見出し画像

生活をバイブコーディングする

いくつかの色のレンガをパターンにして敷きつめた瀟洒な歩道を歩いていると、いつの間にか同じ色のレンガだけを踏んで歩いていることに気づく。罫線がグリッド状に印刷されたノートを使っていると、マス目にそって文字をきっちりそろえないと気がすまなくなってしまう。複数人で食事をとろうというときに、何を食べたいかという問いに対してなんでもいいといわれると途方に暮れるように、およそなんだってあり得てしまいそうなこの世界では、行動の筋道をつけるためになんらかの切り口が必要だ。その一方で、いっときの補助線に過ぎなかったはずなのに、知らず知らずのうちにとらわれてしまうこともよくある。

美味しい料理は良いものである。料理は原理的にはいかようにでもあり得るが、できれば美味しいにこしたことはない。いや、美味しいことがなによりだいじだとすらいえる。それは当然なのだが、その「美味しい」とは、純粋に料理を味わうことそれ自体から生じる感覚なのだろうか。漫画『ラーメン発見伝』にネットミームとしてよく引かれる「情報を食っている」なんていいまわしがあるように、味覚とは純粋な感覚のみから構成されるわけではない。食に関するさまざまな付帯情報(蘊蓄や評判、その場の雰囲気、同席する人々など)に左右されるところも大きい。

『一汁一菜でよいという提案』で、料理にまつわるさまざまな固定観念をあざやかにとりはらった土井善晴氏は、ついには「味つけはせんでええんです」という境地に至り、「おいしさという雑念」を批判的に解体する。

たしかに、「おいしい」がなければ、食事に魅力がなくなり、生きるモチベーションが下がってしまうかもしれません。しかし、おいしいを求めるモチベーションは強靭で、自滅に向かわせる負の力ともなるのです。

料理して食べることは、人間が協力し合って、助け合って生きていく原初の行為です。おいしさは、料理する人間へのご褒美、それぐらいがちょうどよいのだと思います。おいしさは必要でないと言っているのではありません。素材を生かし、なにもしないことを最善とする和食の特性からして、おいしいは後回しにしてもいいのです。

土井善晴『味つけはせんでええんです』ミシマ社、153〜154ページ

料理は美味しくなければならないという固定観念こそが料理のハードルをむやみに上げ、かえって人々をそこから遠ざけてしまう。美味しさを求める欲求は歯止めがきかず、人々を食べる立場にとどめ、作ることをないがしろにしてしまう。そうした事態を土井氏は批判し、本来は人と人とがいつくしみあい調和的に生きるための営みであったはずの料理を取り戻そうとする。


新しいことをはじめようとするとき、形から入ることが多い。まずは必要な道具をちゃんとそろえる。それも単に数がそろっていればいいというわけではなく、その新しくはじめることのコンテキストにおいてできるだけ感じのいいものを選びたい。たとえばそれが料理であれば、下ごしらえ(包丁やまな板など)、加熱(鍋やフライパンなど)、食材のサーブ(お玉やトングなど)といった料理における各工程に応じていくらかは道具が必要になるし、調味料なども最低限はそろえたい。単に使えればいいわけではない。その道具を選び用いること自体が、料理という営みに対する自分なりの態度を示すことになる。だから、できるだけ感じのいいものをそろえたくなる。

そもそもそんな選択ができるためには、料理それ自体のおおまかな全体像や、その営みを取りまく周辺環境を含めたエコシステムを知らなければならない。そのため、直接に必要な道具のみならず、書籍や雑誌といった情報媒体が積み上げられることになる。それが「形から入る」ということである。そういうことをついついしてしまう。楽しんでもいる。

千葉雅也氏は、作品を研ぎ澄ますことに集中するあまりに、かえって現時点での達成を過小評価し、いつまでも本質の追求をやめられなくなる事態を「男の料理」という概念で表現する。

自分が今、どのくらいのクオリティ・ラインをコンスタントに出せるか、というのを反省的に捉える。一発で遠くに飛ぼうとするのではなく、自分の中に水準をつくることを優先する。

突き詰めて純粋化を目指すのではなく、自分の身体的な癖から来る雑味みたいなものがあるくらいでいい。いわゆる「男の料理」みたいな本質主義がよくないのである。必要なのは、ある程度のクオリティをちゃちゃっと出す、それを日々続けるという、主婦・主夫的感覚である。

千葉雅也「「男の料理」的追求へと向かわないこと」

まさに「形から入」りがちな自分を表している。初めて読んだときは笑ってしまった。ふだん料理をやらない男性が休日にオーブンなどを駆使してなにやら豪勢な料理を作ったりするのをかねてより嫌悪していたのだが、なんのことはない、自分の態度だって十分に「男の料理」的であったのだ。自分でそこそこ満足できるぐらいのクオリティのものを継続的に出していくことがだいじなのであって、「本質」にこだわるあまり料理をする楽しみからかえってはなれてしまうのでは本末転倒である。

