山形県・山形城跡──城下の骨格が続く
山形市中心部に残る山形城跡。最上義光が整えた巨大な平城と城下には、商人町や職人町、街道が組み込まれ、その後は山形五堰も暮らしを支えた。現在の霞城公園から七日町・十日町へ視線を広げ、今の街に残る城下の骨格をたどる。
山形城跡を訪れると、まず目に入るのは霞城公園を囲む堀と土塁である。しかし、かつての山形城は現在の公園だけで完結する城ではなかった。
本丸・二ノ丸のさらに外側には広大な三ノ丸があり、その範囲は現在の中心市街地の大部分にまで及んでいた。さらに城の周囲には商人や職人の町が配置され、街道や、後世に整えられた水路も都市の暮らしを支えていく。現在の山形市街には、その城下町の骨格が今も思いのほか多く残っている。
城跡から街へ視線を広げながら、山形城が今の山形に残した形を見ていく。
扇状地に広がった巨大な平城
山形城の始まりは、南北朝時代の延文元年(1356)、羽州探題として山形へ入った斯波兼頼が館を構えたことに求められている。兼頼の子孫は最上氏を名乗り、やがて第11代の最上義光の時代に城は大きく拡張された。現在の山形城の原型も、義光の時代に整えられたものと考えられている。
山形城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を三重の堀と土塁が囲む輪郭式の平城だった。山形市の現行解説では、本丸約2.83ヘクタール、二ノ丸約27.99ヘクタール、三ノ丸約234.86ヘクタールとされ、東北最大規模の平城と紹介されている。現在の霞城公園は、そのうち本丸と二ノ丸を利用した約35.9ヘクタールの都市公園である。
つまり、公園の外へ出たからといって、山形城の歴史から離れるわけではない。
三ノ丸は現在の中心市街地の大部分を包むほど広く、十日町には今も三ノ丸土塁と堀跡の一部が残っている。城の大きさは、霞城公園の中だけを歩いていては見えにくいのである。
城が置かれたのは、馬見ヶ崎川がつくる扇状地の扇端部だった。城下はそこから東へ広がり、義光はこの地形を生かしながら城と町を整えていったとされる。
山形城は、高い山の上から街を見下ろす城ではない。平地の中に堀と土塁を重ね、その周囲に人々の暮らす町を組み込んだ城だった。
だからこそ、その痕跡は城跡の内側だけではなく、現在の市街地へ広く残ることになったのである。

最上義光が整えた城下の町割り
山形城を大きく整えた最上義光は、城郭だけでなく、その外側の城下町づくりにも力を入れた。
山形市は、義光を現在の山形市の礎を築いた人物として位置づけている。城下を通る羽州街道の沿道には、五日町、八日町、十日町、七日町、六日町、四日町などの商人町が置かれた。市が開かれる日に由来する町名からも、城下の経済を支える場所が街道沿いに連なっていたことが分かる。
さらに、材木町、銀町、蝋燭町、塗師町、檜物町、桶町、鍛冶町など、仕事と結びついた職人町も設けられた。
そこから見えてくるのは、城下町が武士だけのためにつくられた空間ではなかったことである。
商人と職人が動く都市を城の周囲につくり、人と物が流れる街道へつなげる。その町割りが、山形城を中心とした都市の骨格になっていった。
現代の七日町や十日町という名前も、その歴史を今へつないでいる。
何気なく使われている地名の背後には、最上義光の時代に形づくられた城下町の役割が残っているのである。
門を失っても残った道と水のかたち
城下町の記憶は、古い建物だけに残るものではない。
山形城では、二ノ丸や三ノ丸の出入り口がかぎ形に折れ曲がり、城内外をつなぐ道路にも丁字路、かぎ形、食い違いなどが設けられていた。敵がまっすぐ進みにくいよう、道そのものにも城の防御が組み込まれていたのである。
明治以降、三ノ丸の堀や土塁の大部分は失われ、市街地へ姿を変えた。それでも十日町口へ通じた街路を原型とする道路など、かつての城下に由来する道筋は現在にも残っている。
そして、山形の街を考えるうえでもう一つ外せないのが山形五堰である。
ただし、ここは最上義光の城下町整備と分けて見る必要がある。
