解説の敷衍的解釈を「学習指導要領における…ねらい」と称して掲げたという事実は、「いかなる局面においても『学習指導要領』を根拠として、学校立て直しを勧めてきた」(p.138)という自己申告と真っ向から矛盾するものであろう。
補論 検討8 混同引用が故意である可能性の検討
ところで、ここまでの議論において私は、堀越氏の学習指導要領に関する間違いが意図的なものか過失かという点については踏み込んでこなかった。その両方の可能性を検討するために、一見すると例外に見える箇所を見ておきたい。
中学校学習指導要領解説【音楽編】では、「諸外国の様々な音楽など多様な音楽に触れることは、人間の生活と音楽の関わりに関心をもって、生涯にわたり音楽文化に親しむ態度を育てることになる」と明記されており、多様な音楽の一つとしてヒップホップが教科書で取り扱われています。同じく、中学校学習指導要領解説【保健体育編】では、「現代的なリズムのダンスは、ロックやヒップホップなどの現代的なリズムの曲で踊るダンスを示しており」と明記されており、これを受けて体育実技の副読本ではヒップホップダンスを取り扱っています。これらは、今の教育現場では周知の事実です。
そして、これまでお読みいただきました読者の皆様には、私がいかなる局面においても「学習指導要領」を根拠として、学校立て直しを進めてきたことはご理解いただけたと思います。したがって、学習指導要領に位置付けられている教育活動に対して「禁止令」を発出することなど断じてあり得ないのです。
ヒップホップ関連の追加記事では、他の国立大学教育学部の教授による批判コメントも掲載されています。国立大学において教員の養成を担っている学部の教授が、学習指導要領や教科書等の中身を知らないのでしょうか。このような根拠を十分に理解した上で、大学教育が行われているものと思っていましたので、とても残念です。
この箇所は、ヒップホップ禁止令なるものをめぐる報道とその反響を批判する流れの中の一節である。あらかじめ断っておくが、本稿は冒頭に述べた方針に従い、この件についても実態を認定することはない。本書の記述に従うかぎりでは、報道の側に相当に重大な問題があったことになり、また、その記述が正確であるならば、堀越氏は当事者生徒を守るという校長として果たすべき職務を全うしたと評価されるべき事案だということになる。私自身、読みながらそのように感じた箇所であることは率直に書いておく。ただし、それは本書の記述が正確であればという条件下での評価であって、実際にどうであったかを私が判定できるわけではない。以下の指摘は、あくまでこの本の記述の水準に向けられたものであるということは、改めて強調しておこう。
さて、読んでわかるように、ここにきて堀越氏は解説編を解説編として明記した上でその文言を引用している。引用元の明示としては正確である。そして結論そのものも、実際正しいものである。ヒップホップは確かに学習指導要領に位置付けられた教育活動であると主張できるのだ。なぜなら、正しく各文書の引用で構成すれば、学習指導要領(第2章第7節保健体育、〔第1学年及び第2学年〕Gダンス(1)ウ、p.119)に「現代的なリズムのダンスでは,リズムの特徴を捉え,変化のある動きを組み合わせて,リズムに乗って全身で踊ること」とあり、その具体例がヒップホップであることを解説が示している、という順序で情報を辿れるからである。つまり、堀越氏の結論を支える経路は学習指導要領の中にきちんと用意されている。
にもかかわらず、なぜか堀越氏はその経路を辿っていない。当該箇所で引かれるのは解説と教科書と副読本のみなのだ。確かに堀越氏が引用した解説保健体育編の文言には「現代的なリズムのダンス」という語が含まれているが、それが学習指導要領本文の文言であることには一言も触れられていない。つまり本文を参照した形跡がないのである。そして二度にわたって『解説』と明記した直後、堀越氏は「したがって、学習指導要領に位置付けられている教育活動に対して」と書いている。すなわちラベルの水準ではきちんと区別しておきながら、推論の水準では再度その区別が消失しているのである。
ここに、本書全体の問題の構造が最も鮮明な形で現れている。他の章では解説編の文言が学習指導要領の文言として提示されていた。ここでは解説が解説として明示されながら、結論の部分で区別が消失している。形は異なるものの、学習指導要領と解説編の身分の差が著者の記述に適切に反映されていないという意味で、生じている事態は同型なのである。
これが意図的なものかどうかを私は最終的に判断することはできないが、少なくともこの診断は、他の章における混同記載が意図的なものであった可能性を積極的には支持しないだろう。むしろここまで来ると、区別を付けること自体にあまり関心がないという理解の方が、(あまり信じたくはないが)あり得るかもしれない。しかし幸いにして、その判断をする必要はそもそもない。ここで指摘した堀越氏の論証の不備はすべて、実際に書かれた言説の水準だけで確認可能であり、意図の如何によって一ミリもそのまずさを減じることはないからである。
第三層 仮に正しく引用していてもなお残る不備
先に述べておくと、以降の指摘は第一層で述べた失敗を軽減するものではない。 第一層の失敗は、あくまで堀越氏が自ら宣言した手続きを踏んでいないという水準の問題だからである。以下で述べるのは、その手続きを正しく踏んでいたとしてもなお残る、ある意味ではより重大な不備についてである。両者を取り違えて「どうせ学習指導要領を引いていたとしても批判は成立しないのだから、解説を引いたことは些末な差ではないか」と読むのは、端的に誤読であるとあらかじめお断りしておく。
さて、先のヒップホップに関する記述は、堀越氏のスタンスの内在的矛盾を示唆するものでもある点で実は重要である。堀越氏が当該の引用文で行なった論述は、学習指導要領の大綱的基準性を自覚するもの、すなわち学習指導要領は解釈に開かれた、むしろ解釈を付与してはじめて実質的な教育実践/活動を駆動させまた正当化させるものだということを正しく前提としなければ擁護できないものなのだ。「現代的なリズムのダンス」という抽象的な文言からヒップホップという具体を取り出す作業は、まさに解釈の作業だからである。
