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noteで命に関わる病気に寄り添う危うさ

noteに来てから約1年半のさまざまな経験を踏まえて。

交流があるかたが、ご自身の命に関わる病気についての投稿をされたとしても。

あまり、寄り添いすぎないほうがいいのかなと思っている。

からだのこと、

身近な生活環境のこと、

病気は、さまざまな変化を

当人はもちろん、周囲の人にも押し付けてくる。

ある日、突然。否応なく。

とくに、

性別が関連する病気は

異性の立場では感じ方も考え方も違うし

体質や年代、

その他さまざまな要因が絡むから

「あ、それ私もかかった事ある!」で、簡単に寄り添うのが

本人にとって救いになるとは限らない。

「うざいな」「うるさいな」
「わたしの何が分かるの」

ほっといて欲しい気持ちをぐっと堪えて、

いちいち「ありがとう」とにっこりしていたら

病気が悪化する前に、メンタルが病んでしまうことだってあるだろう。


しょせんは、ひとりで生きて、ひとりで死んでいくのだ。

「がんばって」
「応援してる」

表明するほうは、楽だ。

少なくとも、病気をしている本人よりは。

痛みも不安も、生活も。子どもも。お金も。

何も背負わなくていいんだから。


僕は自分自身の記事として扱ったことはないけれど、

コメント欄で、とある器官(左右二個ある器官)のうち

ひとつがないことを何度かお伝えしている。

今は、そのことが

将来的に命に関わることはもうない(と聞いている)。


だけど、結果が出るまでの数週間

電車の窓の外の桜がきれいだとは少しも思えなくて

「来年の桜を見ることは、もうないのかもしれない」

「そのとき子どもはどこで、どうやって生きたらいいんだろう」

ものすごく不安な時期を過ごしたし

結果が良好で、心配がなくなったからといって、

それ以前と同じに戻れるとは限らない。

僕の場合は、感覚や考え方が決定的に変化した。


「今この時間は、このひとに使っていい時間だろうか?」

「今このお金は、このことに使っていいお金だろうか?」


いちど具体的に、じぶんの

限りある命の使い方について考えたことがある人は

それ以前には、よくも悪くも戻れない。


それに、その器官が原因にせよ

他の事が原因にせよ

もう一度、命に関わる病気をした時は

僕はそのことは、noteでは伏せておきたいと思っている。


闘病を表明することが

多くの人の勇気や希望に繋がったり

自分自身の支えになったりすることは、分かっている。


ただ、皆さんからの応援や励ましの言葉を

「うざいな」
「何も知らないくせに」

とは、一瞬でも思いたくない。

無理して「ありがとう」と言いたくない。


けっして、今、闘病しているnoterさん、

そのnoterさんに寄り添う人を揶揄しているわけではないのは、

わかってほしい。

理解するのもされるのも、とても難しいんだよ。

顔も見れない、ハグもできないこの世界では。



noteで闘病を表明することは、個人の判断で自由に、

心置きなくやったらいい。

でも、僕は心も性格も強くはないので、

きっと、みなさんの応援や励ましを受け止めきれない。


がんばって闘病している人。

一生懸命、寄り添おうとする人。

誰も悪くないのに、もうこれ以上友だちを失いたくない。

だから、重い病気になったときは、ここでは書かないことをお伝えしておく。

友だちを失いたくない僕は、不安な気持ちを抱える友だちのnoterさんに、なんて言ってあげたらいいのか、わからなくて、今とても戸惑っている。


(おしまい)





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