〈模型論〉って?東大のアートスクールに参加してみた
ご無沙汰しています。牟田です。
久々にnoteを開いたら、5周年のバッジが表示されました。
継続の証というより、ほぼ放置の証明・・。
映像のことを書こうとすると、どうしても肩肘張ってしまう。
継続に一番意味があることはわかっているけれど、ちゃんと書こう、意味のあることを書こう、と思うほどだんだん書けなくなってしまう。
なので久々の今回は、映像からちょっと離れて、最近参加したイベントのことを書きたいと思います。
東大のアートスクール「アルス・ノーヴァ」に参加してみた
東京大学が新たに開講したアートスクール「アルス・ノーヴァ」を開校したと聞き、今回はその予告編である〈トレイラー〉と呼ばれるイベントに参加してきました。
アルスノーヴァは、東京大学を舞台に上演される新しい実験的なアートスクールです。ここでは「アート」を単一の分野として扱うのではなく、ラテン語の「アルス」という語源に遡り、つくること・感知すること・考えることのための「術」の総体として捉え直します。
目新しさは感じませんが、東大の中に知を横断する新しい場が生まれたこと自体、とても意義深いことだと感じました。アートを狭義の芸術作品ではなく、「つくる・感じる・考える」ための術として捉え直す。(アルスという言葉への言い換えの真価はよくわかりません)
私は学際情報学府の出身ということもあり、こうした学際的な知のあり方には、個人的にも強い関心があります。
今回のテーマは「模型術」。
世界を圧縮し操作可能にするモデル行為を横断的に学び、その翻訳と再構成を通じて新たな模型とその用途を構想します。
模型を、単なる縮小物ではなく、世界の複雑さを圧縮し、観察し、操作可能にするための思考の道具として捉える。理論モデル、モデル生物、建築模型、商品のモックアップ、折紙、ブロック玩具などなど、多様なモデル実践を横断できそうな魅力的な切り口。
6/14(日)、艷やかな緑が迎える駒場キャンパスに訪問。限定100人(多い!)のイベント。注目の高さが伺えました。

〈シワの観察〉と〈レゴ〉の二本立て
イベントは、講師陣の短い自己紹介的な講義、実践、ワークショップが織り交ぜられた構成。配られた折り紙を折ってシワを観察する、レゴ(LEGO SERIOUS PLAYというメソッド)を扱う講師たちのふるまいを見る、といったワークが用意されていました。
模型論で、レゴは確かにわかりやすい題材だなと思いました。レゴには、素材、単位、接続、組み替え、構造化の思考がある。模型術を考える入口として、それらを扱うこと自体は面白いと感じました。
ただ「模型術」というテーマは本来、とても広い射程を持ち得ます。
科学における理論モデル、モデル生物、建築模型、都市計画、デザインのモックアップ、映像における構成や編集、社会制度を理解するための図式など、さまざまな問いや実践へひらくことができる。
だからこそ、今回あえてシワとレゴに絞るのであれば、なぜこの範囲に絞るのか、その限定によって何が深く見えてくるのか?その補助線がイントロダクションとして、もう少し必要だったように感じました。
とはいえ、配られた折り紙をぐしゃぐしゃにして、じーっと観察。
私は、最初に強めの折り目をつけて、全体にシワが寄ったときにそれがどう作用するのか実験してみました。

観察すること約30分・・・。一部の人に講師が思いを尋ねて回っていたものの、坐禅のような時間に、周囲の参加者の雰囲気が次第にヒリヒリとしていく・・。とはいえ、自分なりにシワと対峙してみる。