山形市によれば、現在の五堰につながる水路網は、元和9年(1623)の大洪水の翌年、城主・鳥居忠政が馬見ヶ崎川の流路を変更した際、農業用水・生活用水と山形城の堀へ水を送るために五つの取水口を設けたことに始まると伝えられている。
つまり、山形の城下の骨格は最上義光の時代だけで完成したわけではない。
義光が整えた城と町割りに、その後の城主たちが治水や水路を重ねていった。
現在も笹堰、御殿堰、八ヶ郷堰、宮町堰、双月堰が市街地を流れ、七日町では御殿堰を生かした景観を見ることができる。
道、地名、水路。
城門や武家屋敷を失っても、見えにくい城下は現在の山形市の中に残り続けているのである。

霞城公園に戻りつつある城の輪郭
現在の霞城公園では、失われた山形城の姿を読み直すため、史料調査や発掘調査をもとに復原整備が進められてきた。
二ノ丸東大手門は、江戸時代の絵図や明治初期の古写真、発掘調査の成果などをもとに、平成3年(1991)に木造で復原された。
本丸一文字門周辺では、平成8年(1996)から発掘調査が始まり、明治時代に埋められていた石垣が確認された。その後、石垣や大手橋、高麗門、枡形土塀などの復原が進められている。大手橋も、発掘で確認された橋脚の位置や古絵図、出土した木材の調査結果を踏まえて復原された。
一方、山形城には天守がなかった。
本丸の中心には御殿が置かれ、二ノ丸には江戸時代前期まで三階櫓があったとされる。現在残る二ノ丸の堀や土塁、石垣も、最上氏の時代そのままではなく、最上氏改易後に入った鳥居忠政や、その後の保科正之らによる改修を重ねた姿と伝えられている。
つまり、霞城公園に残る山形城は「最上義光の城」だけではない。
最上氏が築いた大きな枠組みに、江戸時代の改修、明治以降の変化、戦後の公園化、そして現代の発掘・復原が重なっている。
明治期には城跡が軍用地となり、歩兵第三十二連隊の本部も置かれた。本丸の堀などもこの時代に埋め立てられている。戦後の昭和23年(1948)には霞城公園として開設され、昭和61年(1986)には山形城跡が国史跡に指定された。
石垣や門だけを見れば、現存部分と復原部分が混在している。
しかし、その違いを知ることで、山形城が一つの時代の姿を凍結して残した場所ではなく、時代ごとの変化を重ねて残った城であることが見えてくる。
城跡の外まで続く山形城の記憶
山形城跡に残るものを整理すると、本丸や二ノ丸の堀、土塁、石垣だけでは終わらない。
最上義光が整えた大きな城郭と城下の町割り。その後に重ねられた道路や水路。明治以降も使われ続けた市街地。
七日町や十日町という地名、城下に由来する道筋、現在も流れる山形五堰には、それぞれ異なる時代の都市の骨組みが受け継がれている。
山形城の記憶は、霞城公園の堀を越えたところで終わらない。
むしろ、その先に続く街へ歩き出したところから、もう一つの山形城が見え始める。
街を歩くと見えてくる城下町
霞城公園で二ノ丸東大手門をくぐり、本丸一文字門へ向かえば、山形城という一つの城郭の大きさを感じることができる。
けれども、そこで歩みを止めず、市街へ視線を広げると、この城の見え方はさらに変わる。
十日町には今も三ノ丸土塁と堀跡が残り、その周囲には城下の道筋が続いている。七日町では御殿堰が流れ、町の名前そのものにも商業都市として育った時代の記憶がある。
城は、石垣や櫓だけでできていたわけではない。
人を住まわせ、商いの場所をつくり、職人を集め、道を通す。そして後の時代には、水を引き、城と町の暮らしを支えていく。
その積み重ねによって、一つの城下町が現在の都市へつながっていった。
次に山形城跡を訪れるときは、霞城公園の外にも目を向けてみたい。
何気なく歩いている道路や町名、水の流れの向こうに、かつての城門や町人町を重ねてみると、城下の骨格が今も続いていることが少しずつ見えてくる。
山形城は、城跡として残るだけではない。
現在の山形市そのものの中に、時代を重ねながら静かに形を残しているのである。
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