これは逆にいうと、「学習指導要領に基づく」というスタンスは、学習指導要領の文言を無視してもいけない一方で、文言だけでも不十分な場合がありうるということを意味している。学校教員には常識(であってほしいこと)の一つだが、学習指導要領は「大綱的基準」である。これは「学習指導要領とは,こうした理念の実現に向けて必要となる教育課程の基準を大綱的に定めるものである」(中学校学習指導要領(平成29年告示)前文 p. 17)と、学習指導要領自身がそう自己規定しているので間違いないことだ。要するに、学習指導要領というのは、各校種の教育課程/活動について大雑把な次元までしか基本的には述べておらず、あとは各学校が責任をもって解釈して創意工夫して教育活動/実践を作り上げていってくださいね、という類の文書なのである。実際、「各学校がその特色を生かして創意工夫を重ね,長年にわたり積み重ねられてきた教育実践や学術研究の蓄積を生かしながら,生徒や地域の現状や課題を捉え,家庭や地域社会と協力して,学習指導要領を踏まえた教育活動の更なる充実を図っていくこと」も重要だ(p.17)と学習指導要領にも記載されている(なんなら学習指導要領くらいの抽象度/言及アプローチでも「それは現場/具体に踏み込みすぎだ」という批判が正当なものとして学者サイドから提出されていたりするほどである)。ここから読み取るべき含意は、「『解説』は無数にあるうちの一つのあり得べき解釈なのであって、それに閉じる/尽きることを宣言するものではない」ということである。
そしてこのことは同時に、何らかの実際の教育的取り組みを指して、それが学習指導要領に基づいていないと判定することの原理的な難しさをも含意している。だいたいどのような教育活動も、学習指導要領の文言によって基礎付けることは可能だからである。だからこその「大綱的基準」なのだ。何らかの規範論的議論の際には、その個々のケースに伴う解釈の論理がいかに正しくまた説得的であるかという質が、普通は問われる水準として呼び出されるべきものなのである。
このような困難があるにもかかわらず、堀越氏は自分が着任した際に過去から続いている実際の取り組みの状況を「学習指導要領に基づいていない」かのように描写している。それを証明するためには、それら過去から続く取り組みが学習指導要領に基づいているとはどのような意味においても言えないことを論証しなければならない。すべての教育活動を対象にそれを述べる必要はもちろんない。必要なのは、少なくとも自身が批判的に言及しているケースについてであり、そのケースについては「それがいかなる意味においても学習指導要領に基づいていない」ことを立証すべきである。しかし、全編にわたって、そのような論証的性格の記述は一度も登場していないと思われる(なお、これは筆者=私へのブーメランとはなっていないことに注意されたい。他者、ここでは堀越氏だが、彼の教育活動の実際を私は判断の対象としているわけではないということは繰り返し述べてきた。事実、私が指摘してきたのは「実際どうなのか」という取り組みに対する次元ではなく、堀越氏の語り/記述の水準の不備である。その不備とは、本節でここまで述べてきたものとしては、「学習指導要領に基づくという宣言と実際の正当化論との齟齬=解説編の文言を学習指導要領の文言として誤って引用している箇所が複数存在すること」である。これは実際の取り組みがどうかという点に一切関わりなく、記述の水準だけで指摘が可能なものである)。
もしかすると堀越氏の熱心な擁護者の中には「堀越氏は過去の取り組みを学習指導要領に基づいていないとまでは言っていない」と擁護したくなる人がいるかもしれない。しかしそれは援護射撃どころか友軍相撃となってしまう悪手である。というのも、もしその主張を認めるならば、そもそも学習指導要領に基づくという度々強調されるスタンスが何の価値も持ち得なくなり、現状の論理構成のままでは、過去からの継続的問題状況(と、当の堀越氏自身が判断している「実際/実態」)を改革の根拠としても利用できなくなってしまうからである。学習指導要領に基づいていないということ以外のことを論拠に据えてあればそれでも問題ないが、堀越氏の場合、立て直しのもう一つの根拠として「無秩序」や「荒れ」による安心できない学校生活を挙げているわけで、それ自体自身の判断によるものであり、そこに正当性は自然発生的には生まれない。単に状況にラベリングしただけという状態を超えて「論拠」と呼べるまでにするには精緻な議論がそこにも求められるのであるが、この本では軒並みそれが失敗している、少なくとも水準が低い議論にとどまっていたのであった。つまり、いずれにしても論理の再構成が必要になってしまう。再構成が必要ということは、現状の文章では論証に不備があることと等しいわけなので、結局のところ上述の擁護論は同士撃ちを帰結するというわけだ。
一旦、本節のここまでの話を整理しよう。第一に、堀越氏は自ら宣言した根拠文書を引いていない。これは要領の法的性格に依存せず、外形だけで確認できる失敗である。第二に、解説と要領には文書としての身分の差があり、解説の引用によって「学習指導要領に基づいていない」という批判を構成することはできない。第三に、仮に要領本文を正確に引いていたとしても、大綱的基準性ゆえにその批判の成立は原理的に困難である。
重要なのは、第三の困難による不備が認められるからといって、第一の失敗の事実の重要性がなくなるわけではないということだ。むしろ逆で、第三の困難があるにもかかわらず、堀越氏はその困難に取り組む手前で、自ら課した最低限の手続きすら履行していなかったということになるのである。
ちなみに、本書における学習指導要領の扱いのまずいポイントは上記に留まらない。一つ一つ取り出して書いていく余裕はないので、ここで取り上げたもの以外については次号以降で列記するものを読んでいただければと思う。
2.3 「スクールカースト」観への疑念とそれに基づく主張への疑念
続いて、【3. 「スクールカースト」観への疑念とそれに基づく主張への疑念】について。本書では、とても象徴的な用いられ方で「スクールカースト」という語句が何度か登場している。まずは堀越氏の独自のスクールカースト観をみるために、いくつか象徴的な箇所を引用しておこう。
堀越氏の「スクールカースト」観
〇ルールがない
「自律」を旗印とした学校経営がなされてきたと伝わっていますが、生徒は「自律」と「自由」を完全にはき違えていました。「麴町中は自由な学校です」と生徒会役員が発信してきた影響で、入学してくる新入生から自由を謳歌し始めていきます。集団生活上のルールが無いため、生徒同士の関係性は強弱が基準になってきます。発言力の強弱、腕力の強弱、学力の強弱など、生徒間のスクールカーストが出来上がっていきます。ルールの無い世界では、あっという間に弱肉強食の縮図が形成されてしまいます。本来の学校における安全安心な集団生活が成り立っていませんでした。
これらの当たり前にあるベースを整えることに令和5年度から6年度までの2年間、全力を注入してきました。令和7年度のスタートからは、見違えるような学校に立ち直りました。生徒が劇的に変化してきたのです。生徒の学習や生活の基盤が、安全安心なものに変化していきました。
