見えない父、攻略本を聴いたら、なぜか自分が攻略されていた
私は紙の本が読めない。全盲だから、目次も、帯の惹句も、著者の顔写真も、私の前ではただの白い紙と変わらない。それでも本は読める。耳がある。オーディオブックだ。
最近、その耳で一冊読んだ。黒川伊保子さんの『息子のトリセツ』。トリセツ、つまり取扱説明書だ。我が家には思春期の息子がいる。取扱注意の年頃である。説明書があるなら、こっちも読んでおきたい。
買う決め手は、試し聴きの一言だった。この本は、男である自分自身を知るためにも読める。試し聴きの中に、そういう一節があった。息子の取扱説明書のつもりが、どうやら私自身の説明書でもあるらしい。それなら聴くしかない、とつい買っていた。
先に言ってしまうと、この買い物は当たりだった。ただし、当たり方が少し変だった。
👂 「息子の軸は、母にある」
聴いていて、いちばん引っかかったのはここだった。男の子の軸は、母親にある。息子と良い関係を作りたいなら、まず母を攻略せよ。本にはそう書いてあった、と記憶している。
正直、最初は半信半疑だった。父の私を差し置いて、母経由なのか、と。でも聴き進めるうちに、思い直した。これは、見えない私にこそ向いた戦法だ。
私は息子の表情が見えない。いま話しかけていい顔なのか、放っといてくれの顔なのか、その手がかりが私にはない。正面から突っ込むのは、暗闇でいきなり肩を叩くようなものだ。だったら、間に人を挟めばいい。母を挟めばいい。
🍚 食卓で仕掛けた、まわりくどい一手
ある晩の食卓。私はまず、妻に振った。
「最近さ、いほこさんの本、耳で聴いててね」
息子にではなく、妻に。世間話のふりで。
「男と女で、脳の使い方が違うらしいよ」
妻が「へえ」と返す。その「へえ」の少しあとに、別の声が割り込んだ。
「なんで?」
息子だった。
🗣️ 「なんで?」で、会話が続いた
普段、この子との会話は長く続かない。「学校どうだった」「別に」。あの定番のラリーだ。見えない私は、会話の糸口を目で拾えない。だから食卓は、たいてい音だけが行き交って、すぐ静かになる。
その息子が、自分から「なんで?」と聞いてきた。
私は用意していた札を切った。
「男はゴール設定型なんだって。目的が決まると動くらしいよ」
「ふーん……それ、俺けっこうそうかも」
続いた。会話が、続いたのだ。ゲームの話、部活の話、そこから何往復かして、その晩の食卓はいつもより長かった。
このときの私は、いい晩だったな、くらいにしか思っていなかった。
🛏️ 布団に入ってから、気づいた
布団に入ってから、気づいた。
私はさっき、息子に直接しゃべっていない。妻に振って、そこから息子を引き込んだ。
これ、本に書いてあったやつだ。母を攻略せよ。母をハブにせよ。
狙ってやったわけではない。表情が見えないから、間に人を挟んだだけだ。でも結果として、私は耳で読んだ攻略本の、いちばん大事な一手を、自分でも気づかないうちに指していた。
見えない父の、ささやかな攻略成功である。
📖 次は『娘のトリセツ』を聴く
息子の取扱説明書のはずだった。でも聴き終えてみると、いちばん腑に落ちたのは、じつは私自身のことだった。
男は、いくつになっても「スーパー長男」らしい。本の中で、たしかそんなふうに言われていた気がする。身も蓋もないと思った。思ったのに、妙に納得している自分がいる。笑いながら、うなずいていた。あれはたぶん、私のことだ。
男というのは、こういう生き物なのか。息子を知るつもりが、遠回りに自分を知っていた。
男女で脳が違うという話が、科学的にどこまで正しいのか、私には判定できない。本の受け売りだ。でも、食卓が少し長くなったのは事実だ。
紙なら読めなかった一冊で、我が家の食卓の空気がちょっとだけ変わった。それで十分だと思う。
次は『娘のトリセツ』を聴くつもりだ。あっちのほうが、たぶん、はるかに難しい。
📎 お時間があればこちらもぜひ
全盲の父の朝は、玄関の攻防から始まる(思春期の息子と暮らすということ)
同じ食卓、同じ思春期の息子。表情の見えない父が、朝の攻防でどう間合いを取っているかを書いた一本です。今回の「まわりくどい一手」の背景として読むと、腑に落ちるはずです。
川柳 家庭内最強ホルモンは母の一言
「息子の軸は母にある」。本で読んだこの一節を、我が家はとっくに川柳で言い当てていました。母を攻略せよ、の実感版としてどうぞ。
見えない父は、娘の沈黙がいちばん怖い
本文の最後に書いた「次は娘のトリセツ」。その難しさの正体が、この記事にあります。息子の「なんで?」とは真逆の、娘の沈黙と向き合った夜の話です。
見えない映像クリエイターが作った動画
この記事の内容を動画でも解説しています。
https://www.youtube.com/watch?v=NBCx1nsXxBI
見えない父が、子の表情ではなく「触れること」で存在を感じ取り、親としての役割を果たそうとする実話です。記事で描いた「表情が見えないからこそ生まれた工夫」と同じ視点が、映像でも語られています。
