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【連載小説第五章】闇夜のニュルブルクリンク

【前号のあらすじ】
 ニュルブルクリンクを目指したけれど、着いたのはニュルンベルクだった。僕にとってニュルブルクリンクは、感覚的な遠さではなく、物理的にも遠く離れていたのである。

【本文】

 ニュルンベルクの街で途方に暮れている暇はなかった。すでに陽は落ち、住宅の窓には柔らかな灯がともり、商店のネオンサインが煌々と街を照らしていた。

 心細さは、空の暗さに比例するのだろう。さすがに楽天家を自認する僕も、不安は鉛の塊となって胃袋へ沈み、アクセルより先に心臓を踏みつけていた。

 ドイツ全土を網羅する地図の中に、ようやく僕は本当の「ニュルブルクリンク」の地名を見つけた。それは指でなぞれば消えてしまいそうなほど、小さく薄い文字で印字されていた。

 今朝、ケルンを出て南東へ向かい、フランクフルトをかすめ、さらに東へ進んだ。そこにあったのはニュルブルクリンクではなく、ニュルンベルクだった。ようやく地図の中に見つけた本当のニュルブルクリンクは、そこから西へ向かい、フランクフルトを越えたさらに200km先にあったのだ。

 つまり僕は、無駄に300km東へ走り、そこから再び300km西へ引き返すことになったのである。実に、生産性のかけらもないドイツ旅行をしてしまったというわけだ。

 僕がニュルブルクリンクへ到着した頃には、すでに陽は落ちていた。アウトバーンをひた走り、もう借りたレンタカーの燃料計の針は、心細さを煽るようにスルスルと下がっていった。すでに針の先はエンプティを指しており、給油を促すアラートが点灯していた。

地図を頼りに到着したサーキットは、想像するより小さく、華やかさのかけらもなかった。ドイツの西南の片田舎の丘陵地帯にひっそりと佇むニュルブルクリンクが華やかに輝くのはビックレースが開催されているときだけだ。

世界最高峰のF1やニュルブルクリンク24時間耐久レースが開催されれば、20万人にも及ぶ観客が雪崩のように押し寄せ、街を熱狂に包まれる。だが、一度潮が引けばそこは、牧場や農場だけが残る静かな田舎に舞い戻る。

 まして僕が到着したのは平日の夜であり、人の気配はなかた。ベースボールスタジムのような派手な電飾で彩られているわけではなく、むしろサーキットの敷地が広大であるが故にまるでブラックホールであるかのようにわずかな月の光さえも飲み込んでいるように暗かった。

その闇が、僕を日本から強い磁力に引き込もうとしているのではないかと不安になった。

 だが僕は、その巨大な獣のように静かに眠るサーキットを、無遠慮に揺り起こそうとしていた。

「サーキットへ行けば、チームのスタッフが待っているから……」

 日本を発つとき、チームマネージャーが僕に授けた指示は、それだけだった。

 僕はイギリスの「JAN SPEED」が走らせるスカイラインGT-Rで、ニュルブルクリンクを走るためのテストに参加する予定だった。

 ヤンスピードという名前は、それまで耳にしたことがなかった。だが、日産のワークス部隊であるニスモが手を組むのだから、名の知れたレーシングチームに違いないと思っていた。

 しかし、時計の針はすでに18時を回り、サーキットの正門は閉ざされていた。それでも、ようやく彼らと対面できるところまで辿り着いたことが、唯一の安心材料だった。とにかくサーキットはリアルにそこに横たわっている。それは現実だったのだ。

 今朝、ケルンのレンタカー店の女性にけんもほろろに突き放されて以来、胸に積もり続けていた不安が、わずかに晴れた気がした。サーキットの正門に煌々と輝く「ZAK SPEED」のネオンを見つけたからである。遭難した登山者が山小屋の灯りを見つけたような安堵だった。

「ようやく辿り着いた……」

 このときの安堵感は、今でも忘れられない。

「ZAK SPEED」は刑務所のように無機質な高い塀に囲われていた。灰色のフェンスは鋼鉄でできており、冷たく分厚い。訪れる人を突き返すような威力を漂わせていた。

 ただ、そこに光る「ZAK SPEED」のネオンだけが優しく光って見えた。先の見えないトンネルの先の小さく光る出口のように、光明が見出されたのである。

 これでレースができる。ドイツ語は話せなくても、握手さえ交わせば何とかなる。僕は再び楽観的な気持ちを取り戻していた。

 だが、ニュルブルクリンクへの誘いは、まだ滑稽な台本を用意していた。

 僕はサーキット正門脇に建つレーシングガレージの門で、小さな呼び出しベルを押したものの、誰も応答しない。ガレージ内には人の気配があった。電灯に照らされたガレージ中で、誰かが動いた。

 一人の男性が、窓越しにこっちを覗いた。するとその男性は視線を逸らし、慌てて電灯を消した。人の気配を消したのである。ほどなくして、「ZAK SPEED」のネオンサインも消灯した。明らかに僕を拒絶したのである。

 僕は、ドイツの田舎の闇の中で、ふたたび一人になった。

 

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