見出し画像

間違いの定義

人間は「正解が好き」なのではない。

人間は、不確実さに長く耐えられない。


だから人は、正解に引っ張られる。

そして、その外側を「間違い」と呼ぶ。



世界目線で見れば、

そもそも正解も間違いも存在しない。


重力は正しく落ちているわけではない。

水は正しい方向へ流れているわけでもない。

ただ、そう振る舞っているだけだ。


世界は常に

揺れ、

ずれ、

調整し、

更新されている。


そこには評価も反省もない。



ではなぜ、人間だけが

「正解」「間違い」という言葉を手放せないのか。


それは、人間が秩序を愛しているからではない。

不確実な状態に、長く身を置けないからだ。


先が見えない。

結果が定まらない。

評価が宙に浮く。


この状態は、人間にとって非常に消耗が激しい。


だから人は、

「これが正しかった」

「これが間違っていた」

という固定点を欲しがる。


正解とは、

安心のために置かれた重りのようなものだ。



だが、ここに一つの錯覚がある。


正解は、最初からそこにあったわけではない。

正解は、結果のあとに現れる。


うまくいったあとで

「それが正解だった」と呼ばれ、

うまくいかなかったあとで

「それは間違いだった」と呼ばれる。


つまり正解とは、

未来から逆流してくる評価だ。


人はこの逆流を忘れ、

あたかも正解が最初から存在していたかのように錯覚する。


ここで、間違いが生まれる。



間違いは、行為そのものからは生まれない。

正解を固定した瞬間に生まれる。


一つの基準。

一つの物語。

一つの成功例。


それ以外の可能性が見えなくなったとき、

世界は急に狭くなり、

その外側が「間違い」と名付けられる。


世界では、ただのズレだったものが、

人の頭の中で

「失敗」

「ミス」

「ダメだった自分」

へと翻訳されていく。



ここで、よく自分を責めてしまう人の話をしよう。


この人たちは、

よく間違う人ではない。


むしろ逆だ。


基準を一人で引き受けすぎた人だ。


空気を読む。

期待を察する。

先回りする。

失敗を想定する。


それは能力でもある。

だが、その能力を休ませる場所がなかった。


少しズレただけで、

「全部ダメだった気がする」

「自分そのものが否定された気がする」


だがそれは、壊れた兆候ではない。

過剰に働きすぎた兆候だ。



世界目線に戻ろう。


世界は、

正解を保存しない。

間違いを記録しない。


あるのは、

変化、

勾配、

流れ、

調整。


人間だけが、

一瞬を切り取り、

意味を固定し、

そこから動けなくなる。


だから苦しくなる。



間違えた、という感覚は、

世界から外れた証拠ではない。


世界と擦れ合っている証拠だ。


正解に引っ張られるのは、

人間の弱さではない。

生存のための、きわめて自然な動きだ。


だから、急いで正解を探さなくていい。

急いで自分を裁かなくていい。


世界は、

まだ動いている。

あなたも、動いている。


それだけで、十分に世界の中にいる。



この文章は、

誰かを慰めるためのものではない。

誰かを正すためのものでもない。


ただ、

視点を一段ずらすための文章だ。


そのズレが、

ほんの少しだけ、呼吸を楽にする。


そう、それぐらいでもいい。

いいなと思ったら応援しよう!