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大和は、海まで広がった


大和朝廷の全国統一 第四十四回 履中天皇② 大和は、海まで広がった

ヘッダー画像:咲洲さきしまコスモタワー展望台から眺める大阪湾

はじめに


前回、仁徳天皇の崩御後に起きた住吉仲皇子すみのえのなかつみこの乱を見てきました。

皇太子であった去来穂別皇子いざほわけのみこは、難波なにわの宮を焼かれ、石上いそのかみへ逃れます。その後、弟の瑞歯別皇子みずはわけのみこ、後の反正はんぜい天皇らの働きによって住吉仲皇子は討たれ、去来穂別皇子は履中りちゅう天皇として即位します。

しかし、履中天皇は難波へ戻りませんでした。新たに宮を置いたのは、磐余いわれです。現在の奈良県桜井市周辺。

このことを「難波から大和へ移った」あるいは「河内から大和へ移った」と考えてよいのでしょうか。

今回は、私自身がこれまでの記事で引いてきた「大和」と「河内」の境界線を、いったん消してみようと思います。

皇統の記憶が重なる磐余

神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑
NAFIC(なら食と農の魅力創造国際大学校)から眺める磐余方面


磐余は、『記紀』のなかで、皇統の記憶が幾重にも重なる土地です。

初代・神武天皇は、神日本磐余彦天皇かむやまといわれびこのすめらみことと称されます。履中天皇の曾祖母にあたる神功皇后じんぐうこうごうには磐余若桜宮の伝承があり、祖父・応神天皇も、すぐ近くの軽に軽島豊明宮かるしまのとよあきらのみやを置いたとされます。

そう考えれば、履中天皇が磐余に宮を置いたことは、それほど唐突なことではありません。難波を追われて未知の土地へ逃げ込んだというより、そうした重層的な記憶を持つ土地へ宮を置いた、と見ることができます。

そして履中天皇は、ここで池を造ります。磐余池いわれのいけです。

磐余に造られた池


『日本書紀』には、履中天皇が磐余に池を造ったことが記されています。
その正確な場所は長く分かっていませんでしたが、2011年、「東池尻・池之内遺跡」で堤状遺構が発見され、磐余池との関係が注目されました。

東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)
現地案内板
磐余池推定地の位置


池を造る


重機など存在しない時代です。土を動かし、堤を築き、水を制御する。それ自体が大きな土木事業です。
そして翌年、履中天皇はその池に両枝船ふたまたのふねを浮かべます。

宴の最中、杯に季節外れの桜の花が落ちてきました。不思議に思った天皇は、物部長真胆連もののべのながまいのむらじに、その花がどこから来たのか探させます。長真胆連は掖上わきがみの室山で桜を見つけ、持ち帰って天皇に献上しました。天皇はその珍しさを喜び、宮を「磐余稚桜宮いわれのわかざくらのみや」と名づけた――。
なんとも優雅な話です。

前回まで、命を狙われて山道を逃げていた人物と同じ人とは思えません(笑)。

「造れる時代」になっていた。
応神・仁徳朝までに蓄えられてきた力が、履中朝には、こうした形でも現れるようになったのだと思います。

稚櫻わかざくら神社
磐余稚桜宮伝承地の一つ。神功皇后の磐余若桜宮の伝承地でもあります。

稚櫻神社鳥居と社号標
由緒書
拝殿


若桜神社

磐余池との位置関係で言えば、先ほどの稚櫻神社のほうが近いのですが、履中天皇の磐余稚桜宮いわれわかざくらのみやに比定されているのは、池からはだいぶ離れた桜井市谷にある、こちらの若桜神社です。

鳥居
拝殿
現地案内板


「河内」を忘れてみよう


応神・仁徳天皇の記事で、私はずいぶん「河内」を強調してきました。
河内湖周辺の開発、難波堀江、茨田堤、古市・百舌鳥古墳群。
そこには、「大和」と「河内」を別々の勢力圏のように捉え、王朝の交替まで主張する見方への強い違和感と反発がありました。

