才悩の話。
得意なことがあった事
今じゃもう忘れてるのは
それを自分より
得意な誰かがいたから
ずっと前から解ってた
自分のための世界じゃない
問題無いでしょう
一人くらい 寝てたって
大切な夢があった事
今じゃもう忘れたいのは
それを本当に叶えても
金にならないから
痛いって程解ってた
自分のためのあなたじゃない
問題無いでしょう
一人くらい 消えたって
音羽しーなさんが、「汚いジャイアン」について書かれていた。
自分にとって、見せたい自分は綺麗なジャイアン。逆に見せたくない自分は汚いジャイアン。音羽さんの記事を見てから私も、自分にとって汚いジャイアンは何かをずっと考えていた。
見せたくないもの。隠したいもの。私はnoterで、noteを通じて色々なことを綴っている。それは思考の排泄物であり、私の生の声だ。書きたい時に書くだけ書く。ここで言う「書く」は「カく」でも同じこと。私にとって、noteを書くことはオナニーと同じだ。
基本的にアイメッセージしかない私の話の中にそのヒントがある、そんな気がして今日は自分の書いたこれまでの投稿を眺めていた。
そこで分かった。私は自分をよく見せたくないことに異常なほど執着している。もちろん人を紹介するときや、私の所属する〈文芸的露出狂集団チ部〉は別だ。そこにはリスペクトがある。だから当然知って欲しい、見て欲しいという気持ちがとても強い。
他方、私のことになると全く話が変わる。私は自分のことを一貫して日陰者のナメクジだと言っていて、根暗で陰湿だと主張している。
しかし、私が書くものは全く違う評価を受ける。文章が綺麗、何でもできる、インテリっぽい、頭が良さそう。こういう言葉を何度も何度もいただいた。そして、それに対して私が「いやいや、私は本当に日陰者ナメクジなんですよ」というところまでが一つの様式美になってる節まである。
もちろんその言葉自体はとてもありがたい。なぜならば、私にとって絶対的な基準があり、それは「評価は他人がするもの」だからだ。
でも、このやりとりを少し俯瞰してみてみると、どこか私が謙遜を茶化して言っているようにも見えるのだが、私自身はほんとうに自分のことを日陰者のナメクジだと心の底から思っている。
なぜそう思うのか。それは私にとって自己肯定感という概念が根本から欠落しているからだ。
私は自分のことを器用貧乏の能力があると思っている。だがそんなものは才能でもなんでもない。それは、幼い頃から今までずっと人の気持ちが分からないために、観察ばかりをしてきたことによって産まれた副産物に過ぎないからだ。
観察、そして模倣。たぶん、これが私の根底だ。私はやろうと思えば結構なスピードでそれなりのコピー品を作ることができる。文章にしたってそう。誰かの文体を真似したり、思考のクセみたいなものをトレースする力がある。
簡単に言えば偏差値65くらいのものであれば、私は卒なくアウトプットできてしまう。でも、いわゆる才能がある人というのは違う。運も含めた上位0.001%の世界。それは私にとってはどこまで行っても手が届かないものだ。
ほんとうはそれが欲しい。
だから私はいつも、自分で生み出すことに頭を使っている。短歌、詩、短編、小説など、とにかく無理やりにでも脳みそから引っ張り出す。そうでもしないと、すぐに誰かのコピーを始めてしまうことを知ってるからだ。
しかし、どこまでいっても己の未熟さが付き纏う。もともと贋作から産まれた私が作るものは、綺麗なものに落ちてしまう。美しさなんかいらない。もっと汚くていい。そう思っているのに、私のなかの贋作たちがどこかでストッパーをかけてくる。
結果、何を書いても無駄に文学的な表現になり、それ自体が面白さになっているとは思うのだが、私はまだ殻を破れていない。
先日、昔の同僚と飲む機会があった。
その人は私に対し、マンガのキャラだったら誰に憧れるかと訊いてきた。その人は私が答える前に、自分の憧れはドラゴンボールの悟空だと言った。その理由は、悟空は元々サイヤ人という戦闘民族で、ぶっちゃけ仲間のことなどどうとも思っていない。故に自分より強い奴を斃すという目的に向かって愚直に真っ直ぐだからだと。
私はその答えに妙に納得した。その人は自分よりもずっと歳が若いが、状況がカオスになればなるほど楽しめる、そういうタイプだ。
そして私の番になった。私は何も答えられなかった。思い浮かばない。そこで、私の中に「憧れる」という感情がぽっかり無いことに気がついた。
世の中の全ての人は自分よりも才能がある。そして、それは自分には決して届かないものだという諦め。私の長い沈黙を経て、その話は別の話題に移った。
長くなったが、私のなかの汚いジャイアンは「自分に才能が無いのに、それを才能があるように見せようとする浅ましさ。そして、それを実現するために、これまでの人生で培った観察癖を転用することでカバーしてしまえる能力があり、私自身がその能力を制限できない自分の弱さ」ということになるのだろう。
これまでの人生、私は取り繕うことばかりしてきた。そしてそのツケをいま、必死に精算しようとしている。
次回のチ部本では、そんな綺麗な言葉はいらない。きっと遠慮もいらない。ガラクタまみれの贋作どもを黙らせて、私は私の心に向き合う。やり方は、分からない。でも、たぶんその過程もきっと答えのひとつになる、なんだかそんな気がしている。
