律令国家の成立──勝ち取った王権はどう制度になったのか
律令国家の成立は、壬申の乱後に再編された王権が、それまで進んでいた制度整備をさらに押し進め、法・戸籍・官人制度へ組み上げていく過程だった。天武・持統朝から大宝律令までを追い、王権が継続して国を動かす仕組みへ変わる流れを見る。
672年の壬申の乱に勝った大海人皇子は、天武天皇として新しい政治を始めた。
しかし、内乱に勝ったことと、国を安定して動かし続けられることは同じではない。天武天皇以前から進んでいた制度整備を引き継ぎながら、人々を把握し、官人を組織し、地方まで命令を届ける国家の仕組みをさらに整える必要があった。
その積み重ねの先に、律令国家と呼ばれる政治の形が見えてくる。
壬申の乱の勝利をどう政治の仕組みに変えるのか
前回の壬申の乱では、天智天皇の死後、王権を誰が担うのかという問題が大きな内乱へ発展した。
その争いに勝った大海人皇子は、天武天皇となる。
壬申の乱の勝利は、天武天皇に強い政治的基盤を与えた。奈良文化財研究所も、天武天皇が即位後、天皇への権力集中を進めながら律令国家建設を推進したと説明している。
ただし、日本の制度づくりがここから突然始まったわけではない。
670年には天智朝の庚午年籍がすでにつくられており、人々を戸籍によって把握しようとする動きは壬申の乱以前から進んでいた。
天武朝で重要なのは、それまでの取り組みを引き継ぎながら、王権を中心とした国家の仕組みをさらに体系化していったことである。
誰が官人として政治を担うのか。
地方の人々をどう把握するのか。
税や労役をどのような仕組みで負担させるのか。
中央と地方を、どのような行政組織で結ぶのか。
こうした問題を、個々の命令だけではなく制度として整えていく必要があった。
681年、天武天皇は律令の編纂を命じる。同じ時代には官人の勤務評価や位階、八色の姓なども整えられ、古くからの氏族を新しい政治秩序の中へ位置づける動きが進んだ。
ここで目指されたのは、豪族をすべて政治から排除することではない。
既存の有力氏族や地方豪族を、天皇を中心とする新しい秩序の中へ組み直すことだった。
壬申の乱によって王権の担い手は決まった。
その次に進められたのが、その王権を一人の勝者の力量だけではなく、継続して国を動かせる制度へ変えていくことだったのである。
天武・持統朝で国家の骨格はどう整えられたのか
律令国家は、ある年に突然完成したわけではない。
天武天皇から持統天皇の時代にかけて、国家を制度によって動かすための骨格が少しずつ整えられた。
天武天皇が681年に編纂を命じた律令は、天武天皇の死後、持統3年(689)に飛鳥浄御原令として施行された。
翌690年には庚寅年籍が作成される。
戸籍は、単に人口を数えるための名簿ではない。
誰がどの戸に属するのかを国家が把握し、後の班田や税制などを運用していくための基礎となる台帳だった。大宝律令のもとでは戸籍制度がさらに整えられ、六年ごとの作成へつながっていく。
持統朝には、もう一つ大きな国家事業が進んだ。
藤原京の造営である。
藤原京の造営は天武朝に始まり、持統天皇が事業を引き継いだ。690年に造営が本格的に再開され、694年、持統天皇は藤原宮へ移った。

藤原京は、条坊によって区画された本格的な都城として整えられた。
そこには天皇の宮殿だけではなく、政治を担う役所も集められる。
法をつくる。
戸籍によって人々を把握する。
官人を組織する。
そして、その制度を実際に動かす政治の中心をつくる。
制度と都の両方が整えられていったところに、天武・持統朝の国家づくりの大きな特徴があった。
大宝律令は何をひとつの仕組みにしたのか
天武・持統朝で進められた国家づくりは、さらに文武天皇の時代へ引き継がれた。
701年、大宝律令が完成する。
大宝律令は、刑罰を定める「律」と、行政をはじめ国家運営の基本を定める「令」からなる法典だった。完成は701年で、翌702年から施行されたと整理されている。
大宝律令によって、中央と地方の行政組織はより体系的な形をとる。
中央では、神祇官と太政官を中心とする二官八省の仕組みが整えられた。