無法地帯には、集団生活で守るべきルールが定着しはじめ、教職員も、一人一人の生徒の課題に正面から正対するように変化してきました。支援とともに指導を両立する姿勢を明確に持ち始めました。生徒の委員会などの組織も、より過ごしやすい学校にしようと、組織的な課題解決を進める学校に変化してきました。スクールカーストが消えていくことが、目に見えて分かるようになっていきました。
生徒玄関にある下駄箱はゴミだらけで、毎日、力関係の弱い生徒の下駄箱にゴミが投げ入れられる状況にありました。そして、そのゴミは更に弱い立場の生徒の下駄箱に投げ入れられます。負の連鎖です。また、力の強い生徒が2ヶ所も3ヶ所も空きのスペースを独占している状況も見られました。朝、登校して真っ先に入る玄関から、生徒間における力の支配つまりスクールカーストが蔓延していたのです。
学校は集団で学ぶ場所ですから、様々な個性や背景を有した子供たちが集まります。学ぶという共通の活動を保障するには、安全で安心して学ぶことのできる環境が保障されることが必要です。そうでなければ、弱肉強食の世界が形成され、強固なスクールカーストが形成されてしまいます。力の強い生徒が、力の弱い生徒の領域を侵害することが日常化され、授業で学ぶ意味を見出せなくなります。これは単に「授業妨害」といった言葉では表せないレベルの状況です。
私は以前、メディアのインタビューに次のように答えています。
「規律や秩序がない場所には必ず、力による支配が生まれます。生徒たちの行動は、無秩序化するばかりで、弱い生徒がつらい思いをする、いわゆるスクールカーストに繋がる土壌が形成されていました。生徒のモラルの低下は、校内暴力に繋がり、学校外の公共物の損壊にまでエスカレートしたと聞いています。生徒の行動が学校の制御を完全に超えている状態です。これらの状態は、『自由』という名の下に、生徒一人一人の心理的安全性が脅かされていたことを示していると思います」
初めての経験にもかかわらず、各クラスからは合唱リーダーが次々と現れてきました。指揮者、ピアノ伴奏者もこれだけの数が手を挙げてきたことには驚きました。合唱の基盤は、元々麴町地区では強固に存在していたのです。各クラスでは、担任のもとでリーダーたちを中心とした練習が繰り返され、だんだんと熱を帯びてきました。クラスが団結する喜びを味わう一人一人の生徒の姿が眩しかったです。これが麴町中生の本来の姿だと、実感することができました。令和6年度から固定担任制(チーム担任制)に変更していたので、クラスに固定担任が2名ずつついていました。各クラス担任は生徒たちの協力する姿を支え続けました。教室内カーストが消えた安全で安心して取り組める環境を守り抜いたのです。
ここからわかる堀越氏の「スクールカースト」観としては、次のようにまとめることができる(なお、このまとめについては、生成AIの手を借りている。具体的には、「スクールカースト」について生成AIに作成させた文章資料をもとに、それを再構成・加筆修正した上で補助的に利用している)。
まず、堀越氏はスクールカーストを生徒間に生ずる力関係に基づいた支配構造が可視化したものとして考えていることがわかる。これは私の知る限り、学術的な議論の中で使われてきた定義とはまず全く異なっている。そして、それが生じる原因について堀越氏は〈規律の不在〉にのみそれを求めている。規律がなければ(そもそも堀越氏が描写している「無秩序」「無法地帯」においても規律はあるのだが、それは置いておくとして)あっという間に「弱肉強食の世界」が形成されると述べられ、その解消のためには「当たり前」の規律の再導入が必要であり、それによって実際に解消する/したと明言されている。しかもその判定方法が明示的には書かれていないという有り様なのだが、そんな中で読者が本書から読み取れる唯一の判定方法の手がかりは校長自身の観察である。
まとめると、堀越氏の中でスクールカーストというのは、規律がないように見える空間に生じる可視的な力の支配であり、規律を回復させることで除去することが可能な状態を指しており、どこまでも独自というか独特な理解に基づいているように思われる。
論証への疑問とリスク
問題として指摘したいのは、このようなスクールカースト観自体にも、それに基づく主張にも、論証に支障をきたす重大な疑問を挟む余地が解消されてないまま残されているということである。第一に、そもそもスクールカーストという概念は、(堀越氏の言うところの)「荒れている」学校に固有の現象では全くないものなのではないかということである。「定義ははっきりしていませんが、なぜだかわからないけど、同学年なのに、感じる階層や、地位の差」(鈴木翔「繊細で微妙な「地位の差」を捉える 『教室内カースト』著者、鈴木翔氏インタビュー」シノドスオピニオン、2013【最終閲覧2026/08/19】)、「インドのカースト制度のように、グループ間の関係に「地位」の変動性が低い階層関係が生まれる現象」(水野君平・太田正義「中学生のスクールカーストと学校適応の関連」『教育心理学研究』65巻4号、pp.501-511、2017、p.501)のような、「グループ間の地位格差」のことであり、荒れが原因とも規律のなさが原因とも論証なく結びつくような定義は管見の限り確認できない。確かなことは言えないが、これらの定義からすれば、スクールカーストは基本的にどんな学校のどんな学級にも遍在している可能性がある、少なくともそのように考えておくべきような概念の言語化なのではないかと思われる。スクールカーストという概念が問題化してきたのが、暴力や物理的支配のようなわかりやすいいじめではなく、「人気」や「空気」といったようなはっきりと判別できない視認しづらい序列だったと私は思っていたので、堀越氏の理解には驚いてしまった。というのも、そうでなければ、すなわち物理的支配や暴力とは異なる、単純な強弱関係には回収しきれない序列とその論理を扱うのでなければ、わざわざスクールカーストなどという概念を開発/利用せずとも、いじめ研究や学校教育研究の語彙で十分に語れたはずだからである。私の知る限り、スクールカースト研究の関心は可視的暴力やはっきりとした序列ではない。もちろんこれはきちんと先行研究を洗い出したわけではないので、確かなこととしては主張できない。しかし、その自戒は堀越氏自身の(スクールカースト概念の使用を伴った)論証にもそのまま当てはまるはずである。つまり、定義が曖昧な概念を使う場合には、それをどういう研究成果の延長線のもとどのようなアプローチで使用するのかという枠組みとしての〈対象の構築〉をしっかりと明記すべきではないだろうか?
