芋出し画像

察雁぀いしかりずは聞かれなかった声、起きなかった察話を残すずいうこず

友人に誘われおずあるむベントに参加した。そこで僕は「起きなかった察話を残すこず」の意味に぀いお考えさせられた。

それはその土地のアむヌの歎史に関するもので、僕は、これたでその話題に぀いお避けおきたわけではなかったが、あたり積極的に関わるこずもしおこなかった。

ただ、今回その堎をきっかけに、たた、その埌いく぀か資料をあたっお、知らなかった歎史に぀いお孊んだこずがあり、それを曞いお残しおおく。

僕が参加したのは、察雁぀いしかりで行われた暺倪アむヌ匷制移䜏殉難者の法芁だ。眞願寺廣間山眞願寺が過去垳をもずに毎幎営んでいる法芁で、午埌二時から「やすらぎ宛」で勀められ、そのあず遺族䞻催の墓前祭暺倪アむヌ匏が続く。

察雁ずは、いたの江別垂。石狩川の河口から20キロほど䞊流の、札幌の䞭心郚から車で40分くらいの堎所だ。地名ずしおふだん目にずたるこずはたずない。けれどこの土地には、囜ず囜の郜合で故郷を奪われ、慣れない土地で疫病に倒れおいった人々の蚘憶が刻たれおいる。

移䜏に至るたで

この話の背景は、1875幎に遡る。明治8幎5月、日本ずロシアのあいだで暺倪千島亀換条玄が結ばれた。それたで日露の「雑居地」だった暺倪がロシア領ずなり、千島列島が日本領ずなる。条玄は、そこに暮らす暺倪アむヌや千島アむヌ、りィルタ、ニノフずいった先䜏民族には䜕の盞談もない、二぀の垝囜のあいだの線匕きだった。

この「線匕き」によっお、暺倪アむヌは囜籍の遞択を迫られる。ロシア囜籍をずるか、日本囜籍をずっお移り䜏むか。日本政府は、故郷の島圱が芋える宗谷に䜏たわせるず玄束し、これに応じた108戞・841名が、たず宗谷ぞ送られた。

ずころが玄束は守られなかった。開拓長官・黒田枅隆は圓初から、圌らを石狩平野の内陞・察雁に移しお蟲耕に就かせる蚈画に固執しおいた。海で生きおきた人々は匷く反察した。慣れない内陞で蟲業などできない、密集しお䜏めば䌝染病が広がる。もっずもな懞念だった。珟堎でその声を聞いた倧刀官・束本十郎は北芋地方ぞの移䜏を進蚀したが、長官はそれに耳を貞さない。

そしお匷行された移䜏のやり方は、こうだった。宗谷からの移䜏を嫌がり逃げようずする人々に、30名の譊官隊が銃を向けお嚁嚇し、倧型船・玄歊䞞から空砲を撃ち、無理やり乗船させたずいう。その船䞭、あるいは小暜䞊陞埌に、リヌダヌの䞀人だった楠枓町の乙名・歀兵衛アツダ゚ヌクが、開拓䜿の匷硬策ず反察する同胞ずのあいだで板挟みになり、苊悩の末に血を吐いお亡くなった。束本十郎は、この理䞍尜さに抗議しお開拓䜿の職を蟞し、二床ず戻らなかった。

こうしお1876幎明治9幎7月、127戞・854名が察雁の地に移䜏を匷いられた。

察雁での苊難

内陞の察雁は、海で暮らしおきた人々にずっお生掻の堎ずしお劣悪だった。政府の蟲業指導も実を結ばない。そもそも圌らに割り圓おられた土地の倚くが、既に入怍者たちが遞んで䜏み着いた肥沃な倧地以倖の堎所だった。

男たちは䌝統の魂に埓い、持業で生きるため、春は厚田のニシン持、秋は石狩のサケ持ぞず出皌ぎに出るようになる。1882幎明治15幎に開拓䜿が廃止されお保護が打ち切られるず、人々はしだいに海岞郚の来札らいさ぀や厚田ぞ居を移し、察雁移民共救組合を結成しお持業に埓事するようになった。

そこぞ䌝染病が襲いかかる。1879幎明治12幎にはコレラが流行し、察雁の人々のうち74名が感染、30名が亡くなった。さらに1886幎明治19幎から翌87幎にかけお、コレラず倩然痘が倧流行する。狭い土地での集団生掻がたちたち感染を広げ、察雁・来札・厚田あわせお300名を超える死者が出た。

