東浩紀氏の発言を見て感じる、ナラティブが思想を駆逐する時代の政治言論
最近、X上で東浩紀氏がこう述べていた。
この騒動はすべて空騒ぎで、結果は高市総理になるだけ。むしろ、あまりになりふり構わない“高市降ろし”のせいで、立憲は現役層の支持を減らすだろう。マスコミもそっぽを向く。野党一本化による“だれでもいい総理”を国民が望むはずがない。
この発言には、現代のネット政治空間における“冷めたリアリズム”が凝縮されている。政治とは、もはや理念や政策をめぐる議論ではなく、「誰を叩くか」「どんなナラティブで自己を売るか」の競技場になっているのだ。
実際、自民・高市支持者と国民・玉木支持者の対立軸は、「どちらが総理になるか」ではなく、「どちらが立憲共産をより強く叩けるか」、「我こそは真の保守なり」というマーケティング競争でしかない。
政策の中身はすでに背景化し、X内の政治言論は、もはや思想ではなく“集客装置”として機能している。
そこでは「思想としての保守」は「集客としての保守」に、「理念としてのリベラル」は「保守っぽさを演出するための、攻撃対象としてのリベラル」に置き換えられた。政治的言葉は信念ではなく、フォロワーを獲得するためのタグとして消費されている。東浩紀氏の上記の発言はそれを良く表している。
こういった構造の中で、冷静な対話や政策議論が成立する余地は、ますます狭まっている。論敵を“議論で説得する”よりも、“敵として晒して拡散する”ほうが、圧倒的に速く、気持ちよく、そして数字になるからだ。
私は、新聞やテレビなどの既存メディアを「オールドメディア」と一括りにし、「信用ならない」と切り捨てる論調に知性を感じない。
玉石混交ではあるにせよ、社名を掲げて報道する以上、そこには法的・倫理的な説明責任が発生するからだ。
対してネット発の情報は、出自のあいまいな断片が、発信者自身も5W1Hを把握しないまま“ファクト”として流通することがある。
社会の複雑さを単純化し、「誰か」を叩くことで安心を得たいという欲望に寄り添うほど、その断片は強く拡散される。
いま最も“手っ取り早い標的”にされているのは「外国人」だ。日本経済の停滞も治安の不安(実際の犯罪発生件数は長期的には低下傾向にある)も、すべて「悪い外国人」のせいにして、彼らを排除すれば「日本は本来の輝きを取り戻す」という、安っぽい排外主義的ナラティブがXでは爆売れブラックフライデー状態だ。
しばしば「我々は悪い外国人だけを標的にしている。ルールを守る良い外国人は守る」と言い訳されるが、「良い/悪い」の線引きは恣意的に動かしうる。過去、それがいかに排外主義の道具として悪用されてきたかという事実は、顧みられることがない。
では、正しい政治のための処方箋はあるのか。
私は「思想を再び語る場所」を取り戻すことだと、一応は思っている。
即応と炎上を前提にした速い言葉ではなく、熟考された言葉が届く場所。複雑な問題を複雑なまま受け止め、時間をかけて検討できる回路を、どれだけ確保できるか。そこからしか、ナラティブの暴走を抑え、ファクトに根ざした合意を編み直す道は開けない…はずだ。
ただし、そうした場の設定もまた「維持」を目的化した瞬間、マーケティングの論理に取り込まれ、特定のターゲットに向けたビジネスへと変質してしまう。そうした試みは、これまで何度も繰り返されてきたが特定の支持層(ファン)を獲得するファンダムを超えることができないでいるのが現状だ。
個人的には、党派性を超えた判断を共有できるAIの進歩に一縷の可能性を感じているのだが、それこそ新たなディストピアへの道なのかもしれない。
まったく悩ましい——(結論、棚上げ)