やっているうちに熟成されていく自分自身の特徴たる「雑味」のようなものが、むしろ自分の作り出すものの感じの良さを醸成することになるのだろうし、それが自分自身の楽しみにも繋がっていくだろう。料理にかぎらずいえることだと思うが、自分自身を性急に評価してしまうのをできるだけ回避して、まずは「ちゃちゃっと出す」のを続けることをそれ以来意識するようになった。そうしてからは、あまり気を張らずにいろんな制作を、その時々において方法は変わっているとはいえ、続けられてはいる。それでもなお、包丁の切れ味が鈍ってきたのをいい機会だとばかりに砥石をいくつかそろえ、包丁を研ぐ様子を撮ってYouTubeにアップしたのを、「それこそ「男の料理」ではないか」と友人に指摘されて顔を赤らめたりもする。


ソフトウェアエンジニアとしてベテランともいわれるような歳になってくると、キャリアについて若い人々に助言を求められる機会が増えてくる。この数年間、求められるがままに講演や記事執筆、インタビューなどいろんな形で自分の来歴やキャリアについての考えなどをアウトプットしてきた。エンジニアとしてインターネットサービスを作る仕事に長らく関わってきたが、つまるところ「好きこそものの上手なれ」で、それは好きだからこそ能力が向上したというよりは、好きだからこそ楽しく続けられてきていま自分はこうしていられる、ついては将来のことなんて誰にもわからないのだから自分の好きなことを追求するのが一番なんじゃないでしょうか、と、ひとことでいうとそんな内容のことを異口同音に語ってきた。汎用的な技能がAIに移っていくほど、ますますそういうのがだいじなんじゃないか。一方でそれは、自分の好きなことは何かを強く問う圧力として、むしろ負荷を増大させるだけなのかもしれない。

料理家の長谷川あかり氏が、ある動画でこんな話をしていた(以下の引用は動画からの筆者による文字起こしに基づく。話し言葉特有のフィラー等を一部省略した)。

「ちゃんと丁寧に暮らしたいのにできない」っていう方に「いやもっと適当でいいんだよ」って発信って、ちょっとコミュニケーションがあってないじゃないですか。「やりたいのにできない」が辛いんで、そこの「やりたいのにできない」をうまく折衷案としてうまくやってるように錯覚できて、ていねいに暮らしてるような味がするとか(中略)こんなひと手間で「こんな美味しい料理ができて私天才」と思えるとか(中略)この料理を繰り返していくと、この0/100でもない自分をだんだん許容できるようになってくるんですよ。

「長谷川あかりが語る「信じられる料理」の哲学」(YouTube)

「自分の好きなことを追求しよう」なんて私がいったところで、そんなのはどこまでいってもあるていど経験を積んだ男性の、しあがった語りに過ぎないだろうとも思う。それこそ「コミュニケーションがあってない」。かつての自分がそうであったように、若い人々にとってはそんな語りなど、理屈の上ではそうかもしれないが、いま自分が抱えているどうしようもない不安を解消してくれるものではないのだということになるのではないか。

世界が大きく変わりつつあるいま、自分の言葉の有効性はこの先どんどんおとろえていくだろう、そんな気持ちになる。といっても、もはや若さから遠くはなれてしまった自分に何ができるだろうかとも思えてしまうのではあるが。それでもなお、人生にすこしでも彩りをもたらしてくれるほんの「ひと手間」をやりとりできるようなコミュニケーションを続けていきたい。自分自身の生活や考えをできるだけ率直に書くようにしているこのエッセイが、そういうものになるといいなと思う。


料理を美味しいか否かによって一義的に価値づけするのをやめ、冷蔵庫にあるものだけで自分たちで食べる分にはそこそこ満足できるようなクオリティのものをちゃちゃっと作れるようになった。一方で、平日は仕事の時間の都合上、料理を妻にまかせっきりなのだが、自分が作る機会には以前とは違う料理を、素材の使い方や味つけを試したい、そのことですこしでも自分のできることの幅を広げたいと腐心してしまう。

長谷川あかり氏のレシピ本をぱらぱらとめくり、しかしそれをそのまま作るわけではなく方向性の着想を得るにとどめておく。あとは思いついたままに、しかし個々の工程ではていねいにことを進める。そこそこ満足なものができることもあれば、いまいち味が決まらずに落ちこむこともある。息子はその時の気分で全然食べないことも多いし、たまに「めっちゃ美味しい!」といって食がすすむときは、すごくうれしい。ちゃんとやることからはなれて適当にやろうとするが、いつの間にかまた「ちゃんとやらなきゃ」に戻ってしまう。でもそれでよいではないか、そう思いながら「せっかくなんで」なんて心の中でつぶやいて、撮った写真をいじましくInstagramにアップする週末をくりかえしている。



この文章は、エッセイ集『あの頃みんなAIの話ばかりしてたね』からの一本です。随時公開していきます。続きを読みたい方は、マガジンをフォローしてください。いずれ一冊の本にまとめる予定です。

いいなと思ったら応援しよう!