私は今、自分を説明する言葉をもたない。
自分という人間を説明するとき、いくつかの単語が浮かびます。
真面目。
慎重。
好奇心旺盛。
責任感が強い。
どれも、半分正解で、でもそれだけでは少し足りない。
こうして並べてみても、自分という人間をきちんと説明できたような気はしないのです。
◇
私は昔から、よく「真面目だ」と言われてきました。
その言葉を素直に褒め言葉として受け取れるときもあれば、どこかにわずかな棘を感じるときもあります。
「誠実」や「丁寧」に近い意味で向けられることもあれば、「融通が利かない」「そこまでしなくてもいいのに」といったニュアンスを帯びることもあるからです。
言葉は、字面だけで届くものではありません。
声の調子や表情、前後の文脈まで含めて受け取るからこそ、同じ「真面目」でも残る感触はずいぶん違います。
それでも、自分が真面目かと聞かれれば、どちらかといえば真面目な方だとは思います。
任されたことはきちんとやりたい。
約束は守りたい。
間違えたら謝りたい。
できるだけ誠実でありたい。
だから「真面目」という評価は、決して間違ってはいません。
ただ、少し解像度が低い気がするのです。
親しい人なら、もう少し違う私も知っています。
おっとりしているし、意外と抜けている。
肝心なところでドジもします。
その一方で、慎重で考えすぎるところがあり、納得できないことには案外頑固で、負けず嫌いでもあります。
そうやって細かく見ていけば、「真面目」というたった三文字では、当然ながらどうにも収まりきりません。
◇
そんな「真面目な人」の一面を持つ私が、少し前、やりたかった仕事を辞めました。
正社員という立場を手放し、次の仕事も決めないまま、今は仕事をしていません。
一般的に思い描かれる「真面目な人」の選択とは、少し違うのかもしれません。
けれど、無理をしていると分かりながら、それを見ないふりをして働き続けることが、自分に対して誠実だったのでしょうか。
働いている間は、どうしても目の前の日々を回すことが優先でした。
でも、これからの人生を考えたとき、どうしても時間を使って向き合いたいことがありました。
いつまでも先送りにできることばかりではありません。
だから一度、仕事から離れて生活を立て直し、暮らしや家族のことにきちんと向き合う時間をつくることに決めました。
そう考えると、仕事を辞めた選択も、案外、私の「真面目さ」の延長線上にあったような気がしています。
◇
とはいえ、金銭的な不安がまったくないわけではありません。
いつか「働きたい」と思ったとき、空白の期間が長いことが不利になるのではないか、という怖さもあります。
今すぐには働かないと決めている。
でも、未来の自分が選べる手札は、できるだけ残しておきたい。
そしてそのときには、仕事も暮らしもひっくるめて、自分が「これなら」と納得できる形を選びたい。
ずいぶん都合のいい話だとも思います。
それでも、自分の人生くらい、多少は自分本位に考えたっていいのかもしれません。
そんなところに、ある求人を見つけました。
勤務時間も日数も、今の生活には驚くほど都合のいい条件。
けれど、心から「やりたい仕事か」と問われれば、少し違う。
採用する側にいたこともあるので、そんな熱量で応募するのは相手にも失礼ではないか、という迷いもありました。
それでも、今の生活を大きく崩さず、未来の選択肢も残せる条件に、固めたはずの考えが少し揺れました。
「応募だけ、してみようか」
そう思ったときには、葛藤しながらも履歴書を書き始めていました。
◇
仕事を辞めてから、「今、何をしているんですか」と聞かれると、少し答えに詰まります。
無職。
間違ってはいないけれど、なんだか事務的すぎる。
専業主婦。
それも、今の自分にはあまりしっくりこない。
充電期間。
ちょっと前向きすぎる。
では、プチFIRE。
いや、それはもっと違う。
当てはまりそうな言葉はいくつかあっても、どれもしっくりきません。
結局いちばん近いのは、「今は仕事をしていません」なのですが、それは肩書きというより、ただの現状説明です。
しかも、その「今」がいつまでなのか、自分でも分かりません。
数か月後かもしれないし、もっと先かもしれない。
何かをきっかけに、思っていたより早く変わることだってあるのかもしれません。
期限さえ決まっていない現在地を、ひとつの言葉で説明しようとすること自体に、少し無理があるのだと思います。
たぶん私は今、自分を簡単に説明する言葉を持っていません。
けれど、それは「何者でもない」ということなのでしょうか。
「真面目な人」も、「会社員」も、私を説明するには便利な言葉でした。
でも、それが私のすべてではありません。
何者でもないように見えるこの時間は、決して空白などではなく、今まで大きな括りで見ていた自分の解像度を、少しずつ上げている時間なのだと思います。
今だって、先のことをきちんと考えなければと思う日もあれば、犬と猫だけを愛して、このままだらけてしまいたいと思う日もあります。
どちらも、それなりに本心です。
◇
就職活動をしていた頃、「自己分析が大事だ」と耳にタコができるほど言われました。
まさかこの年齢になっても、形を変えながら同じようなことをしているとは思っていませんでした。
単に当時は自己分析が足りなかったとも言えるし、経験を重ねて、当時とは違う自分が見えているからこそ、今あらためて必要なのかもしれません。
ただ、あの頃より答えはずっと曖昧で、泥臭くて、カッコ悪いまま。
もう少し、いろいろなことが決まっている予定だったのにな、と、ため息まじりに思います。
けれど、自分のことですら、これだけ考えてようやく「少し輪郭が見えてきたかも」という程度なのです。
まして他人のことなら、たった一言で理解できるはずもありません。
「真面目な人」
「扱いづらい人」
分かりやすいラベルで自分や他人を括ってしまうのは簡単です。私自身、知らず知らずのうちにそうしてしまわないよう、気をつけたいと思っています。
少し分かったような気になっても、それはきっと、その人のほんの一面でしかないはずだから。
自分の解像度を上げていくことは、たぶんもう少し続きます。
でも、そんな曖昧な時間を過ごしているからこそ、自分に対しても、他人に対しても、「今見えているものが全てではないかもしれない」と、少しだけ余白を残せるようになるのかもしれません。
そう思えば、このカッコつかない現在地も、ちょっとだけ意味があるのかなと思えます。