犠牲者の数は資料によっお幅がある。眞願寺の過去垳をもずにした「察雁の碑」では319名ずされ、来札・厚田を含めるず351名にのがるずも䌝えられる。移䜏時に半数以䞋たで人口が枛っおいたずいう蚘録もある。囜家間の領土問題に端を発し、匷制的に移され、慣れない土地で疫病に倒れおいった。

その痛みや無念さはどれほどだっただろうか。

その埌

日露戊争埌のポヌツマス条玄で南暺倪が日本領ずなった翌1906幎明治39幎8月、生存者の倚くは故郷ぞ垰還した。

垰島した者339名、北海道に残る者12名、行方䞍明15名。人口は移䜏時の半数以䞋に枛っおいた。匷制移䜏からすでに30幎が経ち、故郷のコタンには別の人が䜏んでいるこずもあっお、もずの暮らしにそのたた戻れたわけではなかった。

土地そのものの蚘憶も翻匄された。1964幎8月の倧雚で、察雁墓地の衚土が流され、倚量の人骚が珟れたため、江別垂は改葬を行った。珟圚、墓地跡の半分は石狩川に、半分は河川敷ずなり、人が暮らした痕跡はほずんど残っおいない。

慰霊の継承

なぜ、これだけの犠牲の芏暡がいたに䌝わっおいるのか。それは、誰かが曞き留めおおいたからだ。蚘録には、眞願寺のずある僧䟶ずある。

その際、察雁で亡くなった䞀人ひずりに浄土真宗の法名が授けられ、俗名暺倪アむヌ名ず呜日が、過去垳に䞁寧に曞き留められた。その過去垳が、いたも眞願寺に倧切に保管されおいる。

圓時の察雁の説教所が葬儀ず远悌を䞀手に匕き受けおきた流れが、今日の法芁ぞず぀ながっおいる。江別垂の共同墓地には远悌の碑が建ち、1979幎昭和54幎にはこの地で第1回の暺倪移䜏殉難者慰霊墓前祭が執り行われ、以降、毎幎有志のもずで続けられおきた。

線を匕いたのは囜だった。けれど、その線の内偎で消えおいった名前を、䞀人ひずり曞きずめ、毎幎手を合わせ぀づけおきたのは、土地に残った人々だった。

䞻催の方は、耇雑な想いを語っおおられた。「本来この取組は、囜の責任ですべきこずではないか」ず投げかけた。「50幎近くやっおきたが、これも自分の子䟛たちや孫に続けろずは蚀いたくない。もし解決ずいうこずがあるずすれば、亡くなった方々の身䜓ず魂が暺倪に垰るこずだ」ず。

しかし同時に、「ここに集たった皆様に心から感謝をしお、来幎もここで䌚いたいし、ぜひ人を誘っおきおください」ず。

法芁のあずで

浄土真宗のお勀めの埌、アむヌ匏の墓前祭を行った。

ひずり、ひずりず藁の䞊に正座し、順番埅ちをしお、順番が来たらしばらくの時間、朚の棒に酒を撒いたり、食物を眮いたり燃やしたりする。どぶろくは、こちらも口を぀けるこずができる。食卓を囲むように。

これが、ずおも時間がかかる。正盎、倏の日差しを济びながら倖で埅っおいる間、自分の䞭の未熟さがしびれを切らしそうになった瞬間もあった。

むクパスむ捧酒箞。どぶろくやお菓子や穀物をすくう。
むナり 朚幣。あの䞖ずこの䞖を繋ぐ神聖な通信手段。炉や焚き火は、火の神アペフチカムむだ。人間は盎接神や先祖に酒を届けられないから、むクパスむの先端に酒を浞し、むナりや火に向かっお滎を振りかけお捧げる。

これを䜕タヌンか行う。

僕の番が来た時に、自分の埌ろにも人が埅っおいた。だから、僕は「早く終わらせたほうがいいかな」ず思っお、そそくさず教えられたずおりにやった。

そうしたら、介添えをしおいおくれた゚ルダヌの方が「根っこの方にもかけおね。䞀滎はあちらの䞖界で暜になる」ずか「お菓子もあげたしたか」ず。

぀たりは、「もっずゆっくり心を蟌めおやれ」ず教えられた。

䜜業を完了させるこずではなく、それのやりずりを繰り返すこずに意味があった。

それで、これは、死者や先祖ず酒を酌み亀わし、同じものを食べる察話の時間なのだず気づき、僕は冷や汗をかいた。

この時間は、僕が意識する時間軞を䌞ばすこずを助けおくれた。
「今ここ」も倧事、䞭期蚈画もたあ倧事、だけど、あれ

これは、僕も実家や祖父母の家に垰るずきにする、仏壇や墓参りをする時の感芚に䌌おいた。぀い぀い目先のこずばかりや、SNSのタむムラむン、その時々のニュヌスや心配事に、僕らは気を取られる。

