どこの馬の骨とも分からない ~天皇を巡るわたしたちの差別意識~

「愛子さまが次の天皇でいいじゃないか」という世論が強いなか、「原則的に男系男子を維持」というように皇室典範が改正された。
皇族ではない旧宮家の男系男子を、皇族の養子に迎えて皇族に復帰させる、という話である。

「どこの馬の骨とも分からない人間が天皇になるなんて」という声が湧いて出た。600年前に枝分かれした家の子孫だから、もはや赤の他人みたいなものだ、というわけだ。旧宮家以外の(ふつうの)男子であれば、ますますどこの馬の骨とも分からないわけだ。

しかし「馬の骨」がダメだと言うなら、雅子さまも美智子さまも、皇室から見れば立派な「馬の骨」ではないか。お二人とも民間のご出身である。それなのに、こちらへの「馬の骨」批判はあまり聞かない。

そう。「男系」の社会において、お母さんがどこの誰であろうと、勘定すらされないからだ。

これは、現代的な発想からすると時代遅れに思う。

しかし、考えてみると、もし本当に女性天皇が誕生したら、その「夫」になる人はどうなるのか。

実はこれ、日本の歴史上、一度も存在したことのない役職なのである。過去の女性天皇は全員、独身のまま即位し、独身のまま生涯を終えている。夫となる男子の称号すら決まっていない。つまりわたしたちは、「女性天皇に賛成」とは言いながら、その配偶者になる人物がどんな目に遭うかまでは、あまり想像していない

眞子さまのご結婚の際の小室さんへのバッシングを思い出すと、これは決して大げさな心配ではない気がしてくる。「シンデレラストーリー」は応援できても、「逆玉ストーリー」はなかなか手放しでは応援できない。これもまた、わたしたちの中にひっそり眠っている差別感覚だろう。男が下から上に這い上がる話は、なぜか女の場合よりも居心地が悪い。

血筋の話も、性別の話も、突き詰めていくと、結局は「わたしたちが何を釣り合いのとれた組み合わせだと感じるか」という、普段は考えもしない差別意識、階級意識の問題なのである。

昔は徳川家だの藤原家だの、皇室と釣り合う「格」を持った一族がいくらでもあった。今はそういう家は、制度としては存在しない。華族制度は憲法によってきっぱり廃止されてしまったからだ。だから今、皇室と「釣り合う」相手を探そうとすると、途端に基準がなくなって、みんな困ってしまう。

天皇制というのは不思議な装置だと思う。ふだんは「みんな平等」という顔をして暮らしているわたしたちの中に、実は血筋への意識や、男女の序列意識や、「あの人は皇太子の近くで育った特別な人だから」という謎の格上げ意識が、こっそり息をひそめて生きている。それが天皇の話になった途端、堂々と地上に顔を出してくる。

批判するにせよ擁護するにせよ、天皇制について語るとき、わたしたちは実のところ天皇の話をしているようで、自分自身の中の物差しを話しているのかもしれない

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追記。
保守派のいう「万世一系の維持」というのは、科学的なものではなくて、ストーリーである。神武天皇以来の血筋なんだというストーリーを、国民は信じて、そのストーリーに頭を下げるんだ、と。
「あなたが天皇にひれ伏しているのは、その人自身の人格や功績にではなく、その人が背負っている物語の重みに対してですよね。だとしたら、その物語が途切れた瞬間、あなたの中で何が残るんですか」と。

金本位制から離れた通貨と同じである
裏付けはない。でも、みんなで信じて、その価値を守っている。

平成天皇も、令和天皇も「象徴としてのお務め」を大事にしている。これはまさに、「信用」を維持するための行動である。

そうすると、「では、信用を維持するに足る人物であれば、天皇になってもいいよね」という議論になる。これは、公平な感じがする。公平なんだけれども、今度は、「じゃあ、誰が天皇になるのか」という問題が、今以上に大きな問題になってしまう。
男系男子だの、長子相続だのというのは、実は争いを防ぐための装置なのである。

天皇制というものを維持させるならば、そこにリベラルな発想は入り込めない。だから、「悪いけど、そっちでなんとかしてくれないか」ということになる。皇族や旧宮家の男子に、「天皇」とかいう不思議な重責を負わせることになる。

言い方は悪いが、「天皇の長男に産まれちゃったらしょうがない」ということもあるだろうが、一般人として生まれ育ったのに大人になってから「皇族になって、自分の子供を天皇にしませんか」と言われるのは辛いだろう。それを自分の意志で決めなければいけないというのは。

特定の少数の人達に「押し付けている」現状を、わたしたちは改めて認識させられる。

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