同様に、規律の整備によってこの種の序列が消失することを示した知見を、少なくとも私は見たことがない。もしそのような命題を前提にするのであれば、それは主張する側が示すべきことであるが、堀越氏がスクールカースト概念を使用するにあたって何一つ参照・引用された文献は示されておらず、ここで必要な論証の手続きを果たしていないということはさしあたり指摘可能であろう。いずれにせよ、学校の荒れとスクールカーストを因果関係で結びつける堀越氏の主張は、正しい主張としても検証可能な主張としても成り立っておらず、論証の水準を満たしていないと指摘することが可能だろう。
中でもより問題なのは、本の中で触れられている(それも、明示的にというよりは読者が好意的に読んで取り出せるという程度の言及しかない中での)唯一の検証方法が目視であるということの方である。そもそも教師の、それも校長という立場からスクールカーストの様態やその発生/消滅等を適切に見取ることは、スクールカーストというものの性質上不可能であると思われる。『教室内カースト』を著した鈴木翔は、シノドスオピニオンのインタビューにおいて、「先生というのは、「スクールカースト」をどのように理解しているのでしょうか」という質問に対して、次のように答えている。
今回インタビューした先生たちは、スクールカーストを「地位の差」ではなく、「能力の差」であると捉えています。たとえば、「コミュニケーション能力の低い人間はいくら成績がよくても社会でやっていけない」という言説ってよくありますよね。それと同じ感覚で捉えているのではないでしょうか。
教師と生徒の間で、スクールカーストの認識に齟齬があると感じます。生徒側は明らかにスクールカーストを感じているし、スクールカーストが上位の生徒たちは、「先生に権力をおすそ分けしているんだ」と思っています。一方、先生は「こいつ人づきあいが上手い生徒だな」と、コミュニケーション能力の高い生徒を使って授業を回しやすくしています。お互いwin‐winの関係なんです。だからスクールカーストが維持され、強化されているという可能性はありますね。
2013.05.02
これによれば、そもそも生徒と教師の認識がズレることが性質として織り込まれているのがスクールカースト概念の特殊性の一つなのであり、鈴木はさらに、そのズレを抱えたまま一種の共犯関係として教師と生徒が相互利用するものであるとも述べている。であるならば、堀越氏のように、教師からそれが正しく捉えられるという前提のもとで語ることは、陥穽へと至る道でしかないように思われる。教師の目視判定が方法論的に信頼できないものであるとすると、実際に生じているのは可視的な支配や暴力から「キャラ」や空気のような不可視な形態への巧妙な繕いであるような場合にもかかわらずその可能性を丸ごと捨て去って、「スクールカーストの解消」が規律の再導入によって生じたのだ!と誤って診断するリスクが避けがたいものとなってしまうからだ。少なくとも、規律の再導入という指導的介入によって短期間でスクールカーストが本当に消滅したことを主張するのであれば、最低限生徒側からの報告に基づいた相応の根拠が必要になると思われるが(実際にはそれでも取り繕いの可能性からは逃れられないので十分とは言えないだろうが)、この本にはそのような記述も存在しない。また、堀越氏の主張が成立するためには「規律ある通常の学校にはスクールカーストが存在しない」という命題が必要だが、それについても本書には見られない。規律を「弱者保護」として正当化するのは堀越氏のみならず至る所で散見される典型的な論法の一種であるが、上で見たとおり、「学校の荒れ」という概念を「スクールカースト」によって基礎付けた(というか、呼び替えた)上でそれを媒介にして規律の再導入の正当化論を論じようとしても、基本的には矛盾を抱え、整合することはないのである。
そして、この「スクールカーストの解消」という現時点では検証不可能な判定を正当化することは、論理的なまずさを超えて、実践上も好ましくない事態を誘発する。そしてその好ましくない事態は、当の堀越氏の主張の正当性についてもさらに切り崩す契機となる。確かに堀越氏の述べるような普通の生徒や弱い生徒たちを守るという動機自体は正当なものである。しかし皮肉なことに、スクールカーストの消滅の宣言は、規律の回復後もなお存在し続ける(と既存研究が予測する)外からはわかりにくい序列の中で下位に置かれる生徒(=一度も殴られたり持ち物を盗られたりはしないものの、ただ教室の空気の中で毎日小さく周囲から値踏みされ続けるような生徒)を、守るべき対象のリストから消去することになるのである。とりわけ p.124 の合唱の記述には注意が必要である。多数のリーダーが立候補し、「クラスが団結する喜びを味わう一人一人の生徒の姿が眩しかった」という光景は、それ自体としては、上位グループの主導性が円滑に機能している状態(スクールカースト)と外見上区別がつかない。堀越氏の描写は、その区別をつけるための情報を含んでいない。にもかかわらずそれが「本来の姿」の回復として提示されていることが問題なのである。弱者保護という正当化論を持ち込むためのはずだった議論が、むしろ弱者の一部を定義上排除=不可視化することで成立してしまう余地を残す結果になっているのである。
なお、本書の「スクールカースト」のように定義が緩めなままで使用される概念は、論争の文脈においては一種の「万能の悪玉」として極めて汎用性が高く流用可能なので、その意味でも注意が必要である。このような観点から着目すべきなのは、堀越氏のテクストにおいて「スクールカースト」という概念が導入されることによるレトリカルな機能であろう。すなわち、堀越本においてスクールカースト概念が果たしているのは分析ではなく修辞なのだ。「自由・自律路線の失敗」の帰結を一語で名指し、「当たり前の回復」を弱者保護として正当化する修辞的な装置として、「スクールカースト」の語は機能しているのである。
確かに、本書ではスクールカーストを「俗語的な広義で用いている」ということはありうる。だがその主張を認めるのであれば、堀越氏の主張は「暴力的支配は指導介入で減らせる」という単に自明な命題に後退し、「スクールカーストが消えた」という強い主張の意義は失われることになるので、論証の不正確さという指摘に対してはなんの防壁にもなっていないとは言えるだろう。
なお、上記した各引用文の中にはスクールカーストとは別の観点からのツッコミどころも多々あるのだが、それについてここで書くとキリがないので、次号以降での列記の中に入れ込むこととする。
2.4 安易かつ恣意的(証拠不十分的)な、堀越氏着任以前の学校が荒廃かつ非安全、堀越氏着任による改革以降の学校が生徒にとっての安心安全、という対立軸のレトリカルな構造化
最後に、【4. 安易かつ恣意的(証拠不十分的)な、堀越氏着任以前の学校が荒廃かつ非安全、堀越氏着任による改革以降の学校が生徒にとっての安心安全、という対立軸のレトリカルな構造化】についてである。