ですから私は、「河内へ進出したからといって、別の王朝になったわけではない」ということを意識して書いてきました。

ところが河内を強調しすぎたために、いつの間にか私自身も、「大和」と「河内」を別々の箱に入れてしまっていたように思います。

ここで一度、リセットします。

現在の大阪府と奈良県。もちろん当時はそんな行政区分など影も形もありません。後の律令制のもとで定められた「大和国」「河内国」という行政区分を、履中天皇が生きたとされる5世紀に、そのまま当てはめてよいのかとも思います。

いったん、地図から境界線を消してみましょう。

すると、景色が変わります。

大和から河内へ王朝が移ったのではない。河内に別の王朝が生まれたのでもない。大和を中心としていた人々の活動範囲が、山を越え、河内平野へ広がり、ついには難波の海へ達した。

そう考えた方が、これまで見てきた流れからすると、全くもって自然ではないかと思うのです。

大和は、海まで広がった


応神・仁徳朝に進んだ河内の開発を、この視点からもう一度眺めてみたいと思います。

低湿地から水を抜き、耕地を広げる。
食糧生産が増え、人が集まる。『記紀』には、朝鮮半島などから多くの人々がやって来たことも記されます。難波には海があり、河内には川と水路がある。そこから瀬戸内海、さらに朝鮮半島へと道が続く。

これは「大和から河内へ」という単純な移動ではなく、それまで奈良盆地を中心としていた大和朝廷の世界そのものが、西へ広がっていったと見ることができます。そして、山の向こうにあった海が、自分たちの世界につながった。

これは大きな変化だったと思います。

そう考えると、履中天皇の宮が奈良県桜井市の磐余にあり、御陵が大阪府堺市の百舌鳥にあると言われても、何ら不思議には感じません。

現代の私たちは、大和を奈良盆地内に閉じ込めて、「宮は奈良県にあるが、墓は大阪府」と別々に考えてしまいがちです。しかし当時の人々にとって、現在の府県境はもちろん、後世の大和国・河内国という行政区分すら存在しない時代です。私たちが、後から引かれた境界線を5世紀の地図に重ねて見ているだけです。

磐余も、石上も、丹比も、古市も、百舌鳥も、難波も。山と道、川と海によって結ばれた、一つの大きな活動空間になりつつあったということではないでしょうか。

繁栄は、巨大化する


そして、その広がった世界に蓄えられた力が、目に見える形となって現れます。

前方後円墳です。
履中天皇陵として現在治定されている百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳は、墳丘長約365メートル。
仁徳天皇陵、応神天皇陵に次ぐ、全国第三位の規模です。

歩道の案内板。全国第三位の規模を誇ります。父や祖父よりは少し小さくしたということなのでしょうか。
案内板
履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)
百舌鳥古墳群ビジターセンター展示


巨大古墳は、天皇が「造れ」と命じただけでは完成しません。土を動かす人。石材や木材を運ぶ人。埴輪を造る人。そして、その人々を長期間食べさせる食料。つまり巨大古墳の背後には、生産力だけでなく、人と物を集め、運び、動かす仕組みが必要です。

応神・仁徳朝までに広がった活動領域と、そこに蓄積された力。それが履中朝前後、一つの巨大な形となって大地に現れた。海まで広がった大和の、一つの決算書。それが百舌鳥・古市の巨大古墳群だったのではないでしょうか。

絶頂期

前回の住吉仲皇子の乱だけを見れば、大和朝廷は大きく揺らいでいるように見えます。

皇太子の宮が焼かれ、本人は山道を逃げ、反乱を起こした住吉仲皇子側には、阿曇氏や淡路の海人たちまで現れた。

ところが、その皇太子が即位すると磐余に池を造り、その水面に船を浮かべる。

そして同じ時代、百舌鳥・古市では、履中陵、仁徳陵、応神陵などの列島最大級の古墳が連続して築かれる。
内側では皇位をめぐる争いが起こりながら、社会全体には巨大事業を動かせるだけの力があった。
私はそこに、この時代の面白さを感じます。

絶頂期

ただし、それが永遠に続くという意味ではありません。古墳の巨大化が頂点に達したとき、その内側ではすでに次の変化が始まっていました。履中朝とは、まさにそんな時代だったのかもしれません。

