短編 ただ、尻を顔にしたかっただけなのに。
あの日、尻と顔が入れ替わった。もともとはあたしが望んだことだった。先のオリンピックの予選選抜に敗れたあたしの元へ、一通の手紙が届いた。
差出人も宛名もない、雑に郵便受けに突っ込まれた手紙の内容はこうだった。
「あなたの敗因はたった一つ。呼吸だ。私であればその原因を解決できる」
失笑した。そんなこと分かりきっている。あたしの肺活量は一般的な人に比べても弱い。水泳選手ならなおさら。更に生まれつきの骨格のせいなのか、水泳を始めた四歳のころから上手く息継ぎができなかった。
──ハンデの無い人間などいない。
故に努力する。息継ぎが下手ならばストロークの距離を稼げばいい。人より劣っているのならば、長所を伸ばせばいいだけだ。
フッと嗤った。これ、前に取材を受けた時にそっくりそのまま答えたやつだ。だが、結局その記事が世に出ることはなかった。
段ボールを積み上げたワンルームの中、カーテンから漏れる斜陽の中で涙が頬を滴った。
「くっそ、くっそ、くっそ、くっそ!!」
ビリビリと手紙を破り捨て、あたしはボロボロのパンプスに爪先を入れた。
指示された場所に行く。なにこれ、普通の病院じゃん。それが最初の感想だった。隣の県だから来たことはなかったが、Googleマップにも普通に出てくる。
日曜日だから誰もいないと思った。医院の扉の前でぼーっと突っ立っていたら、奥から老人が現れた。意外にも白衣はパリッとしていて、とてもあんな手紙を寄越した人間と同じとは思えない。
「吉川さんだね、よく来てくれた」
待合室に通される。古い医院にありがちな年季の入った長い椅子には、ところどころ透明なガムテープで補修がされていた。本棚には「カイジ」や「アカギ」と並んで、なぜかお決まりの「日本の歴史」が置いてある。
消毒液の匂いを嗅ぎながら、なんだか懐かしい気持ちに浸っていたら緑色の診察室の扉が開いた。
言われるがままに診察台に寝かされる。
「私はね、吉川さんのファンだったんだ。ずっと昔からね」
なんでこの人、あたしのこと知ってるんだろう。そう思いながら、あたしの意識は徐々に薄れていった。
──目を覚ました。
なんだか変な夢を見ていた。とりあえず水を飲もうと立ち上がる。おかしい。立てない。いや、正確には立ってる。だけどいつまでも視界がずっと地面を向いている。自分の体が自分じゃない。腕に力を入れると、ゴロンと倒れた。その拍子に鏡に映った自分を見た。あたしの顔はお尻になっていた。
脚のつもりで腕に力を込めるとやっと立ち上がることができた。逆立ちみたいな感じだが、案外この感覚はすぐに慣れた。そしてもう一度鏡を見る。
──あたしのお尻、顔じゃん。
目や鼻、口などの感覚器の位置は何も変わっていない。だが、私はそこで試しに肛門に思いっきり力を入れてみた。
その瞬間、口がキュッと窄まり、ブゥウウウウウ!!!!という音を射出した。
ほっぺたの尻肉がぶりぶりと跳ねている。一体どういう原理かは分からない。だが、ついにあたしは念願を叶えることができた。
顔と尻が入れ替わった以外に特に不都合は無かった。足と手の感覚が多少引きずられたようだが、日常生活に影響はない。
あたしは思い切って、再びクローゼットの奥で埃をかぶっていた水着を取り出した。あの日から、もう水泳とは手を切ったと思っていた。だけど、あたしの心に燻っていた火はまだ消え切っていなかった。
水泳の花形、クロールにおいて一番水面より高く出ている場所、それは尻だ。口のように下を向かず、天を向いている尻で呼吸することができれば、息継ぎなどしなくても何メートルでも全力で泳ぎ切ることができる。
──試したい。
市民プールに来たのなんて何年振りだろう。暑い日差しでパンツが蒸れる。早く水着に着替えたい。はやる気持ちを抑え、受付で手続きを済ます。
「いらっしゃいませ。今日はプールのみですか?それともスパもご利用ですか?」
「ブ、ブウウゥゥゥウウウ!!!!」
目視はできないが、何かとんでもないことが起こっていることだけは分かる。あたしはパンツの中から、「あの、プールとスパの利用です!!」と大声で叫んだ。
その瞬間、二度目の「ブウゥウウウウウウ!!!!」という音がパンツを突き破りフロア中に鳴り響く。上下の肛門から放ったとんでもない爆音と爆臭。後悔の涙は驟雨のように脚の間から漏れ落ちて、足元に黄色い水溜りを作った。
しばらくの無音。そして、遠くからゆっくりと近づくサイレン。手錠の音はカチャリと落ちた。
腕を引っ張られながらも、上の口は何かを喋り続けてる。パトカーの中に充満する臭い。警察官は何も言わない。でも、ジーーーという窓を開ける音が、どこかセミの鳴き声に重なった。
あたし、なにしたかったんだっけ。
ただ、ただ、尻を顔にしたかっただけなのに。
[了]
ごまつぶさんのリクエストにお応えして書きました。

お口直しに、こちらからごまつぶさんの素敵すぎるエッセイをご覧ください。
(こっちが本編です!)
