タイの湯気ノムコウvol.9 水掛け祭りソンクラーンと、帰れない正月
― 眩しい季節に現れる、もう一つの影 ―
4月のタイは、
空気そのものが熱を帯びている。
昼の道路は白く光り、
遠くの景色がゆらゆら揺れる。
そんな一年で最も暑い時期に、
この国は新しい年を迎える。
ソンクラーン。
いまでは若い世代を中心に、
巨大な水掛けの祝祭として知られている。
見知らぬ相手に水をかける。
それは無礼ではなく、祝福のしるしだ。
水鉄砲を持った子ども。
家の前に置かれたドラム缶。
ホースを道路まで延ばし、
通り過ぎる車やバスの乗客にまで
水を浴びせる人。
ピックアップトラックの荷台には
水を満たした樽が積まれ、
対向車同士で盛大に掛け合う。
メントール入りのパウダーを溶かした
冷たい水を使う人もいる。
暑さを忘れるための知恵なのだろう。
この光景は全国で見られるが、
とくに北部チェンマイの熱気は別格だ。
もともとこの時期は帰郷の季節でもある。
都市で働いていた家族が村へ戻り、
寺院に参拝し、年長者の手に静かに
水を注ぎ、新しい一年の無事を祈る。
連休と重なるため
国内の交通は混み合い、
観光地の宿は満室になる。
一方で、普段にぎわう商店やオフィスは
閉まり、都会の通りが急に
静かになることもある。
人が動く季節だ。
けれど、
その流れに乗れない人たちもいる。
タイで働くミャンマー出身の労働者たちだ。
2021年の軍事クーデター以降、
ミャンマーでは政治と経済の
混乱が続いている。
食料価格は数倍に跳ね上がり、
家族を養うため
国外へ働きに出る若者が増えた。
さらに2024年2月、
国軍は兵力不足を補うため
徴兵制度の導入を発表した。
対象は男性18歳から35歳、
女性18歳から27歳。
兵役期間は2年。
非常事態下では
最大5年まで延長される可能性もある。
拒否や逃避には禁錮刑が科される。
すでに数万人規模の
招集が行われたともいわれている。
この発表以降、
若者の国外脱出や地方への
逃避が広がった。
賄賂を払って免除を求める人もいれば、
生活のために身代わりとして
兵役に応じるという話も聞く。
こうした現実の中で、
帰郷は簡単な選択ではなくなった。
国境を越えるだけでも、
長距離バスや乗り合いトラックを乗り継ぎ、
山道を進み、移動しなければならない。
往復には数日かかることもある。
交通費も決して安くはない。
移動する時間があれば
タイでさらに働くことができる。
数日分の賃金は、
そのまま家族への仕送りの増額に充てる。
帰らない理由は、
お金だけではない。
ミャンマーに戻れば、
徴兵の対象になる可能性がある。
拒めば刑罰。
最前線に送られる恐れもある。
空爆の知らせも珍しくない。
軍事政権は地下資源をめぐり
中国やロシアとの関係を
強めているとも言われ、
情勢は個人の意思では
どうにもならない方向へ進んでいる。
だから彼らは帰れない。
あるいは、
帰りたくない。
仕事を終えた夜、
水掛け祭りの人混みに紛れ込む。
笑いながら水を浴び、
音楽に合わせて体を揺らす。
その時間だけは、
戦争も徴兵も、そして家族も遠くなる。
また翌朝、
いつもと同じ一日が始まる。
この国では、
帰らないという選択そのものが
柔らかな旧正月なのかもしれない。
タイの湯気ノムコウでは、
はしゃぐ水しぶきの中、新しい年が、
違う距離で始まろうとしている。
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