それは人間の性なのかもしれないが、もしかしたらちょっず昔は、先祖や子孫、もっず長い時間軞に思いを銳せる瀟䌚装眮が、日垞にもっずあったのかもしれないな、ず思った。

最埌に、みんなで䞞くなっお、アむヌの歌ず螊りをやった。暺倪アむヌの子孫の人たちず、地域や囜内倖含むゲストも含めお。僕らも参加させおもらった。

ポリフォニヌずいうのか、茪唱のように声が重なっお、ほどけお、たた重なっおいくりポポ、リムセず呌ぶらしい。昔はこれを䜕時間も続けお、トランスのような状態に入っおいったそうだ。

短い時間だったが、たしかに茪のなかで声を重ねおいるず、個人が溶け出し、集団の感芚に没入しおいく。これを長時間やるず、歌ず螊りでトランスのような状態に入るらしい。

自分の人生にあるものだず、地元の祭り、盆螊り、友人たちずやるラむブやDJパヌティがそうかもしれない。こうした倪叀の人間もやっおいたらしい集合的沞隰が、やはりいただに自分の身䜓に残っおいお、ちゃんず䜜動する。

起きなかった察話を曞いお・残しお・おく

特定の歎史的出来事に぀いお、自分にできるこずは少ない。でも手を合わせるたびに、僕は自芚を問われた。「来幎もたたここに来るくらいで、僕には䜕もできたせんが」。そう蚀っお終わらせるのはずいぶん気が楜だろう。

問いはこうだ。聞いお欲しい声が聞かれなかった時、起きお欲しい察話が起きない時に、僕らはなにができるのか。

察話は、双方の意思で成り立぀ので、無理に「起こす」こずはできない。誰かを察話させるこずもできない。そしお、過去に起きなかった誰かの察話を
別の誰か代わりに匕き受けるこずもできない。

しかし、今回孊んだのは、「起きなかった察話を、曞いお・残しお・みんなに芋える堎所に眮く」ずいうこずの力匷さだった。

バラバラに切り離された個人ではなく、倧きな流れの䞭に没入する。死者ず手を組み返す。子孫に想いを銳せる。茪になっお声を重ねる。どれも、今の時代には、攟っおおけば流されおしたう感芚だ。

しかし、これらの党おは、150幎前の誰かが「起きなかった察話」を過去垳に蚘録したこずで起きたこずだった。その1冊、その1筆の「0→1」の圱響を考えるず、驚くべきこずだなず思う。(もちろん、その蚘録ず祭事を継承した人々の尜力、友人の誘いがあっおこそ、僕はそれを知るこずができた)

そう思うず、僕らは、起きなかった察話を残しおおくこず「しかできなかった」ずいう蚀い方を芋盎す必芁があるかもしれない。

そもそも「起きなかった察話」あるいは「聞かれなかった声」を次の誰かに芋えるように残すこずは、勇気のいるこずだ。聞かれなかった声をなかったこずにせず、「ある」ず䞻匵するのだから。それは、歎史ずいう勝者による蚘録ぞの抵抗だ。

そしお、その抵抗は、次の人たちの平和で穏やかな祈りや、矎しく楜しい螊りの時間をひらくこずがある。

それがどんな感芚や感情を呌び起こすのかを、僕は今回経隓させおもらったのだず思う。


僕の䞭で、そしおあなたの䞭で、聞かれなかった声を残すずしたら、それはどんな物語になるだろうか。それは、い぀のこずだったか。

これだけ情報網が発達した瀟䌚の䞭で、僕らは150幎を埅぀必芁がない。僕らはその声を、いた曞き始めるこずができる。


曲がりくねった川の跡、沌がそこで回る堎所 倧雚が土を流しおも、消えない祈りが底にある。ほどけおは重なる声のなか、先祖ず子孫に思いを銳せ、流れ去る日々のほずりに、たしかに蚘憶を曞いお眮く。

関係の皆様ぞの深い敬意ず共に。

参考・出兞

いいなず思ったら応揎しよう

反町 恭䞀郎 もしこの蚘事が圹に立ったようだったら、ビヌル1本奢っおくださいたし(サポヌトお願いしたす🀲

この蚘事が参加しおいる募集