『国宝』――悪魔と契約したんや
映画館で予告を観たときから、『国宝』は面白そうだと思っていた。
吉沢亮なら、演技力は間違いない。
そんな期待もあって観に行ったのだけれど、実際に観てみると、私の中に強く残ったのは、演技の巧さだけではなかった。
喜久雄と俊介。
二人の関係を見ていると、私はやっぱりバディものに惹かれやすいんだなと思う。
同じ世界に生き、同じものを目指しながらも、二人は決して同じ人生を歩んでいるわけではない。
相手がいることで、自分の才能や運命が浮かび上がってくる。
その関係が、とても面白かった。
でも、『国宝』で私が一番ぞっとしたのは、喜久雄だった。
家族とお祭りに行ったとき、娘に「何をお祈りしたん?」と聞かれて、喜久雄が「悪魔と契約したんや」と答える。
そのとき、私は思った。
この人、家族を捨てるつもりなんだ。
まだその時点では、実際に何かをしたわけではない。
でも、あの言葉を聞いた瞬間に、喜久雄の中ではもう何かが決まっているように感じた。
自分が何かを手に入れるためには、何かを捨てなければならない。
そして、その「何か」の中に、家族まで含まれている。
それが怖かった。
そして、その予感は襲名披露の場面で現実になる。
娘が必死に「パパ!」と呼んでいるのに、喜久雄は振り返らない。
あの場面を観たとき、やっぱりそうだったんだ、と思った。
あのお祭りの「悪魔と契約したんや」という言葉は、ただの冗談ではなかった。
喜久雄は、本当に何かを捨ててしまった。
だから、俊介の母親が喜久雄に「あんたは悪魔や」と言ってしまう気持ちもわかる。
彼女からすれば、自分たちの人生まで変えてしまった人なのだから。
でも、喜久雄ひとりを悪者にしてしまっていいのかとも思う。
そもそも、渡辺謙が演じる半二郎が、喜久雄に惚れ込みすぎたことから始まったんじゃないか。
才能を見つけ、惚れ込み、育て、芸の世界へ引き上げていく。
その愛情があったからこそ、喜久雄は国宝へと近づいていった。
でも、その愛情が強すぎたからこそ、誰かの人生を狂わせてしまった部分もある。
もし、どちらかが明らかに悪い性格をしていたなら、もっと簡単だったのかもしれない。
「あの人が悪いから」と、その人の性格のせいにできる。
でも、そうではない。
血なのか、才能なのか。
生まれなのか、努力なのか。
本人の選択なのか、それとも選べなかったものなのか。
何かひとつを原因にしてしまうことができない。
だからこそ、苦しい。
そして、怖い。
才能を手に入れることと、何かを失うことが、ここまで切り離せないものとして描かれているから。
映画を観終わったとき、私は物語を観終えたというより、ひとりの人間の人生を記録したドキュメンタリーを観たような感覚になった。
あまりにも長い時間、喜久雄という人間を見てきたからなのかもしれない。
観てよかった。
人生でこの映画に出会えて、本当によかったと思う。
観終わったあとも、いろいろなことを考えさせられた。
才能って何なんだろう。
人の人生を変えるほどの才能を持つことは、幸せなんだろうか。
誰かに才能を見出されることは、本当に幸運なことだけなんだろうか。
そして、人は何かを手に入れるために、どこまで何かを捨てられるんだろう。
『国宝』を観てから、そんなことをずっと考えている。
そして、最後の喜久雄の表情が忘れられない。
