視察動画分析に、たくさんの反響をいただいて考えたこと
昨日公開した「熊本地震視察動画」の分析noteが、思いもよらない反響をいただきました。5000件(?!)を超える「いいね」、たくさんのコメント、そして何とチップまで送ってくださった方まで。本当にありがとうございます。
記事の性質上、言葉の一つひとつに神経を使い、寝る前に書き始めて気づけば朝日が昇っていました。顔出し、実名で発信するということは、非常に負荷がかかるものですね。
チップはありがたく、年々値上がりを続ける映像編集ソフトのサブスク、通称「Adobe税」に充てさせていただきます。私自身、このような経験は初めてだったので、とても励みになりました。
お恥ずかしい話ですが、普段は「3いいね ついた!」と喜んでいる人間です。(実際に、過去の閑古鳥が鳴いている記事をご覧ください・・笑)
今回も、例に漏れず投稿後は静かな反応でした。
ところが、ある瞬間から反響が指数関数的に伸び始めました。SNSの力、そして人の心を動かす映像について書いた記事が、その拡散力を私自身に教えてくれるという皮肉。
鳴りっぱなしの通知で熱をおびるスマホ片手に、豆腐メンタルな私は、なんとも落ち着かない1日を過ごしました。
今回の分析の背景にある、「恐怖」の思い出
今回、一番多かった質問があります。
「どうして、あんなに細かく映像を分析できるんですか?」
その答えは、人にはあまり話さない、恥ずかしい昔話にあります。
私自身、人一倍怒られてきたからです。
業界3年目。
奈落の底のようなAD時代を脱するために、取材ディレクター、いわゆるサブDとして、蜘蛛の糸をつかむように自分で映像をつくり始めた頃の話です。
取材をして、編集をして、先輩に見せる。
すると、開口一番こう言われます。
「…今晩、時間ある?」
今思い返しても、身の縮む一言です。
ここで「ありません」と言える人はいないでしょう。そうして、編集室で自分の繋いだ映像を、1カット1カット、最初から最後まで見返していくことになります。
「なんでここで切った?」
「このカットで何を見せたいの?」
「このディゾルブの意味は?」 「……なんとなくです。」
こうして、私が徹夜で繋いだ映像は、藻屑となりました。
「なんとなく」は、その晩のうちに全滅します。
一つひとつのカットの選択、編集の繋ぎに理由を求められ、説明できなければゼロからやり直し。
当時は、本当に嫌でした。
「そんなに映像って理由が必要? 感覚も大事じゃない?」
正直心の中では、ずっとそう思っていました。当時の私は、「感覚で作る方がかっこいい」と、半ば本気で思っていました。
でも今なら、不思議と分かります。
先輩は、編集を教えていたのではないのかもしれません。
プロとしての、映像を見る目を教えてくれていたのかもしれません。
こうして私は、非常に神経質に、メタ的に編集する体質を体得したのでした。(生理的で感覚的な編集も素晴らしいものです。ただそれを体得できるようになったのは、もっとずっと後のことでした。)
ちなみに、その先輩の口癖は「『アド街」の編集を写経しろ!」でした。
当時は「何を言ってるんだ、この人は」と疑問半分でしたが、さまざまな映像を作ってきた今、その理由が分かるようになってきました。
長くなるので、その話は、また別の機会に。
「見る力」は、誰でも育てられる
今回、一番嬉しかったのは、「なんとなく違和感があった理由が分かりました。」というコメントでした。
映像を学ぶというと、撮影技術や編集技術を身につけることだと思われがちです。でも私が業界の先輩方から教わったのは、そのもっと手前のことでした。
「なぜ、このカットなのか。」
「なぜ、自分はこの映像を見て心が動いたのか。」
その理由を、自分の言葉で考えること。
映像を疑うためでも、粗探しをするためでもありません。
一度立ち止まり、自分の感情の動きを見つめることです。それだけで、映像との距離感は、ぐんと変わります。それは、映像制作者でなくとも、日常生活の中でできることなのではないでしょうか。
もし今回の記事が、映像との距離感を考えるきっかけになれたのなら、映像制作者としてこれほど嬉しいことはありません。
記録と作品のあいだで
記事の中で、「記録」と「作品」の境界についても触れました。
境界を考えること自体がナンセンス、というコメントも頂きました。
正直なところ、私もかつて震災を扱うテレビ番組を制作した際に、被災者の方の話に、感動的なBGMをつけたことがあります。今回の広報動画は、それと何がどう違うのか。テレビ番組として作品化されたものの演出だから許されるのか。
反響の余韻の中、答えなき問いを、いま改めて深く考え続けています。
参考になるかわかりませんが、私が「記録映像」として制作した映像を、ひとつ紹介させていただきます。
以前、東京・小金井にある「ムジナの庭」という就労継続支援B型事業所で、木工作家・三谷龍二さんによるワークショップを記録する映像を作らせていただきました。
ムジナの庭は、「何歳からでも、リスタートできる社会へ」という想いのもと、生活や就労にハンディキャップを抱える人たちが心身のバランスを取り戻し、自分のペースで働くことを支える場所です。
建築家・伊東豊雄氏が1979年に設計した名作住宅「小金井の家」をリノベーションした建物を活用し、庭でハーブを育てたり、お菓子やハーブティー、アロマ製品などのオリジナル商品づくり、縫製や内職作業を行っているとても魅力的な空間です。そんなムジナの庭の、一周年を祝した映像を作りたいという依頼でした。
記録映像でありながら、施設の魅力を伝える作品でなければならない。
だから撮影中は、ずっと考えていました。
どこまで近づいていいのか。どこからが演出なのか。
カメラを向けることで、その人が過ごす時間を壊していないだろうか。
一方で、遠慮しすぎて、伝えるべき魅力まで遠のいてしまっていないか。
その境界に正解があるのか、私はわかりません。いつも迷っています。
今回、政府広報動画を分析しながら、結局、自分自身が普段の現場で問い続けていることへ戻ってきました。
映像は、何を伝えるかだけでなく、
誰に寄り添うのかが映ってしまうメディアです。
だから私は、記録であっても、映像作品であっても、まずは人に誠実でありたい。
それが、私自身の映像制作の軸です。
むすび:その技術を、誰のために使うのか
もし仮に、私が政府広報の映像制作を作る立場に置かれたら、どんな映像を作ればいいのだろう。そう考えると悶々としてしまいます。
(依頼もないですし、お引き受けもしませんが・・)
今回の分析記事を書くことは、自分が身につけてきた技術と向き合う作業でもありました。映像は、人の心を動かします。今回、その力をSNSの反響を通して、私自身が改めて実感しました。
だから私は、技術を磨くだけではなく、その技術を誰のために、何のために使うのかを問い続けたい。
映像は、人を動かすためだけの道具ではなく、本来、人を理解するためのメディアであってほしい。
そのことをあらためて胸に、これからも映像を作り続けていこうと思います。
