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ファクトよりナラティブが重視される時代に生きて

高市早苗が靖国参拝や教育勅語を「良きもの」と語るのは、外交的に軋轢を生むという点で明確なファクトである。
一方で「日本人のための日本を取り戻そうとする女性初の総理」というのは、ファクトではなく物語(ナラティブ)だ。
現代政治では、このナラティブの方がファクトよりも強い力を持つようになっている。なぜだろうか。

ひとつは、SNS時代が生んだ「共感経済」の構造にある。
理屈や事実よりも、心に響くストーリーが拡散される時代になった。
“女性初の総理”“日本を守る母”といった単純な記号のほうが、複雑な政策論よりも圧倒的に速く、広く、理解される。もはや政治家は政策でなく「物語としての存在」になっている。

もうひとつは、人々の不安と情報過多だ。
社会の構造が複雑化し、何が正しいのか判断できない中で、人は“自分の所属する物語”を信じることで安心しようとする。
「保守」「リベラル」「愛国」「反権力」──
それぞれが自分のナラティブを守るために、ファクトすらねじ曲げてしまう。事実を検証するより、自分の物語を信じるほうが心地よいのだ。

とはいえ、ナラティブがすべて悪というわけではない。
#MeToo や Black Lives Matter のように、感情の共鳴が社会を動かした例もある。問題は、ファクトを失ったナラティブが「信仰」に変わる瞬間だ。
政治が現実を解決する場ではなく、「誰の物語を信じるか」を競う舞台になってしまう。それは民主主義の形骸化であり、議論の終わりでもある。

私たちが必要としているのは、ファクトに根ざしたナラティブだ。
「女性初の総理」という物語を語るなら、その象徴を“ジェンダー平等の現実的前進”で裏打ちすること。つまり、物語を信じること自体ではなく、どんな現実を伴った物語を選び取るかが問われている。

物語が人を動かし、事実がそれを支える。
その均衡を取り戻すことこそ、いま最も必要な“政治的成熟”なのかもしれない。

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