実を言えば、これについては一般論の範囲で論ずることが可能な面があるので、さしあたりそのような方法で本稿では議論を進めるとしよう(なお、各記述への具体的な指摘もすでにKindleにあるメモ機能で付けてあるので、それについては次号以降の列記編を待たれたい)。
冒頭から度々確認してきたように、この堀越本は、エビデンスで語ることの重要性にコミットすることを宣言された上で書かれている。にもかかわらずそれが全く達成されていないことを本稿は問題視してきた。とりわけ学習指導要領については、著者自身がそれを自身の立て直し改革の主たる根拠に置いていると何度も宣言している(「学習指導要領を根拠とした教育内容を確実に実施していく方針」p.16「学習指導要領の趣旨に基づいた学校行事の実施、特別活動などの実施」p.16「法的根拠を法令、学習指導要領、教育施策等とし、常に照らし合わせながら進めてきました」p.4「学習指導要領上のねらいを、教職員が理解して修学旅行実施計画に反映させることは麴町中の課題でした」p.95等)にもかかわらず、その引用が『解説』からの引用であることを指摘することで、著者自身の展開したかったはずの構図の証明に失敗していることを示した。仮に堀越本のスタンスが「これは校長という立場からの所感だから、エビデンスとかない、私から見えた世界を記述していく」という性質を全面に押し出す書籍であれば、上述の問題はなかったはずだ(少なくとも逃げ道は確保されていたと言ってよい)。と同時に読む価値も大幅に減退したであろうが。とはいえそれでも資料としての価値がゼロになるわけではないし、批判覚悟でそういう本を出版する自由は誰にでもある。
で、実際の堀越本はといえば、事あるごとに著者の堀越氏自身が着任した当初の麴町中を無秩序や無法地帯と評し、安全でない空間である旨が記され、そこに学習指導要領を根拠の一つとして「当たり前」の規律を再導入したら、以後は生徒にとって安心安全な場所に生まれ変わった、という形で自身の成果を描いている。実際にそういう側面が全くなかったとはもちろん思わない(学校の実際がどうであったかは読者に判断しようがない)が、しかし、論じ方の観点から見る限り、やはりこれらの構図化およびそれに奉仕するレトリックの多用は、この書籍の記述を不正確で不誠実なものと指摘する必要を生じさせる論理的かつ倫理的な弱点として認識せざるを得ない。
「今、私たちの麴町中学校文化祭は、完全に立ち直りました」と、堀越氏は述べる。「教育活動の「ねらい」をしっかり見据えて、安全で安心な学校環境を保障していくなかで、生徒の創意工夫を伸ばしていく教育活動の仕組みが実現できました。これによって、生徒たちはこれほどまでに輝きを放つということを、身をもって感じることができています」と、堀越氏は自身の立て直しによって麴町中は安全で安心して過ごせる学校になったのだと力強く言い切る(p.130)。通常であれば、これは目くじらを立てるような記述ではないだろう。しかし、堀越氏の主張は、先ほど説明したように、自身が赴任する前の学校を荒廃した安全でない安心して生徒が過ごせない学校であるとした上で、過去の(とりわけその状況をもたらした改革を推進した前々任者の工藤氏の)教育活動や学校改革を「キラキラ実践」と揶揄までした上で、自分の立て直し改革はそのようなキラキラ実践とは違うのだというポジショニングを強調した上で、展開されたものである。この力強い立て直し宣言は、これらの背景を加味すると、つまり工藤氏時代への批判的視座を加味すると、その手厳しさは全く同じように自身にも跳ね返ってくるはずだ。「そんな理想的な学校が本当にあり得るのか?実現したと言いつつ、それは特定の誰かを排除したことに気づいていない、あるいは気づいていないふりをした上に成り立っているだけなのではないか?」と。
残念ながら、学校が社会的集団の場である以上は、そこにコンフリクトは必ずあるしあり続ける(この認識を私はJ.S.ミルのみならず、ラディカル・デモクラシー、とりわけ闘技民主主義の理論で有名なシャンタル・ムフから学んだ)。堀越氏着任の以前/以後、どちらのやり方を導入したら全員にとって安心安全になりました、みたいな夢物語はどちら側にも存在しない。だからこのような改革の内容の比べ合いはそれ自体ナンセンスであり、あくまで発信者の発信したテクスト/言説の次元に依拠して議論/判断すべきなのである。
麴町中の教育改革に関する論争が誤った論だてに陥ってしまうのは、もしかするとバイアスが影響しているという面もあるかもしれない。堀越氏の本書でのスタンスは、次のようにも表すことができる。すなわち、自身の着任以前の麴町中の取り組みに対して「確証バイアス」的状況を認知の歪みとして指摘した上で、それを再改革していくという側面があった、と。しかし、そうであったにもかかわらず、堀越氏は結局は自身の取り組みの正当化も確証バイアスの再導入として言説化してしまったのである。
堀越氏の打ち出す構図を丸ごと受け入れず、適切に疑うこと
以前、こんなツイートが回ってきた。曰く、堀越氏の立て直しは、目の前にいる生徒が安心して授業を受けられるようにすること、そしてそのために教師が積極的にきちんと介入指導することができるような学校にすることだったのだ、と。もちろんそれはそうなのだろう。しかし問題は、それがどのような構図を前提とした認識を取り入れているのかであり、それを知るにはやはり堀越氏の言説のポジショニングについて意識しておくことが重要である。堀越氏の立論の背景を私たちは常に忘れるべきではないのだ。その規範に従うならば、そのツイートが述べるような見立ては「そりゃそうだ」という常識以上の意味を含んでしまっている。つまりそのツイートの認識に立つことは、自分(堀越氏)の着任以前は「そうではなかった」(=生徒が安心して学べる学校ではないほど荒廃していた)という堀越氏の主張をそのまま暗に受け入れてしまっているのである。しかし、本書による学校描写は堀越氏の見立てにすぎないわけで、実際にどうだったかという判断として信頼するかどうかには慎重でなければならないし、ましてや一方の主張をそのまま受け入れて学校の実際を評論の対象としてしまう操作を私たちはできる立場にはないし、そんな立場になりようがないのだということをいよいよ強く自覚せねばならない。
なお、下記のつぶやきは、今述べたような問題意識に通じたものである。
私はどちらかと言うと、その学校が実際どうなのかという判断への欲望それ自体が望ましくないというか、十全に叶いっこないだろうという立場です。その学校の実態というのは内部にいても見解が割れているのが通常なわけで、外部からなんてほとんどわかりようがないはずです。それは実践本やら批判本やら… https://t.co/2gwbDGe6OP
— tmrh (@tmrh35703) August 9, 2026