平面の折り紙を、シワとして一度立体化。再度平面化してみると、非常にユニークなデザインになりました。AIのランダム生成との比較も面白そう。
そして、アウトサイダー・アートの表現パターンの一つにとても似ている気がして、なんだか気になってきました。
印象的な問いと出会う
シワの観察に続いて、講師陣がレゴを扱う過程を観察するという不思議な時間。一定時間のワークのあと、それぞれが作品に込めた想いを言語化する。
ある講師が「誰も選ばなかったパーツはありますか?」と問いかけていました。これは、とても重要な視点だと思いました。(最初にパーツ全体を見たかったけど)
模型化するということは、何かを選ぶこと。
そして、何かを選ぶということは、同時に何かを選ばないことでもある。
模型は、世界を見えるようにする。わかりやすくする。しかしその裏側では、捨てられたもの、使われなかったもの、こぼれ落ちたものが必ず発生する。
私の生業である映像もそう。何を撮るか、どうフレーミングするか。どの言葉を残し、どのカットを捨てるか。誰の視点を中心にするか。作品として見えているものの背後には、必ず大量の「選ばれなかったもの」がある。
模型化の功罪や倫理について、考えが拡がります。
また、別の講師が、レゴの簡単さについて「普段は溶接で物と物をつなげているので、その簡単さに驚いた」と話していたのも印象的でした。同じ「接続」でも、レゴと溶接では、身体感覚も、不可逆性も、失敗の重みも違う。
この発言をされたのは、鉾井喬さんというアーティスト。
3.11のときにNHK福島放送局に入局1年目。カメラマンとして津波を撮影したことがきっかけとなり、アーティストに転身したという、シンパシー感じる気になる方でした。
会場では、撮影・モニター出し、スイッチャーをしながら参加者としても存在するという、非常に過酷な役回り。他人事ならぬ心配で、ソワソワしました・・・笑
とにかく、こういうそれぞれの経験の差異にこそ、分野横断の手がかりがあったように思います。だからこそ、こうした問いやコメントをもう少し深める時間があれば、今回の場はとても豊かになったのではないかと感じました。
「問いを場として回収すること」の大切さ
ちょっと気になることもありました。
冒頭、講師が自己紹介の中で、自身の作例を見せながら「これは模型でしょうか?」という問いを繰り返していました。
この問いを受けて、いろんなことを考えました。作品と模型の違いは何か。再現物なのか、思考の道具なのか。模型は何かを表すものなのか、それとも何かを操作可能にするものなのか。
問いを投げることには、本来、議論や回収の設計が伴うべきだと思います。参加者がそれをどう受け取り、自分の経験や専門とどう接続し、他者の視点とどう照らし合わせるのか。
問いは、置かれただけでは深まりません。投げたままにされた問いは、開かれた態度であると同時に、参加者に解釈を預けきった乱暴さにもなり得ると感じます。
普段の番組制作でも、大きな問いを視聴者にぶん投げるような番組演出・構成はあまり好きではないので私自身は避けています。「視聴者に考えてもらうため」とその手法を肯定する人も少なくないですが。
また今回、応募時には作品例の提出が必須で求められていました。作品の解説、さらにあなたの考える模型論、モデルとは?といった難しい質問もあったと思います。
それであれば、参加者の実践や関心が何らかのかたちで場に反映されるのだろうと期待します。すべての作品を丁寧に扱うことは当然困難ですが、「なぜ提出させたのか」「場の設計にどう関係しているのか」については、説明があってもよかったのではないでしょうか。
アートに関わる人であれば、モックみたいなものであっても作品というものは本人の人格そのものであったり、分身であったり、いずれも大切なものであるということは想像できると思います。
集合知や分野横断を掲げるのであれば、参加者は単なる受講者ではなく、場を構成する知の一部であるはずべきだと感じました。
4時間の場を設計する難しさ
途中で離席する参加者が目立ちはじめた頃、主催側からは「リソースの有限性」についての説明がありました。新しい試みに制約はつきもの。予算、人員、時間のすべてを理想通りに整えることは難しい。
ただ、今回掲げられていたのは「世界を圧縮し操作可能にするモデル行為を横断的に学び、その翻訳と再構成を通じて新たな模型とその用途を構想する」という、とても大きな目標でした。それに対して、今回の4時間がどこまで近づけていたのか。横断的な学びになっていたのか。その点には、少し疑問が残りました。
リソースが有限なのは、主催側だけではありません。
日曜日に全国から集まった参加者の時間的リソースもまた、有限です。だからこそ、限られた条件の中で、何を問い、何をどう接続し、何を持ち帰ってもらうのか。4時間(ちなみに「国宝」は2時間55分)という体験として、もう少し緻密に設計されているとよかったのではないかと個人的には感じました。
対話こそ、 場の核になり得たはず
今回のように、理念もテーマも大きく、参加者側にも強く多様な関心がある場であれば、対話は付け足しではなく、むしろ場の核になり得るはずです。
一番残念だったのは、参加者との対話はほぼ質疑応答の時間に限られていたこと。さらに、その僅か5分の質疑応答も、会場転換と並行して行われるかたちでした。これは非常にもったいない設計だったと思います。
参加者が何を受け取り、どこに違和感を持ち、自分の専門や経験とどう接続したのか。それをぶつけあう時間こそが、集合知や分野横断という虚像になりがちなビジョンに血が通う重要なプロセスだったのではないでしょうか。
そもそも対話が、4時間もあるなかで質疑応答の5分に限られていたこと自体、参加者の知が交差することを、場の中心には置いていなかったようにも見えてしまいます。
「分野横断」の難しさ
改めて、「分野横断」ということの難しさを痛感する体験でした。
分野横断とは、それぞれの見方や方法がぶつかり、翻訳され、別の問いに組み替わることではないでしょうか。集合知もまた、参加者が同じ作業をするだけではなく、各自の知や経験が接続され、個人では到達できない理解に変わることだと思っています。
折紙やレゴを入口にすることは良いと思います。ただ、それらを入口にするなら、そこからどのように外へ開くのか。その回路の設計こそが、アルス・ノーヴァそのものと言えるのだと思いました。
次回に期待!
いろいろと書いてしまいましたが、アルス・ノーヴァの理念そのものは、とても魅力的だと思っています。
ウェブサイトや告知のクリエイティブも含めて、期待値を高める力がありました。東京大学という冠のアートスクールへの期待は、なかなか大きいものだと思います。
今回のような4時間のワークショップに加えて、今後は3000人規模のイベントも予定されていると聞きました。そうなると、テーマの専門性だけでなく、場をどう設計し、参加者の知をどう引き出し、どう回収するのかという、ワークショップ設計やファシリテーションの知がますます重要になるはずです。
私自身、学際情報学府時代に、尊敬する先生のもとで、ワークショップの設計、実践、振り返りを学ばせてもらいました。思っていたほど簡単なものではありませんでした。むしろ、心が折れるような試行錯誤の中で、ようやくわずかな光明が見えるような、かなり厳しい経験でした。
母校には、分野横断、分野接続、学際領域で存在感を示してほしいと思っています。
次回は、参加者の知や経験が交差し、新しい問いや視座が立ち上がる場になることを期待しています。関係者の皆様、ありがとうございました!