おわりに


今回は、私自身がこれまで引いてきた境界線を、一度消してみました。
河内の発展を強調するあまり、いつの間にか私も「大和」と「河内」を分けて書いていました。

しかし、5世紀の人々の目で眺めれば、きっと違う景色が見えていたはずです。

大和朝廷が河内へ移ったのではないし、ましてや、河内に新しい王朝が建ったわけでもない。

今回のヘッダー画像は、咲洲コスモタワーから眺めた大阪湾です。港には、フェリーさんふらわあが停泊しています。

そういえば、この連載の一番最初、「いっしょに記紀を旅しよう」のヘッダー画像も、さんふらわあから眺めた大阪湾の夕日でした。

見ている場所も、海岸線も、古代とはずいぶん違います。それでも、その先に広がる海はつながっています。履中天皇の時代にも、ここには海がありました。大和は、その海まで広がった。

磐余池に浮かぶ両枝船。
百舌鳥の大地に横たわる巨大古墳。
一方は水の上に、一方は大地の上に。
どちらも、応神・仁徳朝から広がり、蓄えられてきた力が形になったものだったのかもしれません。

ただし、ここで一つ問題があります。
『日本書紀』が記す天皇の年代と、考古学から考えられている巨大古墳の築造年代は、きれいには一致しません。
では、この「絶頂期」とは、実際にはいつ頃だったのでしょうか。

次回は古墳の年代と中国史書に現れる「倭の五王」から、5世紀の時間軸をもう一度考えてみたいと思います。


コラム 
桜を探しに行ったのは、なぜ物部氏だった?―履中天皇を取り巻く氏族たち

磐余池の宴で杯に桜の花が落ちてきたとき、履中天皇は物部長真胆連もののべのながまいのむらじに、その花を探させました。

「なぜ、桜を探しに行ったのが物部氏だったのか?」

はっきりした答えはありません。ただ、この小さな記事を手がかりに、履中天皇の周囲にいた氏族たちをもう一度見渡してみたいと思います。

長真胆連が桜を見つけたのは、磐余ではありません。掖上室山わきがみのむろやまでした。現在の御所市室周辺と考えられます。その近くには、葛城襲津彦の墓とも言われる室宮山古墳があります。

履中天皇は仁徳天皇と磐之媛いわのひめの皇子です。そして、磐之媛は葛城襲津彦かつらぎそつひこの娘です。室一帯は、後に巨勢こせ氏や羽田氏と深く関わる地域で、氏族の古墳群もあります。

葛城市歴史博物館展示パネル


ここで前回の住吉仲皇子の乱を思い出してみましょう。そもそも乱の発端として描かれた黒媛は、羽田氏の娘(『古事記』では葦田宿禰の娘)でした。そして履中天皇を救ったのは、平群木菟宿禰と物部大前宿禰らです。葛城氏、羽田氏、巨勢氏、平群氏、そして蘇我氏らは『記紀』の系譜では、いずれも武内宿禰を共通の祖とする「同族」です。そして履中天皇自身も、母は葛城襲津彦の娘・磐之媛でした。

黒媛をめぐって事件が起こり、北河内に伝承地の多い物部氏と、生駒山を挟んで物部氏とは背中合わせに勢力を持つ平群氏が皇太子を救う。そして即位後、物部氏の人物が、羽田氏と深く関わる奈良盆地南部の地域へ桜を探しに行く。

もちろん、これらに何らかの政治的な意味があったとする史料はありません。偶然かもしれません。

さらに履中紀には、あの蘇我氏の祖・蘇我石川宿禰の子である蘇我満智も登場します。こうして並べてみると、履中天皇の周囲に、葛城・羽田・平群・巨勢・蘇我、そして物部という氏族の名前が、複雑に絡んでくるのがわかります。
前回、「この事件の前後で、大和朝廷を支える氏族の配置が少しずつ変わっていくのではないか」と書きましたが、

桜を追いかけていたら、また同じ人たちのところへ戻ってきてしまいました(笑)。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ


持ち帰り専門店・深清鮓ふかせずしさん。昭和23年創業の堺の老舗です。履中天皇陵から車で10分ほど。

最初に食べたのは、もう20年くらい前になります。「上穴子寿司」。口の中でとろける絶品です😋




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