確かに、工藤—長田校長時代が安心な学校ではなく、堀越氏時代に安心な学校になったのだという、まさに堀越氏側がそう思わせたい構図をそのまま受け取るのは認知的負荷が少ないので楽ではある。しかし実際には、この構図こそ、幾重にも疑わしい、というか疑いを挟むべきポイントなのである。第一に、安心な学校ということの度合いを適切に測る手段を私たちは持ち得ているのかということ。第二に、そこで言われている「安心」とか「安全」とはなんなのかということ。第三に、そもそもどんな学校でも全員が安心と感じるということはあり得ないのだから、一方を学校単位で安心じゃないと名指しておきながら自分側をそれを克服して学校単位で安心を実現したかのように構図的に見えるように語るのは、マジョリティ中心主義であるとともに、議論として不誠実なのではないかということ。これら3点の疑問についてこの本は答えていないばかりか、おそらく全くなんの論述的配慮が必要とも思っていないようであり、むしろセンセーショナルな記述と、それがいかに子どもの安全を奪っているのかを適切なエビデンス提示なくレトリックで基礎付けているばかりで、本当のところの事実がどうであるにせよ、手続的に信頼に値しない書き振りとなっている。そのため、堀越氏着任前の麴町中を「生徒にとっての非・安心安全な学校」、堀越氏着任以後を「生徒にとっての安心安全な学校」、と読み込む判断を下すことは著者の意図通りの読みではあっても、誠実かつ正しい読みではないと言わねばならない(これは「書いてあることだけを読め、書いていないことを読むな」という読書規範とは矛盾しない。そもそもその規範の通りに読んで著者の言わんとしていることをそれとして取り出して理解しなければ、このように俯瞰して整理し、その上で批判的に問題点を指摘する、という評論的試みはほぼ不可能だからである)。工藤氏の改革の実績を疑わしいと思える適切な判断力があるならば、同様にこの堀越氏の再改革の実績をも適切に疑わしいと思えなければならない。もしどちらかに疑わしさの面で差をつけたい欲求が自覚されたとしたら、どちらかに肩入れしたい心情のあらわれと思って諫めることに努めるべきだろう。それが、この本を教育職従事者が教育職従事者として読む際の「読者側の倫理」であると思う(より一般論的に言えば、これは要するに、堀越氏のこの本の言説を手段として利用する=引用したりそれを元に評論したりする際に求められる最低限の配慮的態度だということである。この読書を単に目的=ゴールとして、趣味で楽しむためだけに読むのであればもちろんその限りではないが、そこから何らかの発信をする際には、上述したスタンスが求められているといって差し支えないはずだ。したがって厳密には教育職従事者でなくとも、この倫理的要請が求められる立場の人間は存在することになる。それは例えば文筆業一般そうであろう。なお、念の為付け加えておくが、これは「それをしないと違法だ」という話ではなく「それをしないとそれゆえに説得力を欠くという批判は必然かつ妥当ということになりますよ」と言っているだけなので、頭に血を昇らせて「検閲か!?」などと愚かなことを言いたくならないように注意せよ)。
実際、堀越氏の「弱い生徒」認定や「安全」「安心」認定は、論理的に整合しない側面がある。具体例を一つだけ覗き見しておこう。あまりに長いので直接引用できないが、取り上げたいのは「10 制服問題を立て直す」の「服装等に見られるスクールカーストの問題」という節、丸ごとである(pp.100-101)。はっきり言って、全く理解不能な節である。ここでは【服装の過激化→スクールカースト→生徒間の力関係】という図式が導入されているのだが、服装によってどうスクールカーストが形成され、どのように服装によって困る生徒が出てきているのかという具体も説明も一切ないまま話が進んでいくのである。過激な服装をすることが弱い生徒を困らせていると主張しているように読めるのだが、肝心の何がどのように困ることになるのかが全く述べられていないのである。堀越氏が問題にしたいと考えている服装側の具体例は挙げられているのではあるが、どれも加害行為とは無関係で、そもそもそれがどう加害または危害に結びついているのか全く説明がされていないのだ。ひたすら印象論的断定が続き、分析らしい分析もなく、ただ服装が過激だとなぜか「立場の弱い生徒の安全が守られない」と機械的に主張しているだけで、論理が繋がっていないので要約することも難しいのである。単純に言えば論点先取であり、それを印象論でつぎはぎしているがゆえに、論証ではなく印象論と呼ぶべきものとなっているのである。
この点は実際に読んでいただく他ないが、私がこれまで述べてきたことを踏まえて私なりに言わせてもらうならば、堀越氏の記述から読み解く限りにおいては、堀越氏着任以前と以後で、生徒にとっての安全と安心が増したとは言えない、少なくともそれは適切に論証されていない、という結論になる。とりわけ、マイノリティの立場の生徒にとっては非常に苦しいものになっている可能性がある(というか、この可能性は根源的に消滅することはない)。そこを誤魔化さずに書くことが本来求められているのではないかと思われるのだが、残念ながらそのような視点も論理も全く十分とは言い難い(確かにLGBTQという語なんかはちょろっと登場しているが、単に登場しているだけで、検討されているわけでもなんでもないということは付け加えておこう)。それは本稿で「スクールカースト」に関する問題を検討したところを見るだけでも明らかである。なお、この点については以下のツイートも参照のこと。
本当にこれですね。この本も件の批判本も、マジョリティ中心の世界観がひたすら装飾されながら語られるばかりで、自分が子どもだったらどっちの校長時代にも不登校になっている自信しかないです。 https://t.co/Zi7uUvplZ5
— tmrh (@tmrh35703) August 10, 2026
これは全く人々から賛同されることがないだろうと自信を持って言えるのだが、私は教育方針が(人の異動など原因は問わない)短期間で変わること自体には否定的ではなくて、むしろ子どもだったらそれを歓迎すらしているタイプである。よくスタンダード導入の理屈として「子どもたちはどの先生からも同じよ…
— tmrh (@tmrh35703) August 10, 2026
3 規律指導を議論するために
上記してきた議論を理解するためのあくまで補助線として、私の規律指導に対するスタンスを簡単に述べておこう(以降は補助線なので上記の批判的指摘とは内在的に結びついているわけではない。印象の開陳と同レベルの取るに足らなさなので、つまり無視してもらって構わない部分である。堀越本の議論にのみ興味があって読んでいる読者にとっては必ずしも読む必要はないだろう)。
まず確認しておきたいことは、「規律がない」「規律指導がない」「規律が少ない」「規律指導が少ない」、これらは全て異なる事象だということである。学校において「規律がない」ということはあり得ないし、「規律指導がない」というのも(規律指導をどのように捉えるかによって量的には増減するとはいえ)考えにくい。また、規範論的な次元で言っても、私自身は規律も規律指導も必要であるという至極常識的な立場である。ただ、それは最低限度あればよく、極力少ない方が望ましいとも考えている。その意味では、規律が少ない、そして規律指導が少ない状態を規範的により望ましい目指すべき様態として認めている。それは、規律および規律指導の過剰は、それ自体が上位の規定に反するものだからである。それは弁護士の嶋﨑量が次のように説明しているような原則である。