地方では、国・郡・里という行政単位が定められる。
中央から派遣される国司が国を担い、地域の有力豪族の一部は郡司として地方行政の中へ組み込まれた。大宝律令の前後には、それまで使われていた「評」の表記も「郡」へ改められていく。
つまり律令国家とは、天皇一人が全国の人々を直接支配する国家ではない。
天皇を中心とする法と官僚組織を通して中央と地方を結び、各地の有力者も行政組織へ取り込みながら国を動かしていく国家だった。

ここに、壬申の乱から続いてきた流れの一つの到達点がある。
天武天皇のもとで進められた律令編纂と官人秩序の整備。
持統天皇の時代に施行された飛鳥浄御原令と庚寅年籍。
藤原京という新しい政治の中心。
そして文武天皇の時代に完成し、翌年から施行された大宝律令。
律令国家の成立は、一人の天皇が一度の改革で完成させたものではない。
それ以前からの制度整備も受け継ぎながら、複数の治世をまたいで王権と行政を一つの仕組みへ組み上げていった長い過程だった。
制度を得た国家は都をどう使ったのか
法が整っただけで、国家が自動的に動くわけではない。
制度を運用するには、官人が政務を行い、各地から情報や物資を集め、中央から地方へ文書や命令を送る場所が必要になる。
藤原京は、その政治を支える都だった。
実際、大宝律令が完成した701年、政治の中心はすでに藤原京に置かれていた。
大宝律令によって中央官庁の組織が変わると、藤原宮の官衙も改変されたとみられ、発掘調査では役所建物の建て替えが確認されている。
ここを見ると、制度と都は切り離せない。
法律で官庁の仕組みを変えれば、実際に仕事をする役所の姿も変わる。
地方行政を整えれば、全国から届く文書や物資を処理する中央の機能も必要になる。
藤原京は、律令国家が制度を実際に動かした最初期の本格的な舞台だったのである。
だから、律令国家の成立から710年の平城京遷都へ進む流れを、
「律令制度ができたので、初めて本格的な都が必要になった」
と見るのは正確ではない。
すでに藤原京があったからである。
むしろ次に生まれる問いは、その藤原京で大宝律令まで成立したにもかかわらず、なぜ朝廷はわずか十数年でさらに新しい都へ移ったのか、ということである。
制度が整ったところで、都の問題は終わらなかった。
この問いの先に、710年の平城京遷都が待っている。
勝者の王権から、続いていく国家へ
律令国家の成立で大きく変わったのは、壬申の乱の勝者である天武天皇が強い力を持ったことだけではない。
それ以前から進んでいた戸籍や行政の整備を引き継ぎながら、天武・持統・文武朝を通じて、法、官人組織、地方行政、戸籍といった仕組みがさらに体系化された。
一人の王の力を、そのまま国家制度へ置き換えたわけではない。
王権を中心に、人と地域を継続して動かす仕組みを積み重ねたことに、この時代の大きな変化がある。
壬申の乱で決まった王権の担い手は、複数の治世を経て、制度によって続いていく国家の中心へ変わっていったのである。
制度が整った先で都が問われる
天武・持統朝では飛鳥浄御原令や庚寅年籍が整えられ、藤原京という新しい政治の舞台も形になった。
そして701年に大宝律令が完成し、翌702年から施行されることで、中央と地方を結ぶ律令国家の仕組みはさらに体系化されていった。
ただし、この国家は古い豪族の力をすべて消して生まれたわけではない。
地域の有力者を郡司として行政へ組み込みながら、国司や中央官庁を通して天皇を中心とする法と官僚の秩序へ結びつけていった。
壬申の乱で「誰が王権を担うのか」が決まり、その後の国家づくりでは「どのような仕組みで国を動かし続けるのか」が形になっていった。
そして、その制度はすでに藤原京で動いていた。
だから次に見るべきなのは、「律令国家に都が必要になった理由」ではない。
律令国家を動かしていた藤原京を、なぜさらに造り直したのかである。
制度が整った先でも、政治の中心はまだ変わっていく。
その次の転換が、710年の平城京遷都だった。
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