『白紙の軍記 ――霧見柳斎覚書――』 第一話「飯、二つ」
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これは、戦国時代の軍記に一行も書き残されなかった男の記録です。
誰も死なず、夜襲も起こらず、三千の兵がそのまま朝を迎えた平穏な戦。
功名を競い合う時代の裏で、「何も起こさぬこと」に生涯を捧げた軍師・霧見柳斎と、
その一言によって命を拾われた一人の足軽の物語。
まずは、登場人物たちの背負うものからご覧ください。
主な登場人物
1. 霧見 柳斎(きりみ りゅうさい)
「わしは首の数で勝ちを数えぬ。朝に、来たときと同じ数が立っている。それを勝ちと呼ぶ」
三千の兵の采を振る軍師。しかし、武者震いも功名心も持たず、刀すら帯びていない。 彼が武器とするのは、他人の呼吸や足音の乱れから内面を察してしまう異常なまでの「観察眼」と、戦を起こさせずに終わらせる「布石の手腕」。 味方の士気を煽るのではなく、死に急ぐ者の隣にそっと座り、冷めた飯を分け与える男。軍記には彼の名は一切残されていません。

2. 佐々木 藤次(ささき とうじ)
「名より、母の椀を守る方を選ぶ」
天正八年(17歳・足軽): 前年の秋に故郷の村を焼かれ、飢えた母と妹を救うため、十貫の銭と引き換えに陣の絵図を敵へ売ろうとしていた。名誉も武功も信じられず、暗がりで震えていた夜、柳斎と出会う。

六十年後(77歳・老人): 生涯刀を抜かず、百姓として生き抜いた。沢井の陣で柳斎に救われて以来、六十年間、毎晩欠かさず「二つの飯」を炊き続けている。

3. 犬飼 十兵衛(いぬかい じゅうべえ)
「難しいことは考えん。前に出れば勝つ、それだけだ」

朱塗りの甲冑を身にまとう豪傑武者。常に陣の先頭に立ち、敵の首級を挙げることこそが武士の生き様だと信じている。 悪意は一切なく、むしろカラッとした気のいい豪傑だが、彼の信じる「戦の論理」は、村を焼かれた藤次のような弱者の心には届かない。軍記には「十兵衛の武威により敵退く」と誇らしく記されることになる。
第一話「飯、二つ」













右筆(ゆうひつ):陣中の帳簿や記録、名簿を管理する事務方の要職。
扶持(ふち):主君から支給される生活給与(米)。
※藤次が陣を売ろうとしたのは、村を焼かれた母と妹を飢えから救うためでした。
柳斎は裏切りを罰するのではなく、「困窮した家族には公的に米が出る制度がある」ことを教え、自ら手続きを手配することで、藤次が裏切る理由そのものを消し去ったのです。


最後に🌿
戦国の世にあって、刀を抜かず、功名を追わず、ただ「昨日と同じ数の兵が朝を迎えること」だけに命を削った軍師・霧見柳斎。
派手な結果や分かりやすい成果ばかりが称賛される時代だからこそ、誰にも知られずに「何も起こさないこと」を守り抜く人の存在を描きたいと思いました。
老いた藤次が六十年間炊き続けた「二つの飯」の湯気が、今を静かに生きるあなたの心に届いていれば嬉しいです。


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