公立の学校では、校則によって、権利を縛っているというように法律家は認識しています。学校だから治外法権があるというわけではなく、子どもの制約が当然に許されるわけではありません。原則として自由なのが当たり前で、縛るほうが例外なのです。また、教育目的があれば校則で子どもを縛ってもよいという意見もありますが、目的があったとしても手段がどれでも許されるというわけではなく、目的達成のため最小限度でなければなりません。
ここからわかるのは、生徒は本来基本的に自由であるにもかかわらず、「集団」および「学校」という事実がその構成員たる生徒に対する規律を要請している、ということである。したがって、規律への不服従を直ちに「自分勝手=悪」とみなす構図は自明には帰結せず、むしろあらゆる規制的規律は、それを課す側に説明責任を生じさせるものである。本来誰もが原則自由である、という理念的前提と、規律がゼロにはならないという現実は両立する。重要なのは、どちらも結論ではなく前提という点で共通するということである。
しつこいようだが、私は規律にも規律指導にも賛成の立場である。しかしそれは議論の前提であって結論ではない。規律は大切だ、規律指導は必要だ、というのは議論の前提であるので、実質は何も言っていないに等しいのである。問題は、それがどの程度/どのような形で必要であると正当化できるのかという点にある。その上で、例えば規律が過剰になることに危機意識を覚える者、規律を規則化/制度化すべきと考える者などのように、それぞれ立場が分かれることになるのである。
私は、規律がゼロになるとは考えないがゆえに、それが過剰にならぬよう抑制の方向性を強調して規律を考えるべきとする立場を採る。それは、私が修士時代に主たる研究対象としていたJ.S.ミルの思想からも理解することができる。強者(権力者)による抑圧も、多数者の専制もどちらも批判しているミルは、児童生徒が相互に自由を侵害するような状況を良しとは思わないはずである。このような意味で規律が捉えられる限りでは、私は規律指導に完全に賛同する。これはつまり、互いへの危害を防止するという規律が重要であると同時に基本にあるのだということだ。というのも、これは個人的な趣味趣向の判断ではなく、その知見を経てやっと議論の前提だと考えているからだ。要するに、ここから教育観や指導論がどう分岐していくかに教育論の本領があるのである。
そしてミルがえらいのはまさにこの分岐に有力な見立てを用意してくれていることだ。意外に思われるかもしれないが、ミルは、人々が相互の自由を侵害しないようにするためには、社会によって子どもが教育される必要があることを強調した論者である。しかしそれにはもちろん説得的な理由がある。ミルは『自由論』という書物の中で、人々が順応主義に傾いて多数者の専制に至ることを社会的専制と呼んで批判した。そして、それを回避すべきであると規範的に考えた上で、自由原理を定式化した。しかし、ただこれを定式化したところで、社会の人々にこのことが理解され、また実践されなければ意味がない。要するに、自由原理を共有することが可能な社会になるために子どもを教育する必要があると考えたのである。そこでミルが強調するものの一つが「寛容」である。これは、ミルがいわゆる「愚行権」を擁護したことを考えれば当然とも言える。非常に雑にまとめると、「なんの得にもならない、みんなと違う変なことをしている人間のまさにその行為が、誰か他者への危害となっていない限りは、それをやめさせるような強制力を働かせるべきではない」と論じたのである。であるからして、堀越氏が本の中で極めて否定的に取り上げているような登校中にヘッドホンで音楽を聴くこと(自転車以外という条件において。少なくとも堀越氏の著述の中で自転車という限定はどこにもない)や、授業中に別の本や漫画を読書していることなどについては、規律を重視すればこそ、基本的には放っておくべきなのである。必要なのは指導ではなく会話し、コミュニケーションすることだ(ミル自身、強制以外に鼓舞などの手段があることを述べている)。私の場合、目指すべきは対話でも合意形成でもない。それは後から付随してくるものではあり得ても、これらのケースで最初から目指される目的のポジションに置かれるようなものではないと私は考えている。そしてもちろん、それは、危害を加える行為、加害行為に対しては積極的に介入してその予防と対応に努めるという態度と両立するのである。
もっともミル自身は自由原理の適用対象を成熟した能力をもつ者に限定し、子どもを明示的に除外している。したがってここでの援用は、その除外を踏まえた上で、「自由原理を担いうる主体をいかに形成するか」というミル自身の課題設定を経由したものである。とはいえこの点については本来修論の中で何万字かを費やして組み立てた議論をもとにしているため、ミルに興味のない読者にとってはかなりわかりにくくなっていることを認める。
最後に 本書の意義と懸念
では、堀越本の意義は全くなかったのかというと、必ずしもそうとは言えないと思われる。冒頭でも述べた通り、すべての主張が間違いだという強い意味での「全否定」が本稿の結論ではない。全体としてやり方が非常にうまくなかったが、それでもなお工藤氏時代のイメージが先行していた麴町中の教育実践に関する言説を批判的に問い直す契機にはなり得たのではないかと思われる。しかしそれだけに懸念もある。学校の規律や抑圧構造、権威主義的な指導に対する反省やオルタナティブ実践が、教育学内外で積み上がってきたことで、児童生徒の権利や自由に着目した取り組みが現場にも徐々に根づこうとしている長い過渡期に今はある。インクルーシブ教育に関する議論も、主張の規範的是認の可否は置くとしてもやっと現場に概念と論争とがおり始めてきたところだ(なお、これらの認識については全く別の見方や総括があることを認める)。そんな中で、過去の抑圧的な規律指導にシンパシーを感じている人や、それを利用したい一部の保守というより右派の人々によって堀越本の主張が不適切に流用されることで学校における児童生徒の権利や自由に対するバックラッシュの起点となってしまうことを懸念する。もちろんそれはどのように使うのかということに依存する規範的判断ではあるので、この懸念にはそれなりの理由があることを「印象の開陳」として念のため説明しておこう。
第一に、とりわけ(私が査読論文を書いて通したことがある対象である)校則研究が明らかにしてきたように、実際に規律や規律指導は権利の擁護どころか侵害という不適切な形で過剰に制度化され、そのまま温存されてきた実態が全国的に認められるということ。地毛証明書の提出を義務付けているとか、下着の色の指定とチェックとか、どう考えても常軌を逸した校則が2017年以降もそのまま残り続けていて問題化した(悪い意味で)実績のある日本の学校文化状況において、子どもではなく規則の側に性善説(=エスカレートしたり悪用されたりしないはずだという楽観的な考え)を見るような態度はほとんど無責任な夢物語であると言ってよい(この点については、以下のツイートも参照)。
