律令国家の成立──持統天皇はどう国家の形を定着させたのか
持統天皇が引き継いだのは、完成した律令国家ではなかった。天武天皇の死後、法を施行し、戸籍を整え、藤原京へ移り、王位を次代へつないでいく。構想途中だった国家の仕組みを、実際に動き続ける政治へ近づけた過程を見ていく。
686年、天武天皇が亡くなった。
しかし、その時点で律令国家が完成していたわけではない。
律令の編纂も、新しい官人秩序も、藤原京の造営もまだ途中にあった。さらに朝廷は、天武天皇の後を誰が、どのようにつないでいくのかという問題にも向き合うことになる。
持統天皇が担ったのは、天武天皇の政策を受け取ることだけではなかった。
作りかけだった国家の仕組みを実際に動かし、それを次の治世へ渡せる形へ近づけていくことだった。
天武天皇の死後、持統天皇には何が残されたのか
持統天皇の立場を考えるとき、最初から安定した国家を引き継いだように見ると、その役割は見えにくくなる。
天武天皇は壬申の乱に勝利したあと、681年に律令編纂を命じ、684年には八色の姓を定めるなど、王権を中心とした国家秩序の整備を進めていた。
しかし686年、その完成を見ることなく亡くなる。
皇后だった鸕野讃良皇女、後の持統天皇は、その直後から称制を行い、天皇として即位する前から政務を担った。奈良県の年表でも、686年の天武天皇崩御後に皇后が称制し、690年に持統天皇として即位した流れが確認できる。
しかも、王位継承も一直線には進まなかった。
天武天皇の死後には大津皇子が謀反の疑いを受けて死を命じられる事件が起こり、天武天皇と持統天皇の子で、681年に皇太子となっていた草壁皇子も689年に亡くなった。
持統天皇の前に残されたのは、完成した国家ではない。
方向は示されている。
しかし制度はまだ完成途上にあり、その国家の中心となる王統も、次へどうつなぐのかが定まったとは言い切れない状態だった。
だから持統天皇の時代を見るときには、
天武朝から続く国家づくりをどう動かすのか。
そして、その政治を誰のもとへ渡していくのか。
この二つを重ねて見る必要がある。
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