令和8年2月8日(日) 投開票日 記録者:神崎
官僚日誌|第十七篇・第九位相
令和8年2月8日(日) 投開票日 記録者:神崎
開票が始まる。 数字が踊り出す前に、私は昨夜の自分を書き留めておかなくてはならない。 あの一瞬の迷いさえも、やがて「調整」という名の濁流に飲み込まれてしまうからだ。
(昨夜の記録)
2月7日(土) 19:05 永田町・党本部裏通路 選挙前夜の永田町は、不思議なほど静かだ。 街の喧騒は外にあり、決断は建物の奥に沈んでいる。 廊下を歩きながら、私は違和感を数える。 歩幅は一定。 呼吸は安定。 視線の動きも平常。 だが――判断の速度が、わずかに落ちている。 初めての症状だ。
20:10 内閣府分室 各省の連絡官が最後の数字を持ち込む。
財務省:補正予算の“仮枠”
経産省:半導体投資パッケージ
総務省:選挙後のネット規制案
私はそれらを一瞥で処理できる。 いつもなら。 だが今日は、一つの数字に視線が留まる。 「地方交付税 前倒し配分」 城之内の匂い。
彼は景気対策を止めない。 ただし流れを“国家側”に引き戻す。 これは私が望んできた動きだ。 国家主導、再集中、秩序の回帰。 なのに――胸の奥に、微細な抵抗が疼く。
21:30 屋上テラス 夜気が冷たい。 ネイビーのコートの襟を立てる。 「選挙前夜だ。顔が違うな」 白髪の男が背後に立つ。 「お前、“止める力”に触れて迷っているな」 私は否定しない。 「私は、動く方が正しいと思ってきました」 「時代が動くときはな、動かす奴が必要だ。 だが――動きすぎた時代を止める役も、同じくらい必要だ」
「城之内はどっちですか」 「あれは“止める側”の化身だ。お前はまだ決めていない」
22:40 車中 雪混じりの風が窓を叩く。 スマホに未送信のメッセージ。《補正案、前倒しで走らせますか?》 私は送れない。
動かせば、国は加速する。 止めれば、流れは収束する。 どちらも正しい。 どちらも間違いではない。 だが初めて思う。 私は“結果”ではなく、“動かす行為そのもの”に依存していたのではないか。
23:58 自室 鏡の前に立つ。 背中の開いた黒の装い。 いつもは武器。 今日はただの布だ。 スマホが震える。 非通知。 出ない。 振動が止まり、静寂が戻る。
2月8日(日) 執筆時 明日の選挙結果より先に、 すでに一つの分岐が始まっている。 それは政局ではない。 私が、動かす側であり続けるのか。 それとも一度、止まるのか。
選挙は国の選択。 だが今夜は―― 私自身の選択の夜だ。
