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『あきらめるまでは、終わらない』|青ブラ文学部


夕暮れ時、静まり返った作業場。油と金属の匂いが漂う中、外からはうっすらと蝉の声が聞こえている。

久保:「……もういいよ、佐伯。タイムアップだ」

久保は古びたパイプ椅子に深々と腰掛け、天井を見上げながらため息をついた。手元には、破産手続きの書類が整然と並べられている。

佐伯:「……何がですか、社長」

佐伯は油で汚れた作業着のまま、旋盤の前に立ち続けている。機械のモーター音だけが、虚しく低く響いている。

久保:「何が、じゃないだろ。もう夕方の6時だ。取引先への回答期限は今日の午後3時に過ぎたんだぞ。試合終了の笛は、とっくの昔に鳴ってるんだよ。」

佐伯:「サッカーじゃないんですから」

久保:「は?」

佐伯:「タイムアップなんてありませんよ。野球なら、まだ続いてます。野球には時計がないでしょう。あと1つアウトを取られたら終わり……今は『9回裏ツーアウト』です。それもツーストライクまで追い込まれてるかもしれない。でも、時計がゼロになったからって勝手に終わったりはしない」

久保:「例え話はどうでもいいんだよ! 事実を見ろ! 借金は膨らんで、納品先には切られて、残された部品の在庫なんてこれっぽっちだ。ランナーどころか、点差は10点以上開いてるんだぞ!」

佐伯:「でも、バッターボックスには立ってます」

久保:「立ってたって、空振りしたら終わりだろうが!」

佐伯:「振りもしないで見送るよりはマシです。……社長、以前言いましたよね。『過去の失敗の蓄積がこの結果だ』って」

久保:「言ったよ。俺の経営判断が甘かった。あの時の投資も、あの取引も、全部俺が間違えたんだ」

佐伯:「でも、ピッチャーがこれから投げる1球に、過去のスコアは関係ないじゃないですか」

久保は視線を落とし、力なく笑った。

久保:「……お前、甘いよ。ピッチャーだってバカじゃない。俺たちが追い詰められてるのを知ってて、一番打ちにくい球を投げてくるんだ。見逃せばストライク、振っても空振り。それが現実だ」

佐伯:「だったらファールで粘ればいい!!」

作業場に、佐伯の大声が響いた。機械の駆動音が一瞬、小さく聞こえるほどの張り詰めた声だった。

佐伯:「ストライクゾーンに来た球を、とにかくバットに当てるんです。フェアにならなくたっていい。ファールになれば、ストライクカウントは増えない。球数が1球増える。時間が伸びる。相手が根負けして、1球でも甘いボールを投げてくるまで、泥臭くファールで粘ればいいじゃないですか!」

久保:「粘ってどうする! 奇跡でも起きるとでも思ってるのか!?」

佐伯:「奇跡なんて信じてませんよ! でも……ファールを打ち続けてる間は、絶対にゲームセットのコールは鳴らない! 1つのファールが、次の1秒を作るんです!」

その時、奥の事務所にある固定電話が、静寂を切り裂いて突如鳴り響いた。

ジリリリリ、ジリリリリ――。

久保はピクリと肩を揺らしたが、視線をデスクの破産書類に向けたまま動こうとしない。

久保:「……無視しろ。どうせ督促か、最後のお小言だ」

だが、ベルは鳴りやまない。佐伯は久保を一瞥すると、旋盤を離れて奥の事務所へと足を向けた。重い足音が奥へ消えていき、ガチャリと受話器を上げる音が微かに響く。

「……はい、久保製作所です」

仕切りの向こうから、佐伯の声が途切れ途切れに聞こえてくる。

「……ええ……はい……それは……わかりました……」

やがて通話が切れ、足音が作業場へ戻ってきた。佐伯の表情は硬かったが、その目には強い光が宿っていた。

佐伯はポケットから、試作段階で失敗作だと言われていた小さな金属パーツを取り出し、久保の前のデスクにカツンと置いた。

佐伯:「田中金属からです。『例の特注品、明日までに100個納品できるなら、取引停止の件は保留にする』って」

久保:「100個……!? 無理だ! 今からじゃ設備も人も足らん! 徹夜したって50個が限界だ!」

佐伯:「50個できたら、残り半分を明日納品する交渉ができます。断られたら……その時にアウトになればいい。でも、今バットを振れば、ボールはファールグラウンドに飛ぶかもしれない。明日という次のバッターボックスに繋がるかもしれない」

久保はデスクの上の小さな金属部品を見つめた。油の匂いと、かつて自分が誇りに思っていた精密な削り出しの感触。

久保:「……お前、バカだな。こんな泥舟、さっさと逃げ出せばいいのに」

佐伯:「社長がバットを捨てるなら、僕が横から横取りして振りますよ。ツーアウトですからね。僕がアウトになったら、文句言わずに一緒に破産手続きします」

久保はゆっくりと立ち上がり、深く、長い息を吐き出した。
パイプ椅子を後ろに押しやり、作業着の袖をまくり上げる。

久保:「……100個は無理だぞ。だが、60個なら……俺の腕なら削れる」

佐伯:「……了解です。じゃあ、僕は研磨に回ります」

久保は旋盤の前に歩み寄り、スイッチに手をかけた。機械が重厚な回転音を上げ始める。

久保:「おい、佐伯」

佐伯:「はい」

久保:「……次の球、絶対にボール球でも振るぞ」

佐伯:「はい。ファールで粘って、粘って……相手が根負けするまで付き合わせましょう」

夕闇が迫る工場の中に、金属を削る鋭い火花と高音が響き渡り始めた。
ゲームセットの審判の笛は、まだ誰にも吹かれていない。


お題:「九回裏ツーアウト」
下記の企画に参加させていただきました。


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