「規律が重要」「学習権が大切」はもちろん同意できる。しかし公教育でずーっと問題になってきたのは、その「規律」「学習権」重視といったときのそのあり方が、上位の規定を無視した形で児童生徒の権利侵害や抑圧的介入にまでなっていた(常態化していた)ということであり、とくに内実を履き違えた「規…
— tmrh (@tmrh35703) August 10, 2026
第二に、規律指導を厳しいと感じて不登校になる児童生徒が存在するという事実がある。ここで直ちに「前任までの麴町中のような状況を原因にして不登校になる生徒もいたはずだ」という意見をぶつけてくる人がいるだろうと想像する。その見解自体は正しいものであろう。しかしそれは私の抱いている懸念が正当であることを反駁できていないため、反論としては成り立っていない。逆にいうと、そのように主張する人においては、私の懸念を意に介する必要もないはずだ。私の懸念が正当であることは、逆の事態をより強く懸念するあなたの態度を受け入れはしないが、それは相互に受け入れる必要がないからであり、私の懸念の正当性はあなたの懸念の正当性を必ずしも減ずるものではない。以上を前置きに、なぜ規律指導を厳しいと感じて不登校になる児童生徒が存在するという事実が重要なのかを説明すると、今や不登校児童生徒数は小中合わせて約35万人という凄まじい状況なわけだが(https://www.mext.go.jp/content/20260116-mxt_jidou02-100002753_1_3.pdf p.68)、これまでの調査(https://www.mext.go.jp/content/20251120-mxt_jidou02-100002768_1.pdf)(https://www.mext.go.jp/content/20251105-mxt_jidou01-000045730_3.pdf)においても、教師の関わりによって不登校になる子どもは他の要因と比較しても少ないとは言えない水準にあるという事実の問題がまずある。もちろん教師の関わりに関する項目のどれも、その内実は規律指導に尽くされるものではないが、実際、私の見聞きしてきた現場の実例としても、規律指導が厳しすぎて不登校になったという児童、そう考えるのが合理的に妥当なケースは少なくない数存在している(私の感覚=印象としては、むしろかなり多い)。しかし、それでもなお「実際何が原因で不登校になるのかわからないのだから堀越氏の改革が肯定的に広まっていいはずだ」と思う人もいるだろう。別にあなたがそう思うことを私は止めないが、一意見を言わせてもらうとすれば、「スクールカースト」のところの議論を思い出してほしい、ということだ。堀越氏が、安全と安心を奪う状況を名指す実体的概念として用いていた「スクールカースト」は、適切な概念化を経ていなかった。鈴木や水野・太田らの議論を踏まえれば、堀越氏のいう「荒れ」や「荒廃」の有無とは無関係に、堀越氏のいう「弱い生徒」を伴うスクールカーストは存在してしまう可能性があるのである。これは、堀越氏着任以前の麴町中のような状態の学校でも、着任以降の状態の学校でも、どちらの場合であれ友達や人間関係を要因とするような不登校児童生徒数にはほとんどそれが影響しない可能性を示唆するものである。堀越本の読者が、仮に堀越氏の改革によって安全安心の学校が実現されることで不登校児童生徒も減るはずだと考えたとしたらそれは早とちり以外の何物でもないし、また仮に(そんな意見をいう人はいないと願いたいが)「改革したことで不登校が減らないとしても問題ない、なぜなら改革後のような「落ち着いた」学校で不登校になるとしたらそれはその生徒個人の資質のせいだからだ」と考えるのであれば、そもそもあなたのいう安全安心な学校とは何なのかと厳しく問い直されなければならないだろう。
第三に、実際には堀越氏のような規律や指導を重視する考え方は教育現場において強い地盤を持っており、それはそう易々と失われるものではないということだ。なんならむしろ近年また日本の学校教育の規律的な生活指導のあり方を再評価する契機(それ自体悪いわけではないことは前提の上で、例えば、山崎エマ監督『小学校〜それは小さな社会〜』のヒットや、山崎エマ『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』新潮社、2026の出版など)が増しているようにすら私には見える。この契機を単なるバックラッシュの方向性に収斂させるのではなく、適切に公教育を考えるための機会として位置付けていくような議論と言説の蓄積が必要であると私は考えている。斉加尚代『教育と愛国 誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店、2019)の中で報告されたような政治的介入や圧力が実際に世の中にあったという恐ろしい現実を踏まえると、そのような動きへの言説的合流にも注意を向ける意識はあって困るものではないだろう。実際困るのは、何らかの抑圧的実践や介入が正当化されるとき、適切な議論が起こらないままスルーされることである。その際、その実態に至った背景にある政治的な要因は透明化され、イデオロギーにとって最も好都合な「(見た目/表面的認識上の)脱イデオロギー化」を伴うことで、抵抗なく人々の教育観や文化に浸潤していくことになるであろうからだ。
これは蛇足になるが、当然ながら私のこの記事への批判は大いにしていただいて構わない。しかし、その批判が妥当してもしなくとも、その事実が直ちに堀越氏への擁護となるわけではないということは先に指摘しておこう。例えば私の記事の打ち間違いの多さを批判するとして、それが妥当することは、この記事による堀越本への批判の妥当性とは無関係の位置にあり、何も減じさせることはない。本稿の各論のうちの一つでも論駁できれば堀越本の妥当性が確保されるということも残念ながらない。もちろん、物によっては部分的に擁護となり得るような効果を期待できる批判が可能な場合もあり得る。そして付け加えておくと、これは逆のことも当然言える。私の堀越本批判が妥当する場合、それは工藤氏の実践の擁護を自動的には意味しないということである。厳密には、工藤氏側の擁護の資源となりうる知見も含まれているかもしれないが、必ずしも全てがそうであるわけではない、ということである。実際私は工藤氏の改革の実態には今や全く興味がない。かつて仕入れた知っている限りの情報のみから言えば、はっきりと強く批判的である、ということは冒頭でも述べたとおりである。むしろ私の行なった堀越氏の言説への批判は、そのまま工藤氏の言説に対しても当てはまるものが含まれているはずだ。
大変長くなってしまったが、改めて、私は以上の議論をもって、堀越氏の本書での主張は、他の学校長の言説と同様、無批判に飛びついてよい(正しいと前提してよい)言説ではないと批判する。そういう意味では、むしろこの校長論争において試されているのは、私たち読者側のリテラシーなのである。
